婚約者
その話はあまりにも唐突で、どんな顔をしていれば良いのか分からなかった。
時は遡り、11月3日日曜日の午後5時(今日の午後5時)。私と姉は午後3時に訪れたお得意様を玄関まで見送りに行った。
お得意様は「自慢」の息子であるキリス・アリンジリスを連れていた。私から一言コメントをさせて貰うと、名前が長い。姉との婚約のために(とはいってもほとんど政略結婚のようなものだろうが)来たのだろうが、将来のお嫁さんが「名前が長すぎて覚えられない。」とさっきまで喚いていたのだ。変えることなど出来ない事だから仕方がないのだが、疑問に思うところはある。
だが、他は全てが完璧だった。ルックスは勿論、少し話をしただけでも分かる彼の人の良さ。そしてグランセ家よりは劣っているとしても家は有名な貿易会社で、自分はその跡取り息子。しかも芸術関係や勉学においても申し分なしときた。「良好物件」というやつだ。
私は彼が気に入ったのだが姉は「そういう奴に限って、裏の性格がかなりえげつなかったりするのよ。」とか言って首を縦に振ろうとしない。彼と少し話をした後、別の部屋に居た姉に彼の良さをどれだけ説いてもずっと首を横に振るだけ。
こんなので本当に結婚出来るのだろうか?
つまり姉の返事を聞かずにキリス達は帰ることになる。
わざわざ来てもらったのに少し気の毒に思えてくる。
だが、どんなに気に入らない奴でも「天使の微笑み」て接するのがグランセ家の女性のたしなみ。長女となればそんな顔を「作る」のは基本中の基本。
だから私と姉は揃って同じような顔をして笑い、お得意様親子を見送ろうとしていた。彼らもそんな私達に好感を抱いたらしく、もの凄い笑顔で家を出て行こうとした。
全てはキリスが起こした行動によって、変わってしまった。
突然彼は言ったのだ。
「いつ結婚式を挙げましょうか?」
私の手を取って。
「はい?」
珍しく私と姉の声が重なった。つまりは年に1回くらいの確率で合わさる私達の声が重なる程に驚いたということ。
当の本人は困った顔をしている自分の父親と、私を、綺麗な緑色の瞳を輝かせて見比べている。
何故だ?
私と姉が並んだときに分かるように彼らに母が姉の服装やら髪型やらを細かく教えていたはずなのに。
何故気づかない。
「キリス。」
凍りついたような沈黙を破ったのは父親だった。
「お前が結婚をするのはその子の隣にいる女性だよ。」
彼は意味の分からない目配せを私達に寄越した。私達は苦笑いを返したが、正直に言うと、助かった。
でも、金持ちで(人の事は言えないが)ルックスの良い男性の考えることは本当に分からないことで。
彼は一瞬キョトンとしてから、再びキラキラと目を輝かせて満面の汚れを知らない笑顔を私に見せた。
「知ってますよ。貴女は妹のセリアさんですよね?」
分かってる……。
面倒なことになりそう。
姉もそんな雰囲気を感じ取ったのか、目だけで「頑張れ。」と励ましてくれた。
励ましてくれるのは嬉しいのだが、姉自身は心の中で何を考えているか全く分からないので、安心して喜べない。
そんな事を考えている間でもキリスは手を離す様子がなく、逆に握る手が強くなっている気がする。
「あの…キリス様…?」
静かに呼び掛けてみても彼は目をキラキラと輝かせているだけで、どうして私の手を握っているのか教えてくれる様子がない。
本当に何なんだ。
「僕は……。」
そんな私の考えを察したのか、ゆっくりと話し出した。
姉と私の意識が彼の言葉に向けられる。
「セリアさんに一目惚れしてしまいました。」
……何故?
隣で笑いをこらえる姉の気配を感じる。
笑わないでほしいのだが……。
「申し訳ないのですが、キリス様は私の姉と御結婚をなさると決まっていましたので、突然変えられてしまうと我がグランセ家とアリンジリス家の予定が狂ってしまわれます。」
困ったように微笑んで柔らかく申し出に断ると、彼の瞳の輝きが増した。
……マズい…。
父親に助けてと目で合図すると彼も同じ事を考えていたのか、困った顔のまま小さく頷いてくれた。
「キリス。今日はこの辺で失礼する事にしよう。彼女達にも予定があるだろうし。」
彼がキリスの肩に手を置いて静かに告げると、キリスは名残惜しそうに私を見た後、
「分かりました。」
と自分の父親に答えて、再び私を見ながら、
「それではまた、いつか会える日まで。」
と言って綺麗に微笑んだ。
そして…。
私の手に自分の唇をおとした。
はい?
隣で姉はお辞儀をする要領で俯いて笑いを堪えている。
彼の父親は諦めたような顔を息子に向け、そして、当の本人は爽やかな笑顔で我が家を出て行った。
「意味が分からない……。」
彼の姿が見えなくなると、姉は堪えていた笑いを吐き出すように、口を大きく開けて声も上げながら文字通り、腹を抱えて笑い出した。
「姉さん。」
わざと低い声で笑い声を中断させようとしたのだが、笑い声が止まる気配がない。
「なぁに?」
聞いてくれてはいるみたいだが…。
「いつまで笑ってるの?」
……再び笑い出してしまった。
本当にいつまで笑っているつもりなんだろう?
「あら、楽しそうね。」
後ろから冷ややかな声がかかった。
振り向くと、そこには笑顔で立っている美しい女性がいた。
怒っている母だ…。
顔は笑っているが彼女が纏う雰囲気が冷たく、鋭い。
「お母様……。」
さっきまで笑っていた姉の顔が青ざめていくのがよく分かる。
「お母様は下品な事がお嫌いだから。」
幼い頃に誰かが言っていた気がするが、誰が話していたのかは覚えていない。姉だろうか。
だが、下品な事が嫌いなのは間違いではない。食事を食器の音を立てながら食べることを嫌い、泥だらけになることを嫌う。声を上げて笑うなど、グランセ家の女性にあり得て良い事ではない、と考えるのだ。
さて、ここで考えなければならないのは、さっきまで声を上げて笑っていたのがグランセ家の長女だ、ということ。さっきまで笑っていた姉の顔が青ざめていくのがよく分かる。
「お母様は下品な事がお嫌いだから。」
幼い頃に誰かが言っていた気がするが、誰が話していたのかは覚えていない。姉だろうか
だが、下品な事が嫌いなのは間違いではない。食事を食器の音を立てながら食べることを嫌い、泥だらけになることを嫌う。声を上げて笑うなど、グランセ家の女性にあり得て良い事ではない、と考えるのだ。
さて、ここで考えなければならないのは、さっきまで声を上げて笑っていたのがグランセ家の長女だ、ということ。
「シャーラ。少しお話しましょうか?」
姉の体がびくりと微かに震えた。
「はい、お母様……。」
ああ…。
今度は私が頑張れと言ってさしあげましょうか、お姉様?