第2話:影の城の極彩色、あるいは幸福な監禁
ふわり、と。
生まれて初めて、脳を痺れさせるような「甘い香り」が鼻腔をくすぐった。
「……あ、……っ」
ゆっくりと、重い瞼を持ち上げる。
視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど鮮やかな『真紅』の天蓋だった。
あまりの色の濃さに、一瞬、目に痛みすら覚える。けれど、その色は毒々しくなどなく、熟した果実のようにどこまでも潤んでいた。
「ここは……天国、なのですか?」
漏れた自分の声に、私は愕然とした。
掠れて、ひび割れた砂利のようだった私の声が、今は鈴を転がすような澄んだ音色となって響いている。
横たわっているベッドは、雲を切り取って敷き詰めたように柔らかい。
地下の冷たく湿った石床の感覚が、まるで遠い前世の出来事のように感じられた。
(私は、死んだはず……。最後にパレットを壊して、全部の色を放り出したから)
そう。あの国での私は、命の灯火が消えかけていた。
余命など、あと数日も残っていなかったはずだ。なのに、どうしてこんなに体が温かく、力強い脈動を感じるのだろう。
震える手で、自分の髪に触れた。
パサパサとして、埃を被ったようなくすんだ灰色だったはずの髪が――今は、指の間をさらさらと滑り落ちるほど滑らかだ。光を反射して、プラチナのような銀色の地色の中に、淡い虹色の光沢が揺らめいている。
「…………嘘……」
私は這い出すようにしてベッドを降り、部屋の隅にある大きな姿見の前へと立った。
そこに映っていたのは、かつての「灰色の王女」の残影すら留めていない、一人の少女だった。
透き通るような磁器の肌。
冬の朝の冷気のように清らかな輝きを放つ銀髪。
何より衝撃的だったのは、その瞳だ。
生気のないグレーだった瞳には、サファイアとルビー、そしてエメラルドを砕いて混ぜ合わせたような、万華鏡のように複雑な色彩が宿っている。
鏡の中の自分と目が合うだけで、鼓動が速くなる。
そこにいるのは、世界中の『美』を一身に集めたような、残酷なほどに美しい女神だった。
「だれ、これ……。これが、私だなんて……」
自分の顔に触れようと指を伸ばした、その時だった。
「――目覚めたか、俺の色彩」
背後から響いたのは、深く、地響きのように重厚な男の声。
振り返ると、そこには漆黒の軍服を纏った、圧倒的な威圧感を放つ男が立っていた。
影の帝国の皇帝、ノア・フォン・ディートリヒ。
冷酷非情。戦場の死神。独裁者。
そんな恐ろしい噂ばかりを聞いていた男の瞳は、けれど今は、獲物を逃さない獣のような熱と、唯一無二の神を拝む信者のような狂信を孕んで、じっと私を見つめている。
「あ……閣下、私は……」
「ノアと呼べと言ったはずだ、イリス」
彼は音もなく距離を詰め、私の前に跪いた。
あまりの体格差に、視界が彼の影で覆われる。
大きな、熱を帯びた手が、私の指先をそっと、壊れ物を扱うように包み込んだ。
「……気分はどうだ? まだ、痛みはあるか。魂が欠けるような感覚は」
「いいえ……。驚くほど、体が軽いです。ですが、私のような不吉な灰色の王女が、なぜここに……」
「不吉? 灰色?」
ノアの口元が、低く笑うように歪んだ。
彼は私の手を自分の頬に寄せ、そのまま深く、執着に満ちた口づけを手の甲に落とした。
「……お前は自覚がないようだが、今の君は眩しすぎる。俺の目には、お前以外のすべてが泥のように価値のないものに見える。……イリス、俺の世界に色を与えたのは、お前だけだ」
彼の真紅の瞳が、至近距離で私を射抜く。
この男は本気だ。本気で私を、世界の何よりも尊いものだと思い込んでいる。
「お前を灰色だと呼び、使い潰した愚か者どもは、今頃モノクロの地獄でのたうち回っている。……二度と、あんな奴らのために祈るな。お前の一滴の涙も、一房の髪も、これからは俺一人が独占する」
その言葉には、救世主としての優しさと、決して私を逃さないという『監禁者』の執念が混ざり合っていた。
「さあ、食事にしよう。お前の命が消えかけていたのは、栄養が足りなかったからではない。あの大聖堂が、お前の心根の清らかさに寄生して、すべてを吸い取っていたからだ。……ここでは、俺がお前にすべてを流し込んでやる」
ノアの合図で、侍女たちが次々とワゴンを運び込んでくる。
前の国では、私が浄化した『色』はすべて妹や王族の贅沢に使われ、私に与えられるのはカビの生えたパンと泥水だけだった。
けれど、目の前にあるのは宝石のように輝くフルーツ。
立ち上る湯気さえも甘美な香りを放つスープ。
一口、スープを口に含んだ瞬間、私は初めて知った。
『美味しい』ということが、これほどまでに胸を熱くさせるのだと。
「おいしい……。味が……するんです……」
「……そうか。ならば、もっと食べろ。お前が健康になり、美しく咲き誇るほど、あの国はさらに色を失い、死へと近づいていくのだからな」
ノアは、私の口元を指先で優しく、けれどどこか支配的に拭った。
その頃。
国境を越えた先にある、かつての私の故郷――。
「なぜだ! なぜ色が戻らない!! 祈れ! もっと真剣に祈れ!!」
ジュリアン王子が、色彩を失った謁見の間で叫び声を上げていた。
空は灰色。壁の絵画はすすけた汚れのように見え、豪華だったはずの王宮は、今や遺影の中のように寒々しい。
食事はすべて砂の味がし、人々は自分の手さえもモノクロに見える現実に、少しずつ正気を失い始めていた。
「嘘よ……私の、私の髪が……!」
妹のセラフィナは、鏡を見て絶叫し、鏡を叩き割った。
イリスから奪っていた『借り物の輝き』が剥げ落ち、その顔には深い隈と、隠していた醜い肌の荒れが露わになっていたからだ。
「イリスを探せ! あの女さえいれば、色は戻るはずだ! どんな手を使っても、連れ戻してこい!!」
ジュリアンが狂ったように命じるが、もう遅い。
彼らがどれほど後悔し、血眼になって世界中を駆けずり回ったとしても。
色彩の女神は今、影の皇帝の腕の中で、かつてないほど鮮やかに愛され、世界を見捨てたのだから。
彼女を灰色の檻に閉じ込めていた代償は、自分たちの世界が、永遠に色を失うという絶望であった。




