二度目の楽園 十六
朝を迎えて、あの日のように東向きの窓から射し込む日光によって目を覚ました尋人は、やはり寝起きの頭で見慣れぬ部屋に違和感を覚え、ハッと気付くと同時に身体を起こした。
「先輩…?」
隣に姿のない彼を呼ぶと、
「あぁ、気付いたか?」
すぐに優しい返事がある。
部屋を見渡し、数台の写真機が置かれている棚に腰掛けるようにしていた彼を見つけた。
「おはよう」
「ぇ…っ、あ、…ぉ、おはようございます……」
語尾にいくにつれて声が小さくなるのに反して顔の熱は上がっていく。
胸元の開いたシャツと着崩れしたジーンズという彼の格好は、いかにもその辺にあったものを羽織っただけという感じで、妙に照れくさかった。
「おいおい」
そんな尋人の内心を察したのか、小さな写真機を持っていた中流が苦笑しながら近付いてくる。
「何もしてないんだからさ、そんな意識するなよ」
「っ、わ…判ってますけど…っ」
その返答すら動揺して声の上ずる彼を見つめて、中流は目を細めた。
「…でもまぁ、おはようのキスくらいはな」
「え…、っ!」
聞き返す間もなく重ねられた唇は、少しだけカサカサしていた。
掠めるだけのような軽い口付けは、しかし尋人を動揺させるには充分で。
「――! 先輩…っ」
潤んだ瞳で上目遣いに睨みつけると、中流は楽しげに微笑う。
「昨夜、一人で先に寝たお返しだ」
「そんな…」
「ん?」
「……っ、先輩…怒ってますか…?」
思い掛けない問いかけに目を丸くした中流だったが、尋人は真面目。
「俺がどうして怒るんだ?」
「だって…」
昨夜、自分から抱いて下さいと言っておきながら中流の優しさに甘えてしまった。
何も出来ないと思っていた尋人を、「傍で笑っていてくれればいい」なんて言葉で救い、彼の腕の中で泣き出した尋人は、極度の緊張のせいもあったのだろう、そのまま泣き疲れて眠ってしまったのだ。
その後、苦笑しつつも静かな寝息を立てる尋人に口付け、彼を抱いたまま中流も眠った。
朝になって暖房を上げに起き上がった中流は、さすがに再度ベッドに戻るのは躊躇われて写真機の手入れなどしながら尋人が目覚めるのを待っていたのだが、隣にいなかったことが尋人を不安にさせ、自分が怒っているように思わせたのかと考える中流に、少年は意外なことを言う。
「…何だか…今の先輩…少し、意地悪な気がして…」
言いながらもどんどん赤くなっていく尋人の顔色。
それをじっと見ていた中流は、尋人の言葉を反芻して気付く。
「あぁ、…嬉しくてテンション上がってるせいかもな」
「…?」
怪訝な顔をする尋人に失笑し。
「起きたら隣におまえがいるんだ。なんか嬉しいだろ、一番最初に好きな奴の顔が見れるってさ」
「――」
カァァァッ…と、今までも真っ赤だった顔が首の下まで朱に染まり、呼吸すら止まりそうな熱。
「せっ…せ、…っ」
「尋人?」
「ぁの……、っ…」
「…もう一度言って欲しい?」
「! 言わないで下さい!」
即座に声を張り上げる尋人が、あまりに可愛らしくて。
中流は声を立てて笑い、微かに寝癖のついた髪を撫でる。
「俺の本心なのになぁ」
「…や、やっぱり、今日の先輩…、…意地悪です…っ」
「んー。なんか好きな子をイジめるガキの気持ちが解る気はする」
「っ…」
くすくすと笑い、髪に添えていた手を頬に寄せる。
指先でくすぐるように。
唇を開かせて。
「……ん…っ」
ほんの少しだけ深いキス。
「……。もう少し布団の中に入ってろよ。暖房入れてきたけど、暖まるまではもうしばらく掛かるから」
「…先輩…」
「ん?」
「…先輩は、寒くないんですか…?」
気遣う言葉に、中流はニッと不敵な笑み。
「もっと意地悪なことしていいなら隣に入らせてもらうけどな?」
「〜〜〜〜っ」
了承も、拒絶も出来ないと解っていてそんなことを言ってくる中流を潤んだ瞳で睨んで、尋人は布団の中に潜り込んだ。
それを微笑で見守り、中流はベッドの隣に配置している机に腰掛け、持っていた写真機の手入れを再開した。
本体の汚れを取り、ネジやシャッターの緩みを確認し、レンズを拭く。
中流が手にしているのは、彼の両手に程よく納まった一眼レフ、Nikon FM10。
初めてのバイト代で購入した、一番最初の写真機なのだと、布団の中の尋人に語りかける。
壁に貼ってある何十枚もの写真。
そのほとんどがこれで撮ったものだった。
「……僕が、初めて先輩のことを見た日も、そのカメラを持ってました…」
「え?」
思い掛けない言葉に聞き返すと、布団の中から顔だけ出した尋人が気恥ずかしそうに微笑う。
「僕が一年で、先輩が三年生の、…中等部の陸上競技大会の時です」
「…それって、もしかして尚也がリレーのアンカーだったやつか?」
毎年五月に行われる中等部の陸上競技大会は、各学年全生徒が三種目以上-五種目以内の競技に参加し、一年から三年までの同数字学級が連合を組み勝敗を決するという、いわゆる運動会や体育祭のようなものなのだが、種目に陸上競技以外がないため、そのような名称がついている。
二年前、中流達が中等部の最上級生だった年、中流は五種目に参加していたが、自分の出番以外はほとんど撮影部隊としていろんな競技を見て回っていた。
あの頃には既に写真家を志し、バイトに明け暮れて当時の恋人とも別れる寸前。だがこの写真機が手に入ったことで充実した毎日を送っていた。
親友の本居尚也が大会最大の目玉、全学年合同四百メートル・リレーの最終走者を務めることになり、
「俺の雄姿をしっかりと撮ってくれよ!」と頼まれた。
大会最大の目玉であり最終競技ということもあって、ほとんどの生徒がリレー・グランドに集まっていた。
「あんな大勢の中から俺を見つけたのか?」
「先輩、トラックの…校舎側でずっとカメラを構えていましたよね……? …他の撮影部が総立ちで本居先輩の三人抜きに騒いでいたのに、先輩だけ真剣な顔で…ずっと撮り続けていたんです…それがすごく…、その……」
格好良くて…と消え入りそうな声で続けて尋人の頭が布団の中に沈んでいく。
中流は失笑し、布団の上から少年の頭をポンと叩いた。
「てことはさ、もしかして一目惚れだったんだ?」
聞く中流に、答える声はなくて。
「……さっきさぁ。おまえの寝顔を撮ろうかなと思って…」
「! 撮ったんですか!?」
飛び起きた尋人の目の前で、シャッター音を一つ。
微かな光りの刺激に尋人は思わず言葉を途切らせる。
「…なんてな」
「――先輩!」
やっぱり今日の先輩は意地悪だと、また布団の中に隠れようとする尋人だったが、布団を中流に握られて引き寄せられない。
そればかりか。
「顔を隠すなって。せっかく一緒にいるのに顔が見れないなんて寂しいだろ」
「……っ」
「それにさ、俺、一枚もおまえの写真持ってないんだぞ? 俺に撮られたくないなら、おまえが「これなら」と思うのをくれよ」
俺のならそこに貼ってあるのを好きに持っていっていいからさ、なんて言いながら、自分の部屋に自分が写っている写真が多く貼っているはずもなく。
中流単独に至っては一枚もなかった。
だが尋人はそれを見るよりも、わずかに表情を曇らせて俯く。
「写真…なんて…しばらく撮ってません…」
「? 今年の五月に修学旅行があったろ。その時のは?」
「……」
「尋人…?」
「…修学旅行には…行ってません…」
「――」
「……どうしても、行けなくて…」
クラスには気軽に話せる相手がなく、隣にはいつだって自分を狙う目があった。
一応、見学グループには名前が記載され、旅館の部屋割りにも名前はあったけれど、一緒の同級生がどう思っているのかは、口で言われなくとも目が語っていた。
結局、尋人は出発のその日に風邪を引いたと理由をつけて学校に残り、欠席者用の課題を提出したのだ。
「…だから、写真もないんです」
静かに語る尋人は気落ちした様子だったが、聞かされた中流は口元を押さえ、そっと呟く。
「…あのさ…、今ここで、俺が「良かった」とか言ったら…怒るか…?」
「え…?」
「だって、そしたら誰もおまえの寝顔だとか、…風呂、とか一緒してないってことだろ?」
「えっ…」
「俺が最初ってことだろ?」
「ぁ…えっと……っ」
相手の言う事に動揺しながら、しかしそうして中流が浮かべている表情を見返すと、次第に自分の動揺や羞恥など、どうでもいいことのように思えてきた。
「…っ、…なんか…今日の先輩は嫌いです……っ」
「ん? 俺はすっごい好きなんだけど」
「だって…!」
「うん?」
にやにやと。
締まりのない中流の表情に、尋人は泣きそうになる。
……泣きたくなるくらい、幸せだった。
「旅行はさ、俺と一緒に行こう」
そう告げる中流の声音は、楽しそうで。
「修学旅行気分を味わいたかったら兄貴や裕幸や…そうだな。尚也とか誘ってもいいけどさ。まずは俺と二人でどっか出掛けよう」
そう遠くないうちに。
この冬休み中じゃ性急過ぎるけれど、次の夏休みでも、次の冬休みでも。
一緒にいられる間中、何回でも、二人きりで。
どこまで、なんて決め付けずに。
計画だっていらないから。
「そのうち、俺の写真が認められたら世界旅行だな。パスポート用意しておけよ」
「…でもパスポートの有効期限て五年と十年ですよね…、間に合いますか……?」
「お? 言うじゃないか」
「だって使わなかったら勿体ないです」
くすくすと笑う尋人にフラッシュの光りが被る。
「…おまえがさ、俺の傍でそうやって笑ってくれていたら、何でも叶う気がする」
「え…?」
「尋人の微笑った顔を見てるとさ、すごい幸せな気分になるんだ。俺には不可能なんかないって、…そんな気になる」
「先輩…」
「おまえのためなら何だって、…ってやつかな」
くすくすと笑いながら冗談のように言うけれど。
それが中流の本心。
「好きだよ」
赤くなる。
恋人の顔。
「尋人、好きだよ」
「せ、先輩…」
動揺しつつも伝わってくる。
レンズの向こうの、尋人の気持ち。
父親の仕事を見て、感動した自分が志した道。
いつの日か、人間の、目に見えない心を撮れる写真家になりたいと。
想いを感じ取りたいと。
「尋人」
優しく呼びかければ。
和らぐ少年の口元。
「…僕も、先輩が大好きです……」
そうして写る。
記憶する。
愛しい少年の、最後の微笑み。