ピアノ
あの人、今頃は何をしてるのだろう……。
今日の教会に出現する事を止められて拗ねているのだろうか?天女も拗ねるのか、少し疑問に思うが。
お得意様親子がこの家を去ってから姉は母に呼び出しを受けた為(1時間くらいは説教をされるだろう)暇になった私は1人で音楽堂にあるピアノの前に立っていた。
今日の朝に出会ってから2回は私の前に現れたのだが、「天女」と言われても信じることは出来ない。ただ、彼女を見て感じた事はと問われれば、私はただ1言、「綺麗だ」と答えよう。「これが天女というものなのか」と答えになっていない答えを出すかもしれない。
ピアノを押す。調律された「ド」の音が室内に広がっていく。
小さい頃に母がよく弾いてくれていた「エリーゼのために」とかいう曲が大好きだった。母の細く白い指が鍵盤を叩く度に出る柔らかい音が大好きだった。今はもう聞けないだろうけど。あまりにも好きすぎて、友達に自慢していたような覚えがある。何度も招待して聞かせてあげたいと思った。でも、母はそれを断った。何でも許してくれる母だったから、当時の私は「何で駄目なの」と泣き叫んで彼女を困らせていた記憶もある。
懐かしいなぁ…。
椅子に腰掛ける。
鍵盤に手を乗せる。
今、私が当たり前のように取った行動でさえ、母のは美しかった。
静かに椅子に座る。音がしないくらい静かに。
鍵盤に手をかける。
「セリアの為に弾いているのだから、他の子に聞かせたくないのよ。」
そう言われた時はただ私の為だけに弾いてくれているという事実に喜んでいた。
「セリアの喜ぶ顔を見れるだけでお母さんは良いのよ。」
私の為だけに、弾いてくれる。
嬉しかった。
だからこそ、他の子に教えてあげたかった。母の柔らかい音を。優しいメロディーを。
全てを共用したかった。それだけなのに…。
「何で……。」
ゆっくりと好きだった曲を奏で始める。
母は私の演奏を好きだと言ってくれる。「セリアの優しい性格が表れてますね」と笑って。
私も好きだったよ?
お母さんが寝付けない私の為に子守歌代わりに弾いてくれて、途中で寝ちゃった私を寝室まで運んでくれていた事だって知ってるんだ。
「作曲者のベートーヴェンが愛したテレーゼさんに書いた曲なのよ。」
恋をするような心地で語る母も好きだった。
だから、弾けるようになるまで何度も何度も練習した。
でも、やっぱり母の音は出せない。
悲しい。
辛い。
こんなにも愛しているのに。
悲しい。
ベートーヴェンはどんな気持ちでこの曲を弾いていたんだろう。
切なくて、辛くて、悲しくて。
今にも狂ってしまうのではないかと思うほど、激しいメロディー。
何で母のように弾けないの?
「セリアは。」
突然名前を呼ばれた。
後ろを振り向けば、窓の外にある夕陽を背に黒髪の少女が儚げに微笑んで立っていた。
「キイナさん…?」
何でここに居ることが分かったんだろう?
考えている事が分かるはずのキイナは、私が感じた疑問に答えずに代わりに私の横に立った。
「セリアは悲しそうに弾くんだね。」
そう呟いて鍵盤を1音1音確かめるように押していく彼女も悲しそうに見える。
「キイナさんも悲しそうに見えます。」
ゆっくりとそう告げると、彼女は驚いたように目を大きく見開いて困ったように笑った。
「友達が悲しそうに弾くからだよ。」
「…誰、ですか…?」
「何が?」
「友達…です。」
「ん?」
彼女は少し考えてから、
「セリア。」
とただ1言答えた。
「天女様と友達、ですか…。」
そう呟くと、彼女は、嫌だった?と言うように私と目を合わせた。
「全然嫌じゃないです。」
彼女が嬉しそうに笑う。
やっぱり、思う。
綺麗だ。
普通に立っているだけでも物凄く綺麗なのに、笑ったりしたら、姉だって見惚れるんじゃないかと思うほど美しくなる。
キイナは見られる事をなんとも思わないのか、私の顔を見てクスリッと面白そうに笑って、鍵盤を叩きながら、
「少し弾いてみても良い?」
と尋ねた。私はその質問には答えずに代わりに席を立った。
キイナはにこりと微笑んで、ゆっくりと椅子に座った。
あれ?
一瞬、懐かしい感じがした。母と同じように座ったわけではないのに。
そんな事を考えている間に彼女はさっきまで私が弾いていた曲を奏で始めた。
綺麗…。
型にはまっていない自由な演奏。
流れるように、滑らかで、かつ優しく。
彼女の綺麗な白い指が鍵盤の上で踊る。
母とは違う華やかさと柔らかさ。
聞きほれるという人の気持ちが分かった気がした。
優しい。
切ない。
悲しいんじゃなくて、華やかな切なさがある。
柔らかい。
音が広がる。
突然演奏が止まった。
「えっ?」
キイナと私の驚いた声が重なる。
「泣いてるの……?」
えっ?
自分で頬に手を這わせる。
指がかすかに濡れた。
泣いてる……?
「何で…?」
キイナは私の質問には答えずに代わりに私の頬に自分の白い指を滑らせた。
あ……。
「冷たい…。」
そう呟くとキイナは悲しそうに笑って、
「天女だから。」
と言った。
その顔はあまりにも悲しすぎて、胸の奥の方がきゅうっと締め付けられたような気がした。
「泣かないで。」
そう頼む彼女も悲しそうに、笑う。
「あなたも泣きそうです。」
彼女は一瞬キョトンとした顔を見せると、クスクスと楽しそうに笑った。
そう。
天女のあなたには綺麗な偽りのない笑顔がよく似合う。
「涙の痕、付いてる。」
彼女は何でもないように親指で私の目尻を拭ってくれた。
「ほら、笑って。」
私は彼女の要望に答えられるように、精一杯の笑顔を見せた。キイナは少し悲しそうな顔を見せたが、次には笑顔が彼女にはあった。
「また来るよ。」
そして彼女はまた消えていった。