二度目の楽園 二三
ガタンッ…激しい音がして、滝岡の体は背後にあった椅子もろともフロアに崩れ落ちた。
「テメェ…っ」
「いきなり何しやがる!」
即座に怒鳴りだすのは、滝岡の仲間達ではなく、周りの、まったく無関係な若者達。
「…新顔が、いきなりこんな真似して無事に帰れると思ってンのか……?」
凄んでくる長身の男に、だが中流は応えない。
目線はフロアに起き上がった滝岡から外すことなく、もはや、他の面子になど用はなかった。
「六条だ…」
「なんでコイツがここに…」
先刻まで好き勝手なことを言っていた彼らも、まだ呼び出してもいない六条中流が実際に目の前に現れたことに動揺を隠せず、それは滝岡も同じだった。
だが、中流の険しい表情、その瞳に宿る激しい感情の揺れに、彼らは察した。
中流は既に知っている。
自分の恋人がどんな目に遭ったかを。
「……どうして殴られたか、当然、判ってるだろ…?」
そして中流もまた、彼らの内心を正しく知りながら低く言い放った。
視線は一点、滝岡だけを見据えて。
「……」
「立てよ」
フロアに体は起こしても、立ち上がろうとはしない少年に中流は告げる。
「立て。おまえ達が尋人にしてきた仕打ちは、こんな一発で済むもんじゃないだろ!」
「……っ…」
店内全域に響き渡る怒声に、その場の誰もが息を飲む。
こんな場所には似つかわしくない少年が一人、よりによってこの店に現れ、常連の客を殴り飛ばした。
それは、奇妙な連帯感で結ばれた同じ常連客達の感情を刺激し、数十人の猛者が中流一人の敵に回って当然の行為だった。
だが、今この場に動ける者はない。
滝岡に向かって怒声を上げる中流に、誰一人、横から口を挟むことは出来なかった。
「…」
その中に、わずか数人。
口元に薄い笑みを浮かべる者達がいたが、彼らもまた、今は行動を起こす素振りは見せない。
「立てよ滝岡!!」
「…っ……」
再度の怒りに、弾かれるように立ち上がった滝岡は相手に拳を繰り出す。
一発。
それは中流の顔を打ち、痛みを誘発し。
だが膝をつかせるには至らずに。
「…こんなんじゃ、一生掛かったって尋人には勝てなかったな」
これだけなら。
殴る、蹴る、そんな身体的に傷を残す暴力だけなら。
「あいつは絶対に負けなかったんだ……っ!」
「!」
二つ目の拳を叩き払い、間を詰め、左横から振り上げる反動を生かした強烈な一撃。
「滝岡!!」
「!?」
周囲のテーブルや椅子を巻き込み、激しい音を立てて床に叩き付けられた滝岡は、低い呻きを上げて壊れた椅子の欠片に埋もれる。
「…っ……っく…ぁ」
「…っくしょぉ…」
「テメェ…っ!!」
益田と、その隣の少年の目付きが変わる。
「六条! それ以上手ぇ出したらこの写真ばら撒くぞ!!」
先ほどまで滝岡の足元にあった鞄の中を漁り、取り出した数枚の写真。
「いいのか! ここでこんなモン撒かれたらテメェら一生笑いモンだぜ!!」
「…」
その写真に関して、中流は何も知らないし聞いてもいない。だが写っている内容が自分と尋人の関係を示すものだろうという確信はあった。
だが中流の返答は。
「…好きにしろよ」
本心から、何が写っていようとも好きにされて構わなかった。
そんなもので、誰に笑われたって。
――尋人が受けた傷に比べれば全然浅い。
彼を失った悲しみに比べれば、…むしろ二人が恋人だった証を持てるなら、こんな救われることはない。
「ばら撒きたきゃばら撒けばいい! そんなもので俺が…っ…尋人が…!! おまえらに屈したりなんか絶対にしない!!」
「…っ」
「くそ……っ!!」
一人の少年が中流の懐に攻め入り。
「ざけんな…だったら倉橋のビデオも売られていいのかよ!」
益田が、それが入った鞄を抱えながら声を張り上げた。
「あいつが廻されてる映像ばら撒かれてもいいってか!? それでも平気だってのか!!」
「…っ」
掛かってきた少年を返り討ちにし、二人目に備えていた中流は、益田の発言に目を見開く。
「ふざけるな、は俺の台詞だ…どこまで腐ってンだ、おまえらは…っ!」
「黙れ!」
益田は叫び、滝岡を一瞥する。
「なぁ滝岡、六条に泣いて謝らせた奴には幾らぐらい賞金やる?」
「――」
「百万プラスその賞金額…、最初はこれくらい持って来て貰おうぜ、六条の坊ちゃんにさ」
世界に認められた写真家の息子で。
六条出流の弟で。
あんな家に住む、あの大樹総合病院の親戚。
六条中流は金のなる木。
彼らの狙いは尋人が自分達に逆らえないようにすること。
中流から大金を搾り取ること。
それが本当の狙い。
「災難だよなぁ、六条センパイ。あんな奴と仲良くなったばっかりに俺らに金払わなきゃならないんだぜ?」
「…っ」
「ってーかさ、これも一つの商売じゃん。あいつは俺らのモンなんだから、貸して欲しかったらレンタル料払ってよ」
「っ…、そ、そうだよな…、このビデオは今まで無断でアイツ使ってた分のツケだ…全部返し切ったらセンパイにやるさ」
「……いいな、それ」
「ははっ…だったら、そのビデオの定価って幾らだよ」
嘲笑が漣のように店内に広がっていく。
「これはその最初のゲームだ。この店の全員が参加しての勝ち抜きバトル…、センパイを負かした奴には希望通りの賞金をやるよ。逆にもしセンパイが勝ったら…ご褒美にこのビデオの鑑賞会でも始めようぜ」
「…」
「へぇ…?」
「面白そうじゃん」
滝岡を主格とするグループだけでなく、店内の、まったく無関係であるはずの若者達にも広がる失笑。
おおよそで百対一人の勝ち抜き戦。
ある者は骨を鳴らし、ある者は上着を脱ぐ。
獲物を見定め、嬲るような何十もの視線。
「…っ……」
嘲笑と、罵倒と。
「おまえら…尋人にもそんな言い方で脅しかけたのか……っ?」
脅して、辱めて。
逃げ道がないほど追い込んで。
「そうやって……っ!」
そうやって。
自由、想い、時間、願い。
尋人が大切にしていたもの全てを奪い取り未来を閉ざした。
その結果、誰にどれだけの迷惑を掛けるか。
…中流に、どれほどの負担が掛かるか尋人は判っていたから。
「だからあいつは死ぬしかなかったってのか……っ!?」
「――」
「…何だって…?」
激情に突き動かされるように口をついて出た言葉は、一瞬にして連中の顔から笑みを消し去った。
「…ンだよ、それ」
「死ぬって…なに、あいつ…」
「…っ……」
冗談を言うような口調で少年達は口々に言う。
それは途切れた言葉。
信じないけれど。
信じたくないけれど、まさかと疑わずにはいられない。
「は…ははっ、あいつが…死んだって……?」
「冗談だろ、おい…ンなバカな…」
「……っ…」
死んだ、なんて。
間違っても言われたくなかった。
尋人は生きている。
自ら投げ出そうとした命は辛うじてこの世に留まり、時間が経てば今まで通りの生活に戻れるだろう。ただそこに、この二年間の記憶がないだけで。
――そこに、中流の存在が有り得ないだけで。
「何とか言えよ! アイツが…倉橋が死んだって…そんなワケ…っ」
そんなワケがないと、青い顔をするくらいなら。
「嘘だろ…っ?」
信じたくないと思うなら、最初から手を出さずにいればよかったものを―――っ!
「…なんで…そんなワケないと思うんだよ…おまえら、自分達が尋人に何をしたか判ってるのか…っ?」
あんなに傷付けて、泣かせて、心にまで深い傷を刻んだ。
取り返しのつかないことを尋人に課しておきながら、それで、尋人が死んだかもしれないと疑って顔色を変えるのか。
「ふざけるな…っ、信じたくないと思うなら何であいつ自殺に追い込むような真似したんだ……っ!!」」
死なれては困ると言いたげな、まるで自分達が被害者になったような顔つきの少年達に、中流は叫んだ。
決して口にしたくなかった言葉。
自分がそれを声にしてしまえば現実として認めないわけにはいかなくなる、だから言いたくなかったのに。
「なんで……っ!!」
たった一人、暗闇に堕ちた君。
もう二度と中流の傍には帰れない。
二度と微笑えない、それが最後、彼は自らその命を絶とうとした。
――辛うじて死は免れたけれど、その心はこの二年間を失い、昨日までの尋人は失われた。
中流は尋人を――ずっと傍にいたいと願った、ただ一人の恋人を失った。
中流の尋人は、死んでしまったんだ。
「…ッくしょう……!」
脇に転がったテーブルに拳を叩きつけ、その痛みを感じることもなく中流は声を張り上げた。
「返せよ……っ…死なれて困ると思うなら今すぐあいつを返せ!!」
「――!」
「…っ……」
「返しやがれ………っ!!!!」
尋人の“死”を否定しない中流に、一人、また一人と少年達の顔色が変わる。
あの少年が死んだと言われれば思いつく理由などただ一つ、それを彼らは知っている。
知っていても、実際に何かが起きなければ自覚することも出来なかった。
「…う…そだ…」
震える声音。
脱力し、膝から崩れ落ちる者。
益田は手にしていた写真を足元に散らばせ、手元のビデオに対する握力は弱まる。
今までの嘲笑も乱闘間際の緊張の糸も絶たれ、動揺と困惑が沈黙の中に潜む。
だが不意に、こんな連中の前で泣くものかと耐えていた中流の耳に届いたのは低い笑い声だった。
「……っくっくっく」
それはここを訪れてから絶えず聞こえていた嘲笑や失笑の類ではない。
心底、愉快そうな少年の笑い声。
「…」
「はっ…はは……はははは」
声のする方を見やると、先ほどの衝撃で転倒した椅子やテーブルに挟まれて、フロアに座り込んで俯く滝岡がいた。
その肩を震わせ、口元には明らかな笑みを湛えて滝岡は言い放つ。
「バカみてぇ…死ぬンならもっと早く死んじまえば良かったんだ」
「! おまえ…っ」
「とっとと俺の前から消えてりゃ、こんな面倒な真似しないで済んだんだ。人の視界でちょろちょろ動き回ってうぜぇったら…これでせいせいしたぜ」
「滝岡っ!」
あまりの発言に、無意識に動いていた中流は滝岡の胸倉に掴みかかった。
だが同時。
「目障りなんだよ!! アイツもテメェも!!」
手を叩き払われ、放たれる怒り。
「生きてたけりゃ俺の言うことだけ聞いてれば良かったんだっ、従順な犬になってりゃ可愛がってやったさ!」
「おまえ尋人を何だと…っ」
「アイツは俺のモノだ!!」
「!」
「アイツをどうしようと俺の勝手なんだ、あいつは俺のモノなんだよ!! それをテメェが勝手に手ぇ出して連れ回しやがって!」
「なっ…」
「ヒロトが死んだ? 返せだ? ハッ、くだらねぇこと言ってンなよ、テメェが俺からアイツ奪うから悪いんだろ!?」
「―――」
「オマエが手ぇ出すからアイツは死んだんだよ、オマエがアイツを殺したんだ!!」
「………っ!!」
中流が尋人を殺した、と。
それはあまりにも曲解し過ぎた滝岡の主張。
まるで己の罪から逃げる為に、中流こそが悪なのだと思い込み、我武者羅に叫んでいるかのごとく。
だがそれが事実ではないことに中流は気付いた。
自分に向けられる滝岡の憎悪の眼差しが、彼の本心を中流に悟らせてしまった。
中流が尋人に手を出したから、尋人は死んだのだと滝岡は言った。
中流が、尋人から告げられた想いに応えたのが始まり。
そうして芽生えた想いは愛情へと形を変え、その全てを欲した。
大切すぎて行動という形では応えられなかったけれど、その気持ちは互いの中でしっかりと通じ合い、中流は尋人を。
尋人は中流を、たった一人の恋人だと信じた。
その信じあった想いが尋人を殺したと言うのなら。
――そんな二人の絆が、滝岡にこのような手段を選ばせてしまったと言うのなら。
…それを憎んだ滝岡の本心は何だ。
導かれる答えなど、たった一つ。
「……っ…おまえ…尋人のこと…」
「――! 違うっ!」
中流が言わんとしている言葉を本能で察したのか、滝岡は遮るように声を張り上げる。
「ざけんなっ、俺はテメェ等とは違うっ、俺は違うっ!!」
「滝岡」
「俺をテメェ等みたいな変態と一緒にすンな!! 俺はフツーだ!!」
「…っ」
「うざかっただけだ…っ…ムカつくんだ…、テメェなんかに笑いやがって…っ……俺の言う事だけ聞いてりゃよかったのに…っ!」
自分は“普通”だと叫ぶ。
中流のように男同士で恋人になるような変態と一緒にするなと言い放ちながら、自分から離れていこうとした尋人への本音。
自分の傍にいればよかったんだ。
他の誰も見ずに、―――おまえの中に、他の誰も住まわせたりしなければ―――!
「…ンだよ、それ…っ」
自分は普通だと喚きながら、その声音に渦巻く滝岡の本音。
その本性はどこにある。
おまえの何を望んでいた……?
「…“普通”って何だよ……」
「なに…?」
「…“変態”とか“普通”とか…そんなの誰が決めるんだよ……」
善悪、正誤、光りと闇。
それは選ぶ人数によって決まるのか。
「好きな奴を傷つけて泣かせて、…っ……他人にヤらせて殺すのが“普通”か……?」
「…っ…」
「好きな奴、抱き締めて守ってやりたいと思うのが“異常”なのか………?」
胸倉を掴み、持ち上げるように立ち上がらせながら、中流は押し殺した声で問いかける。
「好きなら……好きな奴なら幸せでいて欲しいと思うのが普通だろ……っ?」
それが自分の傍でこそ幸せだと言って貰えるなら、いつまででも傍にいてやりたいと思うのが普通じゃないのか。
「好きな相手なら生きてて欲しいと思うのが本当じゃないのかよ……っ!!」
「―――…っ……!」
尋人。
君に笑顔でいて欲しくて。
幸せだと、言って欲しくて。
守りたかった。
傍にいたかった。
ずっと一緒にいたかった、それが異常だと言うのならそれでいい。
君と幸せになれるならそれでいい、――中流はそれが“普通”に考えられた。
だって、祝福してくれるだろう人達が大勢いるから。
それを喜んでくれる人達が一番近い場所にいてくれるから。
…だから中流にはそれが“普通”だったけれど。
「…なんで……っ」
けれど滝岡には違った。
世間一般の常識に親族の“普通”は通用しないという従姉の言葉が脳裏に蘇り、それを頭では理解していたけれど。
…けれど。
「好きなら泣かすなよ…っ…」
あんなふうに、傷つけて。
未来を奪って。
「…なんでだよ……っ!!」
胸倉を掴んだ拳が震える。
その親指に、不意に零れ落ちた熱い雫。
「………滝岡ぁ…っ!」
「…っ……ぅ…っ…」
自分の涙かと思ったそれは、相手の涙。
掴まれた胸倉を解こうとする抵抗も皆無の状態で、声もなく、歪んだ頬に涙の跡。
こんなこと、認めたくなんかなかった。
理解したくなかった。
けれど、…この場で誰よりも…、中流よりも傷ついているのは、もしかすると―――。
「ふざけんな…っ…」
不意に、様々な感情の入り乱れた――おそらくは恐怖さえも含んだ少年の声が上がり、中流は何事かとそちらを振り返った。
中流と滝岡に正面を向いて立っていたのは、今まで滝岡の隣で好き放題して来ていただろう益田。
その手には鋭利な刃物が握られ、その切っ先が狙うのは、果たしてどちらか。
「益田…何の真似だ…」
既に何かを口にする意欲さえ皆無であろう滝岡に代わって問いかけた中流に、益田は怒鳴る。
「うるせぇっ!!」と顔を真っ赤にして言い放つ足元には数枚の写真と一本のビデオテープ。
「…ンなんだよ…っ…そんな理由でオレはオマエの共犯者になるのか…?」
「なに…?」
「…っ…そんなオレには関係ない理由でオレも人殺しの仲間かよ!!」
刃物を持つ両腕を小刻みに震わせて、大声を上げ相手を威嚇するような態度を取るのは、益田がどれだけ怯えているのか、その程度を如実に表すものだった。
「冗談じゃねぇっ、オレは関係ない!」
「益田!」
「退けろ!!」
「うわっ」
「おい止せ!!」
「殺されたくなきゃ退けろ!!」
刃物を振り回し、店の出入り口までの道を作ろうとする益田から、店内にいた客は自ら道を開け、出口へ導く。
「オレは関係ねぇ…っ…関係ねぇっ! アイツが死んだってオレのせいじゃねぇからなっ!!」
「益田!!」
一人で逃げるなど卑怯だ、そう口々に叫んで他の三人も後を追う。
関係ないなんて身勝手な台詞が許されるはずがないと、中流は叫ぼうとした。
が、それより早く。
彼らの前方を遮ったのは長身の黒い影。
「邪魔だ!!」
興奮し、ここから逃げ出すことしか頭にない益田は、邪魔者への嫌悪と苛立ちに露にし、手の中の刃物を振り上げた。
「! 時河!!」
その影の主を中流は呼ぶ。
時河竜騎、その名を呼んで逃げろと訴えた。
だが彼は動かず、そればかりか益田を迎え撃ち。
「!!」
一瞬の交錯、飛び散った鮮血。
「…逃がすか」
低い呟きと共に、益田の体は店内中央へと蹴り戻された。