第1話:色彩の剥落、あるいは絶望という名の灰色
その日、世界は見たこともないほど輝かしく――そして、終わった。
「聖女セラフィナ様、万歳!」
「光の加護を! 我らが太陽に永久の祝福を!」
大聖堂の分厚い石壁を突き抜けて、天を揺るがすような歓声が響いてくる。
今日は、私の妹である第二王女、セラフィナの戴冠式。
空には幾重もの虹がかかり、街中の噴水からは芳醇なワインが溢れ、魔法で生み出された極彩色の花びらが雪のように舞っているはずだ。
人々はその「輝き」に酔いしれ、明日の実りを微塵も疑わない。
けれど、その輝きを生み出すために、泥水を啜るような苦痛を肩代わりしている『心臓』がどこにあるかを知る者は、この国にはほとんどいなかった。
「……あ、……が、……っ!」
私は、大聖堂の地下深く、陽の光さえ届かない凍てついた石床の上でのた打ち回っていた。
手足には、魔力を強制的に引き出すための重い魔封じの鎖。
魔法陣の中央に据えられた私の体からは、血管を焼き切るような衝撃と共に、どろりとした黒い液体――世界の『負の感情(毒)』が、絶え間なく吸い出されている。
この国の色彩は、等価交換だ。
美しい赤、鮮やかな青、気高い金。
それらを維持するためには、同等の『濁り』を誰かが引き受けなければならない。
その掃き溜めとして選ばれたのが、第一王女である私、イリスだった。
私の肌は、その毒に侵され続け、今やどぶ川のような灰色に濁り果てている。
髪も、瞳も、生気のない死人のような灰色。
人々は私を「不気味な灰色の女」と蔑み、妹のセラフィナを「太陽の愛娘」と崇めた。
私が毒を引き受けて浄化した『純粋な色』だけを、彼女が自分の手柄として世界に振りまいているとも知らずに。
不意に、地下室の重厚な鉄扉が、嫌な音を立てて開いた。
「相変わらず、薄気味悪い姿だな。……見ているだけで吐き気がする」
聞き慣れた、けれど氷のように冷たい声。
私の婚約者である、第一王子ジュリアン様だった。
その隣には、私の実の父である国王陛下も、無関心な瞳で私を見下ろしている。
「ジュリアン……様……。陛下……っ」
「気安く名を呼ぶなと何度言わせる。その汚らわしい色が移るだろう」
彼は顔を顰め、高級な香水が染み込んだハンカチで鼻を覆った。
彼が今纏っている、燃えるような緋色のマント。
それがその鮮やかさを保っているのは、他ならぬ私が昨日、一晩かけて数千人分の『怒り』をその身に溶かし、浄化した色を捧げたからなのに。
「イリス。今日でお前の役目も終わりだ」
父である国王が、事務的に告げる。その声には、実の娘を死へ追いやる躊躇いなど微塵もなかった。
「お前の命を最後の一滴まで、この『大パレット』に捧げよ。そうすれば、セラフィナの治世は永遠の春となり、この国から陰りは消える」
「命を……捧げる……? それでは、私は……」
「死ぬのだろう。それがどうした? お前のような欠陥品が、最後に国の役に立てるのだ。最高の名誉だと思え」
ジュリアン様は、ゴミを見るような目で私を嘲笑った。
「お前の代わりはもう、十分に育った。セラフィナという、お前より遥かに美しく、お前の濁った血を一切引き継いでいない、清らかな聖女がな。彼女さえいれば、お前のような不吉な灰色は、もうこの国には不要なんだよ」
あぁ、そうか。
私はもう、使い捨てられるだけの『電池』ですらなかったんだ。
幼い頃、彼はまだ優しかった。
母を亡くし、初めて肌が灰色に染まり始めた私を抱きしめて、「君のその色は、世界を守っている証だね。僕がずっと隣にいるよ」と言ってくれた。
あの言葉を、あの微かな温もりを支えに、私は何年も、この引き裂かれるような激痛に耐えてきた。
毒に脳を焼かれ、視界が霞み、指先が壊死しかけても、彼が笑ってくれるならそれでいいと思っていた。
けれど、彼が愛していたのは私ではなく、私が命を削って差し出す『便利な魔法』だけだったのだ。
胸の奥で、何かがパチンと音を立てて千切れた。
絶望ですらなかった。ただ、果てしない虚無が、私を満たしていく。
「……左様でございますか」
私は、震える唇で、静かに微笑んだ。
灰色の顔に浮かべたその異様な笑みに、ジュリアン様が眉を跳ねさせ、一歩後ずさる。
「私の命が、皆様の望む『幸せ』の糧になるのでしたら……。どうぞ、一滴残らず持っていってくださいませ」
私は、自ら魔法陣の核へと手を伸ばした。
無理やり吸い取られるのではない。私自身の意志で、体内に残るすべての魔力――色彩を繋ぎ止めるための『心臓』を、内側から粉砕した。
逆流する激痛。魂が千切れる音。
骨が軋み、意識が混濁する中で、私は最後に見届けた。
「なっ……なんだ!? この光は……!」
地下室が、私の魂が放つ七色の光で埋め尽くされる。
それはかつてないほど美しく、そして残酷な、終わりの輝きだった。
――さようなら、私を一度も愛さなかった人たち。
――どうぞ、これからはあなたたちだけで、その『鮮やかな世界』を守ってみせて。
私の体は、輝く粒子となって霧散した。
その瞬間、地上では空を覆うほどの巨大な虹がかかり、民衆は「聖女セラフィナの奇跡だ」と叫び、狂喜乱舞したという。
けれど、その奇跡はわずか数分で、絶望へと反転した。
「……え? 髪が……私の美しい金髪が……!」
「嘘だろ!? 空の色が……消えていく……!」
悲鳴が、国中に伝播していく。
空に架かった虹は、ボロボロと煤のように剥がれ落ち、空は淀んだコンクリートのような灰色に塗り潰された。
美しく咲き誇っていたバラは灰になり、宝石はただの石ころに変わり、果ては自分たちの肌の色さえも。
イリスという『色彩の変換器』を自ら破壊した世界から、色彩という概念そのものが失われていった。
モノクロの絶望に沈む、無音の大聖堂。
そこへ、漆黒のマントを翻した男が、音もなく降り立った。
隣国の皇帝、ノア・フォン・ディートリヒ。
『死神』と恐れられる彼は、祭壇の跡に残された、一欠片の『七色の光』をそっと掬い上げる。
「……愚か者ども。貴様らには、この美しすぎる『色』を飼う資格などない」
ノアは、手の中の光――消えかけていたイリスの魂を、壊れ物を扱うような手つきで包み込んだ。
全色盲であり、生まれて一度も色を認識できなかった彼の瞳に、初めて宿った鮮烈な輝き。
「行こう、イリス。もう誰のために祈る必要もない。これからは、俺の暗闇だけを彩ればいい」
色彩を失い、死の沈黙に包まれた王国。
後悔に叫び、色を求めて互いの顔を引っ掻き回す元婚約者たちを尻目に、皇帝は唯一の色彩を胸に抱き、影の中へと消えていった。




