第5話:色彩の審判、あるいは幸福な檻
影の帝国の国境。
死を覚悟したような静寂の中、ジュリアン率いる王国の軍勢が目にしたのは――悪夢か、あるいは、あまりにも残酷な夢のような光景だった。
「……なんだ、あの城は……!?」
かつて『死神の居城』と恐れられ、近寄る者さえいなかったその場所は。
今や、暴力的なまでの『色彩』に支配されていた。
高くそびえる城壁には、見たこともないほど大輪の花々が咲き乱れ、狂おしいまでの香りを風に乗せている。
見上げる空には、太陽の光をプリズムに通したような、七色のオーロラが揺らめいていた。
そして。
その城門の最上段、もっとも天に近い場所。
屈強な黒銀の騎士たちを侍らせ、凛と立つ一人の女性がいた。
纏うのは、最高級のシルクを幾重にも重ねた、燃えるような真紅のドレス。
かつてのドブ川のような灰色はどこにもない。
光を自ら放つような純白の肌。
星屑を溶かし込んだような光沢を帯びた、長い銀髪。
何よりジュリアンを戦慄させたのは、その瞳――万華鏡のように、世界のすべてを宝石にしたような、鮮やかな輝きだった。
「イリス! イリスじゃないか!」
ジュリアンが馬を飛ばし、狂ったように叫ぶ。
「僕だ! 君を助けに来た! さあ、あんな恐ろしい皇帝に監禁されているんだろう? 今すぐ僕の元へおいで! 君を王妃として迎え、すべてを許してあげよう!」
その傲慢な呼びかけに、城壁の上の彼女は、ゆっくりと扇を閉じた。
その瞳には、かつて向けられていた献身も、怯えも、怒りすらもない。
ただ、道端に転がる石ころを見るような、完璧な『無関心』だけがあった。
「……随分と、騒々しい方ですわね。ノア様、あのような見窄らしい灰色の方が、私の知り合いだと仰るのですか?」
その涼やかな声に呼応するように、彼女の腰を抱き寄せ、影の中から男が現れる。
皇帝ノア――。
彼はジュリアンを冷酷な瞳で見下ろすと、あてつけるように、イリスの耳たぶに深く口づけを落とした。
「よせ、イリス。お前の瞳があのようなゴミを映すだけで、俺は不快で死にそうだ」
「……嘘だ……そんな……っ、イリス! 僕を忘れたのか!? 君の婚約者のジュリアンだぞ!!」
絶叫する男を前に、イリスは指先で唇をなぞり、ふっと思い出したように微笑んだ。
それは慈悲のない、神の如き微笑。
「……あぁ、思い出しましたわ。地下室で、私の命を搾り取っていた、あの醜い方々」
一瞬で、ジュリアンの顔から血の気が引く。
イリスは、吸い込まれるような瞳を細め、トドメを刺すように告げた。
「残念ながら、私が捧げるべき『色』は、もう一滴もございません。……どうぞ、そのまま一生、色も味も愛もない世界で、泥を啜ってお過ごしなさいませ」
「ああああああっ!!」
ジュリアンの叫びが、帝国の空に響き渡る。
直後、ノアが傲慢に指を鳴らした。
城門から溢れ出した『影』が、津波となって王国の軍勢を一飲みにしていく。
戦う必要すらなかった。
色彩を失い、魔法の加護も、生きる気力すらも失った彼らは、もはや立ち上がることも叶わず、文字通りの亡霊へと成り果てていった。
* * *
阿鼻叫喚の地獄を階下に、バルコニーには再び、静寂が戻っていた。
ノアは、震えるイリスを強く、独占欲に満ちた腕で抱き上げる。
「……あんなゴミを二度とお前の視界に入れない。いいか、イリス。お前の美しさを知る者は、この世界で俺だけでいい」
「ノア様……。私は、あの方たちを憎むことさえ、忘れてしまいましたわ」
「それでいい。お前の心の中には、俺への愛と、俺が与える色だけがあればいいんだ」
静かな廊下を通り、二人は最高級の香香に満ちた寝室へと戻る。
ノアは恭しく、けれど拒絶を許さぬ手つきで、イリスの手首に細い金の鎖を嵌めた。
それは彼女の膨大な魔力を循環させ、健康を保つための魔道具であり――そして、彼が彼女を一生離さないという、甘美な拘束具でもあった。
カチリ、と小さな音が響く。
イリスは、その鎖の冷たさに、かつてない安らぎを感じていた。
誰からも顧みられず、泥にまみれて利用されるだけだった灰色の日々。
それに比べれば、この重すぎるほどの愛に縛られ、豪華な『黄金の檻』で一生を過ごすこと。
それこそが、彼女が人生の果てに見つけた、最高に幸福な結末だった。
(完)




