二度目の楽園 十二
「だからキスだけで我慢してるって?」
驚いたように中流の現状を聞き返すのは、二月ぶりに休みをもらって地元に帰ってきていた兄・出流。
「せっかくの休みならカノジョと旅行にでも行けよっ」と、散々からかわれて気分を害した中流が冷たく言い放つも、
「カノジョと付き合うのも仕事の一環さ」とあっさり返されてしまった。
せっかくの休みなら仕事抜きで“この場所”に帰ってきたかったのだと出流は言う。
その兄の気持ちは、腑に落ちないコトが山ほどある中流にも解る気はする。
“この場所”は、家族が集まる大切な場所だから。
「中流…、健全な男子高校生がそれでいいと思うのかい? 尋人君がおまえを好いているのが明らかなら、多少強引になってもコトに及ぶのが男の礼儀だろうに」
「それは貴方個人の考え方でしょう、出流さん」
普段の彼からはとても想像出来ないキツイ視線を向けて言うのは、出流とよく似た顔立ちの年下の従弟、大樹裕幸。
「貴方の基準で中流さんの恋愛まで図らないで下さい」
相変わらず出流にだけは険のある態度を崩さない裕幸に、言われている本人は面白そうに目元を緩ませた。
だがそうした出流より先に口を開いたのは、裕幸の隣に座っていた少女。
肩上までの髪を外巻にして揃えた少女は、中流と同じ年齢で、近所にある聖エイーナ女子高等学校の生徒会役員を務める江藤汨歌。
彼女もまた、北欧の祖母を持つ、中流の母方の従姉だった。
「それにしても驚いた。あんたってホモだったんだぁ」
呆れているのか感心しているのか、すぐには判断のつかない微妙な口調で言った少女は、中流をまじまじと見て軽く息を吐く。
「出流の女遊びが激し過ぎて女性不審にでもなったの? 兄貴が無類の女好きだと弟は男好きになっちゃうってことかしら」
「妙な言い方すンな!」
「俺は女性で遊んだことなど一度もないよ」
「へ〜。じゃあ本命がいっぱいなんだぁ」
思いっきり皮肉った汨歌だが、言われている本人は蚊に刺された程度のダメージすら受けやしない。
だから汨歌も、出流を話し相手にする気など毛頭なかった。
「そんなことより中流。妙な言い方って言うけど、だって付き合っている相手って男の子なんでしょ? しかも中学生…、それって犯罪じゃないの?」
中流を見て、裕幸を見上げる。
聞かれた裕幸は困った顔を見せた後で小さく首を振った。
「問題ないんじゃないですか? 中流さんは節度ある付き合い方をしているんですし」
「なぁ?」
裕幸が庇ってくれたのが嬉しかったのか、中流は勝ったと言いたげな表情で、裕幸の隣に腰を下ろす。
裕幸を真ん中に、左に中流、右に汨歌。
たくさんの兄弟達の中でも、年齢が近いということもあって特に親しい三人が並んで座っている光景に、出流は無意識に笑みをこぼす。
そしてちょうどそのとき、居間に戻ってきた大樹家の長男・裕明も、三人の姿を見るなり楽しげな笑みを浮かべた。
松浦市の南東、敷明小路を過ぎた向こうにある森林公園の手前、小高い丘の上に、広大な面積を擁して建っている“大樹総合病院”。
今年で創立四十年を迎えるこの施設には、四方を緑に囲まれた自然豊かな環境の中、内科・外科・小児科・産婦人科などのあらゆる医療設備と、有能かつ豊富なスタッフが揃っており、「医療は仕事ではない」という創立者のスローガンは現在でも病院の方針としてスタッフルームに掲げられているという。
この創立者の名を大樹嘉武――若き日に医学留学した先で知り合った北欧出身の女性と結婚し四人の子供を授かった人物であり、その子供達から生まれた中流にとっては祖父となる人物。
祖父母の間に生まれた子は、息子が一人、娘が三人。
長男であった大樹和弘は医者となって現在は院長の椅子を引継ぎ、実質的な病院の経営者となった。
その彼の子が、大樹裕明・裕幸兄弟。
長女は二十二の時に江藤氏と結婚、三人の娘と息子が一人生まれ、上から順に汨羽・貴宏・歌織・汨歌となる。
次女は二十五の時に六条氏と結婚、出流・中流という二人の息子を授かり、三女で末子の娘は二十二の時に梁瀬氏と結婚、現在は勇紀・真澄・香澄という三人の子に恵まれている。
祖母は早くに亡くなったが、今も存命の嘉武氏は大樹家で一緒に暮らし、江藤家・六条家・梁瀬家は、まるで示し合わせたかのように大樹家から車で十五分以内の近距離に家が在る。
親族の誰に何があってもすぐに駆けつけていけるように。
何かがあればすぐに手伝いにいけるように。
それを図ったわけではなかったのに、気付けばそうなっており、それが当たり前だったのだと思えるほど、大樹家の四人兄妹の仲は良く、その子供達――従兄弟関係になる十一人は本当の兄弟のように育ってきた。
何かあれば、誰ともなしに大樹家に集まった。
連休が続いて暇になれば。
宿題に困って教えて欲しくなったら。
一人でいたくなくなった時にでも。
ちょっとバスに乗って――JRを利用して。
歩きたければ歩いてでも、ここに来さえすれば誰かがいた。
祖父がいて、叔父や叔母がいて、従兄弟がいた。
全員が大切な家族だった。
それは、中学を卒業しても、高校を卒業して社会人になっても、成人しても変わらない。
決して頻繁にではなくとも彼らはこの家に集まるのだ。
それが、彼らにとっては何より自然なことだったから。
「ちょっと中流! あんまり裕幸に近付かないでよね、ヘンタイが伝染るから!」
「妙な言い方するなって言ってンだろ! 俺はヘンタイなわけじゃないぞ」
「男が好きなんでしょ!?」
「誰がっ、俺がその気になるのは尋人だけだ」
「それでも男が好きなことに変わりないじゃないっ」
「確かに尋人は男だけど、男でも別なんだ! 他の奴なら断然女の子の方がいいに決まってる」
「へ〜、そ〜〜? やっぱり兄弟よねぇ、出流が節操なしなら中流も節操なし、しかも男女どっちでもOKなんて出流の上をいくんじゃないの?」
「テメェ…っ」
「なによっ」
仲がいいのか悪いのか――他の兄弟達にしてみればケンカするほど何とやら〜なのだが、間に挟まれている裕幸の身になってみれば、そんな悠長なことを言っていられる場合でないことに気付くはずだ。
口を挟むことも出来ずに項垂れていると、いきなり汨歌に腕をつかまれる。
「ぇ…」
「ほら裕幸も何か言ってやりなさいよ! このヘンタイに!」
「まだ言うかっ」
「何度でも言ってやるわ、へんたい、ヘンタイ、変態!」
ここまで言われておとなしく引き下がっては男の沽券に関わる。
普段は裕幸のマイナスになることなど間違っても口にしない中流だけれど、さすがに今回はキれていた。
「ハッ、何がヘンタイだ、俺がそうなら裕幸だって同じだぞ!」
「えっ」
これに反応したのは本人に加えて二人の兄貴達。
「同じって何がよ!」と、こちらも興奮している汨歌が勢いよく応戦する。
「裕幸があんたと同じわけないでしょ!? どこをどう見たら同じだなんて言えるわけ!? 綺麗なこの子と汚いアンタと!」
「裕幸が綺麗だってアイツはケダモノだ!」
「あいつ!?」
「あの、二人とも…」
「時河竜騎っ!」
そうして挙げられた名前に裕幸は頭を抱え、裕明と出流は数歩離れたところで吹き出し、汨歌はワナワナと震え始める。
「あいつ絶対に裕幸狙ってるぜ!」
「あ、中流さ…」
「〜〜〜っ、何言ってんのよ…っ、アレがそうだって裕幸があんなケダモノのこと好きなわけないでしょ!? あれは時河竜騎の片思いよ!! そうよね裕幸!」
「ちょっ…」
「そうだと言いなさい裕幸っ、あんたまさかあのケダモノにあんなことやこんなこと許したりしてないでしょう!?」
「ぇ、ぁっ…」
「裕幸!?」
「あの…っ」
声を荒げる汨歌の前で、じょじょに赤く染まりゆく裕幸の頬。
これには汨歌と中流が揃って顔色を変え、さすがの兄達も目を丸くした。
「っ…ちょっと裕幸!? まさかでしょ!?」
「おまえ…、まさか本当に時河竜騎とそういう仲なのか!?」
「そうなの!?」
「っ……」
二人の従兄姉に詰め寄られて、あたふたしている裕幸の顔は面白いほど赤く染まっていく。
片手の甲で口元を覆い、恥ずかしさから潤んだ瞳を縁取る長い睫毛が微かに震える。――その姿のなんと初々しく愛らしいことか。
「ぁ、あの、何か飲み物持ってきます…っ」
最後の逃げ道とばかりに慌しく立ち上がり、階下へと下りていく裕幸の背を、汨歌と中流は呆然と。
裕明と出流は必死に笑いを噛み殺しながら見送った。
「…なに、今の」
「…可愛過ぎだよな…」
「っ、あんた裕幸にまで欲情する気!?」
「誰がっ! 正直な感想言ったまでだろ!?」
「えぇそうねっ、あの子は誰が見たってこの世で一番可愛いわよっ、そんなの私が保証してやるわ! だからってなんでその相手が時河竜騎なのよ、なんだってよりによってあの不良!?」
「俺が知るかっ!」
「汨歌、言っていることが支離滅裂だよ」
クックックッと喉を鳴らして笑いながら、ようやく口を挟んだ裕明に続いて、出流も楽しげな表情で口を開く。
「まったく…、あんまり裕幸を虐めるんじゃないよ。おまえ達と違ってあの子は純粋なんだから」
「なに落ち着いてるわけ!? その純粋で可愛い裕幸があの不良に手ぇ出されているかもしれないって言うのに!!」
「それならそれで結構なことじゃないか。裕幸と時河君なら絵になるだろう」
「そういう問題!?」
「そういう問題だよ」
「出流っ」
「兄貴!?」
「俺達が口を出さなくたって、裕幸はちゃんと解っているよ。ある意味、この中で一番大人なのはあの子だからね」
「そういうこと」
出流と裕明、二人の兄達に交互に諭されて、汨歌と中流は顔を見合わせ、口を噤んだ。
「それに、おまえ達が思う以上に、いい子だよ、時河君は」
「…」
不服そうに出流を睨みつける汨歌の隣で、中流は眉を寄せ、軽く息を吐く。
「けど、アイツって掴み所がないっつーか…なんか危険な匂いがしないか?」
「そうかな」
中流の問いかけに、出流と裕明が顔を見合わせ、何故か楽しげに笑う。
「おまえたちは地道に人を見る目を養うんだね」
「まったく」
双子でもないのに同じ顔をした年長の二人に、中流と汨歌がそれぞれに不服そうな顔をすると、兄達はやはり楽しげに笑うのだ。
「なんなのよ、アキ兄も出流も! すっごく感じ悪いんだけどっ」
「心外だな、可愛い弟妹と一緒に過ごせるのを心から楽しんでいるだけなのに」
「可愛い弟妹! そういう気色悪い言い方しないでよ、そんなだからお姉ちゃんを怒らせるの判ってる!? 本当に嫌われるわよ!」
「歌織に嫌われるって? 汨歌、その心配は無駄だな」
「無駄! 好かれてるって自信でもあるわけ!」
「その逆だよ。嫌われていると知っているから心配いらないということさ」
「〜〜〜〜〜っ! アンタってほんっと、やっぱりどっかおかしいわ!」
そんな汨歌と出流の言い合いを端で聞きながら、そう言えば兄貴はしょっちゅう歌織ちゃんを怒らせているよなぁ…と、汨歌の三つ上の姉・歌織の姿を思い浮かべる。
外見はよく似た姉妹だが、長い髪と、汨歌よりも小柄な体格で、気は強いのだが優しい性格がそれを上回るせいか、まったく知らない人間が、この元気印の汨歌と歌織姉妹を並べて見れば、歌織は随分と物静かな少女に思われるだろう。
「…」
だが、今はそんなことを考えているよりも…と階段の方に目を向けていると、裕明に呼ばれた。
「気になるなら迎えに行っておいで」と、兄や裕幸と同じ顔に言われると、中流は弱い。
「悪いと思っているんだろ?」
「うん…」
いくら汨歌に言い返すためとはいえ、裕幸を巻き込んでしまったのはよくない。
意を決し、汨歌が今だ出流と言い合っているのを一瞥すると、裕明に見送られて階下に向かうのだった。