時の旅人 序 本居尚也の章
ざわざわと絶え間なく広がる人々の喧騒。
『何時何分発、どこどこ行きの便をご利用のお客様は……』という具合に、便名、時間、行き先名は異なるものの、幾度も繰り返される搭乗アナウンスをBGMに、親友・六条中流の見送りに来ていた本居尚也は不機嫌極まりない表情だった。
「このバカ! ホント信じらンねぇ! なんでこんなイキナリの出発になるんだ!? アフリカ行くって話は聞いてたけど、それは四月に入ってからだって言ってたじゃねぇか!」
「あぁ…、まぁ、最初はそのつもりだったんだけどさ…」
「だからっ、なんで予定通りじゃなくなったのかって聞いてンだろぉが! 春休み中の俺との約束はどうなる!」
「んー…悪いとは思うけど、それならそれで先生と二人で過ごす時間が増えるわけだし…」
「っ! ンなの余計なお世話だっ!!」
瞬時に顔を真っ赤に染めて言い放つ尚也に、中流と、同じく彼を見送りに来ていた先生こと時枝彬が失笑する。
「それなら、俺は六条に感謝した方がいいのかな」
「いえいえ、感謝なんてとんでもない。俺は尚也が幸せなら、それでいいんです」
中流のわざとらしい台詞に、時枝はくすくすと笑う。
「まったく六条は友達想いだな」
「でしょう? ついでに俺は先生のことも信用しているんですから、それを裏切るような真似は絶対にしないで下さい」
「心しておくよ」
「〜〜〜っいい加減にしろ!!」
本人をそっちのけで、だんだんと深みに嵌まっていく二人の会話に、尚也は我慢の限界とばかりに声を荒げた。
それにぎょっとして振り返るのは、やはり彼らと同じく中流の見送りに来ていた彼の親族達。
中には尚也も面識がある、中流の両親や従兄弟の姿もあった。
「どうしたんですか?」と驚いた顔で尋ねられて、必死に取り繕う尚也を、だが中流と時枝の二人は楽しそうに見ていた。
三月下旬、正午前の新千歳空港、出発ロビー。
今日、ここから中流が出国することを尚也や彬が知らされたのは、つい一昨日のことだった。
突然で悪いけど…、そう前置きして告げられたのは、当初は来月中旬から予定していたアフリカ単身旅行の出発を早め、期間を延長するという内容。
出発を今日、帰国は四月下旬。
それは尚也にしてみれば近年稀に見る悪い知らせだった。
今月一日で十二年間通っていた榊学園を無事卒業し、尚也は地元の私立大学へ進学。
中流は今までアルバイトとして勤めていた出版社への就職が決まっていた。
今までの仕事に、より深く本格的に携わっていく一方、その間も写真を撮り続け、いい画が撮れれば公募している賞に投稿するなどしてプロへの階段を上っていく、そういう道を中流は選んだのだ。
それに先駆け、視野を広げる為にもアフリカへ渡り未知の世界を体感したいという話は卒業式前から聞いていた。
年末に発売された某雑誌の公募で新人賞を受賞した親友の写真を見たとき、改めて彼の才能と可能性を確信し、絶対にプロになれと激励もした。
だからこそ、生活の全てが完全に違ってしまう前に、卒業旅行も兼ねて仲間達とどこか遠出をしようと計画していたのだ。
女々しいとは思うけれど、思い出作りのようなことをしたいと思ったから。
なのにそれを、この親友はあっけなくぶち壊した。
出発の予定を二週間も早め、かと言って早く帰ってくるわけでもなく。
ただでさえ五月からの中途入社(親の権力か、今までの頑張りを認められたのか、本人は否定も肯定もしないが)では、それ以後に時間が取れるかどうかも怪しい。
そんなわけで、おまえは俺のことなんかどうでもいいのか! という尚也の怒りにつながるわけだ。
「クソ中流! おまえ卒業してからますます性格悪くなってないか!?」
「そんなことないって」
「だったら何にでも彬を引き合いに出すのは止めろよ!」
「それは無理かな」
「っ」
「先生のことでからかう時が、一番面白い反応をしてくれるからさ」
「〜〜〜〜っ」
言い返せずに歯軋りする尚也の横で、彬は吹き出しそうになるのをこらえて、今は口元を隠し、目線をずらしている。
普段は素直じゃない尚也が、からかわれると途端にうろたえ、感情を露にする。
口では何と反論しても、その態度が時枝彬という恋人への想いを物語るのだ。
それと同時に、尚也のそういう態度が中流には嬉しかった。
好きな相手に“好き”という気持ちを向けられること――大切な親友だからこそ、それを失わずに済んだことを喜びたい。
そんなこと、間違っても本人に言ったりは出来ないけれど。
「…ま、しばらく会えなくなるけど、先生と仲良くしててくれ」
「知るかっ」
「元気でな」
「――」
再度の搭乗アナウンスに促されるように、中流は尚也にしばしの別れを告げた。
彬とも挨拶を交わし、甥っ子との会話に興じていた母親、従兄弟達にも声を掛け、
「じゃ、行ってくる」と手を上げた。
「無茶するんじゃないよ」
「病気や怪我には充分、気をつけなさい」
「行ってらっしゃい。楽しんできてくださいね」
「ああ」
楽しんで来いと告げる従弟に、軽く手を振り、笑顔を返した中流は、最後にもう一度だけ尚也を見やった。
「――…っ?」
どこか憂いを含んだ視線。
何かを言いたそうな顔。
その表情を、尚也は以前にも見たことがあった気がする。
「中流っ」
思わず呼びかければ、周りの皆が驚いた顔をした。
「ぁ…、ぉまえ、ちゃんと帰って来いよ! アフリカの方が性に合ってるとか言って帰国の日、遅らせたりするな!」
勢いに任せて言い放った尚也に、中流は面食らい目を丸くしたが、最後には笑顔だった。
「また一ヶ月後にな!」
今度は大きく手を振り、背を向けた彼は、そうして北の大地を後にする。
ここから東京へ。
東京から香港を経由し、南アフリカにあるヨハネスブルクまで十三時間。
長い空路へ、彼は一人で旅立っていった。
「…」
その背を見送り、何故か胸中にざわつく不安の波。
「…どうした?」
「…いや」
怪訝な顔をした彬に覗き込まれて、尚也は小さく首を振った。
胸中の不安を説明する言葉が、今の尚也には見つけられなかったから…。
◇◆◇
その後、中流の親戚達と挨拶し別れた尚也は、彬に促されてJRの改札口に向かった。
ここから地元まではJRを利用した方が短時間で移動できるため、彬の車は地元駅近くの駐車場に停めてきてある。
目的地までおよそ十五分。
快速に乗れば二駅の近距離だ。
「ちゃんと帰って来いなんて、そんなに六条のことが心配なのか?」
「…心配っつーか…、なんか、あいつの最後の顔が…いつもと違ったから…」
「…尚也にはそう見えたのか?」
「うーん…」
最後の、あの顔を、以前に見たのはいつだったか思い出すと不安になる。
理由など無い、ただの直感だけれど。
「……あいつ、あんまり自分のこと話したがらないだろ」
「ん?」
「俺、……中流の事、何も知らない…、何も聞かされてない」
彼の家の事情や、親兄弟、親戚の素性、…どれもこれも、全て人づてに伝わってきた噂話。 “知っていること”は全て他人から“聞かされたこと”。
中流本人からは、いつだって「俺は俺だろ」という強い一言で片付けられた。
それは否応無しに、どこか一線を画されたような疎外感を味合わされる。
「尚也…」
「どうして出発の日を早めたかだって、結局はぐらかされたままだ」
それは、いつか話すと言われて、未だ聞かされない彼の過去の傷も然り。
「…俺にはしつこいくらい幸せになれって言うくせに、……自分の幸せなんかこれっぽっちも考えちゃいない」
「…」
「年末にあいつの写真が受賞したろ? あれが原因だって本人は言ってるけど、あいつ卒業式の前にかなりの人数から告白されてるんだ。それを全部断ってさ、一人ぐらい、いい子いなかったのかって茶化したら、…さっきのあの顔で笑うんだ」
恋人はいらないと、微笑うんだ。
それが写真に集中したいという理由なら納得もするけれど、中流のその返答は違った。
彼の言葉の本意は“恋人”という存在自体を拒むもの。
本人がそう言ったわけではないけれど尚也には判る。
何故ならその笑顔は、あの日に向けられたものと酷似していだからだ。
自分が彬への気持ちと向き合えずにいた時「大切な人を失ってからでは遅い」「自分の気持ちに素直になれ」と励ましてくれた。
自分と同じ過ちは犯すなと告げた、大人びた微笑み。
「……中流の奴、どうして出発の予定を早めたんだ…?」
「…」
「予定早めて、…どうしてあの顔で笑うんだよ…」
とても嫌な予感がした。
何か取り返しのつかなくなる事態が起きそうな、そんな胸騒ぎ。
それきり黙りこんでしまった尚也は、駅に着いて降車し、彬に促されるようにして改札口を通り抜け、駐車場まで向かう間、ずっとその嫌な予感に考えを支配されていた。
…だから気付かなかった。
彬の手がさりげなく自分の腰に回されていたこと。
相手に言わせれば考え事をしている尚也の足元が心配だったからということだが、ではその次の行動は何のためだっただろう。
「…、いいかげん俺が隣にいることに気付いて欲しいんだけれどね」
「ぇ……――」
耳元で。
自分の心音よりもずっと近いところで響いた甘い声にハッとし、開けた視界。
そして触れた温もり。
「あき、ら…?」
「…そこまで尚也に心配されて、…少し妬けるな」
「ぇ…、ぁ、っン……っぅ…」
唐突に深くまで探るようなキスをされて、尚也は抗う間もなく追い詰められる。
「っ、彬、よせ…って…こんな場所で…っ」
「おまえが、もう他の男のことを考えないなら」
「他の男って…っ、中流は別だろ…、…っ」
「同じだよ」
尚也の気持ちを、それが友情でも、一時でも独占しようというなら区別は無い。
「おまえの心も俺だけのものだ」
「彬っ、誰かに見られる……!」
屋外の、しかも駅近くの公共駐車場という開けた場所。
近隣には図書館や市民センターがあるばかりか市営住宅も立ち並ぶ。
どこに誰の目があるかも判らないのに。
いつ、誰が来たっておかしくないのに。
「!」
「ぁ…っ」
――その瞬間、尚也の思考は真っ白になってしまった。
真っ直ぐにぶつかった二つの瞳が他人のものだと、すぐには理解出来なかった。
彬の肩越し。
駐車場に隣接する遊歩道。
そこを歩いていた、二人の少年。
「………っ!!」
「…!」
一瞬にして顔色が変わったのが、尚也も、目が合った少年も互いに判った。
「? 尚也?」
急に黙り、身動き一つしなくなった腕の中の恋人の様子を不審に思い、彬も手を止め、尚也が凝視する目線の先を見やった。
「…おっと……」
こちら側を向いて遊歩道に立ち尽くしている二人の少年。
どちらも中学生だろうか。
まだ幼さの残る顔を今は蒼白にし、尚也と同じく、こちら側を凝視していた。
見られたのか、とさして困るでもなく察した彬は、何気なく少年達に手を振った。
「っ」
それに呼応するように、ハッと我に返った少年の一人がその場から走り去り。
「ぇ、あ、待てよ倉橋!」
もう一人の少年も彼を追って走り去った。
最初の彼はクラハシ君と言うのか…と頭の片隅で呟きながら、彬はまだ硬直している恋人を見下ろす。
「……さて、尚也」
問題は、見てしまった彼らよりも、見られてしまった尚也の方。
きっとただでは済まない。
怒らせるし、もしかしすると泣かせるかもしれず。
…それを考えると、少し楽しみでもある彬だった。