二度目の楽園 結
「貴方を忘れなければ生きられなかった尋人君を、どうか許してあげて下さい…」
あの夜、裕幸はそう語った。
敷明小路の店から大樹家に戻った中流の姿を見て、あの従弟は何を察したのか。
悪いのは自分なのだと、思い掛けない告白をしてきた。
尋人が記憶を失くしたのは自分のせい。
裕幸が――“里界の月”がそれを願ったせいなのだと……。
「どういう意味だよ、それ…」
「……彼を、助けたかったんです」
どうしても尋人を死なせたくなかった。
その気持ちを生きる方向に導きたかった、だから裕幸は願った。
尋人の傷が癒えるように。
その命が戻るように。
尋人自身が生きようと思えることを。
だが目覚めた尋人は中流と出逢ってからの時間を失っていた。
生きようとする意志を取り戻すのと引き換えに、中流への想いを消去させていた。
これが裕幸が願った結果なら答えは一つ。
彼が生きようと思うには、中流への想いが何より大きな障害だったのだ。
「……汚れた自分を、…自分を守ってくれていた貴方に知られたくなかった、見られたくなかった、…触れさせたくなかったんだと思います」
「俺は…っ……、俺は、尋人が俺と一緒にいたいと思ってくれていたら…それで…」
「ええ。…きっと貴方が本心からそう言ってくれると解っていたから…、貴方が何を犠牲にしても自分を想ってくれると信じていたから…尚更、貴方の傍にはいられなかったんです」
「なんで……っ」
悲痛な聞き返しに、裕幸は瞳を伏せる。
微かに歪んだ表情には幾重もの想い。
「……“白夜”はいつか“黒天獅”のものになります」
「ぇ…?」
「そうなったら、……俺は竜騎のことを忘れたいと願います……」
「裕幸…」
「心の中に彼がいたら、……彼が自分を想ってくれていることを知っているから……信じられるからこそ辛くて…。彼を、裏切った自分の巻き添えになんかしたくないと……、しちゃいけないと、判っていても……」
心に彼が在ては、傍に帰りたくなるから―――。
だから、こういう結末を選んだ尋人の気持ちが解る気がするのだと裕幸は語った。
この結末こそが、尋人の、中流への想いの証だと。
――…貴方を忘れなければ生きられなかった尋人君を、どうか許してあげて下さい…
その言葉が繰り返し耳を打つ。
あの夜から、尋人の面影に重なって幾度となく繰り返される。
これが尋人の、中流への想いの証。
ならば自分はどうするべきなのか。
おまえに、どう応えてやればいい……?
忘れたことが、尋人の想い。
誰より中流を信じ、想った証。
…だったら。
俺に出来ることなんか、たった一つしかないじゃないか……。
◇◆◇
「ありがとうございました」
どこか恐々と頭を下げる倉橋尋人に、中流は微苦笑で応える。
「あんま気にするなよ、俺がおまえを見つけたのは偶然なんだからさ」
陽気な物言いで返すが、それでも尋人は「はい…」と恐縮そうだ。
そんな少年を見て、中流は再度、口を開く。
「親戚が医者だしさ、事故って死にそうになってる奴を放ってはおけないだろ? それも同じ学園の後輩じゃ、何かあったら寝覚め悪いし。俺がおまえをみつけたのは、たまたま。おまえがこの病院に担ぎ込まれて助かったのは、おまえの幸運。それだけだ」
「…はい」
「まぁ…記憶のこととか、いろいろ大変かもしれないけどさ。転校先で、また新しい思い出を作れるよ」
「…そう、ですよね」
困惑気味に。
それでも口元に微かな笑みを浮かべて応える尋人は、中流の言葉を素直に受け入れるようだった。
「…」
そんな尋人の姿に、中流の胸は軋んだ。
どんな嘘も、他人のフリで告げねばならないから、作られた表情を見抜かれないか不安になる。
あの日以降、尋人の両親や医師達、この一件に関わった連中の記憶操作を施した面々も加わって話し合った末、事故に遭う以前に母親の実家がある地方の中学校への転入が決まっており、転校したくなかった尋人は両親との口論から外に飛び出して走行中の車と衝突した――という経緯が本人に伝えられる事になった。
脳挫傷という重症に陥ったが、たまたまそこを通りかかった六条中流が、駆けつけた救急隊員に大樹総合病院へ行くよう指示し、彼から伯父・大樹医師への連絡で集まっていたスタッフが素早い対応をで手術を行い、結果、尋人は助かった――、これが、記憶のない尋人に家族や医者が話し聞かせた、事故以前の出来事だ。
この二年間の、中流との時間やいじめられていた記憶は失われても、家族や学校のことなど、日常生活に支障を来たす内容までも失ったわけではなかったから、彼は親の言葉を受け入れた。
記憶は頭を打ったショックで一時的に失っただけ。
何かきっかけばあれば戻る可能性は多いにあるでしょうという医者の言葉も、不安はあっても信じることにしたのだ。
尋人が生きていく限り、その記憶が永遠に戻らないことを知るのは、中流を含むほんの一握りの身内だけ。
…それで、充分だ。
中流は今日限りで尋人を手放す。
傍にはいられないと言い残した、それが尋人の最後の言葉なら、これ以上は苦しめたくなどないから。
「……」
だから、これが最後。
「退院ももうすぐだし、冬休みの間に引越しじゃ学校で会うこともないな」
「…だと、思います」
「ん。新しい学校でも元気でやれよ」
「はい」
「…」
これが最後。
もう会わない。
もう、呼ばないから。
望まないから。
「……尋人」
だから最後に、一度だけ。
「ぇ…? ――! せ、六条先輩?」
「…」
急に抱きしめられて、尋人は驚きに目を丸くする。
だが中流は、これで最後だと自身に言い聞かせ、その腕に力を込めた。
このままで言わせて。
たった一つ、告げさせて。
「…幸せに、なれ」
「――…?」
「絶対、幸せになれよ」
「先輩…」
「……どこに行っても、おまえらしく微笑っていろ」
それだけでいいから。
君が微笑っていてくれるなら。
幸せになってくれるなら。
それが何処でだって。
誰とだって構わないから。
尋人。
どうか幸せに。
一度は死を選び、この二年間を失って帰ってきた君の明日が、消えた日々の繰り返しにならないように。
君にとっての二度目の日々に、優しい光りが溢れるように。
「…な?」
尋人。
尋人。
尋人。
尋人――――。
ずっと願っている。
祈っている。
たった一つ、君の笑顔が守られることを。
「……はい」
少なからず動揺した様子で、…けれど尋人は微笑した。
「本当に、ありがとうございました」
これが最後の、別れの挨拶。
中流も笑顔を作り、
「…元気でな」
その言葉を最後に、病室を出た。
「…」
閉じた扉に寄りかかり、一つ、息を吐く。
と、誰かの視線を感じて顔を上げると、そこには尋人の母親が佇んでいた。
彼女は何も言わずに、ただ深く頭を下げた。
ありがとう。
尋人を愛してくれて、ありがとう。
ありがとう、なんて。
そんな言葉が欲しくて一緒にいることを願ったんじゃない。
願ったのは、ただ一つ。
尋人、君の笑顔だけ。
尋人、君の幸せだけなんだ。
「ご苦労さん」
病院を出ようとした途中で背中を叩かれ、見上げた先には兄の笑顔。
「! 兄貴、なんで…」
「何でも何もないのよ、さぁっ、今夜は尋人君の新しい門出を祝って焼肉パーティしましょう!! お姉ちゃん達やアキ兄も一緒、費用はもちろん、全額出流持ちね!」
「汨歌!?」
その背後から顔を出し、中流の腕に自分の腕を絡めながらそんなことを言うのは同じ年齢の従姉、江藤汨歌だ。
しかも彼女のもう一方の腕に掴まれ、中流に苦笑めいた笑みを浮かべているのは裕幸。
「おまえら、何で…」
「ん? もし中流が失恋の痛手で泣いていたら俺達で優しく慰めてやろうと思ったんだよ。美しい兄弟愛だ」
「はぁ?」
意味深な笑みを浮かべて告げる出流に、中流は眉根を寄せて聞き返す。
と、同時に飛んでくるのは汨歌の掌。
ペシンッと顔面を叩かれて、瞬時にカッとなった中流は、しかし、
「アンタってば最っ高にイイ男よ!」と突然の賛辞に言葉を詰まらせ、従姉を凝視した。
「…おまえ、何言ってンの?」
「うっさいわねっ、人が褒めてやってんだから素直に聞きなさい!」
「褒めて、って…」
「アンタは自慢の弟なんだから幸せになれないはずないって言ってるの! 私と出流の保証付きよ!!」
「――」
言い放ち、「ほんと世話焼けるんだからっ」と零しながら、汨歌は中流から腕を放し、裕幸だけを連れて先へ急ぐ。
「さぁ裕幸、せっかくの焼肉だもの、時河も誘うわよ」
「えっ、竜騎もですか?」
「当たり前でしょ!? ものすっごく悔しいけど今回の時河は表彰ものよっ、このまま借り作ってるのすっごい悔しいじゃない! 仕方ないから焼肉に誘ってやるわっ」
「…焼肉で借りを返すんですか」
「何か文句ある!?」
そんな、裕幸にまで険のある態度で接している理由は頬の赤みだろうか。
つまりは、何だ。
汨歌のあれは、彼女なりの姉弟愛。
「あのバカ女…」
中流の呟きに、出流が笑う。
「汨歌も汨歌なりに、おまえを元気付けようと必死なんだよ」
「…」
「おまえは自慢の弟で、大切な家族だから」
出流や汨歌だけじゃなく。
裕幸だけでもなくて。
「元気を出せ、とはまだ言わないけどね。時間ならいくら掛かっても構わないから立ち直りなさい。おまえを心配している人は大勢いるんだ」
「兄貴…」
「おまえは必ず幸せになれるよ」
中流が、尋人の幸せを祈るように。
君を愛する皆が、君の幸せを祈るから。
「早く来なさいよ中流も出流も! おいていくわよ!!」
「おや、スポンサー無しにどこへ行くと言うのかな」
「だから早く来いって言ってるんでしょ!?」
汨歌と出流の言い合いに。
「中流さん」
裕幸の呼び声が重なる。
いま行く、と答え。
中流は背後に遠ざかる病院を振り返った。
これからは、遠ざかるのみの、君との距離。
けれどそれが、自分達の選択。
今はもう、祈るだけ。
「……微笑っていろよ、ずっと」
一度は死を選んだ君が、帰ってきたこの世界。
二度目の、これからの日々が、光り溢れるものとなるように―――……。
◇◆◇
事故に遭ったショックで記憶を失くした倉橋尋人の転校と、滝岡の自主退学を関連付けて、中流達が闇に沈めた“真実”に近い噂も流れた二月。
「中流、おまえ最近、中等部行ってないみたいだけど、どうした?」
「は?」
尚也の問い掛けに、その場に集まっていた同級生達は冷めた目付きになり、中流は思わず苦笑する。
「尚也…それってマジボケ? 例のヒロト君、こないだ転校したんだぜ?」
「えっ」
「…あほ、浅見にばっかりかまけてるから、そんな間抜けなコト聞くんだよ」
口々に言われて、半年ほど前の記憶を呼び起こした尚也は恐々と中流を見る。
「わ、悪い、俺…」
そんな尚也が可笑しくて、中流は声を立てて笑った。
「別にいいって、俺には尚也がいるからさ」
「――」
中流の台詞に、尚也は絶句、周囲は失笑。
「なんだ、一緒になるのは生まれ変わったらじゃないのか?」
「そう思ってたんだけどさ…、そんなこと言ってたら手遅れになりそうで」
「はははっ、尚也を巡っての三角関係かっ、応援するぞ六条!」
「俺も〜」
「…っ、てめぇらいい加減にしろ!!!!」
怒鳴る尚也に、周りの笑い声は絶えない。
中流の表情からも笑みは消えない。
以前の何ら変わりない空間が、少しずつ中流の心を癒していく。
「?」
ふと、肩を叩いた同級生の手。
向けられた微かな笑み。
「野口」
「大丈夫か?」
周りには聞こえないよう気遣って掛けられた言葉に、中流は、…わずかに表情を歪めた。
「…平気だって。自分で選んだんだ」
尋人との関係を知られた、この同級生にも全てを話しているわけじゃない。
それでも、自分を気遣ってくれた野口に感謝した。
大丈夫。
立ち直れる。
自分は、ここに一人で在るわけではないから。
『六条先輩 お久しぶりです』
『突然 手紙を出してしまって済みません』
『でもどうしても伝えたいことがあって、母に頼んで、お世話になった医師に六条先輩の住所を教えてもらいました』―――。
時は流れて、春が来て。
榊学園に着任した時枝彬の登場によって中流の周囲はいっそう騒がしくなった。
『友達も出来ました』
『僕は元気です』
『でも時々、失くした記憶のことで不安になります』
『どうして僕は、二年間だけ忘れてしまったのかな、って』
郵便受けに、一通の手紙。
それは奇しくも時枝彬の本心を知った日に届いた。
『だけど先輩の言葉を思い出すと、不思議なくらい不安がなくなります』
『幸せになれ、自分らしく微笑ってろ…、先輩のその言葉が僕を元気にしてくれます』
『先輩は、僕を助けてくれたのはたまたまだって言ったけど』
『僕は、助けてくれたのが先輩で良かったって思います』
だから伝えたかった。
ありがとうございました、その一言を。
「…」
心からの感謝の言葉で締めくくられた手紙を手に、中流は片腕に頭を埋めた。
ありがとう、なんて。
そんな一言のために、こんな手紙を。
「…っ……」
こんな手紙で思い知らされる。
心は今もあの日のまま。
尋人、君を求めて止まないと。
ありがとう、なんて。
そんな言葉が欲しくて一緒にいるわけじゃない。
願ったわけでも。
祈ったわけでも。
…君から離れたわけでもない。
欲したのはただ一つ。
本当に求めていたのはそれだけ。
そのために手放した。
なのに、今でも心は叫ぶ。
決して言葉にしないと誓ったその名を―――………。
―了―