下品な話、いいですか?
「では最後に一つ、下品な話をしてもいいですか?」
とある会社の会議室。終盤に差し掛かった定例会議の中、社長の突然の一言が場の空気を一瞬凍りつかせた。
社員たちは顔を見合わせ、困惑の色を浮かべた。何かの聞き間違いではないかと耳をそばだてる者もいれば、『社長が冗談を言うなんて珍しいな』と興味を持つ者もいた。
社長は普段、威厳ある振る舞いで知られ、真面目で頼りになる人物だった。中には彼を第二の父とまで呼ぶ社員すらいた。
しかし、その社長の口から次に出た言葉は、あまりにも予想を裏切るものだった。
「まあ、生理現象なんで恥じることはないのですが……実はこの前、私、勃起しましてね」
空気が完全に凍りついた。聞き間違いではない。確かにそう言った。だが、信じられなかった。いや、信じたくなかった。あの社長が、パワハラやセクハラに敏感なこのご時世に、こんな爆弾を落とすなどと。
社員たちは視線をそらし、息を潜めた。誰かが止めなければならない。だが、誰が?
そんな葛藤をよそに、社長は涼しい顔で話を続けた。
「いや、驚きましたよ。最初は自分でも、『あれ?』って思ったんです。もう歳ですからね。妻とは長らくご無沙汰、いわば閉山状態でね。かといって、一人でどうこうするのも面倒くさい。女性社員からは『ギラギラしていない』『安心感がある』なんて言われて、それはそれでまあいいか、そういうものかと思い、長らく自分の勃起したペニスを見たことがなかったんですけど、それがこの前急に――」
「あの、社長!」
堪えきれず、若手社員の一人、松崎が声を上げた。
「ん? 松崎くん、どうしたのかな?」
「い、いえ、その……女性もいる場ですし、そういった話題はお控えになったほうが、ご自身のためにも……」
「ああ、ありがとう。私の身を案じてくれたんだね」
「社長……」
社長はにこやかに微笑んだ。その笑顔に、社員たちはほっと胸を撫で下ろした。
そう、これはやっぱりただの冗談だったのだ――
「てっきり、トイレでシコりたくなったのかと思ったよ」
「社長!?」
「それで、話の続きですが、最初はほんの小さな違和感だったんです。おっ、なんだ? ポジションがズレているのか? って」
「社長! もうやめてください!」
今度は女性社員の一人が立ち上がり、声を荒げた。
「今すぐその話をやめないと、私、この会社を辞めます!」
「好きにしたまえ」
「社長!?」
「これは重大な話なんだ。でなければ、わざわざ会議の場で話したりはしない。いいかな? 最初はほんの小さな違和感だった。それが、ぐぐぐっ、むくむくと起き上がったんだ。さすがに気づきましたよ。これは勃起しているとね。それも、過去最大級だった。あれはいつだったかな、二十歳の頃か……。一人でシコっていたら――」
「あの、社長。本当に、もうそのへんで……大変お疲れのようですし……」
「いや、お疲れどころかビンビンだよ」
「今も!?」
「まあ、確かに少し脱線していたね。話を進めよう。突然の勃起に私は動揺したが、それを社員に悟られるわけにはいかない。神妙な顔のまま、全員が会議室から出るのを待ち続けた」
「まさか、前の会議の話ですか……?」
「ああ、あれは数か月前のことだ。それからというもの、会議のたびに毎回勃起している」
「もう無理……なんなの、この話……」
「立ち去るのは自由だ。だが、話には続きがある。最初はただの生理現象だと思っていた。だが、その後、奇妙なことが起きたんだ」
「奇妙なこと……?」
「ああ、勃起のたびに大きな商談が決まったり、ライバル会社の不祥事が発覚したり、会社に良いことが続いたんだ」
「あっ、確かに会議のあとって、何かしらのいい知らせが舞い込んできてましたよね……」
「そう、会社は上向きに。まさに勃起だな。逆に必死に抑え込んだときには、取引相手とトラブルが起きた」
「あ、じゃあ、この前の案件が破談になったのも……?」
「そうだ。だから私は、ある仮説にたどり着いた。これは単なる生理現象ではない。私のペニスに福の神が宿ったのだと。思い返せば、ある晩のことだった。布団の中でまどろんでいた私の上に、天井から淡い光の玉が降ってきた。玉は静かに私の股間に吸い込まれていった。夢だと思っていたが、今なら確信が持てる。あれが福の神だったのだ」
「それが仮に本当だとして……だから、何なんですか? 社長が勃起してても気にするなって話ですか?」
女性社員の一人が眉間にしわを寄せながら、明らかに怒気を含んだ口調で問いただした。
その鋭い視線にも、社長は微笑を崩さない。ただ、社員たちには、もはやそれは恍惚とした表情にしか見えなかった。
「違う。みんなで勃起しよう」
「は!? 何言ってるんですか!」
「つまり……みんなで神を祀るということですね」
「なるほど。信仰の証として、というわけか」
「男根を崇める祭りも実際にあるしな……」
「ちょっと待って! じゃあ、女性社員はどうしろって言うんですか? ずっと濡らしてろって? 濡れ手に“栗”ですか? ふざけてる!」
「いや、そんなことは推奨できないよ。とんでもないセクハラじゃないか。あと、そういう下ネタは控えてほしいな。女性のはどこか生々しくて、正直苦手だよ」
「あああ、もおおおおう!」
こうして、男性社員たちは社長の言葉を信じ、勃起しながら働くようになった。
当然ながら、女性社員たちからの反発があった。だが、社には年配の女性社員が多く、彼女たちは「まあまあ」と受け流し、時にふと男性社員の股間に視線を落とすなどして、意外にもまんざらでもない様子だった。
男性社員たちは、業務中でも勃起が萎えそうになるたびに、こっそりポケットに手を入れて刺激を与え、常にエンジンをかけ続けた。その結果、彼らの仕事ぶりはどこか妙に活気づき、社内の士気も上がっていった。たまに口をわずかに開けて遠い目をしている姿も見受けられたが、静かに察し、それを誰も指摘しなかった。
やがて、会社の業績は異様なまでに伸び、社長の仮説は証明されたのだった。
そう、思われていた。
だが、その勢いも長くは続かなかった。
ある日を境に、主要取引先が次々と契約を打ち切り始めたのだ。
発端は、女性社員の一人が、会社の異常な実態をSNSに告発したことだった。『小さな会社なので、ご存じない方がほとんどかもしれませんが――』
そう始まる投稿には、数々の罵倒が並んでいた。生々しい描写と、誇張されたその異様な内容が面白がられ、その投稿は瞬く間に拡散され、炎上。やがてマスメディアも取り上げ、社名と共に報道された。
世間の反応は当然ながら冷ややかなものだった。『気持ち悪い』『セクハラ』『昭和かよ』といった非難が殺到した。
会社はあえなく倒産した。
元々、業績悪化の傾向があったため、社長の“勃起の奇跡”も世間からは単なる倒産前の奇行として嘲笑われたのだった。
社長は心不全を起こし、ひっそりとこの世を去った。
原因は心労か、あるいは持病を抱えながらの精力剤の過剰摂取によるものか。
会社を、より高層のビルへ移転しようとしていた矢先のことだった。
無念の中折れである。