第1話:『透明になった写真家』
深夜0時、カラン、とドアベルが鳴り響く。入ってきたのは、顔半分が透明になった男だった。彼の右半分は、まるで水面に映った影のように、向こう側の壁をぼんやりと透かしていた。
男の名はユウジ。かつて名を馳せた写真家だ。だが、その瞳には、かつての輝きはなく、乾いた砂漠のように虚ろだった。
「マスター。俺の顔を、元に戻してくれませんか?」
男はそう言って、震える手でカメラを握りしめていた。その手から、かろうじて見える血の滲んだ絆創膏が、彼の苦悩を物語っていた。
俺は黙って珈琲を淹れ始めた。豆を挽く音が、静かな店内に響く。
ユウジは、誰も撮れなかった「見えないもの」を写そうと、危険な場所で写真を撮り続けてきたという。最近は特に、失われた故郷の風景、そして何よりも、過去に決別した親友との間にあった「友情」という名の絆を撮ろうと、常軌を逸した撮影に没頭していたそうだ。
「見えないものを撮ろうとした結果、俺自身が見えなくなってしまったのかもしれない……」
ユウジは自嘲気味に笑った。その笑いは、悲痛な叫びのように俺の胸を締め付けた。
俺は、温かい珈琲のカップを彼の前に置いた。
「君が撮ろうとした『友情』は、本当に消えてしまったのか?」
俺の問いに、ユウジは何も答えず、ただ俯いた。
「君は、見えないものを撮ろうとしたのではない。君自身の心の奥底にある、**『孤独』**を撮ってしまったんだ。」
その言葉に、ユウジはハッと顔を上げた。
「君の透明になった右顔は、君が捨ててきた友情と、それによって生まれた孤独を写している。その右顔に、君の苦悩が、痛みとして現れているんだ。」
俺は、もう一つの珈琲カップを自分の前に置いた。
「この珈琲は、君のために淹れた。そして、この珈琲は、孤独を癒やすためのものだ」
ユウジは、震える手で珈琲を一口飲んだ。温かい液体が喉を通り過ぎると、彼の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「俺は……一人じゃ、ないのか」
ユウジは、そう呟いた。
「君がカメラを握りしめている限り、君は孤独ではない。君のカメラは、君が誰かと繋がりを求めている、その証だ」
俺の言葉に、ユウジは静かにカメラを構えた。シャッターが切られる。被写体は、俺と、俺の喫茶店。
その瞬間、ユウジの右顔は、かつての面影を取り戻し、鮮明な色を帯びていった。
「ありがとう、マスター」
ユウジは、心からの笑顔で言った。彼の顔は、すっかり元に戻っていた。
そして、彼は、再びカメラを握りしめて、旅に出た。