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第1章  はなみずき

 今でも大好きなチョビと、父方母方両方のおばあちゃんに、この物語を送ります。

「菜穂子――!」

 人の出入りが激しい家を抜け出て、暖かい春の陽気にようやくひと息ついたあたしの処に、学校の友達が駆け寄ってきた。

「ありがと、みんなで来てくれたんだね」

「お焼香だけでもと思ってさ」

「お葬式も出たかったけど、まさか授業さぼるわけにはいかないもんね」

「気持ちだけで嬉しいよ。おばあちゃんも喜んでるよ、きっと」

「菜穂子、大丈夫? おばあちゃん子だったもんね、あんた」

 うん、大丈夫。もう、いっぱい泣いたもの。

 おばあちゃんが突然倒れて亡くなるまで、あっという間だった。三日とかからずに、おばあちゃんは逝ってしまった。

「みんなに、迷惑をかけたくなかったのよ」

 亡くなった日の夜、白い布を被った、もう冷たくなってしまったおばあちゃんの周りには、親戚の叔父さんや叔母さん、従兄妹達が囲んでいた。その人達の前で、ママはぼろぼろ涙をこぼしながらそう言った。みんなは、ただ黙って頷いていた。おばあちゃんはそういう人だった。いつも穏やかで、怒った顔なんか一度も見せたことがなくて、長男のお嫁さんのママにも気を遣ってばかりいたので、かえってママの方が、

「もう少し、我儘でも言ってくれたらいいのに。わたし、お嫁に来てからおばあちゃんと一度も喧嘩したことないのよ」

 と、恐縮していたくらい。でも、おばあちゃんはそういうことが出来ない人だった。

「自分は、辛い思いばかりしていたのになあ。でも、だからこそ他の人間に迷惑がかけられなかったんだろうなあ」

 パパの話ではおばあちゃんは若い頃、いつもお姑さんにいじめられていて、だんな様であるおじいちゃんも、頑固であまり家族を大事にするような人じゃなかったらしい。

「人生の最後くらい、自分の好きなように生きてもよかっただろうに。こんなに早く逝っちまうとわかってたら、何処か温泉にでも連れて行ってやればよかった」

 でも、おばあちゃんはそんなに不幸じゃなかったはずだよ、パパ。だってもし本当にそうなら、あんなにいつもにこにこなんかしていなかったはずだもの。そうでしょ、おばあちゃん。

 あはは、こんなこと言えるようになれたってことは、あたしもだいぶ落ち着いてきたのかな。でもね、やっぱりまだ寂しいよ、おばあちゃん。こんなにはなみずきが綺麗に咲いていることも、今やっと気付いたくらいだから。

 今日は朝から空もとても綺麗に晴れていて、お葬式なんかよりも、ピクニックにでも行きたいような陽気だった。

「おばあちゃんたら、お葬式にまで気を遣うのね。死んだ人はみんな、涙雨を降らすっていうのに」

 ぼんやり呟いたママの言葉が印象的だった。

 おばあちゃんって、何の花が好きだったんだろう。はなみずきの白い花をぼんやり眺めながら、あたしはそんなことを考えていた。おばあちゃんの好きなもの、花、動物、食べ物……。知らない。あたしったら、孫の中で一番可愛がってもらっていたくせに、おばあちゃんのこと何も知らなかった。おばあちゃんが若い頃とても苦労していたことだって、おばあちゃんが死んでから初めて知った。ごめんね、おばあちゃん。愛されてばかりいて、あたしはおばあちゃんに何もしてあげなかったね。

「菜穂子……!」

 あたしを見詰めていた友達が慌てた。ごめん、もう涙なんか止まったと思ったのに。

 その時だ。道端の植え込みの中から、か細い震え声が聴こえてきた。

「な、何?」

「ねこ?」

 見ると、まだやっと乳離れしたくらいだと思う、本当に小さな小さな、でも薄汚れた子ねこがあたし達に向かって、訴えるような声で鳴いていた。

「わあ、かっわいい」

 中二の女の子は、みんなこういうのが大好きだ。はなみずきの下から、あっという間に子ねこの周りに集まった。あたしも、ついさっきまで泣いていたことも忘れて、子ねこのそばにしゃがみこんだ。

 一見、一時流行ったアメショーのようにも見えるけど、明らかに雑種だ。

「捨てられちゃったんだね、可哀想に」

「全く、責任もって飼えよなあ。こんなちっちゃい子捨てるなんて」

「人間だったらどうするんだよ」

 みんな、口々にこの子を捨てた飼い主を非難した。本当に、いつからここにいたんだろう。身体(からだ)はがりがりにやせ細っているし、ずっと何も口にしていないことは、傍目からもわかった。そういえば夕べお姉ちゃんが、ねこの鳴き声がするとか言ってたっけ。

「ほっとくわけにもいかないね、どうしよっか」

「パパとママに頼んでみるよ」

 子ねこを抱き上げながら、あたしは言った。

「ええっ、大丈夫? あんたのママって動物嫌いじゃなかった?」

「平気だよ、この子一匹くらい」

 だって、放ってなんかおけないじゃない。こんなにも怯えて、小さな身体を震わせて。なのにあたしが抱き上げると、この子はぴったりと鳴きやんだの。こんなこと言うと馬鹿にされるかも知れないけれど、この子がああよかった、助かったって言ったのがあたしわかったの。笑わないで、子ねこにとって、母ねこと引き離されて知らない街に捨てられたことがどんなに怖ろしく、精神的なショックが大きかったか、捨てた人はよく考えて欲しい。もし、自分の子供が捨てられたらどうするのよ。

「大丈夫だよ、心配しないで。あたしが飼ってあげるからね」

 子ねこを撫でてあげると、わかったって答えたように子ねこはごろごろ喉を鳴らした。

 後から思うと、あたしは子ねこに、自分の姿を重ねていたのかもしれない。あたしはおばあちゃんを亡くし、子ねこは母ねこから引き離されて、お互い突然愛する者を失った者同士で、子ねこの哀れな立場が他人事には思えなかったから。それに、おばあちゃんが亡くなってぽっかり空いたこの何とも言えない心の空間を、あたしは何かで埋めたかった。おばあちゃんの代わりに愛して護ってやれるものを、あたし自身が求めていた。

「小さい子とかがさ、よくこういうの拾ってくるでしょ。そしたら絶対怒っちゃいけないんだって」

 友達の一人が、同じように子ねこを撫でながら言った。

「どうして?」

「子供が捨てねこを可哀想と思うのは、その子の母性本能を刺激するからなんだって。なのにお母さんとかが叱っちゃうと、その子の母性本能を駄目にしちゃって、将来その子が親になった時に、自分の子供を可愛いって思えなくなっちゃうんだって」

「へえ、男の子でも?」

「そうらしいよ」

「菜穂子、反対されたらこの話すれば?」

 友達と別れると、あたしは子ねこを抱いたまま家の中に入った。

「うわ、何持ってきたの? 菜穂子」

 お姉ちゃんが声を上げた。

 あたしには、十歳年上の姉がいる。香澄っていっていわゆるお年頃だけど、お見合いの話は片っ端から断ってママをやきもきさせている、親不孝娘だ。

「拾ったの。ママ、怒るかな」

「きったないなあ、たぶんね」

 お葬式の後、親戚の人達がくつろいでいるリビングへ行くと、案の定ママが露骨に顔をしかめた。

「まあ、汚い。菜穂子ったらこんな処にそんなもの持ち込んで」

「わあ、ねこだ、ねこだ」

 小学生の従兄妹達があたしの周りを囲んだ。

「捨ててらっしゃい、うちでは飼えませんよ」

「そんなこと言わないで、ママ。あたし、ちゃんと世話するから」

「いけません、家の中が汚れるわ」

「別にいいじゃないのよ、ママ。この子一匹くらい」

 お姉ちゃんが加勢してくれた。

「すぐに飽きるに決まってるわ」

 反対する親の常套文句。あたしも負けずに言い返した。

「ママ、あたしが将来児童虐待してもいいの?」

「何よ、それ」

 叔父さんや叔母さん達が笑い出した。お葬式の後の、気が抜けたような空気が一転して和やかになった。

「けちくさいこと言わなくてもいいじゃない、ママ。菜穂子もちゃんと面倒見るって言ってるんだしさ」

「でもね」

 お姉ちゃんも笑いながら言うけど、尚もママは渋った。

「いいじゃないか、菜穂子も寂しいのが紛れるだろうし」

「そうそう、あんまり何でもかんでも反対してちゃ駄目だよ、義姉さん」

 パパと叔父さん達も加勢してくれた。

 多勢に無勢で、ママに味方してくれる人は誰一人なく(所詮、よそ様のことだもの)、こうして子ねこはあたしの家に住むことになった。




「ほら買ってきたよ、キャットフード」

「ありがと、お姉ちゃん」

「ずっと離れないの?」

「うん、さっきからこのまま」

 子ねこはずっと、あたしの腕にしがみついたままだ。震えは治まっているけれど、やっぱり捨てられて本当に怖かったんだ。

「見て見て、子ねこ用もいっぱいあるのよ。買わなかったけど、ミルクなんかもあるの。あんたも後で、ホームセンター行ってごらん。色々なものがいっぱいあって面白いの」

 お姉ちゃんはそう言いながら、レジ袋から缶詰やパック、ドライのキャットフード、それにねこ用のお皿を出すと、床に古新聞を拡げて、その上にお皿を置き、パック詰めのキャットフードを開けて半分入れた。子ねこはその匂いにはっとして、急いであたしの腕から飛び出すと、飛びつくようにして食べ出した。

「可哀想、ずっと何も食べてなかったんだね」

「そうね。さぞかしお腹が空いているんだろうけど、今日はご飯全部はあげないよ。胃がびっくりしちゃうからね」

「大丈夫よね、この子。ちゃんと生きられるよね?」

 子ねこがぐわぐわ唸るように食べているのを見詰めながら、あたしはお姉ちゃんに訊いた。大人の手になら、片手でも軽々のせられる。それくらい小さくて、そしてひどい栄養失調だった。

「まあ弱ってはいるけれど、ちゃんと食べているし歩けてもいるからね。それにあんたに拾われて、精神的にも随分落ち着いただろうから大丈夫でしょ。ところで、名前は決めたの?」

「え? あ、そうか」

 何故だかそこまで考えていなかった。そうだ、名前を付けてあげなくちゃ。

「シャロンとかどう? ミスティとかアナベルとか」

 お姉ちゃんは吹き出した。

「ばっかねえ、この子オスよ。それに雑種にそんな気取った名前なんか付けてどうすんの、恥ずかしい」

「じゃあ、お姉ちゃんだったらなんて付けるのよ?」

 あたしがちょっとむっとして訊くと、

「そうねえ。あ、ニャロメでいいじゃん、ニャロメで」

「ニャロメ? 何よ、それ」

「あら知らない? 昔マンガにあったのよ、ニャロメっていう変なねこ」

「やだよ、マンガなんて」

「いいじゃない、呼びやすくて。はい、決まりね。あんたは今日からニャロメよ、ニャロメ」

 子ねこはニャアと答える。

「ほら、この子もいいって」

「やだよ、やめてよ、あたしのねこよ」

 あたしの抵抗空しく、子ねこの名前はこうしてニャロメに決まってしまった。




「ほんと、いろんなものがいっぱいあるんだなあ」

 学校帰り、寄ってみたホームセンターの片隅で、あたしは思わず溜息を漏らしていた。

 そこのペットコーナーには、ペットフードはもちろんのこと、おもちゃやブラシ、シャンプー、消臭剤、キャリーバッグやペット用のベッドやゲージ、そういったものがねこや犬用に分かれて、処狭しと並べられている。昨今のペットブームに乗って、うさぎや小鳥用もある。へえ、ねこが食べる草の種だって。

 お姉ちゃんが言ってた通り、ほんとに見てると切りがないな。面白いけれど、だめだめ、今日はキャットフードを買いに来たんだから。

 でも、そのキャットフードが並んでいるコーナーを見て、あたしは更に驚いてしまった。ドライフードや缶詰だけじゃなくて、煮干しや燻製の肉、お酒のおつまみ風のものまで、ほんとにいろんな種類のものが沢山あるからだ。

「お金足りるかなあ」

 お財布の中をのぞいてみる。あたしのお小遣い、ひと月二五〇〇円。ちなみにドライフードの値段を見ると、安いものでも五〇〇円前後する。うーん、困った。ドライフードひとつで、ニャロメの食欲がひと月分持つのだろうか。

「しようがない、お姉ちゃんに相談してみよ」

 早く帰らなきゃ。ニャロメが待ってる。

 あたしは部活に入っていないので、学校が終わるとすぐに校舎を飛び出した。でも、「ただいま」と言っても「お帰りなさい」と答えてくれる人は、もういない。それどころか、自分で鍵を開けなくちゃ家には入れなくなったのだ。おばあちゃんの部屋を覗いても、にこやかにあたしを迎えて、一緒におやつを食べたり『水戸黄門』の再放送を見たりしていたおばあちゃんは、もういない。

「でもあたし、寂しくなんかないよ。ニャロメがいるもの」

 だから心配しないでね、おばあちゃん。お仏壇にお線香をあげてから、あたしは急いで着替えると、物置に走った。

「そのねこだけで家に置いておくなんて、絶対に嫌ですからね。物置にでも閉じ込めておきなさい」

 昼間はママもパートに行っているので、ニャロメは家で一人(匹)になる。これについては、ママの意見に従うしかなかった。あたしとしても、ニャロメにいたずらされて立場を悪くしたくはなかったので、簡単な寝床とトイレを作って、言われた通り閉じ込めた。お姉ちゃんに外に出しておけばいいじゃないって言われたけれど、ニャロメってば外を異常に怖がるねこだった。

 って言うより、一人にされるとまた捨てられたのだと思うのだろう。あたしがトイレに入っている時でさえ、その前でひどく怯えた声で鳴くから、おちおちゆっくり入ってもいられない。ガタガタ身体を震わせ、大きな眼を更に大きくして、一人にしないで、僕を連れてってと言ってるみたいにほんとに怯えているの。今朝、物置に入れる時だって、ほんと大変だったんだから。

 だけど、それくらいニャロメにとって、捨てられたことはものすごい恐怖だったんだね。あたしが拾うまで、ニャロメはどんな恐ろしい経験をしたんだろう。

 でも幸いなことに、うちの物置は大きな窓が付いていて冬でも結構あったかい。それにとにかく今はママの御機嫌を損ねちゃ大変だから、しばらくの間ニャロメには我慢してもらわなくちゃ。

 鍵を開けている間ニャロメは興奮したように騒いで、扉を開けるとあっという間に飛び出し、あたしの足にまとわりついて更に鳴いた。

「わかった、わかった」

 嬉しそうに鳴き続けるニャロメを抱き上げると、あたしも何だか嬉しくなってきて家の中に入った。

 ニャロメは待ちかねていたようにあたしの腕から飛び出すと、家中をものすごいスピードで走り出した。うはー、ママに見られたら大目玉だわ。何もかもが珍しいらしく、何でも構わずに顔を突っ込むので、あたしは半開きのドアを閉めたり鍵をかけたりするのに忙しかった。

「こら、もういい加減にしなさい」

 ようやくニャロメを捕まえて抱きかかえると、もうひとつの手にキッチンから持ってきたクッキーの袋を持って、あたしはリビングに入った。ニャロメは、今度はあたしの手にじゃれ出した。

「あいたた、やめてよ」

 これじゃ落ち着いておやつなんて食べられないな。ニャロメは嬉しそうだけど。こらこら、あたしのおやつを床に落とすんじゃない。

 クッキーも食べたいから、仕方なくニャロメを解放し、テレビを付けた。つまらないドラマの再放送だったけど、ニャロメは一瞬びっくりして、画面をまじまじと見詰めた。思わず笑ったけど、ニャロメはすぐに興味を失くして、今度は食器棚と壁の間に潜り込んだ。

 あたしはちょっとほっとして、クッキーを食べ始めた。ニャロメは棚の隙間から、こちらをじっと見詰めてる。

「何してるの?」

 声をかけたら、不意にそこからととっと駆けて来て、あたしに跳びかかってきた。

「やだ、やめて!」

 あたしは思わずニャロメを大きく振り払い、そのためニャロメは床に落ちてしまって、またそのまま棚の隙間に逃げ込んでしまった。

「ごめんニャロメ、大丈夫?」

 あたしはびっくりして隙間を覗き込んだ。ニャロメはそこからひょっこり顔を突き出して、あたしの顔をまたじっと見詰めた。

 あたしはそっと手を伸ばした。ニャロメはその手に向かって、自分の前足で軽く叩くようにひょいひょい突き出してみせた。そうやってまた、あたしにじゃれついているのだ。

「気に入ったの? そこ。だったらしばらくそこにいて」

 あたしが離れかけると、また出てきていたずらしようとする。

「やめてってば!」

 あたしが怒ると引っ込み、離れるとまた出てくる。そんなことを繰り返して、ニャロメはそこを自分の居場所に決めたらしい。ううん、避難所だわね。あたしの腕の長さじゃとても、潜り込んでいるニャロメのとこまでは届かないんだもの。

 でも。

「ニャロメ……?」

 やば! 

「うわあ……やられた……」

 かすかににおうこの臭い。やだあ、ニャロメってば。

 まずい。思いっきりまずい。もう一度ニャロメを捕まえてみようとしたけど、やるだけ無駄だった。

「今のうちにちゃんとしつけなくちゃ駄目よ」

 夜、男のように一人でお酒を飲むお姉ちゃんにも注意された。

「そうじゃなくったって、絨毯がニャロメの毛で汚れるってぶつぶつ言っていたし。あの食器棚だって、ママのお気に入りばかり並べてあるじゃん」

 実はうちのママ、公私共に認めるアンティークのフェチなのだ。セーブルのティーセットとか伊万里のお皿とか、若い頃に遊ぶの我慢してせっせと貯金をして、苦心の末ようやく手に入れたものや、パパの眼を盗んでへそくりで買ったものなんかが、ダイニングやリビングの食器棚に処狭しと並んでいる。

「ニャロメがおしっこしたの、ママは気付いていないの?」

「うん、まだ」

「わかったらきっと卒倒しちゃうわよ、ママ。ねこのおしっこって臭いからね。使いもしないで、ただ来る客にみせびらかしているなんて、あたしにはさっぱりわからないけど」

「これからは気を付けるよ、ママには内緒にしててね」

 でもあたしには、女のくせに毎晩お酒を飲むお姉ちゃんもわからないんだけど。一度だけママに内緒で、勧められるままになめさせてもらったことがあるけど、あたしは絶対大人になっても、こんなまずいもの飲むもんかと思ったね。

「それは、あんたが子供だからよ」

 お姉ちゃんは、テレビのリモコンを取り上げながら言う。

「昔、あたしが小学生の頃に見てたドラマでさ、毎回必ずヒロインが女友達とお酒飲みながら、仕事の愚痴言ったり男の話して夕飯食べてるシーンがあったの。あれって大人の特権だなあ、いつかはあたしもやろうって、子供心にそう思ってね。だからあんたも二十歳になったら、あたしと飲もうよ。恋の相談にはいつでものるからさ」

 恋人のいないお姉ちゃんに相談したって、どうかなと思うけど。それよか早くいい人見付けて、結婚した方がいいんじゃない?

「やあよ、何言ってんの、あたしまだ二十四よ。やりたいことがいっぱいあるのに、今からもうオトコの面倒なんか見るもんですか(結婚=呪縛とは、お姉ちゃんの持論)。高校の時の同級生で、十八で出来ちゃった結婚した奴がいるけどさ、その子この間、スーパーのお菓子売り場で子供を怒鳴っていたわよ。子供の我儘に、親の方が逆ギレしているのよね。声かけようとしたんだけど、学生時代はおしゃれだった子がすっかり所帯染みて疲れ切った顔しちゃって、何かいけないもの見ちゃった気がしてさ、そのまま帰ってきちゃった」

 ママ、あなたがいくら頑張っても、上の娘はちょっとやそっとで片付きそうにありません。

「でもさ、このままだと負け犬扱いされちゃうよ、お姉ちゃん」

「言いたい奴には言わせておけばいいのよ。あんなのはね、夫にも子供にも満足出来なくて、こんなはずじゃなかった、あたしの人生はもっと輝いていたはずだなんて、自分の力量も知らずにひがんでる女が、他人を妬んで言い出したせりふよ。ばっかみたい、結婚式の時はこれ見よがしに自分の幸福(しあわせ)見せびらかしていたくせに、熱愛していたはずのだんなに飽きがきて、子供も期待していたわりにはろくな成績とらないなんてことになってくると、今度は独身が羨ましくなってくるのよ。人生は賭け事なのよ、どんな人生選ぼうと、それは本人の自己責任じゃないのさ」

 お姉ちゃんは大学を出た後、哲学だの人生相談だの、小難しい専門書ばかり出してる小さな出版社で働いている。そのせいか時々、若いくせに変に悟り切ったようなことを口にする。

「知ってる? 日本は高齢化社会だなんていうけど、長生きするのは今の高齢者だけだって、この間取材した記者が言っていたわよ。あたし達はせいぜい、五十歳前後であの世行きだって」

「えー、どうして」

「今のお年寄りは生まれた時から戦争とか飢餓とか、あたし達には想像出来ないような困難を乗り越えて、いわば厳しい生存競争を勝ち抜いてきた世代なんだって。だけどあたし達は、生まれた時から食品添加物だの公害だの、身体に良くないものに囲まれて育って、おまけに極端な消毒なんかして免疫力がどんどん低下しちゃってるから、お年寄りほど長くは生きられないんだってさ」

「ふーん」

「だからさあ、あと残り少ない人生、好きなこといっぱいして生きなくちゃもったいないじゃないの」

 いっつもこうなのだ、誰もお姉ちゃんに逆らえない。まあいいけど、確かにお姉ちゃんの人生はお姉ちゃんだけのものだもん。それにあたし、お姉ちゃんのこういうとこ結構好きなのよね。真似しようとは思わないけど。

「そうだお姉ちゃん、あとキャットフードのことなんだけど」

「ああ、行ってきた? 面白かったでしょ」

「うん、でもさ。思っていたよりずっと高いのね」

「あっ、そうか。確かにあんたのお小遣いじゃニャロメの食欲で破産するわね。いいわよ、あたしが買ってきてあげる」

「ほんと?」

「と言っても全部ただじゃ、あんたのために良くないから、ひと月五〇〇円ずつあたしにちょうだい」

「もっと出すよ」

「五〇〇円だって、中学生のお小遣いじゃ厳しいでしょ。あたしも鬼じゃないわよ」

 あたしは何となく複雑な想いを抱きつつ、それでもお姉ちゃんの援助を有難く受け入れた。

「でもトイレの砂なんかまで買わないよ、しつけはしっかりしなさいね」

「わかってるよ」

 遊び疲れて、クッションで気持ち良さそうに眠っているニャロメを見ながら、でもやっぱり不安だった。外に出せばあんなに怯える子が、外でトイレなんか出来るだろうか。

 翌日、今度は家の中に入らずに、あたしはニャロメを外で遊ばせることにした。幸い、うちの庭は近所と比べても広い方で、こちらはパパの趣味で木や花が沢山植えられて、おまけに小さいけど池まである。ねこが遊ぶには十分な環境だ。

 ニャロメは、あたしがそばにいるせいか怖がりもせずに落ち着いていて、さっそく庭の探険に出た。怖がっていたくせに、外への興味はちゃんとあったみたいね。あたしが後ろからゆっくりついて来るのを確かめて、周囲をかぎながら歩き始めた。

 趣味はガーデニング、なんて言ってるわりにはパパにはポリシーというものがないみたいで、いい加減な処にいい加減なものを植えてしまう。たとえば薔薇の横に何故かソテツを植えちゃうとかね。家族としては、どうせなら流行りのイングリッシュガーデンにでもして欲しいと思うのだけど(パパの書斎の本棚には、世界各地の庭園の写真集がずらりと並んでいる)。どうもパパには、整理するという基本的な感覚が欠けているみたい。でもあまり文句を言うと、真夏の炎天下で草むしりを手伝わされるので、家族は黙認せざるを得ないんだよね。

 だから我が家の庭はあまり自慢出来るような代物ではなく、特に冬は荒んだ感じさえあるんだけど、今は五月、新緑も鮮やかで一番庭が綺麗な時期だ。色とりどりの花も咲いていて、ニャロメにとっては生まれて初めて見るものばかりだろう。

 大きな眼を更に大きくして、花でも葉っぱでも、土でも、興味を持ったものは何でもしきりに匂いをかいでいる。風に揺らいだ葉に驚いて、次には飛びついて。

「楽しい? ニャロメ」

 あたしは縁側に腰掛けて、膝の上に肘をついたかっこうで、遊びまわる子ねこを見詰めていた。子ねこって不思議だなあ、何でもおもちゃにしちゃうんだね。もしあたしがいなくなればパニックになるくせに、今はあたしのことなんか気にも留めずに、遊ぶことだけに夢中になっている。

 やっぱり外に出して正解だったな。ママの顔色うかがいながら飼うのも気苦労だし、何よりニャロメがこんなに喜んでいるんだもん。それに、動物は自然の中で育つのが一番よね。

 ニャロメは池に辿り着いた。あたしも立ち上がって、そばに近付いてみる。池も、もちろんパパの手作り。一応睡蓮なんかもあって、その間を金魚やおたまじゃくしが泳ぎまわっている。ここも、今が一番綺麗な時だ。でも昔は、カエルがこんなとこにまで卵を産みには来なかったって、おばあちゃん言ってたっけ。どんどん新しい家が建って、畑も田んぼも潰されて、カエル達の住む場所もおたまじゃくしが泳ぐ場所もなくなっているからだ。

 ニャロメは、池の中をしきりに覗き込んでいる。ニャロメが生まれて初めて見た魚。おっ、先祖代々受け継がれてきたハンターの本能が目覚めたかな。でも駄目だよ、ニャロメ。金魚なんか獲っちゃったりしたら、パパに叱られるぞ。それにおまえはまだまだ小さいんだし、こんな池でも落ちたらたぶん、生命(いのち)の保証はないからね。

「そうだ」

 不意に、あたしは急いで家の中に駆け込んだ。ニャロメが慌ててあたしを追い駆け、不安そうに鳴き叫んだ。

「いちいちそんなに騒がないの。ほら戻って、さっきみたいに池のとこ覗いてごらん」

 あたしは、お姉ちゃんの部屋からデジカメを持ってきたのだ。ニャロメの写真、いっぱい撮ってあげようと思って。だって、子ねこってすぐ大きくなっちゃうし、ニャロメの成長記録をしっかり残してあげたいの。

 ニャロメはあたしのそんな想いに感動したってわけじゃないけど、あたしの姿を確かめるとまたすぐ池に戻り、言われた通り今度は丹念に、魚達の泳ぐ姿を見詰め始めた。まさか本気で獲るつもりなのかしら、この子。

「じっとしててね、ニャロメ。うん、いいよお」

 ニャロメの毛にもまわりの緑にも、さんさんと五月の光が降り注いでとっても綺麗。ニャロメは野生の血がうずくみたいで、すわったり寝そべったりしてずっと池から離れない。

「ただいま、何してるの?」

 ママがパートから帰ってきた。

「ねえ見て見て、ニャロメ可愛いでしょう?」

 相変わらず、ニャロメは金魚から眼を離さない。ママは興味なさそうだけど、それでも訊いた。

「獲ろうとしてるわけ?」

「まさか、まだそんなこと出来ないよ。でもさ、そのうちこの子が大きくなったら、池の金魚みんな食べちゃうかな」

「だーいじょうぶ、パパの金魚はねこになんか獲られるようなやわじゃないから。そうじゃなきゃ、こんなとこに十年も生きてないわ」

 そっか。この池は出来た時から近所のねこ達に狙われて、随分沢山の金魚がここからいなくなったのだけど、パパもめげず、金魚が減る度に新しいのを買ってきては池に入れていた。そんなに金魚が好きなのかというと別にそうではなくて、ただせっかく苦労して造った自慢の池に、鮮やかな赤い姿が見えなくなるのはやっぱり寂しいので、根気よくねことの生存競争を続けていた。そのうちに金魚の中にも頭のいいのが出てきて、びっくりするくらい長生きするのもいるようになった。パパは金魚の数は増やしても、それ以上の世話なんかしないのに(池の掃除は一年に一回くらいするけど)、でも何も構わない飼育方法がかえって良かったのか、金魚達は結構何年も池の中を泳ぎ続けている。

「こうして見ていると、緑の中にいる子ねこも可愛いわね」

 おっ、ママってば意外な反応。

「ほら、グラビアアイドルなんかが海辺とか草原とかでポーズしているのがあるでしょ。ママ、ああいうのどうも好きじゃないのよね。あんなのだったら、ねことか犬の方がよっぽど自然に見えるじゃない」

「ニャロメの写真集作って、ママにあげようか」

「いらないわよ」

 あら、つれないお返事。

「でも、良かったわ」

 何が?

「おばあちゃんが突然あんなことになって、あなたすっかりしょげてたじゃない。みんな心配してたのよ。あなた、おばあちゃんに一番可愛がられていたものね」

 そっか。だからあんなにあっさり、ニャロメを飼うこと許してくれたのか。

「でもねえ、どうせならこのまま外で飼わない?」

「どうしてよ」

「やっぱり心配なんだもの。うちに帰ってきたら、ママのセーブルが壊されていたなんてことになってたらどうしようって」

「心配しないでよ、ちゃんとしつけるから」

「菜穂子に出来るのかしらねえ」

 不安そうな溜息と共に、ママはレジ袋を提げて家の中に入って行った。失礼な。わかってますよお、もしニャロメがママの大事なアンティーク壊したりしたら、それこそ終わりだっていうことくらい。

 それにしても、お姉ちゃんもママもあたしのこと信用ないみたいだな。だけど正直、あたしもちょっと不安なの。なにしろ、動物を飼うなんてあたし初めてだから。いたずらはしちゃ駄目、おしっこは外でしなくちゃ駄目って、ちゃんとしつけられるかな。それともやっぱりこのまま、ママの言う通り外で飼った方がいいのかな。でもねえ、あたしがいなくなるとニャロメがパニック起こすし。

「そうだな、出来るだけ外に出しとくのがいいな」

 夕ご飯の後、相談するとパパも頷いた。

「悪いことは悪いと、ちゃんと教えてやらなきゃ駄目なんだぞ。人間だってそうだ、親が子供をちゃんと育てなきゃ、その子は駄目になっちまう。あっ、こら」

 ソファに爪を立てたニャロメの頭を、パパが軽くはたく。ニャロメはびっくりして、慌てて食器棚の後ろに逃げる。

「今は自分の子供を叱れない親が増えているけれど、そんな親は失格なんだ。飼い主だってそうだ。人間と暮らす動物には、そのためのルールを小さいうちからちゃんと教えてあげなくちゃいけないんだよ。それが飼い主の責任というものだ」

「でもパパ、ニャロメはあたしがそばにいないと、外でも遊べないんだよ」

「パパも庭仕事する時は、ニャロメ見ててやるよ。大丈夫、すぐに家の中より外の方が面白くなるさ。ねこはもともと、犬より野生が残ってる動物なんだよ」

 だけど、ニャロメがパパになつくかな。おっかなびっくりって顔でパパを見ているよ。

 でもニャロメってば週末、それこそ朝から夕方まで、せっせと庭いじりしてるパパのそばを離れなかったのだ。パパが花を植えるのをじっと見詰めていたり、掘り出されたミミズをいじめたり。いたずらして怒られてもすぐにケロッとして、パパの周りを飽きずに飛び回っている。

 お姉ちゃんがにやにやしながら、縁側に座っているあたしに近付いてきた。

「妬いてるでしょ、菜穂子」

「別に」

「うそうそ、顔に書いてある」

「うるさいなあ」

 あたしはぷいと横を向く。

 ニャロメは、好奇心の固まりみたいな時期なのだ。ちょっとでも変わったものがあると、すぐに顔を突っ込む。眼に映るものすべてが珍しくて仕方がないのだ。

「ねこも面白いわね」

 あたしに並んで、ニャロメの姿を眺めながらお姉ちゃんが言った。

「よく見てると、人間の小さな子供と同じようなことしてるじゃない。大人に甘えたり、いたずらしたり、何でもないことにはしゃいだりしてさ。あたし、いろんな動物の子供の生態比較調査して、本に書いてみようかな」

 そんなわけのわかんない本、あたしは絶対読みません。

 でもその夜、みんなでテレビ見ながら夕ご飯食べてたら、何処かの動物学者が、ねこの脳は人間の三歳児と同じレベルだなんて言ってる。

「へえ、やっぱりねえ。ようするに我が家にもう一人、子供が出来たってわけね」

 お姉ちゃんが頷きながら言うと、

「ニャロメは菜穂子の弟ね」

 ママもからかうように言った。

「でもこいつは、三歳児より知能が高いかもしれんぞ。好奇心旺盛だし、結構覚えも早い」

「そうね。それに、あたし達がご飯食べててもちっとも騒がないしね」

 お姉ちゃんの言う通り、ニャロメはテーブルの下でおとなしくしている。お魚とか、ねこの好きなものがないからかもしれないけれど。

 だけど、ニャロメはそのうちに、自分で扉を開けることを自然に覚えた。ママの大事な食器棚に、近付いちゃいけないこともわかってきた。あたしがトイレに入っても騒がなくなったし(それどころか、出てきたあたしに飛びかかるといういたずらに変わった)、一人でも平気で外で遊べるようになって、トイレの心配はいつの間にかなくなった。

「あんたの話、最近ねこのことばっかり」

 少々うんざり気味な様子で友達にそう言われるくらい、あたしはニャロメに夢中になっていた。




 不意に、あたしは視線を感じて振り向いた。

 男の人は慌てて眼をそらし、何もしてない、関係ないとでも言いたげに、ゆっくりその場を離れて行った。痩せた、陰気そうな若い男だ。あまり見かけたことないけれど、確か近所に住んでいるんじゃなかったっけ。

「ただいま、どうしたの?」

「あれ、お姉ちゃん。早いね」

「昨日遅くまで残業してたでしょ。その分、今日は仕事を早く切り上げてきたの。あんたこそどうしたのよ」

「今ね、あの人が植え込みの陰からこっち見てたのよ」

 さすがにお姉ちゃんの顔も強張って、急いで植え込みまで行き、そこから遠ざかって行く人影をじっと見詰めてから、また戻って来た。

「ああ、あいつね。気にすることないわよ」

「お姉ちゃん、知ってるの?」

「中学の時、同級生だったけど。目立たない子だったし、いじめられているなんて噂もあって、いつの間にか学校にも来なくなっちゃってね。仕事に就いても続かないとか、結婚してもすぐに別れたとか、あまりいい噂聴かないわね」

「なんて名前?」

「えーと、なんていったかな」

 よっぽど印象の薄い人だったんだ。

「新村さんちの次男よ」

「あ、ママお帰り」

「ああ、そうだ。新村だわ、新村晴彦」

 お姉ちゃんはパンと手を叩いた。ママが説明の補足をする。

「あそこの長男は外務省に入って、エリート街道まっしぐらなんだけど、次男の方がね。なかなか世間ともなじめなくて、ご両親は苦労されているって話だわね。たぶん、小さい頃からお兄ちゃんと比べられて、辛い思いして育ったんでしょうねえ」

「新村のおばさん、昔は教育ママだったもの。子供なんか普通に育てばいいのに」

「他人のことより、まずはあなたが自分の子供産んでちょうだい」

「まだ当分いりません」

 ママは溜息ついて、家の中に入った。

「ニャロメは今日も元気ね。まったく、ついこの間うちに来たばっかりで、あんなにがりがりに痩せていたのにね」

「ほんとね」

 あたしは、雨上りの庭を走り回っているねこに眼を向けた。もうすっかりうちにも慣れて、行動範囲もどんどん拡がってきている。もうあたしやパパがそばにいてもいなくても、全然平気で勝手に外へ出て遊んでる。むしろあたしの方が、ニャロメの後を追い駆けていることが多い。

「あんたも、将来は過保護な母親になりそうねえ」

 あきれたようにお姉ちゃんが言う。

「だって心配なんだもの」

「いつまでも心配ばかりしていたって、きりがないわよ」

 お姉ちゃんは笑いながら、家の中に入って行った。

「ニャロメ、おいで」

 あたしは煮干しの袋を取り出した。ニャロメが小走りでやってくる。初めの頃は食べる時、いつもぐわぐわ(うな)っていたけれど、飢える心配がなくなっていつの間にかそんなこともなくなった。毛並みもいいし、すっかり育ち盛りだ。

「ニャロメ」

 もっとおくれとねだってくるニャロメを、あたしは抱き上げた。

「ニャロメ、あんたは、あんただけは突然逝ったりなんかしないでね。もし車に轢かれても、絶対死んだりなんかしないで。そして必ず、あたしのとこに帰ってきてね」

 ニャロメはその言葉がわかったのかわからなかったのか、ちょっと暴れてあたしの腕から逃げると、煮干しの袋に顔を突っ込んだ。あたしはちょっと溜息をついて、新しい煮干しを出してやった。

 お姉ちゃんの言う通り、確かに過保護なのかもしれない。あたしがニャロメに言ったことは、大げさなのかもしれない。だけど、もう嫌なのよ。大好きな人が、突然この世からいなくなってしまうのは。人間だってねこだって、ずっと一緒にいたいって思うのはみんな同じよ。そうでしょ、おばあちゃん。




「ニャロメ?」

 ある日、家に帰ってくるとニャロメの姿が見えない。

「ニャロメ、何処にいるの?」

 この頃は物置には鍵をかけず、ニャロメが自由に出入り出来るようにしている。そしてあたしが学校から帰ってくると、ニャロメは必ず庭の何処かで、あたしの帰りを待っててくれてる。いつの頃からかニャロメは、そういう習慣を自然に身に付けた。

「ニャロメを見てれば、おまえがいつ帰ってくるかがわかるよ」

 いつかの日曜日、友達と遊んで帰ってくると、パパが言った。

「俺達が、おまえの足音なんか全く聴こえないずっと前から、ニャロメが玄関にすわって待ってるんだよ。不思議だよなあ、何でわかるんだろう」

「きっと動物って、テレパシーがあるのよ」

 お姉ちゃんも同意した。

「あたしの友達で犬飼ってる奴がいてね、その子が言うのには飼い主の車の音も聴き分けるらしいのよ。友達も看護師やってて帰宅時間がバラバラだから、家族は犬の様子で『あ、そろそろ帰ってくるな』ってわかるんだってさ」

 今日も、そうやって迎えてくれると思ってたのに。なのに、何処にもいない。なんで? どうして?

 気になって、ちょっと近所を回ってみた。ニャロメはずんずん大きくなって、成長に従い行動範囲も広くなってるから。でも、やっぱりいないわ。まさか、車道の方に行っちゃったんじゃないでしょうね!? 慌ててそこまで行ってみたけど、幸いねこが轢かれたような跡は残っていない(縁起でもないわ!)。考え付く限りの処を歩き回ってみたけれど、やっぱりニャロメの姿は何処にもいない。

 ふと顔を上げると、あの新村さんが物陰からこっちをじっと見ていた。……嫌な感じだなあ。お姉ちゃんは気にしなくてもいいって言ってたけど、やっぱり何か変だよ、あの人。

「ニャロメがいないの?」

 ママが帰ってきた。

「そんなに心配しなくったって、そのうちに戻ってくるわよ」

 だって、こんなに長い時間家にいないのって初めてだよ。

 お姉ちゃんやパパが帰ってきても、夕ご飯の時間になっても、ニャロメは戻ってこない。

「どうしたんだろ、ほんとに」

「何処かいい隠れ場所でも見付けたんじゃない?」

「あんまりそう神経質になるな、ニャロメにも友達が出来たんだろう」

 そんなこと言われても。

 気持ちが落ち着かないよ。やだよ、やだよ、ニャロメ、早く帰ってきてよ。帰ってきてくれないと、あたしがどうにかなっちゃう。また大切な人を失くすという哀しい想いをさせられそうで、あたしおかしくなっちゃうよ。

 たまらなくなってきて、あたしはもう暗くなった庭に飛び出した。

「ニャロメ、何処?」

 もしかしたら、すぐそこまで戻ってきてるかもしれない。もう一度近所を歩いてみよう。そう思ってもう鍵がかかっている門扉を開けた時、あたしの手は凍り付いた。

 いるのだ。また、あの人が。昼間だって、住宅街というのはそんなにも人が大勢歩いているわけじゃない。しかも大抵の家が夕ご飯を済ませているようなこんな時間に、通るのはせいぜい残業で遅くなったサラリーマンくらいだろう。それなのに街灯の下、あの新村さんはその明かりと同じようなぼんやりした表情で、そこに立っている。この人は、今までずっとそうしていたのだろうか。

「菜穂子!」

 お姉ちゃん。

「何してるの。駄目だよ、女の子がこんな時間に外へ出ちゃ」

「あの人」

 声が震えていた。

「え?」

「あの人が、いるの」

 さすがにお姉ちゃんの顔も強張った。でもそこは同級生だからか、すぐにきっとした顔になると道に飛び出して行った。

「新村!」

「お姉ちゃん、駄目だよ!」

 あたしも慌てて追いかけた。

「ちょっと新村、あんた何なのよ」

「何だよ」

 初めて聴く声。やっぱり暗い。

「いつもそんなとこでうちの方見てて、薄気味悪いじゃないの。何か用でもあるの?」

「うるせえな」

「用事があるのならそう言えばいいでしょ」

「関係ねえだろ」

「何が関係ねえよ。ちょっと、待ちなさいよ」

「お姉ちゃん、やめて」

 新村さんはそのまま行ってしまった。

「なんで止めるのよ」

「変に刺激したらかえって何かされるかもしれないじゃない」

「あんな奴に何が出来るっていうのよ」

 お姉ちゃんは忌々しそうに鼻を鳴らした。

「とにかく家に入ろう。自分ちの庭っていったって、こんな夜遅く中学生がうろうろするもんじゃないわ」

「でもニャロメが」

「あんたほんとに、ニャロメのこと大事に思っているんだね」

 お姉ちゃんがにっこり笑った。

「大丈夫よ、きっとひょっこり戻ってくるから」

 そう言ってぽんぽんと、お姉ちゃんはあたしの頭を軽くはたいた。




「菜穂子、菜穂子」

 ママが呼んでる。それよりも先に耳に入った鳴き声で、あたしはベッドから飛び出した。

「菜穂ちゃんのねこだったんですって? ごめんなさいね」

 朝も早くから、回覧板を届けに来たお隣のおばあちゃん。その足元で、ニャロメがケロっとした顔でニャアニャア鳴いている。

 うちのお隣は有森さんといって、おじいちゃんとおばあちゃんの二人暮らし。遠くにいる子供達が一緒に暮らそうといくら言っても、有森さんは友達も多く(もちろん、うちのおばあちゃんもその一人だったの)、住み慣れたこの街を離れようとはしないのだと、いつだかおばあちゃんから聴いたことがある。

「うちのねこ達に混じって遊んでてね、人にも慣れているし家の中にも上がってきたんで、何となく夕べはうちに泊めちゃったんですよ。菜穂ちゃんのねこだってわかってたら、昨日のうちに送り届けてあげたんだけど」

「ううん、こちらこそ迷惑かけてごめんなさい」

「ほんとにすみませんねえ、まあニャロメったら何処へ行ったのかと思えば」

 そう言って笑うママの横で、あたしはぎゅっとニャロメを抱きしめた。そうね、ニャロメ。あんたは絶対、あたしのそばからいなくなったりしない。あたしと約束したんだものね。

 しかしニャロメはそんなあたしの気持ちも知らず、さっさとあたしの腕から逃げると、キャットフード目指して小走りに家の奥へ走って行った。




「ニャロメったらこの頃行儀悪くなったわね」

 ママが顔をしかめた。

 今夜の夕ご飯はお刺身。ニャロメにねだられるままに、あたしは自分のお皿から空いたお刺身のパックの中にいくつか取り分けてやる。お姉ちゃんも、少しおすそ分けしてくれた。

 ニャロメは初め、おねだりなんかしなかったんだけど(考えてみるとこれってすごいことよね)、こういうお刺身とか鶏肉とか、あるいは焼き魚の骨なんかでも、ご飯の時にニャロメの好きそうなものがあると少しずつあげているうちに、「おねだりはしてもいいこと」とニャロメが覚えちゃって、今はあげないとニャアニャア騒ぐようになっちゃった。

「料理の時もうるさくて。嫌になっちゃうわ」

「ご飯の後であげればいいのに」

「だって、一人だけ食べないで待たせるなんて可哀想じゃない」

「菜穂子、あんまり甘やかすのは良くないよ」

 ニャロメが一番好きなのは、やっぱりお刺身かな。特にマグロとかイカとか。イカなんてもう眼がないっていう感じ(でもイカって、あまりねこに食べさせるの良くないって聴いたような覚えが)。意外なのは海苔だ。海の匂いがするからなのかな、パリパリ食べてる。お寿司はさすがにわさびが付いているので、端の方を切り取ってあげている。そうそう、この間蒸し暑い日にアイスクリーム買ってきて、ニャロメが暑さでのびているからためしにあげてみたら、

あっという間に夢中でなめちゃって、やっぱりニャロメの好物になっちゃった。

「アイスなんかあげたの? 馬鹿ねえ」

 ママが声を上げた。

「馬鹿って何よ」

「あまり贅沢なこと覚えさせないでちょうだい。いくらニャロメが頭良くても、お前の教育でだらしなくなったらどうするの? そうじゃなくても、きゃあ!」

 お刺身をぺろりと食べたニャロメは、いきなりママの膝に向かって跳びかかった。後ろ足で立ち上がって、前足でママの膝をパンパンはたくのだ。

「もう、最近いつもこうなのよ」

 ママが膝を払いながらぼやいた。

「俺はやられたことないぞ」

「あたしも」

「ママにしかしないんじゃない?」

「なんでわたしだけなのよ」

 すると、お姉ちゃんが吹き出した。

「犬ってさ、飼い主の家族に順位を付けるんだって。もしかしてねこもそうなんじゃない?」

「順位?」

「そう、家族を群れと考えて、リーダーと認めた順にランクを付けるのよ」

「じゃあもちろん、うちではあたしが一番よね」

 あたしがそう言うとお姉ちゃんも頷いて、

「そうね、二番はパパかな。しつけ役としてね」

「ちょっと待ってよ、お姉ちゃん。あたしがニャロメの飼い主でしょ」

「あんたは甘やかしているだけでしょ」

 あたしがふくれるのも構わずに、お姉ちゃんは続けた。

「あたしは三番でいいわ、時々の遊び相手だから。でもママ、その次はニャロメで最下位はママよ」

「なんで最下位なのよ」

「ママはニャロメを可愛がらないし、だいいちさっきみたいなことをされるのママだけよ。ニャロメは『おまえどけ、俺はおまえより格上なんだぞ』って言ってるのよ」

「やーい、ママ最下位」

 パパが爆笑した。あたしとお姉ちゃんも、お腹を抱えて笑った。ママはさっきのあたしよりふくれて、しばらく口をきかなかった。

 ママはよっぽど悔しかったらしくて、翌日から何とかニャロメを自分にもなつかせようと、朝のお味噌汁でおだしに使った煮干しを、ニャロメに食べさせるようになった。食い意地ばかりが一人前のニャロメは、ママの作戦にまんまと引っ掛かって跳びかかるのをやめた。




 ニャロメは日々成長していく。

 いつの間にか縄張り意識に目覚めたらしく、うちの庭に近所のねこが入り込んだのを見付けると、ご飯の途中でも何でも放り出して、喧嘩をしに行く。勇ましいけど、でも弱い。自分から仕掛けるくせに大抵負けちゃう。それでも我が家を、自分の縄張りを護るためなら、自分よりずっと大きくて強い相手でも立ち向かっていく。

「いやあ、ニャロメも男だねえ」

「呑気なこと言わないでよ、お姉ちゃん。怪我して帰ってくるのに」

「仕方ないでしょ、ねこ達の社会に人間は踏み込めないわ」

「あたしやっぱり、ニャロメを外に出さなければ良かった。そうすれば、他のねこと喧嘩なんかしないですんだのに」

「ばーか、過保護もいい加減にしなさい」

 ニャロメはそんなあたしの心配をよそに、今日も外へ飛び出して行く。

 でもそれからすぐに、案の定あたしの心配は当たってしまった。土曜日、この近所のボスねこにやられたらしく、右の前足を地面につけないよう折り曲げて、ひょこひょこしながら帰ってきた。そしてそのままリビングのソファの上に丸まって、その日は何も食べなかった。

「大丈夫さ、そんなに心配しなくったって」

「でもパパ」

「動物にも人間にも、生まれながらに備わった自然治癒力っていうのがあるんだよ。動物はみんなああやって動かずに、自分の力で傷や病気を治すものなんだ。いいから、そっとしておいてやりなさい」

「ニャロメは、あんたが思っているよりずっとしっかりしているよ」

 お姉ちゃん。

「ニャロメを信じてあげるのも、飼い主には必要なことよ」

 あたしは思わず顔を赤らめた。

 確かに色々なことがあって、あたしは少し臆病になっているのかもしれない。そのためにカリカリして、神経質になって。お姉ちゃんの言う通りだ、あたしはもう少しニャロメのことを信じてあげなくちゃ。

 ニャロメは丸くなったまま、よく眠っている。

 でも次の日曜日、ニャロメは更に具合が悪くなってしまった。身体が熱く感じられるし、傷も膿んで腫れ上がっている。

「やっぱり、昨日のうちにお医者さんに連れて行けば良かったんだよ。ニャロメが死んじゃったらどうするのよ」

 あたしは興奮気味に、パパとお姉ちゃんを責めた。

「馬鹿、縁起でもないこと言うもんじゃない」

「とにかく、動物病院に連れて行かなくちゃなんないわ」

「日曜にやってるとこなんかある?」

「手当たり次第に電話すれば、何処かで診てくれるわよ」

 タウンページ持ってきて、動物病院の項をめくった。お姉ちゃんはスマホで、あたしは家の電話で(あたしもスマホ欲しくてたまらないんだけど、高校生になるまでは駄目って言われてる。高校生になれば、自分でバイトして料金払えるからって。でもさ、今時、携帯もスマホも持ってない中学生なんかいないよお)、片っぱしから電話しまくった。でも意外とこういうとこって冷たくて、つながらないとこが多かった。やっと「すぐ連れてきて下さい」って言ってくれた病院は、うちから電車で三十分も離れた街にあった。

「パパ、車出して、車」

 あたしはニャロメを抱え上げた。ニャロメは周囲のただならぬ空気を察して、不安そうに鳴き始めた。

「大丈夫だよ、ニャロメ」

「後でキャリーバッグ買ってこなくちゃ。こういう時はやっぱり必要よね」

「菜穂子、ニャロメ離すなよ」

 車に乗るとますます不安が増したみたいで、ニャロメは落ち着きがなくなった。あたしは、ニャロメを抱く腕に力を入れなければならなかった。

 病院は普段の日曜日は閉まっているけれど、ニャロメのためにわざわざ開けて待っていてくれた。先生は顔中髭だらけで年齢はわからないけれど、声からすると三十代後半くらいかな。

「ねこちゃんはねえ、すぐ喧嘩しちゃうからねえ」

 などと言って、先生自身も相当な動物好きみたい。でも後でお姉ちゃんが言っていたけど、獣医だからといって必ずしもみんなが動物大好きってわけじゃなく、中にはひどいのも沢山いるらしい。そういえば、人間のお医者さんにだっていい加減なのがいるもんね。

「いやあ、この子ニャロメちゃんっていうんですか。懐かしいなあ、僕も赤塚不二夫のマンガは子供の頃よく読んでましてねえ」

「今のマンガはああいう個性的な、純粋な面白さがないんですよ。あたしも昔のマンガばかり読んでるんです」

「日本の人達はみんな、トキワ壮の方々に育てていただいたようなものですよ。あの方々がおられたからこそ、今の日本の文化が成り立っているんです」

 お姉ちゃんと昔のマンガの話に盛り上がりながら、ニャロメの診察をしている。

「おい、何の話してるかわかるか?」

 二人の会話はどんどんマニアックになってきて、パパがあたしに囁いてきた。ニャロメはずっと怖がっているけれど、大丈夫、あんたはいい先生に出逢えたみたいだよ。

「うん、確かにこの子ちょっと熱がありますね」

 先生は体温計を見ながら、

「傷からばい菌が入ったんですね。でも心配はないですよ。傷口を消毒して、それから注射もさせてもらますね」

 あたしはそこにしゃがみ込みたい衝動にかられた。でも、ニャロメがあたしの腕にしがみついて離れないので、かろうじてそれをこらえた。

 ニャロメはさっきから身体をぶるぶる震わせている。あたしの腕の中に顔を突っ込んで、必死に注射の痛みに耐えているのがいじらしい。

「ニャロメってばほんとに三歳の子供みたい。ほら、お母さんにしがみついて予防注射に必死に耐えているみたいな」

 お姉ちゃんが笑うと先生も頷いた。

「こんなおとなしい子、僕も初めてですよ。この間のワンちゃんなんて身体がばかでかいわりに暴れてね、家族総出で抑えてもらってやっと治療したんです。あれはほんと大変だったなあ」

 その後も先生は、おとなしいなあ、助かるなあを連発し、さかんにニャロメを褒めちぎりながら治療を終えた。ニャロメは右の前足に包帯を巻かれ、あたしの腕に戻ると今更のように興奮して鳴きだした。

「とりあえずまた明日来て下さい。もう一度消毒しますのでね。今、お薬も用意しますからね」

 そう言って先生がいったん奥へ引っ込むと、やがてそこからガーガーという音が聴こえてきた。

「薬を包装してるんだよ」

 パパが教えてくれた。

「はい、五日分になりますね」

 先生はスヌーピーの絵の付いた袋にニャロメの名前を書き、包装された白い粉薬をその中に入れた。

「ミルクにでも入れて飲ませて下さい。直接口に入れるのは難しいだろうから。それからこれ」

 先生は、ニャロメの首に青いプラスティックのカラーを巻いた。

「何ですか、これ」

 お姉ちゃんが訊いた。

「エリザベス=カラーっていうんです。ほら、中世のお姫様なんかが付けてる、大きなレースのカラーに似てるでしょ」

「あー、ほんとだ。世界史の教科書に肖像画が載ってた、英国のエリザベス一世が付けているのに似てる。きっとそれから名付けたのね」

「傷口をなめさせないようにするためのものなんです。ねこって身体をなめる習性があるでしょう。良くなるまで外さないで下さい。あとこの子、ノミがいますね」

 あたしは顔を赤らめた。

「あたしってばニャロメの心配ばかりしてるくせに、そんなことには気付かなくて……」

「大丈夫、いい薬があるからね」

「でも、高いんでしょう?」

「うん、そうだね。薬に限らず、動物の治療っていうのはお金がかかるよね。最近では、動物の保険なんてものも出てるけど」

「大丈夫、パパが出してあげるから」

 パパが言った。

「おまえが心配することはないんだよ」

 でも、やっぱり落ち込んだ。あたし、ニャロメの飼い主なんていっても、こういう時には何も出来ないんだ。せめてあたしが高校生で、バイトでもしていれば薬のお金くらい出せたのに。でも中学生のお小遣いじゃ、キャットフードがやっとだわ。それだって、お姉ちゃんが殆ど出してくれてるし。

「ああそうだ、予防注射もまだだったらした方がいいですよ」

「え、ねこにもそういうのあるんですか」

「あります。これ、パンフレットなんですけどね」

 先生は親切に、受付に並べてあるパンフレットをいくつか自分で選んで、お姉ちゃんに渡した(あたしはニャロメを抱えているから)。

「三種混合ワクチンっていうんです。ねこ特有のウイルスの病気を予防してくれるものなんです。ニャロメちゃんは他のねこちゃん達と交流があるから、早めにした方がいいですよ」

「うわあ、ねこにも糖尿病とか高血圧とかあるんですか」

 お姉ちゃんがパンフレットを拡げながら声を上げた。

「ありますよ。犬でもねこでも、人間並みにいわゆる生活習慣病にかかります。でも日頃から飼い主がねこちゃんの様子をよく見て、健康チェックを心掛ければいくらでも予防出来るし、その分長生きも出来ます。人間だって太り過ぎに気を付けたり、人間ドッグを受けたりするでしょう。それと同じことですよ」

「ほんとにいい先生だったわねえ。ニャロメの主治医はあの人に決まりね」

 帰りの車の中で、お姉ちゃんはしきりに先生を褒めた。

「あの人きっと、『動物のお医者さん』読んで獣医になったのよ。庭にシベリアンハスキーがいたもの」

「どうしたんだ? 菜穂子。元気がないね」

 パパがバックミラーを見ながら声をかけた。

「あたし、いいのかな」

「何が?」

「ニャロメの飼い主があたしで、ほんとにいいのかな。だってこんな時、あたし何も出来ないんだよ。お医者さんのお金はパパが払ってくれたし、キャットフードだってお姉ちゃんが買ってくれるじゃない。それにあたし、ニャロメの身体のことなんて何も考えてなかった。ほんとはニャロメを拾った時に、先生に診てもらわなくちゃいけなかったのに、そんなことにも気付かないで……」

 前に座っているパパとお姉ちゃんは、互いに顔を見合わせた。パパは車を運転しているので、すぐに視線を前に戻したけど。

「嫌ねえ、何を落ち込んでいるの? あたし達、ねこ飼うの初めてで何も知らなかったんだもの、仕方ないでしょ」

 お姉ちゃんが言う。

「それにさ、いくらニャロメのためとはいえ、ニャロメにとって先生はひどいことする怖い人にすぎないのよ。ああそうか、考えてみると獣医も因果な商売よねえ」

「さっき、ニャロメがおまえにしがみついて離れなかったこと忘れたのかい? ニャロメが一番頼りにしてるのは菜穂子だよ」

 パパも言った。

「いくらニャロメを飼うのにお金がかかろうと、ニャロメにはそんなことわからないし関係ないんだよ。ニャロメにとって大事なのは、誰が自分を食べさせてくれて護ってくれるかだけだよ」

 あたしは、座席の下にいるニャロメを見詰めた。あたしがぼんやりするうちに、ニャロメはそこに潜り込んだのだ。引きずり出そうとしても床にしがみついて離れないし、おとなしくしてるのでそのまま放っておいた。

 ニャロメは、あたしのことを信頼してくれてる。あたしを好きでいてくれているんだ。これは確かな事実。それなら応えなくちゃ。あたしも精一杯、ニャロメを愛して護ってあげなくちゃ。




 夏休み。

 ニャロメはお蔭様で、今日も元気いっぱいである。

「ねこはいいわねえ、毎日遊んでいられてさ」

 お姉ちゃんがぼやく。

「あんたにだって夏休みがあるしさ。ああ、でも遊べるのは今のうちよ。来年は補習と模擬テストで、夏休みも毎日学校に行かなきゃならないだろうから、来年の分まで楽しんでおくことね」

 はいはい、ご助言ありがと。肝に銘じておきますから、とっとと学校行きなさい。

 中学生だって色々忙しいんだよ。学校は宿題を山のように出してくれてるしさ。お姉ちゃんこそ夏はともかく、毎年九月には遅い夏休みを取って海外行ってるくせに。この間、部屋にウィーンのツアー案内が置いてあったぞ。

「菜穂子、お買い物行ってきて」

 ママもあたしをこき使ってくれるし。

「ママ、あたし出掛けるのよ」

「あら、何処へ?」

「図書館。宿題があるから」

「別に急ぎじゃないから帰りでいいわ。今夜、オムライスにしようと思ったら玉子がないのよ」

 あのねえ。

 溜息をついて、あたしは外へ出た。

 図書館の方へ曲がる道まで来た時、あたしは家の方を振り返った。掃除機をかける音が聴こえるけど、ママの姿は見えない。ニャロメは、庭の何処かで遊び回っているはずだ。

 あたしは、図書館とは反対の方向へ足を向けた。




 花を抱えて、あたしは行く。お小遣いをはたいて買った、白いマーガレット。花屋さんでどれにするか悩んだけれど、お店の人に訊くのは何となく恥ずかしくて、自分の好きな花を選んだ。あの人は、気に入ってくれるだろうか。

 胸をどきどきさせうつむきながら歩いて行くと、その灰色の石の前には人影があり、あたしは思わず足を止めた。あたしの足音に気付いたその人は、ゆっくりとこちらを振り返った。

「……あの子の、同級生? お参りに来て下さったの?」

 身体が震えてくる。逃げ出したかったけれど、そんなことは出来なかった。おばさんの質問にちゃんと答えることも出来なくて、頷くのがやっとだった。

「嬉しいわ、さあどうぞ」

 おばさんはあたしのために、お墓の前から退いた。あたしはおどおどしながら、急いでマーガレットを供えて手を合わせた。

「どうもありがとう、あの子もきっと喜んでいるでしょう」

 おばさんはそう言って、そっと涙を拭った。

「早いものね、あれからもう一年になるんですものね」

 おばさんに逢うのは、今日が初めてじゃない。お葬式の時、遺影の前で声も出さずに泣いている姿を初めて見た。あの時小刻みに震えていた肩が、一年で更に細くなっているように感じた。

「もういい加減、しっかりしなければいけないと思うんですよ。あの子には弟も妹もいるし、その子達のためにもしっかりしなくちゃって。でもね、やっぱり諦め切れないんです」

 あたしもそうです、おばさん。

「あの子が死んでも、昼と夜は繰返しやってくる。ご飯を作って家族を送り出し、家を掃除して、お洗濯もして……あの子が生きていた時と変わらない日常がそこにはあるのに、あの子だけがいない。あの子だけがいないんです」

 同じだ。学校もまるであんなことがなかったように、みんな以前と同じなのだ。驚くほど早くみんなはあの人がいない現実を受け入れて、それぞれ勉強や部活に勤しんでいる。哀しいけれど、でも仕方ないことなのかもしれない。誰だって、眼の前にある受験という道の曲がり角に立てば、自分のことだけで精一杯になってしまうもの。

「あの子がいなくても何も変わらない。秋も来るし、冬も春も変わらずやってくる。でもそんな当たり前のことが、わたしには辛い。たまらなく辛いんです」

 おばさんの涙が、あたしを責めているように感じる。変わらない日常の中で、みんなが少しずつあの人のことを忘れていくことを。

 それでもようやくおばさんは涙に濡れた顔を上げて、にっこり微笑んだ。

「でもあなたのように、こうしてわざわざお墓詣りに来て下さる方もいるんですもの。頑張らなくてはね。今日は本当にありがとう、感謝しています」

 おばさんは大きく息をついて、ハンカチをしまった。

「先日もあの子の友達が沢山家に来て、お線香をあげて行ってくれました。いなくなっても、あいつは俺達の大事な仲間だからって。あなたもあの子のこと、忘れないで下さいね」

 今度は家の方にも足を運んで下さいと言って、おばさんは帰って行った。あたしは結局、おばさんにひと言も言葉をかけることは出来なかった。

 お線香の匂いが立ち込めるお墓を見詰めながら、あたしはようやく声を出した。

「先輩」

 声が震えている。

「好きでした。あたし、あなたが好きでした」




 墓地を出てから、あたしは殆ど放心状態でぼんやり歩いていた。だからいつの間にか後を付けられていたことに、あたしは全く気付かなかった。そしていきなり眼の前に現れたその人の姿に、あたしは文字通り凍り付いた。あの新村さんが、じっとあたしを見ていた。

「あの」

 初めて、あたしに向かって話しかけてきた。

「話が、ある。一緒に、来てくれない?」

 ゆっくりと、言葉を選ぶような話し方だった。あたしはさっきよりも、何も言うことが出来なかった。身体を動かすことも出来なかった。たぶん顔は、真っ青になっていたと思う。

 新村さんがにじり寄ってきた。あたしの腕をつかもうとして、その時初めて全身で新村さんを拒み、逃げ出そうとした。でも新村さんは、思いがけない速さであたしを後ろから抱きすくめてきた。

「や、やだ! ママ! ママ!」

「菜穂ちゃん!」

 あたしの悲鳴を聴いて、偶然そばを歩いていたらしいお隣のおばあちゃんが駆け付けてきた。新村さんはおばあちゃんを見てあたしを突き飛ばし、その場から逃げ出そうとした。

「待ちなさい、晴ちゃん!」

 おばあちゃんが叫んだ。新村さんは全身で驚いて、立ち止まった。

「晴ちゃん、あんたいつまでそんな風にしてるつもりなの?」

 おばあちゃんの声は、怒りと哀しみに震えていた。

「辛いからって、いつまでも逃げてるわけにいかないんだよ。悔しかったらあんた自身が強くならなきゃ。お母さんをこれ以上哀しませたらいけないよ」

「うるせえ!」

 捨て台詞を吐いて、新村さんは走り去った。

「大丈夫? 菜穂ちゃん」

 あたしは地面にしゃがみ込んで、震えながら泣いていた。腕や足に、血がにじみ出ていた。

「おうちまで一緒に行ってあげるから。立てる?」

 あたしはおばあちゃんに抱えられて、泣きながら家に戻った。あんなにかいていた汗が嘘のようにひいていて、熱ささえも忘れていた。むしろ寒くて寒くて、おばあちゃんに必死にしがみついていた。

 おばあちゃんから事情を聴かされたママも、興奮して泣き出した。おばあちゃんは、ママもなだめなくてはならなくなった。

「あたしが菜穂ちゃん見てますから、警察に連絡して下さい」

 ああ、そうですねとママは涙を拭きながら、電話をかけに行った。ママにはあたしと一緒になって泣くよりも、警察に知らせたりパパとお姉ちゃんにも連絡したりさせた方が、本人の気持ちも整理出来て落ち着くだろうと、おばあちゃんは判断したのだった。

「怖かっただろうね、でももう大丈夫だよ」

 あたしとお隣のおばあちゃんは、亡くなったあたしのおばあちゃんの部屋に入った。

「ね、もう泣かないで。富貴恵さん(亡くなったおばあちゃんの名前)が見ているよ」

 あたしは顔を上げて、お仏壇に飾られているおばあちゃんの写真を見た。

「形見分けしていただいた富貴恵さんの帯、大切に使わせてもらっているよ。ありがとうね」

 おばあちゃんの遺品は殆ど処分しなくてはならなかったけど、いくつかは家族や親戚や、おばあちゃんの友達にも形見分けした。あたしとお姉ちゃんも、おばあちゃんの着物をパッチワークの得意な人に頼んで、バッグに作り替えてもらって愛用している。

「ああほら、ニャロメも心配して来てくれたよ」

 あたしが振り返ると、ほんとにニャロメがそこにいた。でも状況が理解出来ず、ちょっと戸惑っているみたいだ。

「富貴恵さんも、うちのねこをよく可愛がってくれていたよ。あの人も、こういう小さな生きものが好きだったからね。菜穂ちゃんは、富貴恵さんに似たんだね」

「そんなこと言われたの初めて」

 あたしはまだ涙をこぼしながら、それでもようやく笑うことが出来た。

「そうかい。でも富貴恵さんは、ほんとに菜穂ちゃんを可愛がっていたよね。よくあたしに菜穂ちゃんの花嫁姿を見たい、見たいって言っていたよ」

「ええっ、ほんと?」

「ほんとだよ、知らなかったのかい」

 うん、びっくり。おかげで涙が止まったよ。

「お姉ちゃんの後、なかなか次の子が生まれなかっただろ。でも、諦めかけた時にひょっこり菜穂ちゃんが生まれたから、富貴恵さんの喜び様ときたらそれは大変なものだった。富貴恵さんたらその頃から、菜穂ちゃんの花嫁姿を見るまではあたしは絶対に死ねないと言ってね。なのに、あんなにあっけなく逝ってしまって……」

 おばあちゃんは目頭を押さえた。

「ああ、すまないね。でもきっと富貴恵さん、幸福だったと思うよ。若い頃は確かに苦労の連続だったけれど、最後は可愛い孫や子供達に看取られて亡くなったんだから、それが一番さね」

 あたしの頬に、また新しい涙が流れてきた。おばあちゃん。あたしの、大好きなおばあちゃん。

「思い出させてしまったね。ごめんね」

「ううん、聴かせてもらって嬉しい」

 またひとつ、あたしの知らなかったおばあちゃんの姿を知ることが出来たんだもの。

「……晴ちゃんのことも、出来たら許してやってね。昔はあんな子じゃなかったのに」

「おばあちゃんも、あの人のこと知ってたの?」

「ああ、時々うちに遊びに来てくれてたよ。素直ないい子だったけど、色々なことがあってすっかりあの子は変わってしまった」

「いじめられていたって聴いたけど」

「そうだね。でもせめて、誰か一人だけでもあの子の気持ちを理解してくれる人がそばにいてくれたら、ああはならなかったと思うのよ。今更こんなこと言ってもなんだけどね」

「死んだおばあちゃんも、そう思っているかな?」

 あたしは、お仏壇の上のおばあちゃんの写真をもう一度見詰めながら言った。

「そうね、あの人は本当に心の優しい人だったから」

「じゃあ、二人のおばあちゃんに免じて許すことにするよ」

「菜穂子、落ち着いた?」

 ママがメロンと冷たい麦茶を運んできた。

 新村さんのお父さんとお母さんがうちにやってきたのは、夕ご飯もすませた後だった。あたしはお姉ちゃんと一緒に自分の部屋にいるよう言いつけられ、一時間ほど経ってから二人そろってママに呼ばれた。

「帰ったの?」

 お姉ちゃんが訊いた。

「ええ、嫌なものね」

 ママは溜息をつきながらアイスコーヒーを入れて、あたしの好きなストロベリータルトを切り分けた。

「あの人達、いきなり玄関で土下座してね。いくら上がってくれと言ってもなかなか立ち上がってくれなくて……幸いお隣のおばあちゃんのおかげで大事には至らなかったものの、こちらが被害者だし絶対許せないとも思っていたけど、奥さんの姿見てたら何だか可哀想になっちゃって」

 そう言いながら再び溜息をついた。

「あの男はさっき捕まったそうだよ。警察からも連絡があった」

 アイスコーヒーを飲むパパの顔色も良くなかった。

「でも未遂だから、たいした罪にはならないんでしょ。頭にくるわ」

 ぶすっとした顔で、お姉ちゃんはタルトにフォークを突き刺す。

「だけどね、あの次男のおかげでご夫婦はかなり苦労しているみたいなのよね。お隣のおばあちゃんが言ってたけど、以前から引きこもりがちで、この頃は家族に暴力も振るうようになったんですって。あの子のおにいさんとかが世話して、そういう人達をケアするNGOに引き取ってもらう話が出ていたらしいわ」

「二十四にもなった男を『あの子』なんて言うのやめなさいよ、ママ。家にいられなくなるのが嫌で、それでうちの菜穂子を襲うなんて最低よ」

「でもね、奥さんの腕や足に痣がいっぱいあるの見てたらたまらなくなっちゃって」

「まあ後は、警察に任せよう」

 こんな事件があると、せっかくのストロベリータルトもおいしくなくなる。重たい空気がリビングを包む。

 その時、キッチンからガタンと派手な大きな音がした。

「な、何!?」

 ママが慌てて小走りに駆けて行き、

「きゃあ、ニャロメ!」

 ニャロメがシンクに飛び上がって、洗い桶にたまっていた水を飲んでいた。

「ここで水飲ませるなって、何度言えばわかるのよ」

 最近のニャロメは庭の池なんかで水を飲むようになったのだけど、庭に出ていくのが面倒な時は、シンクにたまっている水をなめたりする。

「ママもいけないんだよ、水入れたままにして」

「だってお茶するから、後で食器浸そうと思ったんだもの」

 ニャロメは平気な顔で、シンクから降りると冷蔵庫の前へ行って、ニャアと鳴いた。

「はいはい、ミルクね」

「ニャロメはうちのワガママ王子様ね。ねだれば何でもしてもらえると思ってる」

 お姉ちゃんが笑った。

「ほんとよ、菜穂子が甘やかしてるから」

「みんなだって甘やかしてるじゃない」

「これ以上我儘になったら、先生のとこ連れてけば? いたずらすると注射されるぞって脅かすの」

「馬鹿、先生が迷惑だ」

 みんなが笑い出した。

 ニャロメ、あんたはうちのムードメーカーだね。

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