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二度目の楽園 十八

 中流は何が起こったのか全く理解出来ないまま、ひどく取り乱した従姉の言葉に従って大樹総合病院に駆けつけた。

 二十二時を回った病院内に人気など皆無に等しく、照明はその一角にしか付いていなかった。

 外科病棟三階、手術室。

 赤いランプが煌々と照る扉前方。

 廊下の椅子には一組の夫婦と従兄姉達の姿がある。

「…兄貴…っ!」

 そこに兄・出流の姿までが在って、中流は引きつりそうな声を上げた。

「なんで…なんで兄貴まで…っ」

「…中流」

「中流、落ち着きなさい」

 脇から言葉を挟むのは大樹家長男の裕明。

 そして青白い顔で椅子に座り、中流を見上げていたのは、彼に連絡した江藤汨歌だ。

「……汨歌」

「…っ…」

「汨歌、…一体どういうことだよ」

 すぐに病院に来てと、叫ぶように言って切られた電話。

 尋人君が重体なの、急いで…。

 どんなに焦っていたかが顔を見ずとも伝わってくるような物言い。

 落ち着け、こいつは助かるから…、汨歌の言葉の合間に怒鳴るように聞こえていたのは時河竜騎の声だった気がするが、その姿はここになかった。

「なぁ…汨歌、尋人が重体ってどういうことだよ……っ」

「中流」

 強い口調で呼びつけ、出流は背後を目で示す。

「……っ…」

 そこにいた一組の夫婦。

 おそらくは、尋人の両親だ。

「ぁ…」

「詳しくは後で話す。だから今は落ち着きなさい」

「兄貴…」

「それに」

 出流はそこで言葉を切り、弟の耳元に静かに囁く。

「…裕幸がずっと傍にいた。必ず助かる」

「――…裕幸、が…?」

「あの子の力は、おまえだってよく知っているね…?」

 いつになく優しい声で問われて、中流は素直に頷いた。

「そっか…裕幸が……」

 少しだけホッとして、瞳を伏せる。

 膝の力が抜けそうになるのをどうにかこらえて、座り込んでいる汨歌を向く。

「……で、その裕幸は」

「…尋人君の手術が始まるのと同じくらいに倒れて…そのまま気を失ったわ。いま、空いてる病室に寝かせてる」

「大丈夫なのか」

「分かんない…。時河も、裕幸が気絶するまでは傍にいたんだけど…その後、どっかに行っちゃった…、裕幸が目を覚ましたら連絡しろって、あの子の携帯を持って…」

「そっか…」

 それきり、誰も何も言わない時間が過ぎていく。

 沈黙の中に、壁に掛けられた時計の秒針だけが煩わしい。

 時折、尋人の母親が涙をこらえるように息を吐く。

 父親が落ち着かない様子で立ち上がり、また座った。

 …話に聞いていた通りの優しそうな両親だ。

 校内に安らぎを得られなかった尋人が、唯一安心して過ごせた家族の空間。

 尋人が、滝岡を主格とするグループの暴力に決して屈しなかったのには、家族の存在が大きかった。

(…尋人…なんでいきなり重体なんてことになるんだよ……っ)

 事故だろうか。

 それとも何らかの事件に巻き込まれたのか。

 詳しい事情を何も知らされていない中流にとっては、尋人の命が助かるという言葉以上に有り難いものはない。

 大切なのはそれのみだけれど、どうしてこんな事態になってしまったのか知りたい気持ちは振り払えなかった。

(尋人…)

 刻々と時間だけが過ぎていく。

 裕明と出流は立ったまま微動だにせず、汨歌は祈るように手を合わせ瞳を伏せたきり、呼吸しているのかすら疑わしいほど静かだった。

 …どれくらいそうしていた頃か。

 唐突に手術中の赤い照明が切られ、まるでそれが合図だったようにその場の全員が立ち上がった。

「…」

 そのまま、じっと数時間閉ざされたままの扉を見守った。

 次第に扉の向こうから物音が聞こえ始め、――扉が開く。

「尋人!」

 数人の看護婦に支えられるように、尋人を寝かせたキャスター付のベッドが廊下に運ばれる。

 そしてその後から出てくるのは数人の医師。

「尋人、尋人…っ」

 取り乱したように彼の名を呼ぶ母親を、彼女の夫が支えるように肩を抱く。

「先生、うちの息子は…尋人は大丈夫なんですか!」

 叫ぶように問う父親に、医師の一人が大きく頷く。

「父さん」

 その医師を裕明はそう呼び。

「伯父さん、彼は…?」

 低い声で問いかけたのは出流だった。

 息子達に呼ばれた彼は静かに微笑み、倉橋夫妻に向き直る。

 それは取り乱した二人を落ち着かせるような、医者としての信頼を裏切らない力強さ。

「手術は無事に終わりました。もう心配いりません、彼は助かります」

「…ぁ…っ……!」

「脳波も神経も、今のところ異常は見られません。目を覚ました後で、もう一度、精密検査を行うことになると思いますが、恐らく心配はいらないでしょう」

 あれほどの状態で身体的な後遺症一つなく生還した尋人を、後に“奇跡”だと語る者がある。

 しかしそれは奇跡などではなく。

 限られた者達だけが知る異郷の力が施した治癒の結果だ。

 それを知っている中流たちも、実際に医師から聞かされたその言葉に安堵の表情を浮かべ、汨歌は目を涙に潤ませる。

「ありがとうございます…っ…本当にありがとうございます……!」

 何度も頭を下げ、感謝する夫妻に大樹医師は微笑し…、だがその笑みは長く続かなかった。

「ただ、……一つ、お話ししなければならないことがあります」

「ぇ…」

「貴士先生」

「はい」

 大樹医師の隣に佇んでいた、若い長身の医師が応える。

「恐れ入りますが、あちらの部屋へ移動して頂けますか」

「…」

 貴士先生と呼ばれた医師に促され、夫妻は強張った面持ちで少し離れた一室に入っていく。

「…叔父様」

 緊張した声音で呼びかけるのは汨歌。

 この中で誰より早く尋人の傍に駆けつけていた彼女は、医師達が話さなければならないと告げる内容が予測出来てしまっていた。

「……おまえ達は裕幸を休ませている部屋で待っていなさい。すぐに行くから」

 優しく告げて、大樹医師は中流の頭を撫でる。

「…」

「伯父さん…?」

「……大人しく待っていなさい。いいね」

 そっと微笑し、彼も、夫妻が通された部屋に向かう。

「…さぁ、言われた通りに裕幸のところへ行こうか」

「ぁ、…うん」

 伯父に向けられた表情を思い出して、彼のいる部屋から視線を外せずにいた中流を、出流がらしくなく強引な手つきで動かした。

「ぇ、兄貴?」

「おいで」

「ん…」

 背を押されるようにその場から遠ざかる中流は、…しかしその数秒後。

 尋人の母親の、泣き叫ぶ声を聞いた気がした。





 大樹医師が中流達の元に姿を見せたのは、それから優に三十分が経過してからだった。

 時刻はとうに深夜。

 窓から見下ろす光景には街灯の光り以外に目に映るものはなく、病院内はひどく静かだった。

「…待たせたね」と、少なからず憔悴した風体の大樹医師に、子供達は何も言わない。

 彼はそっと微笑し、ベッドに横たわる裕幸の腕を取り、脈を計る。

「……大分、落ち着いているな。全身の波動にも偏りがなくなっているし、もうしばらくすれば目を覚ますだろう」

「そう…」

 ほっとして呟いたのは兄の裕明。

 汨歌も深く息を吐き、肩の力を抜いたようだった。

 だが。

「さて…、汨歌」

「っ、は、はい…」

 そう呼ばれ、彼女は再び顔を強張らせて叔父に応える。

「さっきは慌しくて、ちゃんと聞けなかったから、もう一度、詳しく話してくれるかい」

「…裕幸のこと?」

「倒れている尋人君を見つけて、真っ先に裕幸が駆け寄ったんだね?」

「うん…、血が…すごくて……慌てた裕幸が…たぶん傷を塞ごうと思ったんだと思う」

「ん」

「でも…尋人君に触れた途端に、裕幸が叫んで……」

「え…?」

「裕幸が?」

 聞き返す六条兄弟に、汨歌は辛そうに頷く。

「顔が真っ青になって…、時河がすぐに傍に寄ったの…そしたら、今度は裕幸に触った時河が…苦しそうになって…、どうしたのって近付いたら、寄るなって……裕幸に触るなって…すごい剣幕で……」

 あんな二人の顔は見たことがなかったと汨歌は続ける。

 裕幸など、今にも泣き叫びそうな悲痛な表情で、それでも尋人の手を離さなかった。

 その裕幸を支えながら、時河竜騎は汨歌に中流を呼べと言い放った。

 救急車は別の人間が呼んだらしく、しばらくして鳴り出したサイレンの音に人垣は割れ、次に汨歌が連絡したのは大樹医師。

 幸いにも当直で病院に残っていたのが外科の辻貴士医師だったこともあり、手術の準備はすぐに整い、救急車が病院に到着する頃には大樹医師もここにいた。

 尋人がストレッチャーに乗せられ手術室に運び込まれると、途端に裕幸は倒れ、竜騎は彼の携帯を持って外に飛び出し。

 それと入れ替わるように病院に着いたのが、裕明から連絡がいっていた倉橋夫妻。

 出流。

 最後に中流が着き、今に至る。

 その一部始終を聞いて、同じ顔の裕明と出流の推測は一致した。

「……裕幸は視たのかな」

「恐らくね。…そして裕幸を通して時河君も見た…、それで外に飛び出して行ったってことは…」

「……捜してるのよ」

 兄達の言を繋ぐように、汨歌が低く言い放つ。

「捜してるのよ、尋人君をあんな目に遭わせた連中を!」

 彼女は見たのだ。

 雪の積もったアスファルトに落下した尋人の姿。

 白い大地を血に染めて。

 言葉も、呼吸もなく横たわる稚い少年。

 その全身を覆う傷痕。

 目の下の、涙の跡。

「時河…ものすごく怒ってた…、怒るわよ…っ…裕幸だって叫ぶわ……!」

 尋人をあんな姿にした連中を、兄達の推測通りに二人が視たのなら。

 そんな残酷な光景を目の当たりにしたのなら。

「……どういうことだよ……」

 不意に、中流が震えた声を押し出す。

「尋人をあんな目に…って……、何だよ、それ…」

「…っ……」

 中流の悲痛な声に、汨歌は唇を噛む。

 裕明も出流も、適当な言葉が出てこない。

「なぁっ! どういうことだよ! 尋人が…なんであいつが手術しなきゃならないような目に遭ったんだよ! 事故なのか!? 何かに巻き込まれたのか!?」

 叫ぶように問う中流に、大樹医師は静かに告げる。

「事故でも、…巻き込まれたわけでもない」

「じゃあ何で!」

「……中流」

「なんで……っ…、なんで伯父さんも汨歌も…兄貴達もそんな顔するンだよ……っ!」

 裕幸と竜騎は、何を視た?

 どうして誰もが中流に明言を避けるのか。

「伯父さん!」

 掴み掛かるように叫ぶ中流を、彼は真っ直ぐに見返した。

 そうして、告げる。

 出来ることなら一生知らせたくなかった事実。

「……尋人君は、自分から飛び降りたんだ」「――」

「敷明小路の外れにあるビルの屋上から飛び降りた。………自分から」

「――…っ、そんなわけない!」

「中流…」

「そんなはずないっ、アイツには自殺する理由なんか何もない……っ!!」

「彼はひどい暴行を受けていた」

「知ってる!」

 怒鳴るように言い返した中流に、汨歌達が目を瞠った。

「知って……って」

「知ってたさ、尋人がいじめに遭っていたのは! 裕幸も時河も知ってる、その時に尋人に会ったんだ、知らないはずないだろ!!」

 知っていたのは、尋人の両親も同じ。

 全身の傷痕。

 一緒に暮らしていて、彼を気に掛ける存在ならあれに気付かないはずがない。

「それでもあいつ負けてなかった! どんな暴力受けたって負けずに立ってたんだ、学校に行くのだって嫌がらないで……っ」

 同級生に笑えるようにまでなっていた。

 学校に行けば中流に会えたから。

 両親が励ましてくれたから。

 大好きな人達の想いが力強くて、嬉しくて。

 何かお返しがしたいと思っても、弱い自分には何も出来ないから、せめて真っ直ぐに前を向きたいと語った尋人。

 そんな彼が暴力に負けて自らの命を捨てるような真似はしない。

「そんなあいつが…自殺なんかするはずないんだ……っ」

「…」

 必死に叫ぶ中流を、従兄姉達はやりきれない思いで見つめ、一方の大樹医師は、わずかに首を振り、瞳を伏せた。

 確かなことは判らない。

 裕幸と竜騎が何を視たのかなど、想像の範疇でしかない。

 だが、尋人の手術を執刀した彼だから。

 その全身を診た医者としての彼だから言い切れること。

「……違うんだよ、中流」

「…ぇ…?」

「汨歌、きっとおまえの考えていることも違うんだ」

「叔父様……?」

「……彼が受けたのは、身体的な暴力だけじゃない」

 続けられる言葉に、裕明と出流が目を瞠る。

 汨歌は喉の奥に悲鳴を上げ。

「―――」

「尋人君は、……性的暴行を受けていたんだよ」

 それも、複数の男から。

 明かされた事実に、誰一人、言葉が見つからない。

 広がる沈黙を。

「……そ、だ……」

 沈黙を震わせたのは、中流の掠れた呟き。

「そんなの…嘘だ………」

「中流」

「だってあいつ…普通に触れられるのだって怖がって……っ」

 ようやく口付けに慣れてきたばかりの。

 微かな愛撫にも、血が滲むほど唇を噛み締めていた尋人。

 強く瞑られた瞳。

 震えた体。

 あんなにも怯えた姿を、いったい誰が望むものか。

「誰も…誰も見たくないだろ……? 尋人が怖がって……泣きそうになって…そんな辛いの…」

 耐えて。

 耐え続ける、残酷な、姿。

「あんな顔…させたい奴なんて、いるわけないだろ……っ」

「………《ごめんなさい 先輩》…」

「!」

「っ…」

 不意に届いた声に、誰もが背後を振り返った。

 ベッドの上、今まで深い眠りに落ちていた裕幸が目を覚まし、掠れた声で呟いていた。

 色素の薄い瞳から零れ落ちる大粒の涙は、果てして彼自身のものだろうか。

「…《ごめんなさい 先輩… 僕 もう 微笑えません》……」

「…っ……」

「……《貴方の隣には帰れません》……、尋人君の最後の言葉です……」

「裕幸…」

「…尋人君の、最後の言葉なんです……」

 繰り返される言葉に、中流は視界を閉ざした。

「…っ……!」

 そのまま、崩れ落ちるように膝をつき、握られる拳。

 誰も、何も言えない部屋。

 涙だけが零れ落ちた。




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