二度目の楽園 十七
「っ…はぁっ…ぅっ…」
夜闇の中、尋人は蒼白の表情で足を動かす。
背後から複数の足音。
声がする。
―――追いつかれる。
「…っ、逃げなきゃ…」
走って、逃げなきゃ。
――…よぉ、倉橋。
――…久々じゃん、随分元気そうだけどさ…
同じ学校だ。
同じ校区だ。
どこで遭遇してもおかしくなんかなかったけれど、まさか知られているなんて思わなかった。
――…驚いたぜぇ、おまえってホモだったんだな…
――…あのセンパイとそういう仲だって?
これ何だか判るかと、見せられたのは複数の写真だった。
あの日、クリスマスの翌日に家まで送ってもらった朝の。
別れる時に中流がキスしてくれたあの瞬間の、写真。
またバイトでしばらく忙しいけどさ、正月には一緒に初詣行くか、……そう言って誘ってくれた。
「先輩…っ…」
しばらく会えないけど電話はするからって、キスしてくれた、あの時の。
――…この写真さ、ばら撒かれたいか?
――…おまえと六条センパイはホモだって学校中に知られてもいいのか?
――…いい加減さ、俺達に逆らうなよ…
――…おまえの主人は誰だ?
――…おまえは俺らのイヌだろ…?
「…っ……先輩……」
逃げなきゃ。
逃げなきゃと思っても。
もう、身体はボロボロで。
どこかは折れていてもおかしくないような。
血も、足りなくなりそうで。
――…おまえホモならさ、コレ、必要ないんじゃねーの?
――…それともアレか、センパイにこれ弄られて女みたいにヨガってんだ?
――…気色悪いヤツ…、ケツに突っ込まれて喘いでか?
嘲りと、罵倒と。
それだけなら耐えられた。
コレ、必要ないだろうと蹴り飛ばされても。
痛みだけなら耐えられたんだ。
――…体育館の裏でさ、六条に邪魔されて高等部のセンコーまで来た時にさ…
――…滝岡だけ残ってたんだぜ、あの近くに…
尋人を追い詰める連中のリーダー格、それが滝岡。
彼があの場所に残っていて、木田教諭がいなくなった後の二人の遣り取りを、一部始終見ていた。
――…それでクリスマスならどうだろうって張ってりゃマジでこんな写真撮れるしさ…
――…変態のくせにバカじゃねーの?
全部が、彼らの思惑通りで。
今度こそ尋人が逆らえないようにと、彼らが用意したのは。
――…マジ気味悪ぃンだけどさ…ホモのAVってケッコー金になるんだってよ…
――…その話したらノッてくれた奴らがいてさ…
――…今、ここに向かってんだ……
滝岡もエグイこと考えるよな…、と彼らは笑って。
それでも尋人を奴隷扱いできることに満足していた。
逆らわせない。
彼らにとって、尋人の身体など鬱憤を晴らすための道具だ。
それで脅迫材料まで手に入れれば、金だって搾り取れる。
それは尋人ばかりではなく、むしろ六条中流からのもの。
彼の素性を知れば、金など幾らでも出てくると彼らは思いついた。
たとえば汚れた尋人が中流に嫌われ捨てられたって、尋人の不幸は彼らを喜ばせ、問題の写真は中流の世間体のために金に化けるだろう。
そう思いついた彼らには、もはや良心など欠片も残ってはいなかった。
「先輩……っ!」
いつまでも奴らが来ない、そう言って苛立ち始めた連中の隙をついて尋人は逃げ出した。
写真の件だとか。
身体の痛みだとか。
気に掛けることは幾らでもあったけれど、暴力ならまだしも、この身体を肉欲によって好きにされることだけは耐えられなかった。
「…先輩が…、先輩が、守ってくれた…」
尋人が辛いのはイヤだって。
ゆっくり慣れていけばいいって、中流が守ってくれた体。
心の傷。
俺が最初なんだ、って嬉しそうに言って。
隣で微笑ってくれていれば幸せだって、…そう言って、笑ってくれた。
なのに、ここで別の男に好きにさせてしまったら。
「…先輩……っ」
瞳から毀れる大粒の涙に押されるように、尋人は身体を動かす。
早く、逃げて。
ここから、離れて。
誰の手も届かないところまで、今すぐに。
「…そんなにアイツがいいのか」
「!!」
ハッと気付いた時には、もう遅かった。
絡みつく複数の腕。
助けを呼ぶ声も、遮られた。
「随分張り切っているな」
写真家の父親に話し掛けられて、中流は陽気に答える。
「早く一人前になってさ、一緒に世界を飛び回りたい奴がいるんだ」
「…それは、この間の尋人君かい?」
「ん」
臆面もなく返す息子に、六条氏は複雑な笑みを覗かせた。
「まったく…、おまえは人を見る目がありすぎて困るよ」
「は?」
「反対したくとも出来ないだろう?」
同意を求めるように言われて、中流は失笑した。
「ごめんな、孫は兄貴に期待してくれよ」
「出流にか…、願わくば孫の母親は全員同じであって欲しいな」
「はははっ」
思わず笑ってしまうと、六条氏も笑う。
冗談では済まなそうだと思いつつも、目の前の息子の幸せそうな姿に、表情は勝手に綻んだ。
外には雪が降り出し。
多くの足跡で踏み固められた地面を柔らかに覆っていく。
それは、赤い鮮血さえ隠すように。
「マジむかつくぜ、あのガキ…」
「…どうかしたのか?」
「どうしたもクソもあるかよ、あのガキ、一度も声上げねぇンだ」
「…は…?」
「俺達が二人がかりでヤッてやってんのにさ、たったの一度もだぜ? 死人抱いてるみたいで気味悪ぃったらありゃしねぇ」
「ケケケッ、それっておまえらが下手なだけなんじゃねーの?」
「ざけんな、俺達に掘られて啼かねぇヤツなんて今までいなかったんだ」
「とにかくあのガキじゃ売り物になンねーよ。強姦、輪姦の出がいいのは嫌がってるのにヨガってンのがウリなんだ。その気になる奴がヤられてなきゃシラけるだけだ」
「まぁ一応言われたモンは撮っておいたけどな」
そう言って男が滝岡に渡したのは一本のフィルム。
「こっちのビデオもいるか? どうせ商品にゃならねーし」
「あぁ…」
答えて、滝岡は手の中のフィルムを転がす。
「…で、アイツは」
「さぁな。死んでンじゃねーの?」
「そのまま転がしてあるよ。立てるようになれば勝手に帰るだろ。…とりあえず今日は、あれ以上痛めつけるなよ。初めてのセックスで俺ら相手にしたんじゃ、マジで死ぬぜ」
「――初めて?」
「何言ってンだ、あいつ男いるんだぜ?」
「はぁ?」
怪訝な顔をする複数の男達に、滝岡は眉を寄せた。
「…あいつ、二日前だって男と朝帰りしてんだぜ…?」
「そぉかぁ? あれはオトコ知ってる体じゃないぞ」
「――」
それは、滝岡達にとって――否、滝岡にとっては予想外の事実。
思わず立ち上がり、足早に今まで男達が居座っていた部屋に立ち入れば、そこは無人。
傷ついた少年の姿は、どこにもなかった。
「悪いけど、今日は帰るよ」
そう言って女性の唇に軽く触れるのは六条出流。
「なんだか家族の方でよくないことが起きそうだ」
「そんなこと言って、別の女のところじゃないでしょうね…?」
「そんなに心配なら、この子かと思う女の子達全員で集まって互いに見張っていればいい。…最も、部屋一つじゃ足りなさそうだが」
「まぁっ」
ふざけないで、と苛立つ彼女を適当にあしらい、出流はマネージャーに適当な声をかけて自分の車に乗り込んだ。
鍵を指し、エンジンを吹かしながら、空いている手が携帯で呼び出すのは同じ年齢の従兄。
「…自分に予知系統の能力があるとは思わないが……」
胸中にざわめく不快な感覚は、相手が出るまでの時間をひどく長く感じさせる。
……体が、重たくて。
痛みばかりが全身を支配する。
毀れ落ちる血が白い大地を赤く染め。
凍えた吐息はか細く。
もう、涙も枯れ果てた。
「…で、どうしてあんたが時河にお弁当を持って行かなきゃならないわけ?」
「年末は仕事だって特に忙しいのに、何も言わないと食事も取らずに働くんです。…せめてこれくらいさせてもらわなきゃ」
「させてもらわなきゃって何よ!」
「…俺の、自分勝手な押し付けですから」
「裕幸にお弁当作ってもらって、勝手なことするなとかアイツが言おうものなら余裕で百発はぶっ飛ばすわよ!」
大晦日を数日後に控えて、慌しく人が行き来する敷明小路。
さすがに二十一時を回れば出歩いている人々の様相も限られてくるが、その中に在って高校生の二人連れ、大樹裕幸と江藤汨歌は異彩を放つ。
「ホンットにうちの男共ってどうなってるわけ? 特に中流よ、中流! クリスマスの夜だって尋人君を送ったらすぐに戻ってくるとか言って結局帰ってこなかったじゃない! 節度ある付き合いとか言っといて何を考えてンの!? やっぱりうちの男は他と違って紳士なんだわとか、実は感動してた私がバカみたいじゃない!」
「…そんなことないですよ」
「何が」
「何をするでもなく一緒に眠る夜にだって、ちゃんと想いがあります。…中流さんはそういう人ですよ」
「……それはそれで問題のような気もするんだけど…」
「汨歌さん…それじゃあ中流さんにどうしろって言うんですか」
呆れた口調で言い返す裕幸に、汨歌は不満げな顔をするが、すぐにハッとして目を吊り上げた。
「ちょっと! 何をするでもなくって、なんでそんな実感込めて言うわけ!?」
「えっ…」
「あんた、まさか時河とそんなことしてるの!?」
足元に、街の光り。
ここがどこなのかもよく判らない。
…判らないけれど、思い出す。
八階建てビルの最上階、全面が硝子状になっていた展望室。
夕刻の。
帰宅する人々がひしめくアスファルトを見下ろして“彼”が苦笑する。
――…あんなに人の頭だらけだと気味悪いよな……
あれが、最初の言葉。
敷明小路で再会し、助けられたあの日。
尋人、と再び名前を呼ばれたあの場所。
「…先輩……」
出逢いの朝。
自分の存在を知ってもらったあの部屋で“彼”は言ってくれた。
好きだよ、と。
一緒にいたい、と。
微笑っていてくれれば、嬉しいからと。
あの朝から奇跡の時間は始まり。
……そしてきっと、あの部屋で奇跡は終わった。
「…先輩……先輩……っ」
――…俺の傍で、幸せだって、笑っていてくれ……
笑っていて、って。
それだけでいいから。
それだけで“彼”も幸せになれるから。
「…ごめ…な、さい……っ……」
とうに枯れたと思っていた涙が、――大粒の涙が、頬を濡らす。
「ごめんなさい……っ…ごめんなさい、先輩……っ…!」
何度、謝っても。
もう戻らない。
「僕…」
もう、二度と。
「…僕…もう…微笑えません……っ……」
貴方の隣には、帰れない。
「…おまえ、うるさすぎだ…」
夜の街、汨歌の声を聞いて時河竜騎が姿を現したのは敷明小路の外れ。
「裕明、すぐに裕幸に連絡を取って辺りを捜させてくれ。俺達に近い誰かだ、嫌な予感がする……!」
車の中、猛スピードで国道を走り、松浦市に帰ってこようとしていた出流が叫ぶ。
「…っかしいなぁ。この時間なら家にいるって言ってたんだけどな…」
敷明小路、如月出版本社ビル内。
携帯を片手に呟く中流は、壁に背を預けて、一人きり。
静かな。
静かな、人気のないフロア。
「…ぇ……?」
聞こえた悲鳴は、幻聴か。
「ちょっと時河、アンタいい所に現れたわ! 今日こそは洗いざらい裕幸とのこと話してもらって…」
汨歌が竜騎の作業服の襟に掴みかかり、声を荒げたと同時。
彼らの耳を劈く女性の絶叫。
「!?」
「え……」
一人の女性が、隣の恋人らしい男にしがみついて叫ぶ。
空を指差して叫んでいた。
「…ぃ…人……!」
ざわつく敷明小路の一角。
人々の視線が上空を仰ぐ。
「人が…っ……人が飛び降りて……!」
それからほんの一瞬後。
鈍い音が響く。
悲鳴が上がる。
「――――!!」
空中に、微かに認めた面影。
まさかと走り寄った裕幸達が目にした姿。
………真っ赤な。
真っ赤な雪が降る。
白い雪を。
降り積もる雪を。
真っ赤な血が染めていく――……。