敗者の夏、本番
9回裏、2番バッターで最後のアウトカウントを取った瞬間、俺はキャッチャーでもチームメイトでもなく、ネクストサークルにしゃがみ込んで俯いた3番を呆然と見ていた。
キャッチャーの汐見がミットで頭を軽く叩くその衝撃が襲うまであいつしか見えてなかった。
〇〇〇
「南! 俺は約束守ったからなっ」
ウイニングボールを手持ち無沙汰にいじくり回したのち、彼女に放り投げて俺は乱暴に俺は言い放った。きれいな放物線を描いた白球は吸い込まれるように彼女の小さな掌におさまる。
どっかのミーハーな親たちが自分の息子と幼なじみに付けた名前の期待に応えるつもりはなかったものの、どうやら無意識下で洗脳されているようだ。気付けばはしゃぐ親を見る羽目になってしまった。
ちなみに俺に和也という双子の弟なんぞいやしない。
おまけに幼なじみも新体操をしていない。――野球部のマネージャーはしているけれど。
それなりの選手になった俺をからかうように、南を甲子園に連れてって、と言った。そりゃ、どっかで聞いたセリフだな、と前置きを告げたのち当たり前だ、と答えた。
……実際は、うちは甲子園常連校だ、と一言多かったが。
「泣くなよ、バカ。まだ終わってねぇんだ、これからだ。夏本番なんだからよ」
「わかってるって、嬉し涙だって。たっちゃんが甲子園のマウンドに立つなんてさ」
「…………たっちゃんって呼ぶな」
俺だって信じらんねえよ。甲子園に行くつもりだったがマウンドに立つことまで考えていなかった。もちろん白星を掴むことまで考えが至らなかった。
高校球児の夢の球場。
あまりにも泣くもんだから照れ臭くなって、昔の呼び方に戻った南に抗議の声を弱々しく上げることしか出来なかった。
目指すは頂点。
それ以外には何もない。
〇〇〇
本当に勝ったのだろうか。
集まって来たチームメイトがよく抑えた、よく堪えた、とグラブで頭や尻を叩いて行くなか俺はまだ信じられなくて伸びてきた手の隙間から電光掲示板を見上げた。
5対4、ヒット13に対して5点しか取れていない。それに対して城東高校はヒット8。内5安打は3番のあいつに打たれた。打率は5―5の10割。
ノーマークの初出場校に勝った気がしないのもすべてあいつのせいだった。
帽子を外して礼をすると甲子園独特のサイレンが鳴る。
俺が真っ先に握手を求めたら驚いてくしゃりと笑った。
――――まだ、泣いてはいなかった。
「負けたよ、次も頑張って」
整列をするため走っていった背中を見ても、まだ俺は勝った気はせずぼんやりと胸の内に広がるこの言いようのない気持ちを持て余していた。
〇〇〇
「みなみぃ、本当に勝ったんだよな?」
「何言ってんの? 勝ったんでしょ? インタビュー台にも立ったんだし」
「たっちゃん、暑さで頭やられちゃった?」
「うっさい汐見!」
いまだ、名の付けようのない感情に支配されている俺の質問に困惑気味の南と調子よくじゃれつてきた汐見。乱暴に肩を組む汐見の腕を振りほどいて、睨み付けた。
茶化してんじゃねぇよ。
「おーこわこわ、それよりメシ出来てんぞ。勝利のお祝いにご馳走だとよ。おばちゃんが張り切ってた」
甲子園常連校のうちがいつも利用するこの旅館も俺はもう3年目。来年からはいない。
甲子園シーズンになると、深夜に特別番組ができるくらいに日本中に高校野球のファンがいる。当事者である俺たちも舟をこぎつつその番組を見て、試合結果を知る。もちろん、我が校の名前もトーナメントを勝ち上がっている。
――――やっぱり、勝ったんだよなぁ。
試合が終わってもう何時間も経つというのに俺は未だに勝った実感というものが味わえなかった。
「なぁ、今日の3番って覚えてるか?」
「3番? ああ、えらい器用に打ってたよなぁ。足も速えし、気付けば2塁って…………お前まだ気にしてんのか? 打たれたこと」
旅館の廊下を歩いて、汐見のその言葉に俺は立ち止まった。
なんでもないように汐見は言うけれど、お前は気にしてないのか。気にならないのか。
聞きたいことを飲み込んだ。気にしていないなら、それをわざわざ掘り起こす必要はないと思った。
俺にとってあの3番打者はなんと表現していいのかわからないが……気持ち悪い相手だった。生理的な嫌悪感ではない、もっと違う、落ちない染みのような。
もちろんピッチャーにとって相性の悪い選手ってのはいるだろうし、ましてや高校野球。完成されてないプレイで打たれることもある。
打たれたことがショックなわけじゃない。――もちろんショックもあるが。
抑え込めなかったことに対して汐見は何も気にならないのかってことが聞きたかったのだ。
「達也? 行かねぇの?」
「いや、行く」
歩みを進める2人をよそにその背中を信じられないものを見る目で立ち止まる俺。2人が振り返ると一瞬怪訝そうな表情を見せた、それもすぐに消して俺を促すからあとに続く。
汐見は気が逸れたみたいで、それ以上話を続ける気はなくなったみたいだった。
南だけは最後にちらりと心配そうな視線を寄越したが。
食堂は美味そうな匂いで一杯だった。よだれが垂れそうになるくらいに。
試合で疲れて水分以外に何も受け付けなかった胃が、嗅覚に刺激されて急に空腹を実感してしまった。
いただきます、と口いっぱいに頬張った。
「そーいや、達也。さっきの続きだけど。打たれたこと、そんなに気にしてんのか?」
もう話すこともないかと諦めていたが汐見から話を振って来て驚いた。今を逃したらもうチャンスはないだろうと、慌てて口に入れていたものを水で流し込む。
「打たれたこと、っつーか。ラスト、3番がネクストいただろ? だからあいつからアウト取ってやる! って気合い入れたらその前に終わって…………正直、勝った気がしないっつーか。なんつーか」
「そおか? 俺はあいつに回る前に終わらしたかったけどな。お前が勝負にこだわってたのはなんとなく気付いてたけどな、俺としてはあいつにストライクゾーンは構えられないっつーか。選球眼いいから下手にボールカウント増やしてもな。最悪、敬遠って手も過ぎった。まぁ、勝負に負けて、試合に勝ったっつーことだろ」
汐見は勝手に納得している。自己完結してしまったかのようにこの話題は途切れてしまった。それを裏付けるかのように、次の試合相手のことを話し出す。汐見の長ったらしい話をBGMに俺はぼんやり思考をめぐらす。
そういうもんなんだろうか。
確かに勝負にこだわって試合に負けたら本末転倒だ。
そういう意味では汐見の意見が正しい、けど。
「達也のことだから、誰にも負けたくないんでしょ。地区大会でも練習試合でも、10割は居なかったからね、全員からアウト取ってるから。初めて抑え込めなかった打者に出逢って気持ち悪いのよ、違う?」
「そうかも、確かに気持ち悪い、すっきりしない。勝った気がしない」
「それにあっちは東日本。うちは西日本。もう当たることもないしね。大学でもそうそう当たらないだろうし、……達也の野球人生に於いて、もう対峙することのない選手に負けたからよ」
南の分析は当たってる気がする。確かにもうあいつと当たることはないに等しい。
大学で当たらなくとも、プロで。そう言う俺の恋女房はまだまだ俺を知らないらしい。苦笑いしている南はよくわかっている。
「俺、プロ行く気ねぇもん」
第一、あっちがプロに成れるかなんてわからねぇんだし。そう続けようとしたが絶叫に遮られて言葉にならない。
――はぁぁぁぁ? お前みたいな才能持った人間がプロにならず、誰が成るっていうんだよ。プロに成らない? そんな聞いてねぇよ。なんで? 俺知ってるんだからな、お前にプロアマ問わずスカウトが来てんの。おい、聞いてんのか達也!
聞こえない。
あの瞬間が脳裏でリピートされ始めたから。俺のことなど一切気にせず、汐見の説教は続く。
グラウンドに整列して握手を求めて、俺から10割をもぎ取って、それでも『負けたよ』
――――完敗だ。
これからもあいつに勝てる気がしなかった。
俺が個人での勝ち負けを意識している間、あいつはチームで物を考えていたいい証拠だ。
俺は、負けたのか……?
勝ったはずなのに勝った気がせず気持ち悪いのはチームの一員として負けたからか……?
あ、やばい。
そう思ったときにはもう遅かった。
「達也!どうしたの?」
「え、あ、俺言い過ぎたか?」
慌てる周囲に気を使う余裕など今の俺にはない。自分のなかにすとんと落ちてきた感情を受け止めるので精一杯だった。
俺は負けたのだ。
初めて負けたのだ。
悔しかった。
チームが勝って嬉しいという感情よりもあいつに負けて悔しいのだ。
のらりくらりとやってきて、チームが勝つのも、バッターを抑えるのも簡単に出来ていたから野球ってこんなもんだと思っていた。
俺はこんなにも負けず嫌いだったのか。
「くっそー」
目指すは頂点。
それ以外には何もない。
……――前言撤回だ。
全てのバッターからアウトを取る。
もうこんな悔しい思いはしたくない。
「南!」
「何?」
ぐいぐいとみっともない涙を拭って名を呼ぶと困惑した表情で見ていた。
汐見も、他のチームメイトも。
「3番のあいつ、なんつったっけ?」
「坂田、龍士……だったよ。3番ファーストの」
きっと、俺はもうあいつを越えることはできないけれど、これから誰にも負けるものか。
甲子園にきてやっと気付かせてくれたあいつに感謝して。
「もうぜってぇに誰にも負けねぇ」
呟いた言葉に、チームメイトからおお、と気合いを入れた声が揃った。
あいつが言ったように先ずは次の試合に臨むだけだ。
そして、頂点を目指す。
俺の夏はここからが本番だ。
リアリティがないなぁ、と苦笑い。
伊吹は高校野球、だいすきです。
泥臭くて、一生懸命で、プレイの一つ一つにドラマが生まれる高校野球がだいすきです。
実際に野球をプレイしたことないので、実際の言い回しとかよくわかりませんッッ、ツッコミ待ってますッッ
このお話のキーマンは『3番バッターの彼』だったり。
彼は伊吹にとってとてもとても思い入れのあるコなので。それを裏付けるかのようにある一文がこの短編のなかに盛り込まれてます。土台のお話がないのに、それを入れるのは……と悩みましたけど、消すこともできず。ひっそりと存在しております。
別サイトで『2008甲子園決勝に向けて24時間だけ』公開してたものです。
長々とすいません、ありがとうございましたッッ!