二度目の楽園 二十
まるで計算されたように消えてしまった二年間。
尋人は自分が病室にいる理由どころか、夜が明ければ中学一年生時の陸上競技大会が始まるのだと思っていた。
中流を初めて見つめた“あの日”より前に戻ってしまった彼の記憶は、中流を「有名な先輩の友達」としか認識していなかった。
最初、それすら気付かずに自分の病室にいる彼を見て、誰かも判らずに困惑する尋人の姿は、中流にとって残酷あまりあるものだった。
六条中流を知らず。
何故、病院にいるのかも、それ以前に何があったのかも。
学校でイジメに遭っていることすら記憶にない尋人の幼い顔は、まるで見知らぬ人間のそれだった。
この日、六条中流は倉橋尋人を失った。
ずっと一緒にいたいと願った恋人に、その存在を抹消されたのである。
◇◆◇
「君の名前は?」
「…倉橋、尋人です」
「ご両親のお名前は?」
「倉橋圭一、倉橋彩子」
そんな家族の事柄から、友人知人についての問いかけ。
「日本の首都は?」
「東京、です」
一般常識。
「八×三は?」
「二十四…」
簡単な数字計算。
大樹総合病院外科病棟五階の南側に位置する個室で、精神内科医から幾つかの問題を投げ掛けられて、尋人は困惑気味に、しかし悩む様子もなく答えていった。
だがそれが年齢になり、同級生の名前を聞くに至って、表情に翳りが浮かぶ。
「前の席は吉岡君で…、隣は松宮さん、担任は阿部先生…です」
戸惑いながらも、彼自身にとっては正直に口にした名前。――しかしそれは、尋人が中学一年生当時の、現実の中では二年前の同級生であり、学級担任。
彼の中の時間は、ずっと以前に巻き戻ってしまっているのだということを如実に表すものだった。
「検査の結果、神経や脳に異常と言えるものは見当たりません」
倉橋夫妻を別室に呼び、そんな検査結果を伝えたのは尋人の主治医となった辻貴士医師。
尋人の体は順調に回復に向かっており、後遺症も残らない。
この調子なら退院できる日も近いでしょうと夫妻を安堵させる一方で、少年の記憶に関しては難しい顔をして見せた。
「二年前に戻ってしまっている記憶に関しては、どうご説明していいものか、正直、判りません。あまりの衝撃に混乱しているだけであれば、時間を掛けて思い出す可能性は多分にあるのですが…」
それにしては、失くしたのがこの二年間限定であるという結果が貴士を悩ませた。
自分がどんな目に遭い、自ら命を投げ出そうとしたのか…、その経緯を忘れることが出来た少年は、もしかすると幸運だったのかもしれない。
複数の同性に犯された末の投身自殺未遂、そのような過去と傷を抱えて生きていくよりは、ずっと幸せだと、語る者もあるだろう。
家族のことは解っているし。
自分のことも理解している。
少なくとも、この二年間以外のことは失っていないのだから、普段の生活に、そう支障を来たすものではないはずだ。
だが、では何故、この二年間を失う必要があったのか。
「…」
二年間を失うことに、どんな意味が在るのだろう。
貴士は、夫妻との話を終えて医局に戻る途中、外科受付の待合室で足を止めた。
大勢の、身体に支障を来たした患者が名前を呼ばれるのを待っているその場所に、ただ静かに座っている少年の背中が見えた。
何を待つでもなく。
…見るでもなく。
他に行き場もなくてそこに居続けるだけの彼の背が、どうにも居た堪れなかった。
意識が戻ったと連絡を受けて病室に向かった医師達は、倉橋尋人の様子が妙な事にすぐに気付いた。
今までの経験上、こういう状況で運ばれてきた患者は意識を取り戻しても朦朧としていることが多い。
言葉を発したり、焦点の合った瞳で周囲を見渡したりなど、なかなか出来ないものだ。
なのに倉橋尋人は、まるで朝が来たから目覚めただけとでも言うように、病院のベッドの上にいる自分に困惑していた。
両親に、どうしてこんなところにいるのかと聞き、何があったのかと尋ね。
――尋人…?
そう見開いた目で呼びかけた“彼”を、同じくらい丸くした目で見つめ返した。
―――…ぇ…あの…
驚いた表情で、言葉を探すように。
そのうち、気付いたように声を上げた。
―――ぁの…もしかして……同じ学校の人……ですか……?
誰だっけ。
確か運動神経抜群だって有名な先輩のお友達で。
―――…確か…、六条先輩………?
そう告げられた瞬間の彼の表情が忘れられない。
戸惑い、困惑、驚愕、…絶望。
様々な感情の入り乱れた姿で立ち尽くす彼を、あの時、院長が促して外に連れ出さなければ、どうなっていたか。
―――…尋人…貴方、それだけなの……?
倉橋夫人の震えた問いかけと、零れ落ちた涙。
あぁ、そうか…と。
あの時は判った気がした。
倉橋尋人の心から、限られた時間だけが失われた理由が。
…だが、それならば何故。
何故、二年間もの長い時間を。
「……」
何を言うことも出来ないと解っていて、それでも彼を放っておくことは出来ずに、そちらに歩み寄ろうとした貴士は、しかし同時に彼の兄弟が近付いてきている事に気付いて再び足を止めた。
目立つ容貌を隠そうともせず、どこか厳しい顔つきの六条出流と、彼よりも幾分か柔和な印象を受けるこの病院院長の長男、大樹裕明。
そしてその背後について歩いてくるのは、この病院に両親が入院している時河竜騎だ。
「…」
彼らが来たなら、何も言えない自分が近付いたところで邪魔にしかならないだろうと踵を返した。
待合室を過ぎ、医局へと戻りながら、彼は願う。
あの切ない背中が、せめて真っ直ぐに立ち上がれるようになってくれることを。
「…榊学園だと言っていたな」
彼も、倉橋尋人も。
いつだったか、自分の三つ下の弟から聞いたことのある学園の名は、貴士にとって、ある意味、特別な意味を持つ。
もしかすると近い内に、医師としてではなく、個人として彼らと再会することがあるかもしれない。
「…」
その時には、どうか笑い合う二人の姿が見られるように…。
そう願いながら医局へと立ち去った。