二度目の楽園 十
「…おまえって実は悪党だろう」
並んで中等部に移動することになった野口に廊下で言われて、中流は軽く笑った。
「嘘が付けないだけだって」
「そうかぁ?」
信じられなさそうに答える野口。
だが中流のそれは本心だ。
嘘が付けないことを自覚しているから尋人のことを隠そうとは思わなかった。
尚也を含めた同級生のほとんどが尋人のことを知っているから特別「可愛い後輩」とのことを疑って聞かれることもない。すべてを隠すのは大変だが、親しく付き合っていることを周りが納得していれば、よっぽどの現場を見られない限り第三者の好奇心を刺激することはない。それを、中流は実兄・出流の節操のない生活から学んでいた。
「あぁ、ところでなんだって中等部に行くことになったんだ?」
高等部校舎から中等部校舎への渡り廊下で中流は尋ねた。
すると野口はニッと口の端を持ち上げ、愉快そうに目を細め、中流の肩に腕を回す。
「野口?」
「へへ〜、聞きたいか?」
「…」
これは聞きたくないといっても話し出す雰囲気だなと察した中流は軽く肩を竦めて先を促す。
「なんだよ、そんなイイ話なのか?」
「ふふ〜ん」
「? なんか不気味だな」
肩に置かれた腕を外すようにして一歩遠ざかった中流は、だらしなくにやけている野口を怪訝な顔つきで見ながら、もう一度口を開く。
「何の用事があって中等部に来たんだ?」
「実はさぁ…クックッ…」
「…?」
どうにも不気味な友人から、もう一歩分の距離を取って相手の言葉を待った。
と、渡り廊下を抜けて中等部の校舎に入ると、距離的にはそんなに遠くないのに、校内の雰囲気が一変した。
生徒一人一人の体格差や環境も理由の一つだっただろうが、どことなく冷めた空気が漂っている高等部と違い、中等部は熱い活気に溢れていた。
廊下を駆け抜ける数人の男子生徒は周囲を憚らずに元気な声を上げ、廊下の一部を団体で占領して座り込みながら談笑する少女達は、たった二、三年しか違わない中流や野口から見ても幼い。
同じ榊学園の校内でありながら、中等部の校舎に、既に中流達の居場所はなかった。
「これも歳取ったってことなのかな」
以前、そんなことを言って苦笑いしたのは尚也だったか、他の同級生だったか。
尋人と付き合うようになってから週に一度はこちらに来ている中流だが、同級生と並んで来ると、いつもとは違う、違和感のようなものが生まれた。
「クククッ…いやぁ実はさ」
中流の心境を知らず、野口はようやくまともな日本語を喋りだす。
自分の世界に入り込みそうになっていた中流は間一髪で我に返り、友人の顔を振り返った。
「さっきの電話なぁ、これクラスの連中には内緒なんだけどさ、付き合ってる相手からの電話で」
「付き合って…って、おまえ彼女いたの?」
初耳の話に少なからず驚いて聞き返せば、野口は照れたように頬を掻く。
「クラスの連中には内緒な。知られたら色々うるさいからさ」
「…で、俺に話してもいいのか」
「う〜ん? だってなんか、お仲間な気ぃしたからさ」
「仲間…?」
首を傾げて復唱すると、野口はニヤニヤと笑いながら中流の耳元に近づく。
「尋人クン、可愛い子じゃん? 親しい後輩じゃなくて大事な恋人の間違いだろ」
「――」
予想しなかった台詞に、中流は思わず足を止めて相手を凝視してしまった。
尋人のことを隠すつもりはなくとも、すすんで公表する気もなかったから、こういう形で不意打ちを食らうと、どう返せばいいのか、正直当惑してしまう。
「ん? 図星だろ」
実に楽しげに言われて、中流は友人の言葉を頭の中で整理しつつ、眉を八の字にして問いかける。
「…仲間って言ったか?」
「おぉ。俺の相手は男じゃないけどな。公に出来ないって意味では仲間」
「公…って」
「俺ね、松島と付き合ってんの」
「松島…?」
松島、松島…と知り合いの「松島」を脳裏に思い浮かべながら、その中で中等部に関係ある人間を絞り込んでいくと、たった一人、スラリと背の高い女性だけが残った。
「松島…って、おまえ…」
「へへ〜、ナイスバディだろ」
「だろ、って…松島っつったら数学の松島先生……」
「そうそう」
二度頷いて笑っている野口は、教室で見る彼とは別人のように明るい。
「俺さぁっ、せっかく付き合ってる相手いンのに誰にも話せないですっげーストレスだったの! 解るかこの気持ち!!」
「あ、あぁ…」
同意の返答はするものの、実兄やら年齢の近い従弟やらと、相談できる相手がすぐ傍にいる中流はその手のストレスを抱えたことがないし、恋人とは言えずとも尋人のことはクラスの連中みんなが知っていることで、秘密にしなければならないというプレッシャーを感じたこともない。
だがあえてそうは言わず、中流は思い掛けない告白をした同級生を眺めていた。
「そんなんでさぁ。別におまえのこと共犯にしようなんて考えてないけど、おまえなら話せるかなと思ってさ。尚也の片思い期間だって、突き放したりしないで相手になってたから」
「…」
「まぁそういうこと。おまえと尋人クンのことは見ていて気付いちゃったって感じで、おまえは隠すつもりなさそうだけど、俺はとにかく誰にも言わないしさ」
言い終えて中流から腕を離した野口は、ニカッと笑って歩き出すよう促す。
「俺が松島センセと付き合ってるってコト、誰かに知って欲しかっただけさ」
「そっか…」
野口の笑い方に曇りがないのを見て、中流も笑った。
「…そっか。見ていて解るくらい、俺と尋人って仲良く見えるんだ」
「あっ、おまえそれは惚気か!?」
「そう聴こえるならそうだろ」
「くそ、なら俺も惚気るぞ! さっきの電話な、弁当作ってきたから一緒に食おうって誘いだったんだぜ! 羨ましいだろ彼女の手作り弁当!!」
ムキになって言う野口に、中流は声を立てて笑った。
教室での彼は、中流や尚也が騒ぐのを見ていて時々口を挟んでくる、そんなタイプの少年だった。こんなふうに照れた顔をして自分のことを話したり、ムキになったりする野口を中流は今まで知らなかった。
「恋って偉大だ…」
「あ? なんか言ったか?」
中流の小さな囁きを聞き逃した野口は赤い顔で聞き返すが、中流は左右に首を振る。
「なんでもない。それより弁当食うんだったら急いだ方がよくないか? 昼休み、あと二十分くらいだぞ」
「あっ」
時間を指摘されて顔色を変えた野口は、
「また教室でな」と告げて自分の目的地に向かって駆け出した。
数学教師が恋人となれば、逢引は人気のない四階特別教室のどれかだろうと思う。
そうして中流はといえば、野口に影響されたのか、本気で尋人に会いたくなり、彼の教室がある三階へと足早に上がった。
すれ違う後輩がペコリと頭を下げてくるのに「おう」と応え、中等部三年生の教室が並ぶ廊下に立った。
その時だ。
「倉橋!」と、愛しい少年の姓を見知らぬ誰かの声が呼んだ。