第2章 桜
「キャ――!」
ママの悲鳴。お皿の割れる音。ああ、またニャロメってば。
急いでキッチンへ行くと、ママが床にひっくり返っている。
「片付けて! そ、それ早く片付けて!」
ママが指差すその先に転がっているのは、とっても小さなネズミの死体。
「ニャロメ、またやったの?」
お姉ちゃんが顔を出して、のんびりと訊く。
「やったじゃないわよ! これでもう何度目だと思ってるの!?」
ママは金切り声で叫んだ。
「家の中にネ、ネズミなんか持ち込んで! 食べないくせにそこらに放り出すんだから!」
「あたし達に褒めてもらいたいんじゃないの? ボクだってネズミくらい獲れるよーって」
「わざわざ見せなくてもいいわよ!」
「あんたもよく冷静に片付けられるわね、菜穂子。気持ち悪くない?」
あたしだってほんとは嫌だけど、犯人がわかっている以上その責任者としてはそれを片付けるしかない。ほうきとちりとりを持ってきて、急いで始末した。この頃ニャロメは庭か何処かでネズミを獲ってきて、毎日のようにママを驚かせている。お姉ちゃんの言う通り、あたし達の前で見せびらかすこともある。
「もうニャロメに煮干しなんかあげないから!」
「でもネズミ獲るのはニャロメの本能だもん、怒っちゃいけないんじゃない?」
「とにかく何とかしなさい、菜穂子!」
ママがそう叫んだと同じく、今度はリビングの方から激しく暴れる音がした。
「ニャロメ!」
急いで行くと、ニャロメが今度は家の中に迷い込んだセミを追い駆けて、部屋中を暴れ回っている。
「やめなさい! こら、ニャロメ!」
あたしは急いで窓を開けて、セミごとニャロメを追い出しにかかった。
家の中がひっくり返るような騒ぎがやっと収まった時、ママがすごい顔でリビングに入ってきた。
「す、す、す」
「何よ、ママ。梅干しでも食べたの?」
お姉ちゃんがのんびりとそんなことを言ったもんだから、ついにママが爆発した。
「捨ててきなさい、菜穂子! もうねこなんか飼っちゃいけません!」
「……あのさあ、ニャロメ」
夜遅く戻ってきたニャロメに、あたしは溜息を漏らしながら言った。
「あんまり自分の立場を悪くしないでよ。そりゃママだって、本気で言ったわけじゃないだろうけど」
ニャロメはのんびりと、自分の顔を洗っていた。
「なんか元気ないみたい。大丈夫かな」
「また始まった、菜穂子の心配性」
「だって」
ニャロメは、我が家で一番涼しいおばあちゃんの部屋で横になっている。
ニャロメは去勢の手術を受けて、昨日マンガマニアの先生のとこから帰ってきたばかりだ。
手術については、家族みんなで相談した。先日初めて治療してもらった後も、何度か受診してワクチンを注射してもらったり健康診断を受けたりもしたのだけど、ある時去勢のことを先生に訊いてみた。
「ニャロメちゃんから子供を作る能力を奪う権利なんて、本来誰にもないのですが、ニャロメちゃんにいつまでも長生きして欲しいと思えば、そういう方法もあるというふうに考えたらどうですかね。雄ねこの場合、交尾の時期になると放浪癖が出て、そのまま家に帰れなくなってしまったり、野良ねこから感染症をうつされたりもするんです。でも去勢すればそういうことは防げるし、性格的にもおとなしくなります。それに、もしニャロメちゃんが何処かの雌ねこに子供を産ませた時、そこの飼い主が子ねこの世話をきちんとするかどうかわかりません。もしかしたらニャロメちゃんのように、無責任に捨てられてしまうかもしれません。そんなことを防ぐためにも、去勢は必要なことなのです」
「先生は、そういう子ねこもいっぱい見てきたんでしょう?」
お姉ちゃんが訊くと、先生の顔色が曇った。
「ええ、まあ。未だに忘れられないのは学生の時です。ある日、三人の小学生が箱に入れられた三匹の子ねこを大学の動物病院に連れてきましてね。箱から出ないようにガムテープでふたが閉じられていて、三匹とも窒息しかけていたんです。子供達がどうか助けてくれって必死に訴えて、元気になったら一匹ずつ育てようと相談もしていました。教授も僕らも、何とかその想いに応えたくて頑張ったんですが、残念ながらすでに手遅れでした。子供達はみんな号泣してね、死んだ子ねこから離れないんです。おうちに電話して親御さんに迎えに来てもらったんですが、あまりにも可哀想で見ていられなくて。僕らも、病院に来ていた他の患者さんの家族も、みんなもらい泣きしていました。ああいう時、大人は子供にどうやって生命の大切さを教えればいいんですかね」
ひどい話。もしかしたらニャロメだって、そうなっていたかもしれないんだ。
「先生、もしかして先生は『動物のお医者さん』読んで獣医になったんじゃないですか」
お姉ちゃんは話題を変えようと、また先生に質問した。
「あ、やっぱりわかります?」
「わかりますよ、犬の名前もチョビでしょう?」
「ええ、ミケもいますよ。あいにく三毛ねこじゃないんですけど。ヒヨちゃんとスナネズミも欲しいんですけど、家内がねこマニアなもんでそれだけは反対されてましてねえ」
「あら、それならもう一匹犬を飼って、パトラッシュって名付けたらどうですか」
「あっ、なるほど。そうだなあ、そうしようかな」
……この二人は放っておこう。
ともかくその夜うちで家族会議を開いて、その結果ニャロメに去勢手術を受けさせたのである。ほんとは、そんなことする必要のない世の中だったら一番いいのにね。
「せっかくうちに帰ってきたのに、ちっとも外へ行こうとしないんだよ。変じゃない?」
「去勢したらおとなしくなるって、先生も言ってたじゃない。それにこんなに暑いんじゃ、さすがのニャロメだってうちで涼んでいたいわよ」
「そっか」
「まったく、そんなにニャロメが心配なら林間学校行くのやめたら?」
「それとこれとは別」
あたしは明日から三日間、日光での林間学校に行くため、今その支度の真っ最中なのである。
「そんなにお菓子持っていくの?」
「お姉ちゃんだって、旅行の時は食べきれないほど持ってくじゃない」
「日光かあ、懐かしいな。あたしが中二の時も日光だったわよ。そういうのはあんまり変わんないのね」
「お姉ちゃんも戦場ヶ原歩いた?」
「歩いた歩いた、あの時は暑かったんだよお。先生がそのうち涼しくなるなんて言ってたのに、ちっともそんなことなくてさ」
「陽に焼けそう」
「鬼怒川寄るんだったら湯の花まんじゅう買ってきて。でも知ってる? 湯の花まんじゅうって伊香保が発祥なのよ」
「あたし、湯の花まんじゅうって好きじゃない」
「温泉に限ったことじゃないけど、旅館の食事ってどうしてみんな似たりよったりで、あんなに量が多いのかしらね。男はいいだろうけど、女にはきついわよ」
「お姉ちゃんは食事よりお酒でしょ」
林間学校は楽しかった。朝から晩までみんなで騒いで、その間はあたしもニャロメのことは忘れていた。でもあっという間に三日間が過ぎて帰路についた時、出発前のニャロメの様子を思い出して再び心配になった。
「お帰り、遅かったのね」
「お姉ちゃん、ニャロメは?」
「おばあちゃんの部屋よ。ねえ、なんかさあ」
お姉ちゃんは少し声を落として、
「この三日間、ニャロメってば妙に元気なかったのね。ご飯もあまり食べないし、一日中寝てばっかりで。あんたから電話があれば、よっぽど帰ってこいって言おうかと思ってたわ」
あたしはそうしなかったことを後悔した。また何処か、悪くしているのかもしれない。ごめん、ごめんね、ニャロメ。それなのにあたしったら、ニャロメのことなんか忘れて一人だけ楽しんできて。
「ニャロメ!」
おばあちゃんの部屋に飛び込むと、びっくりしたような顔でニャロメがあたしの顔を見詰めていた。
「ただいまニャロメ、大丈夫?」
ニャロメは立ち上がってしっぽを振り、のどをごろごろ言わせた。身体をなすりつけてきたり、しきりにあたしに甘えてみせた。
「たいしたことないみたいね、よかったわ」
お姉ちゃんがほっとしながら言った。
「うん、大丈夫みたい」
するとニャロメが、いきなり駆け出した。部屋を一周し廊下に飛び出して、そのまま家中を走り回った。
「ちょっと何なの? どうしたの?」
ママがびっくりしてキッチンから出てきた。でもあたしはニャロメを止めなかった。久し振りに見る元気なニャロメの姿だった。
その後キャットフードをあげるといつもより沢山食べたし、夕ご飯の時もイカの塩焼きをおねだりしたりして、前と少しも変わらないニャロメだった。
「やっぱりニャロメは、菜穂子のことが一番好きなんだな。菜穂子が帰ってきたとたんに元気になっちまうなんて」
パパの言葉にママも頷いた。
「ほんとね、あんなにしょげてたのが嘘みたい」
あたしは嬉しくてたまらなかった。ニャロメがそんなにもあたしを好きでいてくれるなんて。
でも、あたしだけじゃなかったの。九月にお姉ちゃんがウィーンへ行って帰ってきた時も、パパが出張から帰ってきた時も、やっぱりニャロメは家中を走り回って全身で喜びを表してみせていた。
「可愛い奴だなあ、そんなに俺達のこと好きなのか、おまえ」
「菜穂子だけじゃないんだ。がっかりねえ、あんた」
例によってお姉ちゃんはからかうけど、あたしは別のことを考えていた。ほんの数か月前、まだ我が家に引き取られたばかりのニャロメが、異常なくらいに一人にされるのを怖がっていたこと、あたしやパパがいないと、外で遊ぶことも出来なかったことが思い出された。今でもまだ、あの時の後遺症がニャロメの中に残っているんだ。あたしが拾うまでニャロメがどんな恐怖を味わったのか、今では知るよしもないけど、家族の誰かがしばらく留守になんかすると、ニャロメの中にその時の孤独と不安が甦るのかもしれない。ニャロメは本当に、寂しがり屋のねこなんだ。
大丈夫だよ。大丈夫だよ、ニャロメ。あたしがいるから。あたしがずっと、ニャロメを護ってみせるから。
「菜穂子! 菜穂子!」
残業で遅くなったお姉ちゃんが、まだ家にも入らないうちから金切り声であたしを呼び、血相変えて飛び込んできた。
「ニャロメが轢かれた!」
すでにベッドに入っていたあたしは、自分の部屋から飛び出した。パパはリビングから、ママもキッチンからそれぞれ飛び出してきた。
「何処? お姉ちゃん、何処で?」
「そこの車道よ。向こう側に渡ろうとして、スピード出してる車の前に飛び出しちゃったの。あの子びっくりして向こう側に逃げたんだけど、あたしが思わず『ニャロメ!』って叫んだらひょこひょこしながら戻ろうとして、そこにまた別の車が来て……」
あたしは悲鳴を上げた。それじゃニャロメは、二度も轢かれたってことなの?
「ニャロメ、死んじゃったの!?」
ママの声も悲鳴に近かった。
「ううん、そのまま何処かに逃げちゃったの。たぶん大丈夫とは思うけど、早く捜さないとほんとに死んじゃうかもしれないわ」
「ニャロメ! ニャロメ!」
家族全員、もう真っ暗になった外に飛び出した。十月も半ば、さすがにこの頃は夜ともなれば空気も冷たく感じられるけれど、頭の中が真っ白になっているあたしには、パジャマ姿でもちっとも寒いなんて感じられなかった。
「ニャロメ、ニャロメ、何処にいるの?」
涙がぼろぼろこぼれてきた。これは現実じゃないと思いたかった。ニャロメ、大丈夫よね? 死んだりなんかしないよね? だって約束したじゃない。おばあちゃんみたいに突然逝ったりしないって、あたしと約束したじゃない。
「菜穂子、おまえはうちにいなさい。おまえは外に出ない方がいい」
パパが庭から出ようとしていたあたしを捉まえて、真剣な眼で言った。
「でもパパ」
「ニャロメはパパ達が捜すから。大丈夫、ニャロメは死んでなんかいないよ」
パパは、あたしの頭をぽんぽんと軽くはたいた。
新村さんは警察から釈放された後、北海道にあるという、引きこもりの人達のための施設に入ったとか聴いた。怖い想いはしたけど、幸いあたしはかすり傷程度ですんだし、パパとママもあんまり騒いで公にしたくないって言って、今回のことは水に流すことにしたのだ。お姉ちゃんだけは、今でも納得いかないって怒ってるけど。
「損害賠償くらいさせればいいじゃない」
「あそこの次男は、いわば心の病気なんだよ。これ以上は責められないよ」
パパがそう答えても、
「だって、あの時お隣のおばあちゃんが通りかからなかったら」
「もうやめて、お姉ちゃん。あたし忘れたいの」
あたしは新村のおばさんから届られた、お見舞いのピンクの薔薇の花束さえ見るのも嫌だった。パパとママもあたしの行動内容や時間に、しばらく神経質になっていた。
あたしはしょんぼりとして、うちの中に入った。でもまたすぐに出てきて、そのままふらふらと庭の池へと歩いて行った。
ふと空を見上げると、月が明るく輝いている。なんて綺麗なお月様。月は不吉なものなんて言う人もいるけど、こうして見ているとただひたすらに綺麗で、気持ちも少しは落ち着いてくる。こういうのを神々しいって言うのかしら。
「お月様」
呟くような声だったけど、あたし自身は必死になっていた。
「お月様、お月様お願い、ニャロメを助けて。どんな姿になっていてもいい、生命だけは助けて下さい。代わりにあたしがどんな風になっても構わないから、ニャロメをあたしに返して下さい。おばあちゃんのように、あの人のように、突然あたしから奪ったりなんかしないで」
手を合わせ、眼を閉じてあたしは祈った。おばあちゃんにもすがった。本当に、ニャロメをあたしに返してくれさえすれば、あたしはどうなっても構わない。ニャロメ、ニャロメお願い、生きていて。
「菜穂子! 菜穂子、何処なの!?」
お姉ちゃんの声。
「ニャロメが見付かったよ!」
ニャロメは、物置の中にいた。
前にも言ったようにニャロメは初めてうちに来た時から、ここで留守番したりお昼寝したりしていた。ここは近所のねこ達も入らない、ニャロメだけの大切な場所だった。ニャロメはその物置の片隅に、隠れるようにして蹲っていた。
「ニャロメ! ニャロメ!」
「あんまりそばに近付いちゃ駄目よ」
お姉ちゃんがあたしの身体を抱え、あたしは泣き崩れた。あたしの姿を見て、ニャロメは心細げな声で鳴いた。ニャロメの左後ろ足から、にょっきりと骨が突き出ていた。
「先生のとこに連れてって! 連れてって!」
あたしは叫んだ。
「落ち着きなさい。今、ママが電話してるから」
パパの顔も蒼ざめていた。
「痛むか、ニャロメ。すぐお医者さんに連れて行ってやるからな」
パパはキャリーバッグに古い毛布とバスタオルを敷き詰めて、ニャロメをその中にそっと入れた。ニャロメは足が痛むのか、それともまた病院に行くのを嫌がってなのか、しきりに不安そうな声で鳴いていた。
「先生いたわ、すぐ連れてきて下さいって」
ママが急いで走ってきた。
「よし、行くぞ」
「あたしも行く!」
「あたしも」
「もう遅いわよ、二人とも。香澄は仕事から帰ってきたばかりだし、菜穂子だって学校あるのよ」
でもママが何を言おうとあたしは聴かなかったし、お姉ちゃんもそうだった。あたし達はニャロメの入ったキャリーバッグを護るようにして、車に乗り込んだ。
涙があふれて止まらない。それでも心の中で、お月様とおばあちゃんに感謝した。お姉ちゃんは、キャリーバッグにすがって泣いているあたしの頭を撫で続けてくれていたけれど、運転しているパパもお姉ちゃんも終始黙り込んでいた。
「二度も轢かれたんですか」
先生も、お姉ちゃんの話を聴いて一瞬絶句した。
「どんな交通事故でも、少なくとも七十二時間、つまり三日間は何とも判断出来ないんです。どんなに健康そうに見えても、いきなり死んでしまう可能性があるんですね」
「すぐに手術になりますか」
パパが訊ねた。手術! あたしの身体が震えた。
「そうですね。本来は三日様子を見てからになるんですが、ニャロメちゃんの場合は明日にでもしなくてはならないでしょう」
「助かりますか」
あたしの声は震えていた。
「助かるんですか、先生。まさかこのまま、ニャロメが逝っちゃうなんてこと……」
「わからないね」
先生の顔色も良くなかった。
「少なくとも三日か四日、一週間は様子を見ないと。三週間は入院が必要でしょう」
「たとえ助かっても、下半身不随になるとか……」
お姉ちゃんが恐る恐る訊いた。
「とにかく今は何とも言えないんです」
「生きてればいい!」
あたしは叫んだ。
「生きてればいい。生きてさえいてくれれば、あたしはそれでいいの。助けて、先生。お願いだから、ニャロメを助けて……」
あたしは、いつか先生が話してくれた三人の小学生の気持ちが、今更ながらわかる気がした。
「精一杯、努力するよ」
先生は、最後まで決してニャロメは助かるとは言ってくれなかった。
「ああ、ここまで来たのか」
帰りの車の中、パパの声で我に返った。
「やばいなあ、俺ずっとぼんやりしてた」
「パパってば」
お姉ちゃんがあきれた声を出す。でも別に、責めるつもりはなかった。お姉ちゃんだってあたしだって、みんなぼんやりしてたんだから。でもやっぱちょっと怖いか。ぼんやりしてる人間が三人、二十分以上も車を走らせてたんだから。
「大丈夫かなあ、ニャロメ」
お姉ちゃんが呟くと、パパも言った。
「思い知らされたなあ、俺も思ってたよりずっとニャロメが可愛かったんだ。もう一人子供が出来たか、孫でもいる感じ」
「ほんとね。ニャロメはもうすっかり、うちの家族になっていたんだね」
お姉ちゃんはあたしの方に振り返った。
「大変だったね、菜穂子。大丈夫?」
「うん」
「もし何かあったら、すぐ連絡するって先生言ってたし。先生を信じていよう」
「うん……」
わかっているよ」
今はただ、ニャロメのために祈っていよう。結局こんな時、あたしには祈ることしか出来ないんだ。ニャロメを護るって、偉そうなこと言ったくせに。無力なあたし、情けないあたし。それでも、何にもしないでいるよりはずっとましだった。
「こんにちは」
「おや、菜穂ちゃん」
ニャロメの事故から三日目。あたしは学校が終わってすぐ、電車に飛び乗って病院に行った。
「ごめんなさい、忙しいとは思ったんだけど、どうしてもニャロメが心配で」
「うん、わかってるよ」
四時も過ぎたところだけど、幸い待合室にも他の患者さんがいなくて、先生が診察室に入れてくれた。
「でもごめんね、ニャロメちゃんにはまだ逢わせてあげられないんだよ」
「ニャロメ、やっぱり悪いんですか」
「今、無菌室にいるんだよ。つまり、絶対安静のため面会謝絶ってことだね」
がっかりした。ほんの少しでもいいから、ニャロメの顔が見たかったのに。
「これがニャロメちゃんの写真だよ」
先生はレントゲンの写真を取り出した。
「手術は簡単に言うと、骨に針金を巻いてつなげる手術だった。一番心配していたのは血便と血尿だったけど、幸い今のところはない。右足も無事だ。でも食欲がなくて、今点滴を受けている。それに左足の骨に砂がこびりついていて、一応見えるものは全部取り除いたんだけど、感染症はこれからだからまだまだ油断は出来ない。あとね、ほら見てごらん、背骨も折れていたんだよ。下半身不随になる可能性も、まだ捨て切れない」
「もし、何かに感染してたらどうするんですか」
あたしは恐る恐る訊いた。先生はゆっくり答えた。
「……左足を、切断しなくちゃならない」
身体中が小刻みに震えてきた。どうして、どうしてニャロメがこんな辛い思いを味わなくちゃいけないの?
「……それでも」
あたしはそっと涙を拭いた。
「生きていてくれればそれでいい。身体が不自由になっても、生きてさえいてくれれば。先生、もう三日目です。生命の方は大丈夫なんでしょう?」
「ごめんね」
先生は本当にすまなそうに答えた。
「それもまだわからないんだよ」
「もっと前向きになりなよ」
お姉ちゃんがコップにビールを注ぎながらあたしに言う。
「飼い主のあんたがそう暗いことばっかり考えてちゃ駄目だよ。必ずもとの丈夫な身体になってさ、うちに無事帰ってくるって信じていなくちゃいけないよ」
わかってるけど。
「二度も車に轢かれてさ、それでも死ななかったなんてニャロメってばすごい幸運の持ち主よ。きっと、おばあちゃんが護ってくれたのよ。だからあんたもそうくよくよしないで、ニャロメや先生を信じていなさいよ」
「うん」
「だけど、ニャロメも幸福な奴よね」
「え?」
「捨てねこなんて殆どは助けられることもなく死んじゃうんだろうに、ニャロメはあんたに拾われて大切に育ててもらってさ、おまけにこんなに心配してもらってるんだもの。普段は好き勝手に遊んでるけど、ニャロメもきっとわかってるよ、自分がどれだけ愛されてるか」
「ありがと、お姉ちゃん」
「やっと笑った。そうよ、いつもしょげてるわけにいかないんだからね。あんたってばこの三日間、ご飯もろくに食べないんだもの。中学生がダイエットなんてするもんじゃないわよ」
「別にしてないけど」
「中学生から高校生の頃って、女は将来子供を産むための身体を作る一番大切な時期なんだって。この時に急激なダイエットなんかしたら、二十代で骨粗鬆症よ。あたしは、骨がぼろぼろになったあんたなんか見たくないからね」
「わかった、わかった。それよかお姉ちゃん、ビールはもういい? お姉ちゃんこそ飲み過ぎると太るよ」
「待ってよ、もうちょっと。ねえ、菜穂子も飲みなさいよ」
「いいよ、ビールなんか」
「気分がすっきりするわよ。大丈夫、ママには内緒にしといてあげるから」
「未成年にお酒飲ませちゃいけないんだよ」
「あんたも結構おカタいわねえ。ひと口くらいどうってことないじゃん」
「香澄! 菜穂子に何飲ませてるの!?」
ママがドアを開けた。
「はい、お待たせ」
先生が入院室から出てきた。その腕には、一週間振りに見るニャロメがいた。
「ニャロメ!」
手術室で待っていたあたしは、待ちわびていたニャロメの姿に思わず叫んだ。先生は手術台にニャロメを下ろした。
「よく頑張ったね、二人とも」
先生はニャロメの頭を撫でながら、大きな手術に耐えたニャロメと、その間ずっと必死で祈り続けていたあたしの両方をねぎらってくれた。
ニャロメはげっそり痩せて、すっかり面変わりしていた。左後ろ足に刻まれた傷の縫い目が痛々しかった。
「先生、もう感染症とかの心配はない?」
「そうだね。本当に運がいいよ、この子は」
先生はにこにこしながら、
「ここなら誰も来ないからね。ゆっくりして行きなさい」
そう言って、先生は診察室に戻って行った。
「ニャロメ……ニャロメ……」
眼から涙がぽろぽろこぼれてきた。この一週間が、こんなに感じられたことは今までなかった。ずっとずっと、ニャロメのことを想い続けていた。
「ご飯ちゃんと食べてる? 先生の言うこと、ちゃんと聴いてね」
食欲は戻ってきてるって先生は言っていた。でもやっぱり身体は、初めて逢った頃みたいにがりがりにやせてる。眼ばかりが飛び出しそうなくらいに大きくて、不安そうにきょろきょろしてて落ち着かない。あたしがそばにいるのに、ビクビクしてる。
「車、怖かったでしょ? もう飛び出したりなんかしちゃ駄目だよ」
制服にニャロメの毛がついちゃうのも構わずに、あたしはそっとニャロメを抱いたり、頭を撫でてやったりした。嬉しかった。ニャロメが今ここに、あたしのそばにいる。ニャロメ、ニャロメ、大好きなニャロメ。あんたはあたしとの約束を、ちゃんと守ってくれた。車に轢かれても死なないで、ちゃんと生きていてくれた。
「お月様」
小さな声であたしは呟いた。
「ニャロメを助けてくれて、ほんとにありがと。おばあちゃんもね」
そばで、おばあちゃんがにこにこ笑っているような気がした。
「お帰り、菜穂子」
「あれお姉ちゃん、また早退してきたの?」
「だってここんとこずうっと、夜中まで働いてたじゃん。それよか菜穂子、おばあちゃんの部屋に早く行ってごらん」
「言われなくても行くよ」
家に帰るとお線香をあげるのは、すっかり家族の習慣になっている。でもおばあちゃんの部屋の障子を開けた時、あたしはそこに思いがけないものを見付けてひっくり返りそうになった。
「ニャロメ!」
部屋の真ん中に、クッションと毛布にくるまれてニャロメが丸まっていた。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん、どうして……」
今にも泣き出しそうな声で、あたしは振り返った。
「えへへ、大成功」
お姉ちゃんは笑いながら、
「あんたが頻繁にニャロメのお見舞いに行ってたの、知ってたよ。あたしもね、この間ちょっと時間が空いたものだからニャロメの様子見に行ったの。そしたら先生が、思っていたよりずっと回復が早いからそろそろ退院しても大丈夫でしょうって言うから、じゃあちょっとあんたをびっくりさせてやろうかってことになって」
だから先生、今日は用事があるからって言ってたのか。
「ニャロメ……」
あたしはニャロメのそばに座り込んだ。夢じゃない、夢じゃないんだ。ニャロメがうちに帰ってきた。それも、予定より一週間も早く。
「でもニャロメってば、やっと愛しの我が家に帰ってきたっていうのにあまり覚えていないみたいなのよ。初めて来たみたいにきょろきょろして怯えてさ、さっきやっと落ち着いたとこ。ニワトリじゃないけどねこも二週間も留守にしちゃうと、自分のうちを忘れちゃうのね」
でも、家族のことは忘れていないみたい。あたしの顔を見て甘えた声を出している。あたしは嬉しくて、ニャロメの身体を撫でまわす。
「今夜はお祝いね。お寿司とろう、お寿司」
「ニャロメにも何かとってあげてよ」
「先生がね、当分外には出さないようにして下さいって。あ、ママが帰ってきた」
お姉ちゃんはそう言って部屋を出た。でもすぐに戻ってきて、
「ああ、言い忘れてた。先生ね、この間子ねこもらってラスカルって名前付けましたって」
今夜の我が家ほど盛り上がっていた家は、たぶん他にないだろう。パパもママも大喜びで、夕ご飯もおばあちゃんの部屋にテーブルを出して食べた。みんながニャロメのそばにいたかった。
「ほんとによく助かったわねえ、あの時はもう駄目じゃないかと思ってたけど」
ママが言うと、パパもにこにこして相槌を打った。
「若いから生命力が強いんだな、たった二週間で退院出来るなんて」
「でもやっぱり元気ないわね。お刺身あまり食べないじゃない」
お姉ちゃんの言う通り、マグロをふた切れ食べただけでニャロメは横になった。
「疲れているんだよ。無理もないさ、車に轢かれて手術だの入院だのして精神的な負担も大きかっただろう。おや、トイレに行きたいんじゃないか」
いったん横になったのにニャロメはまた起き上がって、窓の辺りをクンクン嗅ぎ始めた。
「どうしよ、外に出しちゃいけないんでしょう」
あたしが困って訊くと、
「ついていって、すんだら抱いて帰ってくればいいじゃない」
お姉ちゃんがそう答えたので、あたしは立ち上がって窓を開けた。そのまま外に出ようとした時だ。家の前をゆっくりと一台の車が走って行った。それを見たニャロメは文字通り飛び上がって驚き、パニック状態になって部屋に駆け戻った。
「ニャロメ!」
廊下にまで飛び出して行き、片隅に蹲ってガタガタ震えている。
「可哀想に、ほんとに怖かったんだね」
「お前の部屋に連れて行ってやりなさい、菜穂子」
あたしはニャロメを抱きかかえて、自分の部屋のベッドに運んでやった。
「ほら覚えているでしょ、このベッド。お前のお気に入りの寝場所よ」
ニャロメは自分の残り香を探すみたいに、しばらく布団を嗅ぎまわしてからようやくほっとして横になった。
眠りに落ちて行くニャロメを優しく撫でながら、あたしは涙があふれてくるのを止められなかった。お帰りなさい。お帰りなさい、ニャロメ。ほんとによく帰ってきたね。
「宣伝していたほどには面白くなかったわねえ、今の映画」
「お姉ちゃんが恋愛ものなんか見る方が珍しいよ」
「タダ券もらったからね。あたし駄目なのよ、ああいうの。ただ好きだ嫌いだ言ってるだけじゃなくて、もっとプラスアルファがなくっちゃ。だからハーレクインなんか大っ嫌い。あんなの読んでるとイライラしてくるのよ、あんた達もっと他に悩み事はないのって怒鳴りたくなる」
「お姉ちゃんらしいなあ」
そう言って笑っていると。不意に後ろから声をかけられた。
「あの、秋山さんの娘さん方でしょうか」
びっくりして振り返ると、三十代前半のきちんと背広を着た男の人があたしとお姉ちゃんを見詰めていた。
「突然申し訳ありません」
優しい、でもどこかで聴いたことがあるような声だった。
「僕、新村晴彦の兄の俊一といいます」
立ち話も何ですからと、お兄さんは近くのカフェへあたし達を連れて行った。当然だけど、あたしはすごく嫌だった。ニャロメが退院して初めての日曜日、お祝いにとお姉ちゃんが映画に連れ出してくれたのはいいけれど、まさかこんな処であの人のお兄さんにばったり逢うなんて。しかも断ろうとしたのに、お姉ちゃんたらひょいひょいついて行っちゃう。
「何でも注文して下さい」
お兄さんはにこにこしながら、あたし達の前にメニューを拡げた。
「じゃあお言葉に甘えて、あたしはサーモンサンドとストロベリーアイスと、コーヒーはブルーマウンテン」
「お姉ちゃん!」
「あんたも何か頼みなさいよ、菜穂子。あんた、ここのチキンサンドとチョコレートパフェが好きじゃないの」
「わかりました、飲み物はパインジュースでいいですか。ここのフルーツジュースはみんな一〇〇パーセントだそうですよ」
笑いながら手早く注文をすませると、お兄さんは改めてあたし達に向き直った。
「あの時は弟が妹さんに大変失礼なことをして、本当に申し訳ありませんでした」
「失礼なんてもんじゃないわ」
お姉ちゃんの声が冷たくとがった。
「あたし達、赦したわけじゃありません。あいつのせいで、菜穂子がどんなに怖い思いをしたか本当にわかっているんですか。幸い有森のおばあちゃんが通りかかったから助かったものの、そうでなければどんなことになっていたかわからないわ」
あたしの身体の中を、冷たい風が吹き抜けた。
「何のつもりであたし達に声をかけたか知らないけれど、本当はあいつにもあなたにも、そんなことをする資格はないんですよ」
「お姉ちゃんてば」
「……仲がいいんですね、お二人は」
お姉ちゃんの強い口調に動じる気配もなく、お兄さんは静かに訊ねた。
「だいぶ年が離れているように見えますが、いくつ離れていらっしゃるんですか」
「十歳ですけど」
「そんなに離れていると、あまり仲良く出来ないようにも思えますけど……羨ましいな。僕は弟と七歳離れているんですが、昔からそんなに仲のいい兄弟ではなかったもんですから」
あたしとお姉ちゃんは、思わず顔を見合わせた。
「弟は生まれた時未熟児で、母は育てるのにとても苦労しました。いくつになっても病院通いが続き、そのために母は弟にばかりかまけるようになって、長男の僕には見向きもしなくなったんです」
お兄さんの眼は、あたし達じゃなくて何処か遠くを見てるみたいだ。
「僕は、母の関心を何とか僕にも向けさせたくて色々やりました。その結果、勉強して成績を上げることが母の関心を引く唯一の方法だと気付いたんです。母に褒めてもらいたい、母の愛情を僕にも向けて欲しい、ただその一心で僕は無我夢中で勉強しました。満点のテスト用紙、首席の成績、一流の高校と大学、そんなもので母の愛情を得られるのであれば、僕はどんな努力も惜しみませんでした」
お店の人が飲み物を運んできてくれたけれど、誰も手をつけようとしない。
「でもそれが弟を押し潰し始めていたことに、母も僕も気付かなかったんです。母が弟に向かって、お兄ちゃんを見習いなさい、お兄ちゃんのようになりなさいと小言を繰返すのを聴く度に、僕は優越感を通り越して快感さえ感じていました。だけど弟は学校に行くだけで精一杯で、僕のように自分を忘れて何かに打ち込むなんてことは出来ない性分だったんです」
お兄さんはゆっくりと頭を下げた。
「赦して下さい。弟があんな風になってしまったのは、僕と母のせいなんです。僕と母の存在が、今も弟を苦しめているんです。弟が妹さんに与えた危害は、本来僕達が受けるべきものです。本当に申し訳ありません」
お兄さんの膝に、ひとしずくの涙が落ちた。
「実は今、弟が行方知れずなんです」
しばらくしてようやく頭を上げた時、お兄さんは思いがけないことを口にした。
「行方知れずって……」
「あれから北海道の施設にいたんですが、先月ボランティアの人と喧嘩してそこを飛び出してしまったんです。そしてどうやらヒッチハイクか何かして、この街に戻って来てるらしいんです。いや、家には一度も姿を見せていないんですが、警察にも協力してもらって今全力で弟を捜しています。妹さんに再び危害を及ぼすような真似は、絶対にさせません」
「見付けて、それでどうするんです」
お姉ちゃんの声は、さっきよりもいくらか和らいでいた。
「あいつはまだ、あなたやお母さん達に心を開かないんでしょう。家に戻したって、同じことを繰返すだけだと思いますよ」
「僕の処に連れて行きます」
お兄さんの眼は必死だった。
「僕は近いうちに、アメリカへ行くことになっているんです。その時には弟も連れて行って、一緒に暮らそうと思います。難しいかもしれませんが、あいつとよく話し合うつもりです。あいつが一体何を考えているのか、何がしたいのかよく聴いて、兄としてこれまで何もしてやれなかった分を取り戻したいと思っています」
「いい人だね、お兄さん」
「馬鹿よね、あいつ。あんなにあいつのことを心配して苦しんでいる人がいっぱいいるのに、自分のことしか眼に入ってないのよね」
「わかっているんだよ、きっと。でもどうしたらいいかわからなくて、それで逃げてるだけなんだよ」
「とにかく早くあのお兄さんが、あいつと話し合えるようになれればいいわね」
「大丈夫だよ、きっと」
どうか一日も早く、新村さんが立ち直ってくれますように。あたしは初めて、心の中であの人のために祈った。
「お帰りなさい、遅かったのね」
「うん、ちょっと聴いてよ、ママ」
お姉ちゃんは早速ママに、新村さんのお兄さんの報告を始めた。あたしはおばあちゃんの部屋に向かう。ニャロメはまたそこで昼寝をしていた。
「ただいま、ニャロメ。調子はどう?」
ニャロメの頭を撫でてから、おばあちゃんのお位牌にお線香を上げる。
「おばあちゃん、ただいま」
写真の中のおばあちゃんは、いつもにこにこ笑っている。生きていた頃と同じように、優しい笑顔をあたしに向けてくれている。
ねえ、おばあちゃん。向こうの世界にはおばあちゃんをいじめたひいおばあちゃんも、あまり優しくなかったおじいちゃんも、みんな一緒にいるのよね。大丈夫? おばあちゃん、またいじめられたりしていない? それとも小さい頃に読んだ本に書いてあったように、この世では憎み合った人達でもあちらでは仲良く出来たりするのかな。生きていた時には知らなかった人、言葉の通じない外国の人でも親友になれたりするのかな。もしそうだったら素敵だね。意外なとこで意外な人に沢山出逢えたら、きっととても楽しいね。
「おばあちゃん」
あたしは囁くように言った。
「あの人には、もう逢えた?」
不意にニャロメが起き上がって、身体を伸ばした。
「ニャロメ、トイレ?」
窓をカリカリひっかくので、あたしはニャロメを外に出してその後をついて行った。
ニャロメはゆっくりと歩いて行く。久し振りに見る我が家の庭は、ニャロメの眼にどう映っているのかしら。もう葉も散り始めて、秋の色がどんどん深くなっている。
トイレかと思ったのにニャロメは池の方に歩いて行って、その岸辺に身体を横たえた。先生には、まだ外に出しちゃいけないって言われてるんだけどな。まあいっか。あたしもそのそばにしゃがんだ。
「空が綺麗だね、ニャロメ」
空を見上げながらそんなことを呟いた。変なの、今までそんなこと考えたこともなかったのに。そういえばあの時、お月様にニャロメの無事を祈った時のようなあの綺麗な気持ち、今思い返しても不思議だけれど、もう一度なってみたいと思ってもそんな簡単にはなれない。あたしの心がお月様のすごく近い処まで飛んで行ってしまったような、ほんとにとても綺麗な気持ちだったのだけど、今となってはまるで夢を見ていたよう。
あれはやっぱりあたしが、ただニャロメのことだけ考えて自分と引換えにしてもいいから助けて下さいって祈ったから、そういう無欲な想いでいっぱいだったから起きたことだったのかな。でも無欲なんて、そんなのはなろうと思ってもなかなかなれないもんね。来年の修学旅行の時には、出雲大社にお姉ちゃんが早くお嫁に行けるよう祈ってきてあげようと思うし、去年のクリスマスの時にはお姉ちゃんとのじゃんけんに負けていちごのショートケーキになったから、今年は絶対チョコケーキにしてもらおうというくらいのささやかな信仰心(?)はあるけど、これを機に宗教心に目覚めたなんてことも全然ないもんね。
でも、あの時のことはずっと忘れないでいよう。あたしがこれからもずっと、ニャロメとこうして過ごして行けるように。ニャロメがいっぱい長生き出来るように。
ぼんやりそんなことを考えていたら、ニャロメが不意に立ち上がって唸り声を上げ、眼をぎょろぎょろさせた。振り返るとまた近所のねこが、堂々とうちの庭を横切ろうとしている。
「駄目だよ、ニャロメ!」
止めようとしたけど遅かった。いかにも病み上がりって感じだったのに、近所のねこ見たとたんに生き生きしちゃってあっという間に飛び出してしまったのだ。
けれど本当は、振り返った途端にあたしの眼に映った新村さんの姿に、身体が凍り付いてしまったからだった。
……なんて眼。以前よりもっと暗く、もっと冷たくて逃れることの出来ないような憎悪に満ちていた。あたし、あたし何かした? あなたにそんな眼で見られなければならないくらいひどいことを、あたしはあなたにしたの?
「……お兄さんが、捜していますよ」
のどの奥から絞り出すような震える声をやっと出して、あたしは初めてあの人に話しかけた。
「家族の人達、みんなとても心配してあなたを捜しています。あなたを待っているんですよ。お願いですからどうか、早くおうちに帰って下さい」
新村さんは身体全体で驚いた。
あたし自身も驚いた。こんな恐ろしい眼に見詰められて身体は恐怖で動くことも出来ないのに、どうしてこんな言葉を口に出来たのか。そもそもあたしは被害者で、加害者のこの人がどうなろうとあたしには関係のないことなのに。
あたしは自分の家の庭にいて、あの人は垣根を挟んだ道の方にいる。もしも同じ場所にいたら、あの人はあたしを殺すかもしれない……そんな恐ろしい想像をして更に震えていると、新村さんはゆっくりと踵を返し何処かへ行ってしまった。あたしは震えながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
眼の前にあるものは何?
アメショーまがいの毛色は、確かニャロメのものじゃなかった? ああほら、あのとがった耳はニャロメのものだわ。これは確かに、あたしのニャロメだわ。
「菜穂子?」
お姉ちゃん。
「何してるのよ、菜穂子。早く行かないと学校遅れるわよ」
ぼんやりした顔でお姉ちゃんを振り返ったあたしと、そしてその足元に転がっているものを眼にしたとたん、お姉ちゃんは金切り声を上げた。
「見ちゃ駄目! 見ちゃ駄目よ、菜穂子! パパ来て、パパ! ママ、ママ――!」
お姉ちゃんは靴もはかずに玄関から飛び出してきて、すっかり放心状態になっているあたしをぎゅっと抱きしめた。
お姉ちゃんのただならぬ悲鳴に、パパとママも家の中から飛び出してきて、お隣のおじいちゃんとおばあちゃんまでが何事かとやってきた。ママも悲鳴を上げた。みんなが眼の前の無残な光景に言葉を失った。
「香澄! 菜穂子を家に戻しなさい! 早く――早く!」
初めに我に返ったのはパパだった。
「菜穂子! しっかりして、菜穂子!」
いつの間にかお姉ちゃんもママも、お隣のおばあちゃんもぼろぼろ涙をこぼしていた。三人であたしを抱え込んで、家の中に引きずり込んだ。
あたしはされるがままになっていた。何が起きたのか、あたしは何を見たのか全くわからなかった。ほんとに何もわからなくなっていた。
ねえ。
あたしは、何を見たの?
「布団を敷きますね」
「すみません、おばあちゃん。ママ、あたしの部屋にワインがあるの、持ってきて」
三人でおばあちゃんの部屋にあたしを運ぶと、お姉ちゃんはママにワインとコップを運ばせてきた。
「香澄、何するの?」
ママが不安そうに訊ねると、
「飲ませるのよ。ほんとはブランデーがいいんだろうけど、あたし持ってないし」
「でも、中学生にお酒なんて」
「そんなこと言ってる場合!?」
あたしはすっかり惚けたままだった。でもワインを飲ませるためにお姉ちゃんとママがあたしを抱えた時、初めて口を開いた。
「お姉ちゃん」
お姉ちゃんもママもぎょっとして、
「な、何?」
「ニャロメ、何処?」
あたしの眼は虚ろだった。
「昨日ね、近所のねこ追い駆けて行ったきり戻ってこないの」
「……菜穂子」
「ニャロメ……何処……?」
お姉ちゃんは何も言わず、あたしにワインを飲ませようとした。そのとたん、あたしはコップを叩き飛ばした。
「菜穂子!」
「ニャロメ! ニャロメ!」
「菜穂子! 菜穂子!」
「菜穂ちゃん!」
あたしは、お姉ちゃんとママの腕の中で激しく暴れた。三人の、あたしの名を呼びながら泣き叫ぶ声がとても遠くに聴こえた。あたしは、狂っていた。
いつの間にかあたしは眠っていた。ぴくりともしないで、おばあちゃんの部屋に横たわっていた。
パパとママが、あたしの様子をうかがいながら何か小声で話している声がした。お姉ちゃんは、あたしのそばにずっとつきっきりでいてくれてるみたいだった。庭の方からも、ニャロメやあたしを気遣う声が聴こえた。一体どれだけの時間が過ぎたのか、全くわからなかった。
眠りはとても深くて、夢さえ見なかった。ただずっと、暗闇の中をあてもなく彷徨っていた。
ニャロメ。
ニャロメ、何処へ行ったの?
初めて意識がはっきりしたのは、もう真夜中になってからだった。
「起きた? 菜穂子」
お姉ちゃんがあたしの横に寝そべって、本を読んでいた。
おばあちゃんの部屋の中にいるのは変わっていないけど、いつの間にかあたしはスウェットに着替えさせられていて、お姉ちゃんと同じ布団の中にいた。こういうの久し振りだな。小さい頃あたしは一人で寝られなくて、よくこうしておばあちゃんの布団やお姉ちゃんのベッドに潜り込んでいたっけ。
「ママがね、菜穂子が起きたら食べさせてって、おにぎり作っといてくれたよ。食べる?」
あたしは首を振った。
「今……何時?」
「夜中の二時。じゃあお茶なら飲むでしょ、のど渇いてるだろうからね」
その通り、あたしはのどがカラカラに渇いていた。お姉ちゃんはあたしを助け起こすと、そばの小さなテーブルに二人相向かいで座った。お姉ちゃんはてきぱきとお茶を入れ、おにぎりにかかったラップを取ってあたしの前に出した。
そうして二人で何も言わずにお茶を飲んだ。あたしはぼんやりとお茶をすすり、おにぎりを食べた。お腹が空いているという意識はなかったけど、拒む気持ちも起こらなくて、ただすすめられるままにゆっくり食べた。お姉ちゃんは、そんなあたしの様子を黙って見ていた。
おにぎりをひとつ食べた後、お姉ちゃんはもっとお食べとすすめてくれたけど、あたしはもう手を伸ばさなかった。お姉ちゃんも無理にすすめなかった。
「……話してもいい?」
お姉ちゃんが口を開いた。あたしもこくりと頷いた。
「お隣のおじいちゃんがね、パパと二人でニャロメの身体清めてくれたわ。ママとおばあちゃんもお花いっぱい買ってきて、ニャロメと一緒に埋めたの。それからパパが後で、桜の苗木買ってきてお墓に植えてくれるって。ニャロメがその桜に生まれ変わることが出来るように」
あたしはもう一度頷いた。涙がぽろぽろこぼれ落ちてきた。ニャロメ。あたしのニャロメ。
あたしはお姉ちゃんに、昨日のことを言葉少なにゆっくりと報告した。
「……ニャロメを殺したの、たぶんあいつね」
お姉ちゃんも涙をこぼした。
「あんたに手出し出来なくて、代わりにニャロメを狙ったのね。赦せない、あいつ。これ見よがしに玄関先なんかに放り出して……」
「違うよ、お姉ちゃん」
あたしは首を振った。
「ニャロメを殺したのはあたしなの。あたしのせいでニャロメは死んだの。あたしが悪いの」
「何を言うのよ、ニャロメを殺したのはあいつよ」
「だってあたしがニャロメを家から出さなかったら、ニャロメは外に出て行ったりなんかしなかったんだよ。あたしがニャロメから眼を離さずにいれば、ニャロメは死なずにすんだの。ニャロメはあたしの身代わりで死んだの」
お姉ちゃんは、激しく泣き出したあたしを抱きしめた。ごめんね。ごめんね、ニャロメ。でもいくら謝っても、もうニャロメは戻ってこない。
「菜穂子のせいなんかじゃないよ」
お姉ちゃんも泣いていた。
「自分を責めちゃ駄目よ。そんなことしたらニャロメ哀しむよ」
「でも、あたしなんかに飼われない方がニャロメ良かったのかもしれない」
あたしには自分を責めるしかない。
「あたしがあの時ニャロメを拾わなければ、ニャロメはもっといい人に拾われて、車に轢かれることも殺されることもなかったのかもしれない。あたしが悪いの、みんなあたしのせいなの」
「馬鹿!」
お姉ちゃんが叫んだ。
「なんでそんなこと言うの? なんでそんな考え方しか出来ないのよ? ニャロメは幸福だったんだよ。あんなひどい死に方したけど、最期は本当に可哀想だったけど、でもそれまではニャロメは確かに幸福だったよ」
「お姉ちゃん……」
「あんたがどんなにニャロメを可愛がっていたか、姉のあたしが一番よく知ってる。だからあたしはあいつが赦せないのよ。ニャロメを殺して、あんたの心をズタズタにして……出来るものならあたし、あんたの代わりにあいつを殺してやりたい。ニャロメと同じ目に遭わせてやりたい」
「証拠がないよ。たとえ警察に訴えても、あの人がニャロメを殺したっていう証拠がない。ねえ、どうしてなの? お姉ちゃん」
「菜穂子」
「ニャロメだけじゃないよ。何の罪もないねこや犬達が、保健所なんかでたくさん殺されているんだよ。実験体にもされてるって、お姉ちゃん前に話してくれたじゃない。生きているのに、あたし達と同じように呼吸して、ご飯食べて、なのに愛してくれる人がいないからそれだけのために殺されて……!」
「菜穂子!」
「どうして殺されなくちゃいけないの!? 何もしてないのに、悪いことなんか何もしてないのに、なんで、なんで――!? それじゃ、それじゃ何のために生まれてきたのか――!」
「菜穂子! しっかりしなさい!」
ニャロメ、ニャロメ。
あなたは何のために生まれてきたの?
「……お姉ちゃん」
「落ち着いた?」
「うん、ごめんね」
お姉ちゃんは、あたしをずっと抱きしめてくれていた。
「あのね、お姉ちゃん」
「何?」
「あたしね、好きな人がいたの」
「そう、どんな人?」
「サッカー部の先輩。あたしが入学した時三年生で、キャプテンだった」
「そう、それじゃ女の子にもてたわね」
「うん、すごくかっこよかった」
あたしは身動きひとつしないで、お姉ちゃんに身体を預けていた。お姉ちゃんは、あたしの髪を撫でてくれていた。
「おばあちゃんだけにね、話してたの。家に帰るといつも先輩の話ばかりしてたの。練習試合でハットトリック決めたとか、生徒会長の候補になったとか……でも別に、告白しようなんて考えてなかった。だってあの人いつも女の子に囲まれていたし、彼女もいるって噂あったもの」
「そうねえ、どう考えても高嶺の花だし、菜穂子にはそういう芸当は逆立ちしたって出来ないわねえ」
「うん。でもね、去年の夏休みに先輩、死んじゃったんだ……」
「え?」
「突然だったの。試合してて、普通にボール追い駆けていたのに、様子がちょっとおかしいなと思ったらいきなり倒れて……救急車で運ばれたけど、そのまま……」
「……見てたの? 菜穂子、それ……」
「友達と応援に行ってたの。まるで、夢見てるみたいだった。人間って、簡単に死ねるんだね」
あたしは小さな声で泣き始めた。お姉ちゃんも口を閉ざした。しばらくの間、あたしの泣き声だけが部屋の中に響いていた。
「……なんであんたがそれこそ異常なくらいに、ニャロメに対して過保護だったのかわかったよ」
再び口を開いたのは、お姉ちゃんの方だった。
「あんたのそばから消えてしまったのが、おばあちゃんだけじゃなかったからなのね。あんたは初恋の人さえ、突然失っちゃったんだね」
「……本当に好きだってわかったのは、先輩が死んでからよ」
涙は、終わりを知らないものなのかな。
「生きるとか死ぬとか、頭ではわかっててもそれが本当はどういうものなのか、あたしはちっともわかってなかった。死んじゃったらもうそれで終わりなのに、悔やんでも死んだ人は帰ってこないのに……」
お姉ちゃんが腕に力を込めた。
「それを先輩から教わっていたはずなのに、あたしはまだわかっていなかった。おばあちゃんにもニャロメにも、あたしは何ひとつしてあげられずにみんな死なせてしまった……みんな……」
どうして、みんな死んじゃうんだろう。どうして。
生きていて欲しいのに。生きていてくれさえすれば、それでいいのに。
先輩。おばあちゃん。ニャロメ。
もう二度と、逢えないの?
「あたしが小学校の頃ね、パパが子犬をもらってきてくれたことがあったんだ。ほら、あんたが生まれるまではあたし一人っ子だったでしょ? 寂しいだろうから兄妹代わりにって」
「お姉ちゃん、犬飼ってたの!?」
あたしはびっくりして叫んだ。初耳だった。
「ふふ、そうなのよ。可愛かったわよ、ニャロメみたいに人懐っこくてさ。何を隠そう、あたしもあんたみたいにその子犬に対してはすごく過保護だったわ」
「へえ……」
「でもその子犬もね、やっぱり病気ですぐ死んじゃったんだ。哀しかったなあ、子供だからわんわん泣いてね。そしたらおばあちゃんが、『おまえとあの子犬との縁は薄かったけれど、おまえがほんとに子犬を好きでいつまでも忘れないでいたら、またきっと新しいめぐり逢いがあるから』って」
「おばあちゃんが?」
「それから間もなくだったわよ、ママがあんたを産んだの。おばあちゃんと一緒にあんたを見に行って、あたし病院の廊下で跳びはねて喜んだわ。そしたらおばあちゃん、『ほら、また新しい出逢いがあったろ』って言ってくれて」
「あたしがその子犬の生まれ変わりだっていうの?」
「あはは、そうじゃないわよ。あたしはただその時、生命って不思議だなあってそう思ったの。だってさ、子犬は死んでしまったけどまたあんたっていう新しい生命が生まれてきたんだよ。この世の中色々な生きものであふれていて、毎日のように誰かが死んでるのに、やっぱり反面毎日誰かが生まれてくるじゃない? そしてまた新しい出逢いがあって……生命ってほんとに不思議よね、一体何処から生まれてくるのかしらね?」
そして、死んだら何処へ行くのかな。
「あんたは初恋の人もおばあちゃんも、そのうえニャロメまで亡くしてしまったけれど」
お姉ちゃんの声は優しかった。
「きっとまた新しい出逢いがあるわよ。おばあちゃんの言う、新しいかたちの出逢いがきっと待ってるわ。あんたがニャロメ達のことをずっと忘れなければ、いつかまた必ず何処かで誰かにめぐり逢えるわよ」
信じていいの?
「もちろんよ」
ありがと、お姉ちゃん。ほんとにありがと。でもあたしは、ニャロメ自身に逢いたいの。
逢いたいよ、ニャロメ。今すぐにあなたに逢いたい。
お願いだからもう一度、もう一度だけニャロメに逢わせて。夢でもいいから、もう一度だけニャロメに逢わせて。
お月様。
あたしの願いをかなえて下さい。
ごめんね。
ごめんね、ニャロメ。ほんとに、ほんとにごめんね。
もっといっぱい生きていたかったよね。なのにこんなかたちで、こんな突然に死なせてしまってほんとにごめん。たくさんたくさん生きさせてあげられなくて、ほんとにごめんね。
あたしも、ニャロメにいっぱい生きていて欲しかったよ。何年も何年も、ずっと一緒に生きていたかったよ。
これだけは信じてくれる?
大好きだったよ。あたしは、ニャロメが好きで好きでたまらなかった。今までも、そしてこれからも、ずっとずっとニャロメのことを大好きでいるよ。
誰かを心から愛するってことは、その人にいつまでも幸福に生きていて欲しいって願うこと。
ニャロメは、あたしにそう教えてくれたんだね。
力が、欲しい。
たったひとつ、たったひとつだけ、眼の前にある小さな、だけどかけがえのないたったひとつの生命を護れる、そんな大きな力が欲しい。
護るなんて言葉、簡単に言っちゃいけない。
あなたは護れるの? 好きな誰かを、そのすべてを本当に全身全霊かけて、あなたは護りぬくことが出来るの?
それから風の便りに、新村さんがお兄さんの説得に負けて一緒に東京へ行き、やがてアメリカへ渡ったことを知った。
あの人は、ニャロメやあたしのことをどんな風に思っているのだろうか。まさかあの事件を当事者が忘れるわけがない。そうでしょ、新村さん。
ずるいよ。ずるいよ、新村さん。あなたはあたしの心をズタズタにしたまま逃げ出したんだ。あたしのこともニャロメのことも考えなくてすむ、知らない国へ行って何もなかったような顔をして暮らすんだ。
あなたはそれで本当にいいの? 何もかも忘れて生きていくなんて、本当にそんなことが出来るの?
あたし、あなたに訊きたかった。ひとつだけでもいいから訊きたかった。ねえ、どうしてあたしを狙ったの? どうしてニャロメを殺してしまったの?
ねえ。
あなたは本当に忘れられるの?
「赦せって言うの? パパ、あの人を赦せって……」
あたしは眼に涙を浮かべ、身体を震わせた。
「殺されたんだよ、パパ。ニャロメはあの人に殺されちゃったんだよ。なのに、どうしてあの人を赦さなくちゃいけないの? どうして……」
「わかってるよ、菜穂子の気持ちは」
ある日、パパはあたしを書斎に呼んで、いきなり新村さんを赦してやれと言い出した。
「わかってるならそんなこと言わないで、パパ。あたし赦さないから。あの人のこと、絶対赦さないから」
「そうやって一生、あの男を憎んで生きていくつもりかい?」
パパは哀しそうな眼であたしの顔を覗き込んだ。
「菜穂子はまだ十四歳なんだよ。パパはね、菜穂子に誰かを憎みながら生きていくような生き方は、絶対して欲しくないんだよ」
「パパは赦せるの? あの人のこと憎くないの?」
「パパだって、ニャロメのことは小さな息子みたいに思っていたよ。あの男のしたことは赦せない」
「だったら……」
「だけど憎むというのはね、おまえが考える以上にとても苦しいことなんだよ。憎まれる方も苦しいけれど、憎む方だって心身ともにものすごく体力を消耗してしまう。菜穂子がそんな有様でいたら、ニャロメもおばあちゃんも哀しむよ」
じゃあどうすればいいの? パパ。
いつまで経っても忘れられない、あの日の光景と哀しみ、そして憤り。あの人にも、あたしと同じ思いを味わせてやらなくちゃあたしの心は浮かばれない。
でも。
たとえ、あたしがあの人をニャロメと同じ目に遭わせてやったとしても、ニャロメは帰ってこない。どんなにあたしがあの人を憎んでも、ニャロメは帰ってこない。帰ってはこないんだ。
あたしは必死になって走っていた。
何処を目指しているのか、どうしてそんなに一生懸命走っているのかわからない。でも、そうしなくちゃいけないという思いでいっぱいだった。
走っている場所が何処なのかもわからなかったけど、辺りは一面満開の花畑だ。でもあたしは花を眺める余裕もなくて、ただひたすら走り続けていた。
やがて眼の前に、小さな小川が現れた。その向こうに佇んでいる人の姿を見て、あたしは力の限り叫んだ。
「おばあちゃん! ニャロメ!」
おばあちゃんはニャロメを腕に抱き、あの優しい笑顔を浮かべてあたしを待っていてくれていた。
あたしも、小川のこちら側の岸に駆け付けた。はあはあ息をつきながら、でもあたしは小川を越えようとはしなかった。小川は綺麗な小石が散らばった川原に、澄んだ水がきらきら輝きながら流れていたけれど、何故かあたしは、それを越えてはいけないものだとわかっていた。
「ニャロメ……ニャロメ……」
あたしは、おばあちゃんの腕の中にいるニャロメをじっと見詰めた。涙があふれて止まらなかった。
「ごめんね、ニャロメ。ほんとにごめん」
ニャロメがミャアと鳴いた。
『ニャロメは、わかっているよ』
おばあちゃんが口を開いた。
『菜穂子の気持ち、ニャロメはちゃんとわかっているから。あまり自分を責めるんじゃないよ』
「おばあちゃん」
死んでしまっていても、おばあちゃんは変わらずに優しい。おばあちゃんはやっぱりあたしのおばあちゃんだ。大好きな大好きな、あたしの優しいおばあちゃん。
『また、逢えるから』
おばあちゃんは言う。
『あんたがいつまでも忘れないでいてくれたら、あたし達はまた逢えるから。本当のさよならなんてね、そんなものはないんだよ。さよならっていうのは、また次に逢える時までの約束なの』
「……生まれ変わるっていうこと? おばあちゃんもニャロメも、生まれ変わるの?」
『また逢えるよ。いつかきっと、きっとね』
「だけど、やっぱりさよならはさよならだよ!」
あたしは叫んだ。
「あたしは、ニャロメにニャロメのままで逢いたいの。おばあちゃんに、いつまでもあたしのおばあちゃんでいて欲しいのよ。また何処かで逢えたとしても、その時にはニャロメはニャロメのままじゃない。おばあちゃんはあたしのおばあちゃんじゃない。先輩だってやっぱり違う人間に生まれ変わっているなんて、そんなのは嫌、そんなのは嫌なの!」
『菜穂子』
「あたし、あたし我儘? いつまでも好きな人にそのままでいて欲しいなんて、そんなこと言うのは我儘なの?」
おばあちゃんはゆっくりと首を振った。
『そんなことない、そんなことはないよ、菜穂子。死んでしまった後も忘れずに、そんなにいつまでも思っていてもらって、嬉しくないなんて言うものがいるわけないよ。でもね、どんなことでも区切りというものが必要なの。生命というものは、出逢いと別れを繰返すから大切なの』
おばあちゃん。
『あんたにも、これからたくさん出逢いや別れがあるの。それが生きるってことなの。あたし達はこの世での役目を終えてしまったけれど、でもあんたがあたし達のことをいつまでも忘れないでいてくれれば、あたし達はあんたの中であたし達のままで生きていけるから。だから泣かないで、あたし達はいつだって逢えるんだよ』
「おばあちゃん!」
『きっと逢えるから。忘れないでね、あたし達のこといつまでも忘れないで……』
「おばあちゃん! ニャロメ!」
あたし達は誰も動いてなんかいないのに、おばあちゃんとニャロメの姿がいきなり遠ざかり始めた。
「嫌だ、おばあちゃん! ニャロメ! ニャロメ!」
追いかけても追いかけることが出来ない。どんどん離れていくのは、あたしの方だと気が付いた。
「忘れないよ! あたし、絶対にみんなのこと忘れたりなんかしないから! だから――だから――!」
不意におばあちゃんとニャロメのそばで、あたしに向かって手を振っている人の姿が見えた。
「――先輩!」
あたしはガバッと飛び起きた。
全身、汗をかいていた。はあはあ息をついていた。ここはあの花畑じゃない。あたしの部屋、あたしのベッド。枕元の四時をさしている時計の横には、いつか撮ったニャロメの写真。
あれから何度、ニャロメの夢を見たことだろう。ニャロメが生きていた時のこと。生き返ってきてくれた夢。でも、こんなにリアルな夢は初めてだった。夢のはずなのに夢という感じがない。本当に、まだ心臓がドキドキしてる。
「ニャロメ……ニャロメ……」
あたしは泣いた。写真を抱きしめて、ぽろぽろ涙をこぼした。
夢を見て泣いたのは、別に今日が初めてじゃない。だけど、今日の涙はいつもと違う。涙はとめどもなく後から後からあふれてくるけれど、あたしの心は今まで味わったことがないような、何とも言えない不思議な幸福感で満ちあふれていた。
あたしはそっと、ニャロメの写真の下に隠すようにして入れてあった、先輩の写真も取り出した。
「先輩……先輩……先輩……!」
好きだったの。好きだったの、先輩。あたしはあなたのことが、本当に大好きだったの。あなたにとってはあたしなんか、その他大勢の女の子の一人に過ぎなくても、あたしにとってあなたは初めて心から好きになれた、本当に大切な人だったの。でもそのことにようやく気付くことが出来たのは、あなたが死んでしまってからだった。
馬鹿だった。馬鹿だった、あたし。あなたを失ってから初めて、あなたのことがどんなに好きだったか気付くなんて。取り戻すことは出来ないのに。あなたに憧れて無邪気に喜んでいたあの頃には、もう戻れないのに。
伝えればよかった。たとえ振られても、好きですってあなたにちゃんと伝えればよかった。そうすれば、こんなにも後悔なんかしないですんだのに。あの頃のあたしは、自分がどんなに大切なかけがえのない時間を過ごしていたかっていうことに、全く気付きもしなかった。
時間なんてないんだから。今この時を大切にしなくちゃ、あたしがあたしでいられるのは今だけなんだから。
『また逢えるよ』
おばあちゃんの声が聴こえる。
『いつかきっと逢えるから。いつかきっと、きっとね』
「きっと」
あたしは泣きながら言った。
「忘れないから。みんなのこと、あたしは絶対に忘れないから。だからきっと、きっと逢おうね」
いつしか東の空が明るくなっていた。
あたしは毎日、ニャロメのお墓参りを欠かさないでいる。
パパがニャロメのお墓に植えてくれた枝垂桜は、まだ花をつけない。
「一年や二年じゃ無理さ。そうだなあ、五年くらい経てば花が咲くよ」
待ち遠しいなあ、早く大きくなって綺麗な花がたくさん咲いて欲しいな。
「京都のお寺でね、偉い武将だったらしい人のお墓から、すごい大木が生えているのを見たことがあるわ」
この間、お姉ちゃんが話してくれたっけ。
「死んじゃってもそうやって、大木の中に甦ってこの世の成行きを見詰めているのかなって思ったら、怖いと思う反面すごいなあとも思ったわ。そういう生き方も本当にあるのかもしれないわね」
ニャロメ、もしかしてあなたもこの桜の中に甦ってあたし達を見詰めてくれてるの?
「菜穂子、もしよかったらまたねこを飼ってもいいのよ。お隣のおばあちゃんも、今度おばあちゃんちのねこが子供産んだらあげましょうかって言ってくれてるんだし」
ありがと、ママ。でもね、ニャロメの代わりになれるような子にはそう簡単に逢えない気がするの。
だけど、あたしは大丈夫よ。たぶん、きっと大丈夫。
だって想い出は、想い出だけは誰にも奪うことは出来ないもの。あたしとニャロメを結ぶ小さな小さな絆は、百年経っても千年経ってもずっとずっと続くはずだもの。
それにあたしは、あたしはまだおばあちゃんが生きた人生のまだ半分も生きていない。これからまだまだたくさんの、出逢いや別れがあたしを待っている。
『それが生きるってことなの』
おばあちゃん、ありがと。おばあちゃんの孫に生まれて、あたしほんとによかった。ニャロメを飼うことが出来てよかった。先輩があたしの初恋でよかった。みんなと出逢えて、みんなと同じ時間を過ごせて、ほんとにほんとによかった。
また逢えるよね。だってあなた達は、あたしの中に今もちゃんと生きてる。眼を閉じてみんなのことを思えば、あたし達はいつだって逢える。
そして、また新しい出逢いがある。
「菜穂子、そろそろ出かけないと。入学式に遅れるわよ」
「はーい」
忘れないよ、あたし。
これからたくさんの色々な出逢いがあっても、あたしはみんなを忘れないから。
おばあちゃん、ニャロメ、そして先輩。
あたし達、また逢えるよね。
ニャロメは、わたしが昔飼っていたねこがモデルになっています。そのねこも頭が良くて寂しがり屋で、わたしにとって本当の家族の一員でした。ですからニャロメに関するエピソードは殆ど当時の記憶を頼りに書きましたが、そのねこが生きていたのは十年以上も前なので、ことに獣医やその治療方法などは現在とは異なっているかもしれないということをあえて断らせていただきます。ちなみにわたしのねこは、病死です(念のため)。
残っている写真の他に、ねこの想い出のよすがとなるものが欲しいと思ったのがこの物語を書くきっかけとなりました。菜穂子の祖母も特にモデルはないのですが、父や母から聴いた双方の祖母の姿がいつの間にか投影されていて、そのため前書きにねこと祖母への言葉を書かせていただきました。また菜穂子の名前も、友人の娘の名前を無断拝借させてもらっています(Aちゃん、ごめんね。後でおごるよ。何しろとても綺麗な名前で、機会があれば使わせてもらおうと思ってたので)。
わたしは物語を作る時、たいていその物語のイメージに合う歌を頭に浮かべながら書いています。今回は一青窈さんの「ハナミズキ」がとてもよく合い、サブタイトルにも使わせていただきました。ニャロメと菜穂子の絆が、百年も千年もずっと続きますように。
この物語を書かせていただいた方々に、心から感謝しております。そして、ここまで読んで下さったあなたにも、心からの感謝を。