ストライクラブ
第1話「ボウリングレーンの天才少年」
【ヒロイン①登場】神崎蓮華(22歳)キャリアウーマン系。黒髪ロング、クールな美人OL。「教わるのは好きじゃない」が口癖。
俺の名前は橘たちばな颯太、二十歳。かつては「天才少年ボウラー」なんて呼ばれていた。十五歳でプロ試験に合格し、全日本ジュニア選手権を三連覇。マスコミには「次世代のエース」と騒がれていたが——今の俺は、都内の中堅ボウリング場『レインボーレーン』でアルバイトのインストラクターをやっている。
「橘くん、また女性客が指名してきたよ」と店長の村瀬さんが苦笑する。レジカウンターの向こうに立っていたのは、パリッとしたスーツ姿の女性だった。切れ長の目が俺を値踏みするように見る。
「あなたが橘颯太? 元プロって聞いたけど……若いのね」
「二十歳です。よろしくお願いします、神崎さん」
神崎蓮華——二十二歳、広告代理店勤務。同僚のボウリング大会に向けて「最低限恥をかかない程度」に上達したいという。スコアを見ると七十点台。フォームを確認しようとした瞬間、彼女の放ったボールが隣レーンにすっぽ抜け——
「きゃっ!」
反射的に体を動かした俺は、転倒しかけた蓮華の腰を支えた。柔らかい感触と甘い香水の匂い。顔が近い。黒い瞳が驚いて揺れている。
「……は、離して」
「あ、すみません」
真っ赤になって身を引く蓮華。「最初から抱きつくつもりだったんでしょ」と睨むが、耳まで赤い。レッスン終盤、彼女のフォームが少しだけ様になってきたとき——俺は気づいたら笑っていた。
「ちょっと、なんで笑うの」
「いえ、上達が速いなと思って。才能ありますよ」
蓮華は黙って前を向いた。でも、帰り際にこっそりと次回の予約を入れていった。
◇ ◇ ◇
帰り道、俺は空を見上げた。あの日、プロツアーを離れた理由——まだ誰にも話していない。ここレインボーレーンで、俺はもう一度、ボウリングが好きだと思えるようになっていた。
第2話「ボールより重い秘密」
【ヒロイン②登場】桐島ひなた(20歳)明るい元気娘。ポニーテール、スポーツウェアが似合う保育士の卵。天然でドジっ子気味。
「橘さん橘さん! ボールが指に刺さったんです!」
月曜の午後、飛び込んできたのは元気いっぱいのポニーテールの女の子だった。桐島ひなた、二十歳。専門学校で保育士を目指しているらしく、今日が初めてのボウリングだという。
「刺さったって……ああ、親指がサムホールにはまったんですね」
ボールを受け取って角度を確認しようとした瞬間——ひなたが勢いよく引き抜こうとして、俺の胸に顔面から突っ込んできた。
「むぐっ」
やわらかい頭頂部が俺の顎に激突する。ひなたは俺の胸に顔を押し付けたまましばらく固まった。
「……わあああ! ごめんなさいごめんなさい!」
真っ赤になって飛び退くひなた。ボールはいつの間にかレーンに転がっていた。
「大丈夫ですか、怪我は」
「こ、こっちのセリフです! 橘さんこそ……あ、ネクタイが曲がってる。なおしてあげます」
ひなたが俺のネクタイに手を伸ばす。近い。すごく近い。ミントのにおいがする。
◇ ◇ ◇
レッスンを始めると、ひなたは驚くほど素直に吸収していった。「先生みたいな人が近くにいたら、子どもたちもすぐ好きになるね」と言ったら、「……先生みたい、じゃなくて、先生がいい」と小さく呟いた。
「えっ、今何か言いました?」
「なんでもないです!」
その日から、ひなたは毎週レインボーレーンに通うようになった。
第3話「スコアと恋のストライク狙い」
【ヒロイン③登場】宮本澪(21歳)文系インドア系女子。眼鏡、編み込みお下げ。大学の文芸サークル所属、小説を書く。観察眼が鋭い。
「あの……ここ、取材していいですか」
受付カウンターに現れたのは、眼鏡をかけた女の子だった。ノートとボールペンを持ち、目が好奇心で輝いている。宮本澪、二十一歳。「ボウリング場を舞台にした小説を書いていて」と少し恥ずかしそうに言う。
「取材なら、実際に投げてみるのが一番ですよ。インストラクターがつきます」
「えっ、私……運動、苦手で」
渋々シューズを履いた澪に基本を教え始めると、彼女はやたらと観察してメモを取る。「今の指の動きがすごく特徴的で……」「フォームが流れるみたいで綺麗」——俺のことをじっくり観察している。なんか照れる。
最初のボールを投げた瞬間、澪の体が後ろに傾いてバランスを崩した。
「わっ」
支えようとした俺の手が、澪の眼鏡に引っかかった。ぽろん、と落ちる眼鏡。俺は咄嗟に屈んで拾おうとし——澪も同時に屈んだせいで、おでこ同士がゴン、と激突した。
「いたたた……」
「す、すみません……あの、眼鏡……顔が、近い……」
澪の頬が真っ赤になっている。眼鏡なしだと印象が変わる。きれいな目だ。
◇ ◇ ◇
帰り際、澪は「主人公のモデル、あなたにしてもいいですか」と聞いた。「へ?」と間の抜けた返事をした俺に、澪はノートで口元を隠しながら「……理想的すぎるから」と呟いた。
第4話「女王様はお手柔らかに」
【ヒロイン④登場】天城凛(22歳)お嬢様系。プラチナブロンドのハーフアップ、上品な立ち居振る舞い。家は大企業の令嬢だが本人は気さく。
その日、閉店間際に黒塗りの車がやってきた。
降りてきたのは……美しい女性だった。プラチナブロンドの髪、磨き上げられた笑顔。天城凛、二十二歳。後で調べたら財閥系企業の令嬢だと知って腰が抜けそうになった。
「橘颯太さん、ですわね。以前プロツアーで拝見していました。また競技の場に立つおつもりは?」
「今は……インストラクターが性に合ってます」
「そうですか」と凛は微笑んだ。「では、私に教えてください」
お嬢様らしくフォームは優雅だが、ボールのコントロールが壊滅的。ストライクを狙った一投が大きく逸れ、ガーターへ——その反動でよろけた凛の足が俺の足に絡まった。
どさっ。
気づいたら俺が床に倒れ、凛が俺の上に覆い被さっていた。お互い目が合う。俺の手は、反射的に凛の細い腰を受け止めていた。
「……まあ」と凛が言った。頬が薄く染まっている。「騎士のように受け止めてくださるのね」
「い、いや、その……つい反射で」
「ふふ。お気になさらず」
◇ ◇ ◇
レッスン後、凛は運転手を待たせながら俺に言った。「あなたはなぜ、競技を離れたの?」——俺は笑って誤魔化した。でも凛の目は、ちゃんと見透かしていた。
第5話「ガーターの向こうに見えたもの」
【ヒロイン⑤登場】倉橋なずな(21歳)ギャル系だが心は乙女。ピンクメッシュ入り茶髪、ネイルにこだわる。バイトを掛け持ちする努力家。
「ねーちょっと待って、このボール重すぎない?!」
ピンクのネイルを振り回しながら来たのが、倉橋なずな二十一歳。ノリはギャルだが、ひとつひとつの仕草に一生懸命さが滲んでいる。彼氏に「ボウリング上手い子が好み」と言われたらしく、「意地でも上手くなる」と燃えていた。
「六ポンドから始めましょうか」と俺が提案すると「え、そんな軽いやつあんの?!」と驚いていた。
練習中、なずなが勢いよく振り向いた拍子に、バッグのストラップが俺の手に絡まった。
「あっ——」
なずなが引っ張られて俺にぶつかり、俺の手がなずなの腰のあたりをつかんでいた。ウエストがほっそりしている。
「……なに触ってんの、このえっち!」
「転びそうだったから支えただけです!」
「もーっ! でも……ありがと」
◇ ◇ ◇
終盤、なずなが初めてピンを三本倒したとき、「やった! 見た見た颯太くん!」と飛びついてきた。俺の名前を勝手に下の名前で呼んでいたことに、なずなは後から気づいて耳まで赤くなった。
「……ていうか、なんで颯太くん、プロやめたの。あたし、子どもの頃テレビで見てたかも」
「……いつか話すよ」
なずなは「いつか、ね」と笑ってネイルを見せた。今日のネイルはストライクのピンの柄だった。
第6話「涙のスペア」
六話は少し趣が異なる。蓮華から「ちょっと付き合って」と珍しく遠慮がちなLINEが届いた。
閉店後のレーンに現れた蓮華は、パリッとしたスーツではなく、くたびれたジーンズ姿だった。目が少し赤い。
「仕事で大きなプレゼンを失敗した。三ヶ月かけた企画書を、上司の一言でひっくり返されて」
「……それは、つらいですね」
「慰めはいらない。ただ、投げたくて来た」
俺は黙ってボールを準備した。蓮華は無心に投げ続けた。ガーターが続いた。ピンが倒れなかった。それでも投げ続けた。
四十分ほど経ったとき、蓮華がぽつりと言った。「……颯太くんは、なんでプロをやめたの」
「……俺は」と俺は少し考えた。「パーフェクトゲームを出した大会の次の日、右手の感覚が変わって。医者には『過剰練習による神経疲労』って言われた。今は普通に投げられるけど、競技レベルの細かいコントロールが、あの頃みたいには戻らなくて」
蓮華は黙って聞いていた。
「……誰かに言えたの、初めてですか」
「……ああ」
◇ ◇ ◇
蓮華は最後の一投で、久しぶりにスペアを取った。振り返った顔は笑っていた。泣きながら笑っていた。
「ありがとう。また来ます」
「待ってます」
春の夜、レーンの白いピンが光っていた。
第7話「カーブの魔法使い」
【ヒロイン⑥登場】柊月乃(20歳)クール系魔術師キャラっぽい美少女。実は占い師の家系で、なんとなく不思議ちゃん。銀色のアクセサリーが多い。
「ここが、運命の交差する場所ですね」
月曜の昼、突然そんな声が響いた。カウンターに立っていたのは、銀のアクセサリーを重ねた女の子——柊月乃、二十歳。占い師の家系の末裔らしく、「ボウリングの軌道を読む練習をしたい」という謎の動機で来店した。
「ボールの曲がりは物理法則ですよ」と俺が言うと、「でも、意志が球道を変えることもある」と微笑む月乃。
カーブボールの練習中、月乃が指を痛めそうになって俺が咄嗟に手を取った。細い指。指先が少し冷たい。
「……あなたの手、温かいですね」
「あ……すみません、離します」
「いいえ」と月乃は言った。「しばらく、このままで」
俺はどう反応すればいいかわからず、月乃の手を握ったまま硬直していた。月乃はレーンをじっと見つめ、「……あなたは、まだここで咲く理由を探している。見えますよ」と呟いた。
◇ ◇ ◇
月乃が帰り際に「次も来ます」と言ったとき、俺は「またどうぞ」と答えた。月乃はほんの少し微笑んで「次は、あなたが笑う話を聞かせてください」と言い残した。なんで俺の内面がそんなに見えているんだろう。
第8話「元気すぎるライバル宣言」
【ヒロイン⑦登場】朝比奈ゆい(20歳)スポーツ女子。ショートカット、全力疾走系。体育大学の学生で、競技志向。颯太にライバル意識を持つ。
「あんたが橘颯太? 私、あんたに勝ちに来た!」
朝比奈ゆい、二十歳。体育大学でスポーツ科学を専攻する元気印で、「いつかボウリング競技でプロを目指す」という女の子だ。元プロの俺に教わって実力を上げ、いつか「元プロに勝つ」という夢を持っているらしい。
「俺、今は競技引退してるので」
「それでも! 現役最高スコアを超えるのが目標なの!」
熱量がすごい。レッスンに入るとフォームはいい——が、力みすぎて全部ガーターになっていた。
「脱力してください。ボウリングは力じゃなくて」
「わかってる! でもできない!」
フォームを直そうと後ろから腕の角度を修正した瞬間、ゆいが「こう?」と勢いよく腕を振った。俺の顔にゆいの後頭部がクリーンヒット。
「っいた!」
「あ! ごめんごめん——えっ、鼻血!?」
俺の顔を両手で包んで確認しようとするゆい、距離ゼロ。なんで君たちはこんな近くに来るんですか。
◇ ◇ ◇
ゆいは最後に「今日は負けたけど、絶対抜く」と宣言した。俺が「楽しみにしてます」と言うと、「……応援してくれる気、ない?」とむくれた。「してるよ、ちゃんと」と答えたら、ゆいはとつぜん照れて走って帰った。
第9話「シェフの腕前とガーターの言葉」
【ヒロイン⑧登場】結城さくら(21歳)料理上手な家庭的女子。黒髪ショートボブ、エプロンが似合う調理師専門学校生。笑顔が太陽みたい。
「橘さん、よかったらこれ食べてください。練習作なんですけど」
受付に現れた結城さくら、二十一歳は、タッパーにミニカヌレを入れて持ってきた。調理師専門学校の学生で、先週初来店して俺に教わったお礼らしい。
「……うまい」
「本当ですか! よかった——あ、ハニーのも作ったんですけど、バッグに入れっぱなしで……どこだろ」
ごそごそとバッグを漁るさくら。取り出した瞬間、タッパーの蓋が外れてハニーソースが俺の制服シャツに盛大にかかった。
「あーっ! ごめんなさい! ハンカチ……ハンカチ……拭きます!」
さくらが俺のシャツを拭こうと迫ってくる。俺のシャツのボタンに手をかけながら「脱いだほうが早い!」と言いだした。
「いや、それは……!」
「だめですか?!」
純粋な目で見つめられ、俺は返す言葉がなかった。結局シャツは事務所の洗濯機で洗い、俺はしばらく着替えの予備シャツを着て過ごすことになった。
◇ ◇ ◇
「橘さんって、ご飯ちゃんと食べてます? なんか、食事ひとりで適当そう」——さくらの観察眼は鋭い。俺の生活を心配してくれる人間が、こんなに近くにいたことに、少し胸が温かくなった。
第10話「静寂の中のストライク」
【ヒロイン⑨登場】白瀬透子(22歳)ミステリアス系。白髪混じりの薄グレー髪、物静かで感情が読みにくい。福祉施設のスタッフ。言葉少なだが行動で示すタイプ。
その日、ひとりで来た女性は名前も告げずにレーンを借りた。白瀬透子、二十二歳——名前はカード払いの伝票でわかった。
一時間近く黙々と投げ続け、帰り際に「……教えてもらえますか」とだけ言った。
「もちろん。次回、インストラクター指名でどうぞ」
翌週、透子は来た。相変わらず無口だった。でも、俺が構えを直すために肩に触れると、ほんのわずか体が強張った。
「怖かったですか。いきなり触って」
「……いいえ」と透子は言った。「ただ、人に触れてもらうのが、久しぶりだったので」
俺は何も言えなかった。
「施設では、私が触れる側なので」
透子が投げたボールがゆっくり転がり、ピンを七本倒した。透子の目が、かすかに揺れた。
◇ ◇ ◇
その後、透子は定期的に来るようになった。いつも静かで、いつもボールに向き合っていた。俺も静かに隣にいた。それだけで十分だった。帰り際、「……また来ます」という言葉が、透子の口からはっきり聞けた日。俺は、よかったと思った。
第11話「嵐の前夜祭」
【ヒロイン⑩登場】三好あかり(21歳)アイドル志望のYouTuber。ピンクベージュの巻き髪、カメラを向けると人が変わる。でも本音はすごく不安定。
「橘インストラクターーー! コラボ動画撮ってください!」
突然カメラを抱えて飛び込んできたのが、三好あかり二十一歳。チャンネル登録者十万人のYouTuberで、「ボウリング初心者が元プロに弟子入りしてみた」という企画動画を作りたいらしい。
「カメラは止めることがあるって条件でよければ」
「もちろん! 颯太さん(呼び捨て)、よろしく!」
撮影中、あかりが振り向いた瞬間に持っていたカメラが俺の顔に直撃しそうになった。避けた俺が体勢を崩し、あかりを巻き込んでレーン内に倒れ込む。あかりが俺の胸の上に乗った状態で、カメラが床でカラン、と鳴った。
「……カメラ、止めといてよかった」とあかりが呟いた。
「……同意見です」
「え、あ……これって絵的においしいよね? 使っていい?」
「だめです」
◇ ◇ ◇
撮影後、カメラを止めてから、あかりは小さく言った。「……動画、再生数落ちてきてて。正直、不安なんだよね」と。カメラの前では見せない顔だった。「次の企画、一緒に考えようよ」と俺が言うと、あかりは「……うん」と笑った。それが、カメラ越しじゃない最初の笑顔だった。
第12話「十人のスコアと一つの秘密」
前半クライマックス。レインボーレーンで「合同ボウリング大会」が開催された。村瀬店長の発案で、常連客を招いての小さなイベントだ。
蓮華、ひなた、澪、凛、なずな、月乃、ゆい、さくら、透子、あかり——気づけば十人のヒロインが勢揃いしていた。
「なんかすごい顔触れになってない?」となずなが言う。「颯太くんのインストラクター仲間?」
「全員私の生徒さんです」と俺が答えると、十人がいっせいに俺を見た。なぜかあからさまにしんとなった。
大会が進む中、俺は審判兼アドバイザーとして動き回った。転びかけたひなたを支え、月乃のカーブが決まる瞬間に「よし」と呟き、ゆいの渾身の一投を「腕の振りがきれいだった」と褒めた。
大会終盤、蓮華が俺のそばで言った。「……なんで、あなたはそんなに全員のことを見てるの」
俺は少し考えた。「みんな、何かのために投げてる。その真剣さが好きなんです」
◇ ◇ ◇
大会後、後片付けをしていると、あかりが言った。「颯太さん、本当はもう一度競技したいって思ってる?」——俺は答えなかった。でも、十本のピンが綺麗に並ぶレーンを見ながら、ずっと触れていなかった答えが、少しだけ揺れていた。
十人の笑い声がレーンに響く。俺の秘密は、まだ終わっていない。
第13話「ひなたの雨宿り」
七月に入り、レインボーレーンにも夏の気配が漂いはじめた頃。俺のシフト終わりに、外は突然の夕立になっていた。
「颯太さん、傘持ってます?」
ひなたが受付の前でうろうろしていた。今日は荷物が多くて折り畳みを忘れてきたらしい。俺の傘はひとつだけ。
「ひとつしかないので、相合傘になりますが」
「えっ、いいんですか! い、行きます!」
雨の中、俺たちは並んで歩いた。ひなたは背が低いので、俺が傘を持つと彼女が濡れそうになる。なるべく引き寄せようとしたら、ひなたが段差につまずいて俺の腕にしがみついた。
「きゃっ」
俺の腕を両手で抱えた状態でひなたが固まる。腕に柔らかい感触。顔を上げたひなたの目と、俺の目がぶつかった。雨粒がひなたの睫毛にかかっている。
「……ふ、普通に歩けます。こけただけで」
「離れたら傘から出ますよ」
「じゃあ……このままで、いいですか」
ひなたは俺の腕をぎゅっとしたまま、また前を向いた。雨が少し弱まってきた。
◇ ◇ ◇
駅の手前で雨が止んだ。ひなたは「あー、止んじゃった」とつぶやいてから、はっと俺を見た。「今のなし! 忘れて!」と言って走っていった。俺はしばらく、その背中を見送っていた。
第14話「澪の原稿と告白未満」
「読んでもらえますか。第一話だけ」
澪がプリントアウトした原稿を差し出してきた。その表情が珍しく不安そうだった。レッスン後、事務所の片隅で俺は読み始めた。
ボウリング場を舞台に、元競技者の青年が少しずつ自分を取り戻していく物語だった。主人公は笑わない。でも、来館者たちと関わるたびに、表情がひとつずつ増えていく。
「……これ、俺ですか」
「モデルにしてるって言いました」と澪は眼鏡を少し押し上げた。「怒ってます?」
「怒ってない。ただ……俺、こんなに笑ってないですか」
「最初の頃は。今は笑います」と澪は静かに言った。「それが書きたかったんです。誰かのそばにいることで、変わっていく話」
俺はしばらく黙っていた。原稿の端に、小さく「颯太くんへ」と鉛筆で書いてあった。
「……続き、楽しみにしてます」
「書きます」と澪は答えた。「あなたが主人公なら、絶対ハッピーエンドにする」
◇ ◇ ◇
帰り際、澪は振り返って「あの……颯太くんのこと、好きです。小説の主人公としてじゃなくて」と言った。眼鏡の奥の目が真剣だった。俺が答えを返す前に、澪は「返事はいつでも」と言って走り去った。原稿の温もりが、手の中に残っていた。
第15話「凛とレーンの向こう側」
天城凛が閉店後のレーンにひとりで来たのは、夏の終わりだった。「父に、お見合い話を持ってこられて」と開口一番に言った。
「……それで、投げに来たんですか」
「あなたに会いに来ました」
俺は口を開けたまましばらく止まった。凛は涼しい顔で「驚きましたか? 正直に言うのが好きなんです、私」と続けた。
練習が始まり、俺は凛の投げフォームを後ろから調整した。腰の回転角度を直すために両手を凛の腰に添えた瞬間、凛が「……そのまま、少し」と静かに言った。
振り返った凛の顔が、俺の目の前にあった。距離が近すぎる。プラチナの髪が揺れる。
「……近すぎます、天城さん」
「凛と呼んでください、と前から言っています」
「……凛さん」
凛は満足そうに頷いた。「それでいいです」
◇ ◇ ◇
その夜、凛は「お見合いは断ります」とはっきり言った。「理由は?」と俺が聞くと、「好きな人がいるからです」と答えた。そして俺の目を見て「まだ気づいてないんですか」と、静かに微笑んだ。俺の心臓が、やけにうるさかった。
第16話「なずなのネイルと本音」
「颯太くん、ちょっとネイル見て。ボウリングモチーフにしたんだけど」
なずなが両手を差し出してきた。十本の指にストライクのピン、ボール、そしてレーンの模様。細かい。
「すごい完成度だ」
「でしょ! あたし、ネイリストの勉強もしてるから。いつか自分でサロン開きたいんだよね」と言ってから、なずなは少し声を落とした。「……でも、掛け持ちバイト三つで、専門学校の学費もギリギリで。夢って、遠いな」
俺は何も言えなかった。なずなはいつも明るくて、そういう重さを見せない。
「その夢、絶対似合う」と俺が言うと、なずなはしばらく黙ってから「……泣かすな、急に」とつぶやいた。
目が潤んでいる。俺は慌てて「あ、ハンカチ——」と手を伸ばし、なずなも同時に目元を拭おうとして——ふたりの手が重なった。
なずなが固まる。俺も固まる。指と指が絡んでいる。
「……こういうの、ズルい」となずなが言った。「颯太くんが普通にしてると、こっちだけドキドキするじゃん」
◇ ◇ ◇
「あたし、颯太くんのこと好きだよ」となずなはネイルを見ながら言った。「返事はいつでもいい。ただ、言わないとフラストレーションたまるから」そう笑ったなずなの横顔は、本当にきれいだった。
第17話「月乃の予言と夏祭り」
月乃から「今夜の夏祭りで、あなたに重要なことが起きます」とLINEが届いた。俺は半信半疑で近所の夏祭りに顔を出した。
案の定、月乃がいた。淡い水色の浴衣姿で、俺を見つけると「来ましたね」と当然のように言った。
「予言を信じてきたわけじゃないです」
「でも、来た」と月乃は微笑んだ。
縁日を一緒に回り、射的の前で月乃が「狙うコツを教えてください」と言った。後ろから腕を支えて構えを示した瞬間、人混みに押されて俺と月乃の距離が完全になくなった。月乃の後頭部が俺の頬に触れる。浴衣越しに細い肩の感触。
「……これも予言の一部でしたか」と俺が聞くと、月乃は少し赤くなりながら「……この部分は、予測外でした」と答えた。はじめて月乃が動揺しているのを見た。
◇ ◇ ◇
花火が上がった。夜空を見上げながら月乃が言った。「颯太さん、あなたには大切な選択が近づいている。でも、その選択の先に、ちゃんと光がある」——予言なのか告白なのかわからなかった。でも月乃が俺の隣で笑っていた。それだけで、十分な夜だった。
第18話「ゆいとの勝負と負けた理由」
「颯太、本気で投げてください」
ゆいが正面を向いて言った。いつもの元気な声じゃない。本気の目だ。
「俺はもう競技は——」
「今日だけでいいです。一ゲームだけ。私、ずっと練習してきた。本気のあなたに本気でぶつかりたい」
俺は少し考えて、頷いた。
ゆいのスコアは百七十二。以前より格段に上がっている。努力が見えた。俺は無心に投げた。体が覚えているフォームが、久しぶりに戻ってきた気がした。スコアは二百三。
ゆいは最後のフレームが終わって、しばらく黙っていた。
「……負けた」
「でも、俺が本気出せたのは、ゆいが本気でぶつかってきてくれたからだ」
ゆいは俺を見た。目が少し光っている。
「……颯太は、まだできる。なんで競技に戻らないの」
◇ ◇ ◇
俺は初めて、ゆいに神経疲労のことを話した。ゆいは黙って最後まで聞いて、「それでも、さっきの投げ方、すごくかっこよかった」と言った。「ありがとう」と俺が答えると、ゆいは急に立ち上がって「また勝負します! 絶対追いつく!」と宣言した。泣いた跡のまま、全力で笑っていた。
第19話「さくらのごはんと距離感ゼロ」
「橘さん、今日の賄い、食べていってください」
さくらが持ってきたのは、手作りの弁当箱いっぱいのおかずだった。専門学校の実習で作ったもので、「食べてもらえる人がいないと困る」という。
「……いつも俺が標的になる」
「食べてくれる顔が一番好きだから」と言ってさくらは俺の向かいに座った。
食べ始めると本当においしい。さくらがほぼ俺の口元を見守っている。
「あの……そんなに近くで見なくても」
「だって、表情見たくて」
そのとき、箸でつまんでいたコロッケがすべって落ちた。さくらが「あっ!」と拾おうとして俺も同時に体を傾けて——互いの顔がほぼ接触するほど近づいた。
さくらの目が大きく開いている。俺の顔が確実に赤い。
「……ソース、頬についてます」とさくらが小さく言って、ハンカチで俺の頬をそっと拭いた。「……ふふ、子どもみたい」
◇ ◇ ◇
食後、さくらは「颯太さんのために料理するの、楽しいな」とつぶやいた。「一番うれしい言葉を言ってくれる人に食べさせたくなるって、料理って不思議だなって」——窓の外に夕焼けが広がっていた。さくらの横顔が、夕陽で少し赤かった。
第20話「透子の言葉と静寂の答え」
透子が来なくなって二週間が経った。俺はなんとなく気になっていた。施設で何かあったのかもしれない。
三週目の月曜日、透子が来た。いつもより少し顔が疲れていた。
「来てくれてよかった」と俺は言った。透子が少し目を見開いた。
「……心配、してましたか」
「してた」
透子は静かにレーンに向かった。黙って投げた。今日はピンが倒れない日だった。それでも投げ続けた。俺は横に立って何も言わなかった。
「……利用者の方が、今月、亡くなりました」と透子は言った。「長く関わっていた方で」
俺は「そうか」とだけ言った。
「泣けなかったんです。職場で泣くのが怖くて」
「ここで泣いていいよ」と俺は言った。
透子はしばらく黙っていた。それから、ほんの少し、泣いた。声を出さずに。俺は隣に立ったまま、何もしなかった。ただいた。
◇ ◇ ◇
帰り際、透子が「……ありがとうございました」と言った。「来週も来ます」という言葉が、今日はとても力強く聞こえた。人のそばにいることの意味を、透子に教えてもらった気がした。
第21話「あかりのカメラが映したもの」
あかりの動画が、ひとつバズった。「元プロに弟子入りしてみた」シリーズの第三弾で、俺がフォームを直してあかりが初めてストライクを取った瞬間の映像だった。
コメント欄には「インストラクターが優しすぎる」「この二人のやりとり好き」「橘颯太って元プロ? 名前聞いたことある」という声が並んでいた。
「颯太さん、七十万再生いった!」とあかりが飛んできた。「また動画撮れる?」
「いいよ」と俺が答えると、あかりは急に動きを止めた。
「……なんで普通に言えるの」
「え?」
「私、ずっと颯太さんに迷惑かけてるのに。毎回ドジって、カメラ振り回して」
「全然迷惑じゃない。あかりの動画、俺も楽しみに見てるし」
あかりはしばらく黙って、それから「……颯太さんって、ずるい」と言った。「普通に好きなんですけど、って感じ」
◇ ◇ ◇
その夜、あかりがアップした動画の最後のシーンは、俺がレーンの向こうを見て少し笑っている横顔だった。サムネイルに「この人のそばが好きです」というタイトルがついていた。コメント欄が大騒ぎになっていたが、それを俺が知るのは翌朝のことだった。
第22話「蓮華の選択」
秋になり、レインボーレーンに転機が訪れた。村瀬店長から「来月、チェーン系に買収される話が出てる」と告げられた。インストラクターの契約は継続できるかどうか、まだわからないという。
その夜、蓮華が来た。なぜか察していたように「何かあった?」と聞いた。俺は店のことを話した。
蓮華は少し考えて「……私の会社のクライアントに、この界隈の不動産案件に強い人がいる。何かできるか、調べてみる」と言った。
「そんなことまで」
「余計なお世話ですか」
「……ありがとう」
蓮華が「颯太くん」と俺の名前を下の名前で呼んだのは、初めてだった。俺は気づいたが、何も言わなかった。
「ここがなくなったら、あなたはどうするの」と蓮華は聞いた。
「……わからない。でも、ここで過ごした時間は本物だったと思う」
蓮華は頷いた。「私も」
◇ ◇ ◇
その夜、蓮華が帰り際に振り返った。「……颯太くん、私、あなたのことが好き。仕事で失敗したあの夜から、ずっと」——俺はすぐには答えられなかった。でも蓮華は「急がなくていい。ただ、知っていてほしかった」と言って、夜の中に消えていった。胸の奥が、痛いくらいに温かかった。
第23話「ストライクへの助走」
買収の話は保留になった。蓮華が動いてくれたらしく、村瀬店長が「神崎さんって方に本当に助けてもらった」と目を細めた。
その日、俺のもとに一通のメールが届いた。プロツアーの関係者からだった。「地域振興を兼ねたエキシビションマッチに、元プロとして参加してもらえないか」という打診だった。
俺はしばらく画面を見つめていた。
翌日、ひなた、澪、凛、なずな、月乃、ゆい、さくら、透子、あかり——そして蓮華が、奇しくも全員集まる日があった。ゆいが「今日は全員で一緒に投げよう」と言い出した企画だった。
レーンに十人が並ぶ。俺はそれを端から見ていた。ここに来た日々が走馬灯のように浮かんだ。泣いた夜、笑った昼、転んで、ぶつかって、話して。
「颯太さん、一緒に投げないの?」とひなたが言った。
俺はボールを手に取った。久しぶりに、重さが心地よかった。
◇ ◇ ◇
俺の投げたボールが、真っ直ぐレーンを走った。曲がらない。でも力強い。ピンが十本、全部倒れた。ストライク。十一人分の歓声が響いた。俺は振り返って、みんなの顔を見た。——ああ、俺はここで、もう一度ボウリングが好きになった。それだけははっきりとわかった。
第24話「レーンの先に続く道」
第一期最終話。
俺はエキシビションマッチへの参加を決めた。「競技に戻る」ということではない。ただ、ひとつの答えを出すために、もう一度レーンに立とうと思った。
当日、観客席にはひなたたち全員の顔があった。なずなが「絶対見に来るから!」と言ったとおりだった。あかりはカメラを回していた。透子は静かに席についていた。月乃は「いい結果が見えています」と言っていた。
俺の番が来た。レーンの前に立つ。昔と同じ匂いがした。ワックスとピンの音と、人の気配。
ボールを構える。助走。スイング。
指先の感覚が、戻ってきた気がした。あの頃のように完璧じゃない。でも、確かにある。
ボールが走った。カーブがかかった。ピンが全部倒れた。ストライク。
客席から歓声が上がった。俺は振り返らず、ただ深呼吸した。
◇ ◇ ◇
帰り道、蓮華が俺の隣に並んだ。「どうだった?」と聞いた。「……楽しかった」と俺は答えた。蓮華が少し笑った。「それが聞きたかった」
後ろからひなたが「颯太さーん! 打ち上げ行きますよー!」と叫んだ。ゆいが「私、颯太に勝てるまで練習するから!」と宣言した。澪が「次の原稿、書き直します」とノートを抱えた。さくらが「お疲れ様ご飯、作ります」と笑った。なずなが「ネイル更新した! 見て!」とネイルを見せた。月乃が「運命は、こう動くんですね」と微笑んだ。透子が「……また来ます」と静かに言った。あかりがカメラを向けて「いい顔してる」と言った。凛が「よく似合っていましたよ、橘さん」と言った。
十人の声が重なった。
俺はまだ、誰かに答えを返せていない。でも今は——それでいい。ここには、大切な人たちがいる。レーンの先に続く道を、俺はまだ歩き始めたばかりだ。
──『ストライク☆ラブ!』第1期 了──
第2期へ続く




