二度目の楽園 十一
「倉橋!」と、愛しい少年の姓を見知らぬ誰かの声が呼ぶ。
一瞬、いじめグループの連中かと警戒した中流だったが、声のした方に向かい、尋人と、彼の正面に立つ二人の少年の顔を確認して一先ず胸を撫で下ろす。
尋人と話しているのは普通の格好をした、いたって普通の男子生徒だった。
「倉橋、これなんだけどさ…」
言いながら、一人の少年が尋人に一枚の紙を差し出した。
「どうする? 出席するなら名前書いて欲しいんだけど」
「進路説明会…、うん、出ようかな……」
「じゃあここに名前」
「ペン、ある?」
もう片方の少年が聞き、尋人が持っていないと答えると、すぐにボールペンを手渡す。
「ありがとう」
そう告げて、尋人は笑んだ。
彼に話しかけていた二人の少年が少なからず驚いたのを、中流はその目に捕らえた。
「……倉橋、高等部に進学するのか? それとも外部?」
「希望は高等部だよ。今から受験勉強するのは大変だし」
冗談めかすように言う尋人は変わらない笑みを浮かべていて、話しかけている少年達は不思議そうに何度も首を傾げている。
「…なんかあったのか?」
「え?」
「いや…」
二人の少年の問いかけの意味が解らずに小首を傾げた尋人だったが、相手が再度は言いずらそうにしているのを察し、名前を書き終えてからペンを持ち主に返した。
「ペン、ありがとう」
「…あ、ああ」
ペンを受け取って、それでもまだ不思議そうな顔をしている二人は簡単な言葉を最後に尋人と別れた。
二人は中流のいる方へ、尋人は奥へと進んでいく。
あの先は図書室だろうと判断した中流が後を追おうと足を動かしかけた時、今まで尋人と話していた少年達の声が耳に入ってくる。
「あのウワサ、本当だったんだ。倉橋が明るくなったって」
「うん…、全然暗くないじゃん。なんか…むしろすごい感じ良かったぜ?」
「普通に話せるよなぁ…、なんか悪いことしてきたな、俺ら……」
いじめグループ、滝岡や益田に目をつけられているという理由でクラスでも疎外されていた尋人。
あの二人は尋人の同級生なのだろうが、今までまともに言葉を交わしたことなどなかったのだろう。
尋人と親しくすれば自分も滝岡に目をつけられる。
そんな不安があったから尋人は独りでいるしかなかったのだ。
そんな環境の中で辛い思いばかりしてきた尋人は『ずっと好きだった』中流にさえ最初は陰を背負った表情しか見せなかった。
それが今はどうだろう。
同級生に笑顔を見せられる。
ありがとうと、自然に笑んで応えられる。
「尋人…」
そんな少年の変化を、成長を、中流は心から誇らしく思った。
「尋人」
図書室の扉の前。
呼びかけ、振り返った少年を、中流は引き寄せる。
「え…先輩……?」
瞬時に頬を染めて自分を見上げる尋人。
中流は今ここで少年の細い体を力いっぱいに抱き締めたいのを、理性を総動員して抑えた。
「よ」
笑んで声を掛けると、途端に尋人の表情も綻んだ。
こんな幸せな瞬間が愛しい。
◇◆◇
「…あ、あの…」
「ん?」
「……退屈、じゃ…ないですか?」
「なんで」
「だって…」
「おまえの顔を見てるの楽しいよ」
「……っ」
あっさりと言うと、途端に真っ赤になる尋人の頬。
そういう変化が楽しいのだと、さすがに声には出さなかったけれど、中流はくすくすと笑いながら手を伸ばす。
「ぁっ…」
目に掛かる髪に触れ、指先で撫で。
そうすると尋人はわずかに身体を引く。
「先輩…っ」
「平気だよ、誰も見てない」
「でも…」
図書室の窓側の席。
図書委員が座るカウンターから微妙に隠れた場所に並んで座る彼らの周りに人影はなく、全体を見渡しても生徒の姿は数える程度。
中流は自分が中等部の生徒だった頃のことを思い出すと、昼休みと言えば教室で仲間達と談笑したり、体育館でバスケット、校庭でサッカー、学校を抜け出して近所のコンビニに立ち読みに…などばかりで、図書室など実は一度も入ったことがなかった。
今でも大部分の生徒がそうだから、ここはこんなにも閑散としているのだろう。
だが尋人は、ここが昼休みの休息の場だという。
どこにも居られないから図書室で本を読むのだと。
今も彼の手元には読みかけの文庫が置かれている。
尋人が今日は先輩がいるならと遠慮したものを、邪魔しているのは自分だからと中流が持たせたのだ。
それで、中流が暇をしているのではないかと尋人は気にしているのだが、実際、中流は退屈などしていない。
尋人が隣にいる、それだけで中流は満足なのだから。
「――…先輩…どうかしたんですか……?」
「ん?」
「だって…、なんかすごく…嬉しそうな顔しているから……」
「そりゃ、尋人と一緒にいられるだけで嬉しいし」
「そうじゃなくて……っ」
言いながら、どんどん赤くなっていく少年の顔を見下ろして、中流は軽く笑った。
隣り合う指先で少年の髪を弄び、微笑を含んで言葉を紡ぐ。
「尋人に惚れ直したのさ」
「え…?」
「尋人を好きになって良かったなって、改めてそう思ったんだ」
「…っ」
真っ赤になって上目遣いに睨んでくる尋人の気持ちは「恥ずかしいこと言わないで下さい!」だろう。
そうと解っていても、…否、解っているからこそ中流は言うのを止められない。
「好きだよ」
「せ…っ」
「尋人が大好きだ」
「先輩…!」
恥ずかしさに真っ赤になり、目が潤んでくる少年の稚さ。
好きな相手にこんな顔を見せられて、その気にならない男がいるはずない。
中流だって健全な十七歳の青少年で、想いの通じ合っている相手がすぐ傍らにいて、ほとんど二人きりのシチュエーション。
キスくらいしても大丈夫かな、とか。
それ以上のことを望むのも普通かもしれない。――だが中流は、その衝動に理性という名のブレーキをかける。
今以上のことをこの少年に課してはならない、自身にそう言い聞かせて、少年の手を取り、そこに軽いキスを落として離した。
「? 先輩…」
「そろそろチャイム鳴るし、戻るよ。いつまでもここにいたら尋人にも五限サボらせてしまいそうだしな」
苦笑いの表情で中流が言うと、尋人はあからさまに動揺し、続いて気落ちしたように俯くと、哀しげな声で謝罪の言葉を口にする。
「…ご…ごめんなさい先輩、僕…」
「? おまえが謝ることじゃないだろ」
「でも…。でも僕が、怖がるから…」
「―」
尋人の言わんとしていることを察し、中流は苦笑する。
「またそれを気にしてるのか?」
「だって…」
「俺は、おまえに無理させる気はないんだって、前々から言ってるだろ」
「…」
「耐えさせるなんてことしたくないんだ、絶対に」
「先輩…」
それでもまだ申し訳なさそうな目で見上げてくる少年に、中流は明るく笑ってみせる。
「そんな顔するなって。俺だって本当に我慢出来なくなれば無理矢理でも押し倒すぜ?」
「え…」
「だから、こうやってストップ出来る間はまだ余裕ってこと。解ったな?」
確認するように聞く中流を、尋人はまだ沈痛な面持ちで見上げていた。
「でも…」と悲しげな声を出す。
「でも…先輩は僕のことを考えて、すごく幸せにしてくれているのに…僕は……」
僕は…。
そうして俯き、唇を噛む。
そんな尋人に中流は軽く息を吐き、その頭を乱暴に撫で回した。
「ばーか。おまえが笑っていれば、俺だって充分に幸せなんだって」
尋人が辛い目に遭う事無く、笑っていてくれれば。
自分と一緒にいることで安らいでくれるなら、それが中流にとって何よりの至福だ。
今はまだ、触れ合うことよりも。
熱を注ぐことよりも。
今まで我慢ばかりしてきた少年が笑顔を絶やさずにいてくれること、それが中流の、ただ一つの願い事。
尋人の想いを知り、中流がその想いに応えたことで、親しい先輩後輩の間柄から恋人同士へと変化した日からおよそ二ヶ月。
彼らは二人きりの時間を愛しみながらも、キス以上の行為には一度も及んでいなかった。
……否、たった一度だけ、そういう雰囲気になったことはあったのだ。
だがその時の尋人の様子があまりに痛々しくて、中流はそれ以上に進むことが出来なかった。
尋人が滝岡達から長い間繰り返されてきた暴力が、身体的にだけではなく、精神的な面にも深い傷を作っていたことが、思い掛けない形で晒されてしまった。
尋人が行為に耐えようとする姿は、痛々しいを通り越し、あまりに残酷なものだったのだ……。