二度目の楽園 二一
兄の呼び声に、中流は静かに顔を上げた。
その傍に裕明と竜騎の姿があることを知り、目を眇める。
「…なんで、時河が兄貴達と…?」
裕幸もここにいるのなら、竜騎がここに居るのも理解出来る。
だが念のために彼らの背後を確かめてみても穏やかな従弟の姿は見当たらず、そのうち、
「裕幸には聞かせたくない話なんでね」と弟の心情を読み取ったような出流の言葉に小さく聞き返す。
「…話……?」
「そう。尋人君の件で黒幕がはっきりしたんだ」
「!」
出された名前に、中流は反射的に立ち上がった。
「尋人の…って、何か解ったのか!?」
「中流」
突然の大声に周囲の患者達の視線が集まり、裕明が固い声音で中流を制す。
「ここじゃ話し辛いから、外に出よう」
「…」
強い口調、決して反論を許さない従兄に中流は無言の視線で応える。
促されるように待合室を遠ざかり、彼らが向かったのは病院の第二駐車場だった。
外来客用の車が百台近く収容可能な駐車場は四方をガードレールに囲われている他、今は季節柄、排気ガスに汚れた灰褐色の雪が山になっていた。
吐息は白く色づき、厚い雲に覆われた灰色の空からは微かに降雪も認められた。
「中流、寒くないかい?」と裕明に気遣われ、本人は首を振った。
寒さなんかどうでもいい、とにかく尋人の話が聞きたいのだと無言で訴えれば、隣で出流が嘆息した。
「…尋人君に忘れられて、自棄になっているんじゃないかと心配だったが、いい目をしているじゃないか」
「ぇ…」
「その調子なら大丈夫そうだな」
「…?」
何を言わんとしているのかが読み取れずに怪訝な顔をすると、裕明が「余計なことは言わなくていいんだ」と出流を叱る。
「…話を聞いて、どうするかは中流次第だ。それでおまえがどんな判断をしても、俺達は止めも煽りもしない」
「…どういう意味だよ」
「……時河君がね、尋人君に乱暴した連中の居所を見つけてくれたんだ」
「時河が…?」
驚いて聞き返し、本人を見返すと、竜騎は彼と視線を合わせようとはせずに横を向いたまま。
「中流は、尋人君の意識が戻るまで傍にいたいだろうと思ったから、俺達で勝手に動いたんだけどね」
裕幸が一時的に寝かされていた病室で、その後、出流が何を言い出し、汨歌や松浦高校の上級生・城島も含めた一同が中流の知らない場所で何をやらかしたのか。
尋人が意識を取り戻した後も度重なるショックに茫然自失状態だった中流は何も知らされていなかったし、尋人が暴行された状況すら聞かされていないのだ。
一体、何があったのかと緊張した面持ちになる中流に、兄達は続けた。
「尋人君が目を覚ます前に全部片付けてしまいたかったんだが…」
裕明に続いて出流が言うも、その声音はどこか不服そうで、中流はいっそう顔を強張らせた。
「全部片付けて…って、兄貴達、何をしたんだ…?」
「…裕幸と時河君が、犯人を見たんだろうっていう話はおまえも聞いていたね」
「…あぁ…」
「その連中を、時河君が探し出してくれた」
「! それでそいつら…っ」
「出流が全員を闇に追い落としたよ」
「―――…、何だって…?」
「それはもう、徹底的にね」
「……」
それがどういうことなのか、詳しく聞かなくとも実弟の中流には判る。
「心配しなくとも、全員、ちゃんと生きているよ。俺も随分と情け深い人間だからね」と嘯く出流の目には、家族だからこそ判る不穏な光りが揺らいでいる。
全員が生きて、おそらくは骨の一本も折られることなく済んだであろう連中に出流が与えたのは、生きていながら地獄のような世界に続く道。
それは人によって様々であり、出流は、その様々な闇に連中を追い落としたのだ。
強力な癒しの能力を有する裕幸と同じ顔をし、従弟を守るべく対となる能力を持つ出流だからこそ可能だった罪悪への裁きは、もう一人の同じ顔をした能力者――出流と二つで一つの欠片を体内に併せ持つ裕明との感情の同調があってこそ、その威力を発揮する。
今は無事に生き延び、大きな怪我一つなく助かったと思っているかもしれない彼らは、しかし近い内に必ず思い知る。
店を潰された事に腹を立て、こちら側に復讐してやろうと考えていたとしても、それは決して現実のものにはならないし、いくら腹黒い策を練っても、実行に移すことは二度と叶わない。
連中は、生涯、光りの道を歩めはしない。
その可能性を、彼らに奪われたのだ。連中が私欲のために何人もの人々から平穏な生活を奪ったのと同様に。
「奴らはその手の映像を撮り溜めて相当額を儲けていたらしいよ」
「…っ……」
「それを脅迫材料にされれば、今までの被害者達は連中の言いなりになるしかなかったんだろうな…。時河君が…裕幸を通して視た状況を高校の知り合いに話したら、この近郊でそんな真似しているのはそいつらだけだって言うんで、確認してみたんだが、…その通りだったというわけさ」
「…」
そして敢えて明言はしなかったけれど、尋人がされた行為も正にそれであり、脅迫の矛先は自身に留まらず、中流にも向けられていた。
どういう言葉で、何を要求されたかは本人にしか知りえないが、それが尋人を自殺に追い込むほど残酷なものであり、中流との時間を消してしまった最大の要因だと、誰もが察した。
人一人の人生を踏み躙った者が、今まで通りの生活を続けることなど許されはしない。
出流はそう信じて疑わなかったし、それを否定しなかったから親族の誰もが彼を止めなかった。
万が一、連中が“幸福”を手に入れることがあるとすれば、それは尋人が彼らを許した時。――尋人と同じ目に遭わされた多くの少年・少女達が、奴らを許した時だけだ。
「店は表向き、人気の喫茶店だったようだが…、とりあえず店自体は修復不可能なまでに潰してきたよ。倉庫の中身も、奴らがそれで儲けた金もね」
出流と裕明の交互の説明に、いつしか中流の視線は足元に固定されていた。
眉間に深い縦皺を刻み、握られた拳は微かな震えを伴いながら、時折、わずかに上下する。
「…なら…」
兄達の話を聞き終えて、中流は掠れた声を押し出す。
その唇に滲む赤色は、抑え込まれた彼の激情。
「なら…尋人の、も…」
「…」
震える中流の言葉に、だが誰一人頷かない。
しばらく沈黙した後で言葉を繋いだのは、やはりと言うべきか出流だった。
「…彼のは、連中の店にはなかったよ」
「ぇ…?」
「連中はね。尋人君に関しては知り合いに頼まれただけだと言うんだ」
「知り、合い…?」
「そう。だから撮ったものは全て、その相手に渡した、って」
あんな商品にならないモン必要ない。
頼まれただけだからオレ達には関係ない。……出流の質問に答える合間に、命乞いするような勢いで捲し立てられた台詞の数々は、今、思い出しても彼らの心を苛立たせる。
「…最初に言っただろ、黒幕が判ったよって」
「――黒幕…」
聞き返す中流に、複雑な沈黙。
「黒幕…って、誰だよ……」
嫌な予感を抱きながら重ねて問いかける中流に、兄達は顔を見合わせた。
「…おまえは、尋人君が学校でいじめに遭っていたのは知っていると言ったね…?」
「――、それが何…」
榊学園という校内での暴力が今回の件にどう絡むのかと、眉根を寄せた中流は、だがすぐに顔色を変えた。
「まさか…」
脳裏を過ぎる複数の少年達。
尋人に暴力を振るい、血を流させ、傷痕を残した彼らが。
「主犯の名前は、滝岡だそうだ」
「……っ」
告げられた名は、疑いようも無く中流が知る、榊学園中等部に在籍する、…尋人の同級生でもある、あの少年。
「…って…何であいつらがこんな真似…っ、最近じゃ大人しくなって、尋人に手ぇ出すこともなくなってたんだぜ!?」
だからあんなに鮮明だった傷痕は癒え、笑顔は戻り、同級生ともあんなふうに言葉を交わせるようになったんだ。
尋人が変わったから彼らも手を出さなくなったんだ、と。
これで尋人を傷つける敵はいなくなったのだと、安心すらしていたのに。
「それが何で…っ…なんで今になってこんな真似……っ!!」
自殺にまで追い込むような――それも他人の手を借り、脅迫という名の鎖でつなぐような、残酷かつ卑怯な手段で尋人を傷つけた。
泣かせた。
その存在を中流から奪い取った。
「……っ」
「中流!」
刹那、駆け出そうとした彼を出流が捕まえる。
「どこに行くつもりだ」
「アイツ殴り飛ばすに決まってるだろ! 絶対許さねぇ!!」
「どこにいるか判っているのか?」
「そんなもん、どうにでも探し出して」
「知っている」
中流の言を遮るように、即座に返したのは竜騎だった。
闇色の瞳に感情を抑え込んだ低い声音。
「…奴らの居場所は突き止めてある。今も城島が連中を張ってる」
「だったら教えろ!!」
「聞いて、どうする」
「なっ…」
「滝岡を殴って、…その後はどうする」
「……っ」
深く濃い闇色の瞳に見据えられ、中流は言葉を詰まらせた。
こんなに真っ直ぐな視線には、どんな言葉も力を持たない気がした。
滝岡という人間を許せない気持ちは本物で、この憎しみも溢れんばかりに膨れ上がっている。
見つけて、殴り飛ばして。
…そうして自分が何を仕出かすかなど、自分自身にも見当がつかない。
だが、それでも。
だからこそ。
「…っかンねーよ……」
「中流…」
「判ンねぇけど、このままじゃ俺の気が収まらない……っ…俺は……っ」
俺は。
尋人に忘れられて。
何も出来なくて。
傍にいることも、出来なくなって。
「俺…っ……あいつを守ってやれなかったんだぞ……っ!?」
滝岡の存在は知っていたのに。
彼が尋人を傷つけているのは、知っていたのに。
いざという時に傍にいてやれなくて。
追い込んで。
笑顔でいて欲しいと願った尋人を、死に追いやるほど泣かせてしまった。
「……」
恋人を、分かっていたはずの危険因子に奪われ、失い、…行き場のない想いは形を変える。
「…」
いつか“あの存在”を失うと理解せざるをえない竜騎は、その拳を握り締める。
「……敷明小路四丁目“Darker”って店だ」
「…」
「時河…」
「行け」
低く言い放つ言葉に、出流の、弟の腕を掴む手が解けた。
「…」
中流はそんな兄を見上げ、竜騎を振り返り。
示された場所へと走り出した。