二度目の楽園 一
榊学園は初等部から高等部までの一貫教育が取られている私立学園だ。
各等の四階建て校舎が三つと、東西に体育館が二つ。同様にグランドも二つあり、正門を通ってすぐの右手側には全校生徒が一度に入れる大きな講堂。
これらが広大な敷地の中に設けられている。
各学年全て四クラスで編成され、一階に一年生、二階に二年生、三階に三年生の教室。
四階には音楽室や生物室などの特別教室がある他は滅多に使われない教科ごとの教員室が並んでおり、授業の行われている日中は階下同様に賑わうのだが、放課後を迎えて生徒の半数が帰路に着くころは、四階だけが不気味な静けさに包まれ、その様子はさながら異世界のようだった。
三つの校舎は各階同士をつなぐ渡り廊下で行き来できるようになっていて、その他に、どの等からも一階の渡り廊下を使って行けるのが全等合同の学生食堂――榊学園高等部二年四組に在籍する六条中流が頻繁に利用する昼休みの憩いの場だ。
十人近い友人達とテーブル二つを占領して昼食を取っていた彼らは、一人が自動販売機で飲み物を買ってくると言って立ち上がると、途端にブレザーのポケットから小銭を取り出し、その友人に握らせる。
「おれペットボトルのポカリ」
「コーヒーよろしく」
「じゃあ俺は牛乳な。パックのやつ」
次々に言われるリクエストに閉口し、彼は隣に座っていた友人を強引に連れ立って席を離れた。
「飯食ってる途中に立ち上がるのは、頼んでくれって言ってるようなもんだろ」
「自分で自分の首絞めてやんの」
席を離れた友人の向かいに座っていた同級生が愉快そうに言い、周囲でやはり彼に小銭を握らせた少年達がコクコクと頷く。
だが中流だけはそれに同意せず。
「どうせ首を絞めるならこいつの首を絞めてやりたいけどな」と、険しい面持ちで発言した。
「同感だな」と瞬時に上がる賛同の声。
言われている本人は、何のことか分からない様子で目をぱちくりさせていた。
この中で誰よりも中流と付き合いが長く、信頼関係も深いと思われる彼、本居尚也は、学校全体でも五本の指に入ると言われる抜群の運動神経、達者な口、整った外観とが男女問わず多大な人気を集めている少年だ。
この尚也と中流は初等部一年生からずっと榊学園に通っており、もう十年以上の付き合いになる、いわば親友だ。
だがどんなに親しい間柄でも、本気で絞め殺したくなるくらい憎く思える時がある。それが中流の場合は今だった。
「なんだよそれ。俺、何かしたか?」
本当に解っていなさそうな尚也に、中流は軽く息を吐いて冷めた目を向ける。
他の同級生に比べると薄い茶色の瞳。
それは、彼が北欧出身の祖母から受け継いだ色だと友人達は聞く。
「別に俺達が何かされたわけじゃないから、おまえが自覚していなくても仕方ないとは思うけどさ…」
「?」
遠まわしに責める中流の言い方が、いつもの陽気なものとは微妙に異なっていて、付き合いの長い尚也は眉を寄せた。
周囲で飲料を待っている友人達も揃って中流の言い方に頷くから、尚也はいっそう困惑した、…が。
「な〜おや!」
突然の甘い声音に、呼ばれた本人以外の全員が、がっくりと肩を落とす。
「またか…」
一人がポツリと呟き、中流は言葉もなく額を抑えた。
尚也に駆け寄り、無邪気な笑顔を浮かべたのは隣のクラスに在籍する浅見理香。肩下までの髪をポニーテールに結い、高二にしては童顔の小柄な少女だ。
彼女からの告白を尚也が受け入れて付き合い始めたのがほんの数日前で、つまり今の彼らは一番幸せなとき。
それは中流達も重々承知しているのだが『新婚生活が始まったばかりの二人』といった甘々の光景は、独り者の彼らには非常にうざったい。
呆れて物も言えない自分達のすぐ傍で仲睦まじい恋人同士の会話をされたのでは、首を絞め殺したくなりもするだろう。
「浅見が最初のオンナってわけでもないだろうに、よくここまで熱くなれるよな…」
「尚也は派手に見えて実は純情だから」
「イイコト教えてやろうか? 尚也って浅見に半年くらい片想いだったらしいぜ」
「げっ。どこからの情報だよ」
「もち中流」
「はぁーん。それで幸せの絶頂か」
最も信頼度の高い人物からの情報に彼らは納得した。
熱しやすくて冷めづらい尚也の性格は、この場にいる友人なら誰もが知っている。
同様に、中流の口の堅さも周知の事実だったから、その彼が親友の半年に及ぶ片思いを他人に暴露したということが、尚也の想いの巨大さを物語っていた。
当の本人は彼らの心境など知らぬ存ぜぬで恋人との会話に興じ、ようやく全員分の飲料を買って戻ってきた二人は、やはり尚也と理香の姿に眉を寄せ、尚也に頼まれていたコーヒーを合図も無く放り投げた。
いきなり後頭部に物が当たり、それが頼んでいたコーヒーパックだと知った尚也は顔をしかめて振り返る。
「いきなり投げないで口で言えよ」
「自慢気にイチャつくなタコ」
冷めた口調で突っぱねられて、尚也は身に覚えのない扱われ方に憮然とした。
だが理香の方は無邪気に笑う。
「クスクス。皆も早くカノジョ出来るといいのにねー」
恋人がタコと呼ばれたのを愉快そうに聞くだけでなく、朗らかな笑顔でそんなことを言うから中流は頭を抱えた。
(悪意が無いって判る分、尚更、質が悪いんだよな)と、日替わり定食のカツを食べながら思った。
親友の悩みを聞き、時には愚痴も聞いていた中流は、半年を経てようやく恋が成就した尚也を心から祝福した。これでようやく彼の悩みの種は減り、何があろうと、事態は善い方向にしか変化しないだろうと考えていた。
そしてそれは間違いでなく、二人が付き合うようになってからというもの尚也の顔から笑みが絶えることはなかったし、彼が元気なら、その活気は教室中に感染してクラスの雰囲気をも陽気にした。中流自身、親友の悩みに付き合って自分の時間が犠牲になることもなくなったのだから、この状況は喜ばしいものはずだった。…だがしかし。
尚也は理香と付き合ってから仲間内での付き合いが悪くなり、もともと人見知りせず異性とも平気で仲良くしていた理香は、こうして昼休みの学生食堂に、中流達その他大勢の友人がいると解っていても尚也に会いに来る。
その結果がこれだ。
中流も含めて、二人が付き合う以前から理香と親しかった男子さえ尚也の付き合いが悪くなったのを面白くなく感じ、彼女が現れるたびに顔を曇らせるのだ。
そろそろ何らかの形で治めなければ、そのうち尚也が輪の中から外れそうな気がして、中流は内心、気が気ではなかった。
彼女が離れて行ったら、今度こそ、このことを尚也に話そう。
そう決心した中流はスプーンを置いて機会を待つ…、つもりだったのに。
「じゃあ尚也! 放課後、教室の前で待っているからね」
「ああ」
尚也のその返答を聞いて、中流は目を見開いた。
「約束だよ?」
「解ってるって」
そうしてにっこり笑う親友の姿が信じられず、理香が離れ、ようやくこちらに顔を戻した尚也に素早く詰め寄った。
「尚也!?」
「っ、な、何だよ中流…」
どうして彼がこんな行動に出たのか、まるで解っていない様子の尚也に、周囲の友人達が呆れている。
本人よりも第三者の方が解っているのだから、ひどい話だ。
「尚也…、おまえ救いようのないパーだね」
「はぁ?」
「なんで俺らが覚えていることを、おまえが覚えていないわけ?」
「――なんでって、何かあったか?」
冗談でもふざけているわけでもなく、本当に解っていない尚也は眉を寄せて困惑している。そんな彼を優に三十秒ほど睨みつけた中流は、大きな溜息をついて目線を外した。
恋人が出来て付き合いが悪くなったのは判っていたが、まさか自分で言い出した約束まで綺麗さっぱり忘れているとは思わなかった。
「長い付き合いだったけど今日で終わりだな。せいぜい浅見とよろしくやってろ」
「え、ちょ、中流?」
尚也は冷たく言い放つ親友に戸惑い、さっさと立ち上がってその場を離れていく彼に呆然としてしまう。
しかも近くの友人達も次々と立ち上がり、ボソッと言い残して去っていく。
「六条さぁ…、今日はバイト休みじゃん」
「二ヶ月振りの休みだっけ?」
「それ判った四日前に、丁度良いからって約束したよなぁ、俺達と」
「勇輔のライブ手伝いに、今日は放課後、ライブハウスに直行するってさ」
「あ…、あっ!」
ようやく思い出して顔色を変える尚也だったが、時既に遅し。
友人達は一様に尚也に冷めた目線を投げかけてその場を離れていってしまう。
尚也も慌てて立ち上がるが、誰一人としてそんな彼のことを気にする者はいない。
「ちょ…、待て! 俺が悪かった!!」
必死の声が、学生食堂の出入り口を通っていた中流にも聞こえたが、容赦なく無視を決め込んだ。
幸せボケしている尚也には、これもいい薬になるだろう。
そもそも全員が本気でないことは、あの場にいた全員が解っていることだから。
(あんな莫迦でも幸せボケしていられるってのに! ったく…、不公平な世の中だよな)
高等部校舎につながる渡り廊下を歩きながら、中流は二週間前に家の前で倒れていた少年のことを思い出した。
幸せボケした親友と、あの日の少年の笑顔を脳裏に並べて、中流は苛立たしい気分で食堂を後にした。