第6話:『重さを背負った元社員』
カラン、とドアベルが鳴り、一人の初老の男が店に入ってきた。田中と名乗ったその男は、つい先日定年を迎えたばかりだという。しかし、彼の背中は、まるで巨大な岩を背負っているかのように、深く丸まっていた。
「マスター。どうも、肩の荷が下りないんですよ」
田中は疲れた顔でカウンターに座った。定年を迎え、自由になったはずなのに、家で何をしても心が晴れない。彼の視線は、ずっと宙を彷徨っている。
「何か、やり残したことでもあるのかね?」俺は尋ねた。
田中は遠い目をして語り始めた。
「社内で進めていた、ある**『未完の企画書』**が原因だと思います。もう退職したから関係ないはずなんですが、頭から離れない。自宅の机に、その企画書が実体のない重さとなってのしかかっているような気がして……新しい生活を始められないんです」
それは、彼がリーダーを務めていたが、最終的に日の目を見ることなく終わったプロジェクトだった。彼はその失敗を「自分のせいだ」と長年心の奥底で責め続けていた。
俺は黙って、極上の豆で淹れた濃いエスプレッソを田中の前に置いた。
「この苦味は、君が人生で味わった、最も苦い失敗の味だ。だが、この苦味から目を背けてはいけない。真正面から向き合って、全てを飲み干すんだ」
田中は、眉間に皺を寄せながら、一口、エスプレッソを飲み込んだ。その苦さが、失敗したプロジェクトの記憶と、チームを解散させた時の部下たちの失望した顔を、鮮明に呼び起こした。
「失敗したこと自体が、君の重荷ではない。君がその失敗を、誰にも打ち明けず、一人で背負い込もうとしたことが、その重さの正体だ」
俺の言葉に、田中の手が震え、エスプレッソのカップがカチャリと音を立てた。彼は俯いたまま、持っていたスマートフォンをゆっくりと取り出した。
「私は……あの時、君たちにきちんと感謝の言葉も言えなかった」
田中は、震える声でかつての部下に電話をかけ、企画書を完成させられなかったこと、そして彼らの努力に感謝していることを、包み隠さず伝えた。
電話を切った瞬間、田中の背中を覆っていた見えない重さが、フッと消え失せるのを、俺は感じた。
田中は、残りのエスプレッソをゆっくりと口に含んだ。
「……マスター。不思議だ。さっきまで、ただ苦いだけだったこの珈琲が、ほんのりと甘く感じます」
彼の顔に、定年を迎えた男の、ようやく解放された穏やかな笑顔が浮かんでいた。




