二度目の楽園 序
ふと目を覚ますと、美味しそうな珈琲の香りと遮るもののない日光とが一緒になって周囲を包み、傷ついた身体は柔らかで温かな布団の中に横たえられていた。
「……」
見慣れない光景に少年は戸惑ったが、寝起きの頭は思うように働かず、上半身を起こすだけで精一杯だ。
改めて辺りを見渡すが、やはりこの、十帖ほどの洋室に見覚えは無い。
自分が寝かされていたベッドはモノトーンで統一されたシンプルなもので、足先の壁は半分がクローゼットの木目の扉。すぐ隣には写真関係の雑誌と、英語・仏語などの辞書が乱雑に積まれた机があり、椅子の足元には使い古された鞄が無造作に置かれていた。
南向きの窓の傍には鉄製のパソコンデスクと低めの棚。その棚の上には大小さまざまな数台のカメラが並べられ、そしてこの、ベッド側の壁一面に貼られた無数の写真。
風景画が主なようだったが、中には両親らしい高齢の男女の姿や、思わず感嘆してしまう美貌の人物も複数見られた。
「写真関係の人の部屋……?」
それも結構なお金持ち。
そうとしか考えられない広さと内容の部屋模様に、少年は無意識に呟いていた。
「あ…」
壁に貼られた写真の中の一枚に知っている人物を見つけて、少年は頬を火照らせた。
まさか。
けれど、もしもそうなら…。
戸惑いと期待が半々に胸を占め、少年はその写真に触れようと手を上げる。同時に腕に巻かれている包帯に気付いてハッとした。それをきっかけに自分の全身を確かめて、鈍い痛みを感じるすべての箇所に、傷の状態に見合った手当てが施されていることを知った。
「…まさか…先輩…?」
写真の中の“彼”。
本当に彼が手当てしてくれた本人なら…、少年はそう思うだけで心臓が爆発してしまいそうな錯覚に陥った。
顔が赤いのは自分でも解る。
自分が寝かされていたのが“彼”のベッドだと思うとそれだけで苦しくなり、少年は慌てて、けれど傷ついた身体を庇いながら静かにベッドを降りた。
手当てした上半身に着せられていたシャツは自分のものでなく、サイズが大きくて洗い立てのにおいがする。寝やすいようにと思い遣ってくれたのか、穿いていたジーンズも綿の部屋着に換えられており、昨夜何があったのか考えれば考えるほど顔の火照りは熱くなる。
「わぁっ…、どーしよう……」
シャツの下の腹部にも、右の素足にも清潔で白い包帯が巻かれている。
こんな怪我だらけの自分を、“彼”は…、この部屋の主はどんなふうに思っただろう。
少年は、ようやく覚醒した頭の中で昨夜の記憶を呼び出した。
どうしてすぐに思い出せなかったのか。
そう自問して、答えは難なく出された。
ここが、自分がいるべき場所とはかけ離れた穏やかな空間だからだ。
枕元に光を射した東向きの窓から外に広がるのは真っ青な秋晴れの空、それのみ。
南向きの、これから日光を取り入れる窓の向こうは色を変え始めた木々の葉と、やはり青一色の果てしない空。
地上と切り離されたように見える光景が、少年に無自覚の夢想感を与えていたのだ。
「…ここ、三階なんだ」
南側の窓から外を見下ろしてそれを知る。周囲は二階建て、もしくは平屋の一軒家ばかりが立ち並ぶ住宅街で、一番近くの高層マンションなどは人差し指の太さ程度しかない。
「…、本当に先輩の部屋なのかな…」
何度も心の中で呟いていた問を、今度は口にして、少年は部屋を出た。扉を開けたとたんに珈琲の香りが強くなり、階下の様々な音が耳に届く。
電気音や、足音、複数の声。
途中でカーブの掛かった木目の階段をゆっくり、一段ずつ下りた少年は二階で立ち止まった。
これより下にはひっそりとした暗い雰囲気があり、空気も冷たく感じられ、生活の音はこの階からしか聞こえない。
「…」
足音を忍ばせて音のする方へ歩を進める。
テレビの、よくあるトーク番組が聞こえ、珈琲の香りはいっそう強くなって鼻先を掠める。
締め切られていなかった扉に手を掛け、緊張した面持ちで中に入った少年は、そこでピタリと足を止めた。
広いリビング。
大きなベランダ。
天井はひどく高く、リビングの端にある円状の階段は吹き抜けになった三階へとつながっていた。
リビングと、ダイニングと、そしてキッチンや和室まで遮るものは何も無く、テレビの特別番組などで紹介される有名人の豪邸に迷い込んでしまったようだ。
「こ…ここ……」
思わず声を漏らしてしまってから、少年は恐る恐る足を動かしてリビングの中央まで進んだ。一瞬、ここが“彼”の家だったらどうしようと困惑していた気持ちも忘れて立ち尽くす。
その時だ。
少年の今の気持ちを正しく察した“彼”が小さく笑いながら少年の背後に現れた。
淹れたての珈琲を片手に持ち、薄青のワイシャツに濃紺のジーンズ、頭髪も服装もラフな格好の彼は、相手を落ち着かせる静かな声で話し掛けた。
「気が付いたみたいだな」
「!」
彼の方は驚かせまいと気を遣い、極力控えめに声を掛けたつもりだったが、少年の方はこの家の広さを実感してしまった後ということもあり、必要以上に体を強張らせて振り返った。
「あ…っ…」
少年は、そう声を上げたきり、目を見開いて言葉を無くす。
予感的中。
ここは彼の――六条中流の家だったのだ。
「大丈夫か?」
少年の動揺を理解しての優しい声音。
少年の怪我を手当てして自室のベッドに寝かせたのは彼こと六条中流本人だから、その怪我の理由も何となく察しが付いている。
だからこそ、せめてここにいる間だけは少年に安らいでほしいと思った。
「起きたら他人の家で驚いただろうけど、心配しなくていいからな。俺は六条中流。家の中には母親もいるし、おまえに危害を加えたりはしないよ」
中流の言い方から、自分が彼を警戒していると思われている事に気付いた少年は慌てて首を振った。
「ちが…っ、あの…、えっと…その、どうして僕……ここに…」
「え?」
「昨夜何があったのかは解っているんですけど、どうしてその…、六条…、さんの家に僕がいるのか…」
「どうして…って」
少年のうろたえように首を傾げつつ、中流は手近にあったテーブルにカップを置いて言う。
「おまえが家の近くで倒れていて、このままじゃ死ぬと思った俺が部屋に運んだからだよ」
「近くで…?」
「声掛けても起きなくて、顔見知りなら家まで送ってやれたけど、家どころか名前も分からないんじゃどうしようもないだろ? おまけにほとんど全身から血ぃ出てるし」
体のことを言われて青くなる少年の顔色を窺いながら、中流は続ける。
「事故にでも遭ったのか? 理由なんか知らないが寝かせてシーツに血が付くのは避けたかったから勝手に手当てしたぞ」
「あ…。ありがとうございました……それに、ご迷惑をお掛けして本当にすみませんでした」
今にも消え入りそうな小さな声。
それでも感謝と謝罪を忘れない少年の態度に、中流はそっと微笑した。
「腹は?」
「え?」
「腹は空いていないかって。飯食う元気があるならすぐに用意するけど?」
「で、でも…」
「迷惑だと思っているなら今更だ」
非難するのとは違う陽気な物言い。
彼の人柄がにじみ出たような接し方に思わず笑みが毀れて、少年はお願いしますと頭を下げた。
「好きなところに座って待ってろ」
言い置いてキッチンに戻る中流の背を、少年はじっと見つめた。
一七五前後の、高二男子の平均的背格好。少し長めの黒髪は日に当たると明るい茶に色を変え、目の色も角度によっては薄くなる。日本人のそれに比べると彫りの深い顔立ちはバランスよく整っているが、活発という印象が強くて非常に親しみやすい人物だ。
着せられた大き目のシャツが彼のものだと思い出して再び頬を赤らめ、彼に介抱されたのだという事実に鼓動が高鳴る。
――彼は自分を知らない。
話したことどころか、顔を合わせたこともない。
同じ榊学園の先輩後輩であっても校舎が違えば偶然に頼ることも出来なかったから。
それでも、ずっと話してみたかった。
今、こうして二人でいることが夢じゃないのかと思うくらい願っていた。
「…先輩……」
思わず口を付いて出た言葉は、ただの音として相手に届く。
「何か言ったか?」と、背を向けたまま尋ねる中流に、少年は「いいえ」と首を振る。
「何でもないです」
「ん?」
ふと声の調子が変わったのを不思議に思って振り返った中流は、今までになく穏やかな顔をしている少年に一瞬面食らったが、ここが危険な場所じゃないと解ってもらえたなら喜ぶべきことだろう。
「あぁそうだ。三時からバイト入っているんだけどさ。家に送るの、その時でいいか?」
「え…」
「またどっかの家の前で倒れられたら困るからさ」
「でもこれ以上の」
「迷惑なら今更だって言ったろ。大体、面倒だと思ったら行き倒れの身元不明人を助けるような真似はしないよ」
人によっては嫌味にしか聞こえない言葉が、中流の口から放たれると笑いを誘う呪文になる。
「それと、おまえ名前は? いつまでも「おまえ」って言われるの気分悪いだろ」
そんなことはなかったが、少年は素直に名前を告げた。
「おまえ」と呼ばれるのは嫌ではない。
むしろ親しくなれたようで嬉しかった。
だが、名前だけでも覚えていて欲しいと、そう強く感じてしまったから。
「尋人です。倉橋尋人」
「ヒロト…、字は?」
「えっと…、『尋』ねる『人』です」
「そっか」
頷いて、中流は用意し終えた朝食を食卓に並べた。
白いご飯と魚に味噌汁。
「ま、こんなもんだろ」
満足そうに呟いて、中流は少年に笑ってみせる。
「な、尋人」
中流に名を呼ばれて、少年は鮮やかな笑みで応えるのだった……。