第五章
第五章
彼女と初めて言葉を交えた、あのプール掃除の日から、早数ヶ月が経過しようとしていた。
それと同時期に俺が通っている、朝霧高校は体育祭の時期へと突入していた。
「えぇー、それではどの種目に出場するのか決めていきたいと思います」
担任の澤谷先生が生徒らに向けて指示をする。
振り向きながら後ろの生徒と「お前、どれに出る?」と質疑応答をしている者。
体育祭には一切の興味を示していないと言わんばかりに机とにらめっこをしている者。
親しい友人は他クラスにいるのか、それとも以前の俺同様に友人と呼べるような人間は存在しないのか。
どちらにせよ、それらに該当する生徒は目の前の黒板に記されている、数々の出場種目に目を通しながら、一人孤独に葛藤をする者。
そして、それらの項目に該当しない俺は極めて珍しい、隣席の生徒にしつこく絡まれていた。
「ねぇねぇねぇ!千秋くんはどれにするの?わたし、一緒の種目に出るから教えてよ〜」
「おいおいー」と肘で肩を小突いてくる彼女は普段通り、いや……普段以上にニコニコと満面な笑みを浮かべでいた。
「それなら俺は男子対抗リレーにしようかな」
「ふむふむ……男子対抗リレーね。ってそれ、男女別の種目だから一緒に走れないじゃん!」
彼女には珍しいノリツッコミを披露し、ペシンと頭を優しく叩いてくる。
仮に彼女と二人でお笑い芸人を結成したとしても、百人の目の前で漫才を披露しても誰一人として笑う者は存在しないだろうと、今まさに実感した。
「それで、本当はどれにするの?本当のやつだよ」
「まだ、決めてない。というか、正直に言えば体育祭当日休もうかなとも思ってる」
「それは絶対ダメー!」
バンッと衝撃音を鳴らしながら机を叩き、勢いよく座席を立つと、その反動で椅子が後ろへ飛んでいく。
「えぇー……、神崎さん、どうかしたんですか?」
「い、いえ。なんでもないです」
そうして周囲からの視線を真っ向に受けた彼女は、少し気恥しそうに頬を赤らめながら、後ろに飛んだ椅子を定位置に戻し、そっと腰を下ろした。
「……もぉー、千秋くんのせいでみんなから変な人だと思われちゃったじゃん!」
「俺のせいじゃないだろ……」
俺無しで彼女と関わっている人は置いといて、俺と彼女の普段からの関わり方を目にしている生徒は少なくとも、もう既に彼女の事を……彼女の事も変人とはいかなくても普通な人だという認識でないであろう。
だがまぁ、そんなことを口にするほど俺の性根は腐っていない。
事実を突きつけるには憚られたから。
彼女の印象を一変させてしまったのは、どこの誰でもない俺自身で接触を試みたから故の代償なのかもしれない。
けれど、幾度となく彼女に対して申し訳ないと思っていたとしても、その度に彼女が口にする言葉は毎度決まっている。
『わたしは、株がどうとか周りから抱かれる印象とかは"どうでもいいの"』
彼女は必ずと言っていいほどに『どうでもいい』と主張する。
その言葉は決して強がりからのものでも、俺を傷つけないための思いつきの単語でもなく。
至って真面目で純粋で心の底から『どうでもいい』とそう思っている。
それを口にする時の真摯な瞳を見ていれば、嫌でもその真剣さが伝わってくる。
「っていうかさ、今気づいたけど男女合同の種目って、混合リレーか借り物競争だけじゃね?」
「確かに……言われてみればそうかも」
それに不運な事にどちらとも競走を目的とする種目で、普段から運動を怠っている俺は当然として持久力が壊滅的。
去年の体育祭はそういった理由も含め、友人がいない俺からすれば決して楽しめないどころか地獄の時間を味わうこととなるであろうと速急に察知し、なんの躊躇いもなく当日欠席を選択した。
だが、今年は例年との環境とは一変して、彼女ーー神崎芹奈という一人の存在がいる。
そのため、彼女から欠席はするなと指摘を受ける以前に今の俺には去年の当日欠席という同様の選択肢はどこにも存在しない。
「これって、一人の生徒につき何種目まで出場できるんだっけ?」
「確か、二種目だった気がする」
「そうかぁ、二種目か……」
「あ、でも。応援合戦だけは例外で出場種目にはカウントされないよ。だからまぁ、女子は実質、最高三種目までは出られるってことだな」
「応援合戦ねぇ……」
顎に手を添えながら大きな目を細め、小悪魔を彷彿とさせる不敵な笑みで語り掛けてくる彼女は何やらよからぬ事を企んでいる様子。
「ねぇ、千秋くん」
「な、なんだよ」
「応援合戦って確か通称『チアガール』だったよね?」
「あ、あぁそうだが」
「ふ〜ん」とどこか鼻につくような相槌を打つ彼女は上から目線な雰囲気を醸し出しながら、俺との顔の距離を縮めてくる。
頬杖が相まって更に腹立たしい。
一体何を言うのかと警戒心を抱いていると。
「あのさ、千秋くん。我慢しないで本当のこと言っていいんだよ?」
「本当のこと?なんのことだか、全く心当たりがないんだけど」
「もぉー、そんな白を切っても無駄だよ?わたしには全てお見通しなんだから。ほらほら、今思ってること言っちゃいなよ」
耳に手を当てながら、「ほらほらぁー」と催促してくるが、彼女の言う『本当のこと』に嘘偽りなしに心当たりがなかった。
だが何度、「なんのことだ」ど問うても「もう、焦らしちゃってー」の一点張りでそれ以上の返答は望み薄い。
「マジで、なんのことだよ。俺本当にわかんないんだけど」
「もう、執拗いなぁ……ってその顔、本当に分かってないの?」
「いやだから、さっきからそう言ってるだろ」
「そんなはずは……」
ドスンと勢いよく机に伏せ、両腕で顔を埋めていた。
ほんのりと耳が赤く色付いているのは、恐らく気のせいではないだろう。
そんな、羞恥心に駆られている真っ最中に更に畳み掛けるように俺は言葉を並べる。
「あの、神崎さーん?一体何を待っていたんですかぁ?俺に何を言って欲しかったんですかぁ?」
「な、なななななにを言ってるのかさっぱり分からないんだけど!べべべべべつに千秋くんからチアガール姿見てみたいって言葉を期待してたわけじゃないしっ!」
流石に嘘つくの下手すぎやしないか。世界一獲得するのも夢じゃない。
心の声が全て漏れてしまっているだけれど。
でもまさか、そんな言葉を期待していただなんて、なんだかーー可愛いな。
仕方がない。ここは俺が一肌脱ぐしかないようだ。
「神崎。俺さ、お前のチアガール姿見てみたいよ」
「もう、遅いですぅー」
察しの悪く鈍感な俺が悪いのか、それとも勝手に期待していた彼女の方が悪いのか。
どちらにも非があるようにも感じるが、ここは百歩譲って俺が七割、不手際が悪かったことを認めよう。
「本当に見たいと思ってるんだけどな。きっと神崎なら他の女子よりも似合うと思うから」
「そこは『似合う』じゃなくて『可愛い』っていう場面でしょ。はい、やり直し」
下手に出てれば偉そうに。
相当のイラつきを覚えていたが、今ここでその感情を顕にしてしまえば、より一層に状況が拗れてしまうの判断し、駆り立てられた感情を必死に制御する。
「神崎なら他の生徒より可愛いと思うから。ほら、これで満足か?」
「ん〜、三点」
「それは三点満点中とういう認識で合ってるか?」
「ううん。十点満点中の三点」
「流石に低すぎだろ。せめても、半分の五点はほしいんだが」
「それはだーめ。まず、似合うじゃなくて可愛いと指摘を受けたことでマイナス二点」
未だに両腕で顔を伏せている状態で目線だけをこちらへ向け、右手の人差し指お中指を立てながら『二』と示してくる。
「残りの五点は?」
「鈍感なところ!」
「鈍感?それなら、もう自覚してるぞ。空気を読めないとか察しが悪いとかそういうのだろ?」
「ま、まあ。そんな感じのようなちょっと違うような。とにかく鈍感なところでマイナス五点!」
不貞腐れたように頬をぷくっと膨らませている彼女。
だが、そんな表情をさせたいのは俺の方で。三点との配点に納得が出来ないでいるのだが。
「それで、結局チアガールはどうすんだよ。やるのか、やらないのか?」
「千秋くんがしつこく言うから仕方がなく、チアガール姿見せてあげる」
「……別に俺は見たいというわけじゃ」
「なんか言った?」
「いや、なんでも」
ニコリと表情筋を緩ませる彼女の表情は普段のような太陽のような微笑みとは雲泥の差があり、謎の威圧感を感じる。
それからというものの、澤谷先生の懸命な指導力によって活気に溢れる生徒らをまとめあげ、淡々と順調に物事が進んでいった。
どの種目に出場するか逡巡を巡らせていた俺だが、気がついた頃にはあれほどまでに残されていた選択肢が男女混合リレーと綱引きだけとなっていた。
持久力が壊滅的な俺からすれば、当然の如く綱引きを選択せざるを得ないのだが、隣席の『バカ』の手によって無理やり、本当に無理やり男女混合リレーを選ばされてしまった結末。
「なんで俺のまで勝手に選ぶんだよ」と当然の怨言をぶつけても「だって、わたしたちが一緒に出らる種目これだけじゃん」と平然な面持ちと口調で応えた彼女を一発どころか三発ほどは殴りたい衝動に駆られた。
だがまぁ。二種目しか選択肢が残されるまで逡巡を巡らせ、決断力に欠けていた俺にも多少の非はあるのも事実で。
彼女に八つ当たりをしても、グチグチぼやいても、決められた未来が変わるわけもあるまいし。
今の自分に出来ることはただ一つだけ。
男女混合リレーと最悪の種目に出場しなければならないこの状況下で、どう創意を凝らせば体育祭当日、まだ見ぬ世界を全力で謳歌することが可能なのか。
地獄な思い出として刻まれないように、体育祭当日の自分に地獄の時間を味わわさない為にも、出来る限りの精力を尽くしたい。
「えぇー、それでは。対抗リレー、男女混合リレーのアンカーに出場する選手を決めたいと思います」
「はいはい!俺、俺やりますよ」
「いや、俺だろ!お前より俺の方が足速いし」
「一秒の差もないだろ」
澤谷先生がそう指示を出した途端に男子生徒共の熱気溢れる口論が飛び交う。
「いいや、ここはやっぱりサッカー部の俺だろ!」「何言ってんだよ、野球部エースの俺だろ」「走るのが目的じゃない部活はすっこんでろ。やっぱりここは陸上部の次期部長と騒がられてる俺だろ」「次期部長だとか初耳だぞ」そんないかにもくだらない絶え間なく繰り広げられ、論争は留まることを知らない。
男子共がどうしてこうもアンカーを取り合っているのかなんて目的、一応男子生徒の俺なら即座に理解出来た。
当然、ただ純粋に競走を好み、どうせ出場するならアンカーがいいと、そんな心が綺麗で純粋な意見を持っている者だって、ごくわずだが存在するであろう。
だが実際のところ、そんな思考の者はいないも同然で。
皆が思い描く世界なんてものは幻想で本来はもっとずっと、現実は愚かだ。
そして、思春期真っ盛りの若人の思考というのは、そんな世界よりも遥かに愚かで下劣だ。
人間の思考を読み取る機械が存在するならば、愚かで下劣だという証拠がより鮮明に証明できるであろう。
こうして今も尚、果てしなく続く終わりの見えない論争を繰り広げている男子共の真の目的はーーー『女子からモテたい』ただそれだけに尽きる。
男女混合リレーの際、自身のクラスが勝っていようが劣っていようが、アンカーという立場は何番手の選手よりも遥かに注目を浴びる。
そして、それを利用して女子からモテようと算段を立てる者も続出するわけだ。
「なんか、すごい言い争ってるけど、千秋くんはアンカーにエントリーしないの?」
「しないに決まってるだろ。俺なんかがアンカーになったら更に騒がしくなるだけじゃなく、勝利だって見込めないからな」
「そうかなー?わたしは千秋くん、アンカーに向いてると思うけど」
「それ、冗談か?だとしたら相当つまんないけど」
「冗談じゃないって!本気、本気だよ」
妙に自信に満ちた表情でそう言い放つ彼女は謎の威圧感を放っていた。
どんな生徒よりも俺が一番アンカーに相応しくないだなんてこと、一目瞭然で。
満場一致で『こいつはありえない』と考えるはず。
それなのにも拘わらず、俺がアンカーに向いているなど、たとえ冗談で口にしていたとしてもかなり奇抜な考えだ。
けれど彼女は俺が幾度となく否定しても、一切として表情を濁すことはなく、それどころか視線すらも逸らさずじっと瞳を見つめてきた。
「それにあれじゃん。授業が始まる前に黒板に張り出されてた各生徒の五十mの記録タイム見たけど、千秋くんクラスで六番目くらいに速かったよ?」
「いやいや……。俺そんなに速くないから。きっと、神崎の見間違えだろ」
四十人程度が在籍するこのクラスで徒競走の記録タイムの六番目が俺なんてこと絶対にありえない。
だが、彼女の真剣に満ちた表情と眼差しを見る限り虚言を口にしているとは到底思えない。
「見間違えじゃないよ。わたしも最初信じられなくて何度も確認したもん。それでも、本当に千秋くんが六番目に速かった」
「マジか……」
「マジだよ」
体力を消費するような、いわゆる体育系に当たる行動という行動は普段から徹底的に目を背けている。
それ故に当然だが、まだ高校二年、十七歳と若い年齢にも拘わらず、高齢者の如くスタミナのタンクが数少ない。
一分間の全力疾走でさえ、疲労困憊するのが当然。
だからこそ、持久力と足の速さはイコールだと勝手に思い、堂々の最下位の実績を作っているものだと思い込んでいたのだが。
彼女の証言が本当ならば、ただ単に先入観に囚われていたに過ぎず、実際は異なる。
だからどうなるって話なんだが。
その事実を知ったところで、俺の意思が変わることは毛頭ない。
仮にもし本当に俺の徒競走の記録タイムがこのクラスで六番目に該当する生徒だったとしても、俺が男女混合リレーのアンカーを務める理由にはならない。
「えぇー、これでは埒が明かないのでくじ引きで決めたいと思います。これなら、公平ですし」
「んー、まぁ。仕方ねぇーか」
「運気が強い俺が当たるのは当然だし、別にくじでもいいか」
「これなら、争いもないしな」
「えぇー、それでは混合リレーに出場する生徒は前に出てきてください」
澤谷先生の掛け声と共に、それらに該当する生徒らがぞろぞろと前へ歩いていく。
「ほら、千秋くんもでしょ?」
「俺はいいよ。なんかこういう時に限って当たりそうだし」
「千秋くんってそんなに運がいいの?」
「いや……別に良くないと思うけど」
そもそも運気が強かったら、高校入学以来延々と言われてきている『死神』というあだ名をつけられることもないだろ。
けれどやはり、彼女にとってはお構い無しのようで毎度おなじみ、俺の意思など尊重されることは微塵もなく、腕を強く引っ張られ強引に前へと連れていかれた。
「無理やり連れてきたお前がアンカーに選ばれたりしてな」
「その時はその時だよ。自分でもわたしがアンカーに向いてるとは思ってないけど」
「……嘘つけ。クラス内の女子で二番目に足が速いのお前だろ」
「自分のタイムは知らなかったのにわたしのは知ってるんだ」
「まあな。自分の足の速さなんて興味ないし、見なくてもどうせ最下位だろうって思ってたから」
くじ引きの列に並んでいる間、俺らの番が回ってくるまで他愛ない話をしながら時間を潰した。
持久力が酷く欠落している以前にそもそもの話リレーなんて種目に微塵も気が乗らない俺は当然の如くアンカーなんて荷の重い厄介な役割を担いたいとも思わないのだ。
そんなこともあり、敢えて歩調を遅め、列の最後尾に並べるよう努めたのだが、そんな卑劣な思考が仇となったのか不運な事に未だにアンカーくじを引き当てている生徒はいない状況。
大半の生徒らは「うわぁ、まじかよ。ハズレだわ」と嘆声を漏らすのだが、俺はまるで対照的で内心延々と『早く当たれよ』との切実な願いで溢れかえっていた。
そうして、その時は突然やってきた。
「えぇー、次は日影くんね。どうぞ」
「は……はい」
途中経過で胸騒ぎを察知した俺は列が進む間で彼女と順番を変更してもらった。
そのため、この白い抽選箱の中に存在しているのは一枚の当たり(はずれ)と一枚のはずれ(アンカー)のつまり二分の一の確率。
たとえ確率が五十/五十だったにしろ、ここは是が非でも『はずれ』と記されている紙をーー。
「えぇー、おめでとう日影くん。アンカー当選」
「かっ……か……か……………………」
「あ、あの……千秋くん?大丈夫……?」
「これが大丈夫に見えるのか。なら早退して眼科行け……」
「そう……ですよねぇ……」
最悪な事態へと化した今、俺の感情は絶望や混乱、彼女と順番を変更するなど愚かな決断を下した過去の自分への憎悪の渦が巻いていた。
そうして彼女はそんな絶望に陥り、世界が終わるような表情をしている俺を必死に励まそうと、パチンと両手を合わせながら首を傾げ、貼り付けていると一目瞭然な不慣れ過ぎる愛想笑いを向けながら。
「ち、千秋くんはまったく運がいいねー。最後尾で並んでたのに見事当たりを引き当て……ちゃうなんてー……あは……あははは……」
「運がいい……?逆だろ。運が悪いから当たったんだよ……」
「そう……とも、言えるかなぁ……」
今この状況でどんな励ましの言葉を掛けられても全て逆効果で終わる。
だからむしろ、無言のままを貫いてほしいのだが……。
いや……待てよ。アンカーくじを引き当ててしまった今、まだ一つだけ救いの手が残されている。
それを実行すべく、すぐさま行動に移したのだが……。
「あ、あの……。アンカーやりたい人がいたら……その……譲るんです……けど。……いませんか……」
だが当然の如く、俺からの申し出を容易く引き受ける者など存在せず。
周囲に飛び交う言葉は「やりてぇけど、死神が引いやつだろ」「なんか、不吉だよなぁ……」「俺……やっぱいいや」と皆目を合わせながらそう口にしていた。
微塵ね希望も見えやしない数秒間の話し合いの、のち。結論ついた答えは。
「死神が当たったんだから責任もってやれよ」
「くじ引きってそういうもんだろ」
「だけどまぁ。しっかり一位は取ってもらうけどな」
「確かに!それはもう確定事項だよな!」
「いや……流石に一位は保証出来ないが……」
「は?なんだよそれ。こっちは最高の思い出、作りに来てんだよ。空気壊すなよ」
最高の思い出……?
『それだけ思い出作りがしたければ、勝手にしとけばいいだろ』喉まで出かかった反論をグッと堪え。だけど、想像上に表面上に表れてしまい、俺の意思とは反して勝手に視線が落ちていく。
爪痕が刻まれるほどに強く握られた拳。
本音を口に出来なくて。そんなどうしようもなく臆病な性格に苛立ちを覚えた末、歯を食いしばる。
だけどそうだ。どれだけ下劣な言葉を吐かれようと、憎悪に満ちた眼差しを全身に受けようと、アンカーくじを引いてしまったのはどこの誰でもない俺で。誰かの手を借りようと言葉を投げかけても、拒絶されるのは当たり前。
普段の行い故の自業自得。
都合が悪くなると誰かを頼る。そんな話あっていいはずがないんだ。
意図的に人との接触を避けてきたのは俺で。親睦を深めようと声を掛けてくれた子に対して無愛想で冷酷に対応したのも俺。
全部悪いのは俺なんだ。
そんな奴が今更、助けてなんて言えるはずがーー。
「分かった、いいよ。あなたたちが言うように一位を取ればいいんでしょ」
俯き、教室の茶色い床しか映っていない視界の隅に一人の脚が映り込む。
そこから聞こえてくる声はとても安心感に満ちていて、聞き馴染みのある声。
でも、それでいて普段では一度も耳にしたことのない反発心を与える鋭く怒気に帯びた、けれどその場の誰よりも冷静で頼り甲斐のある声。
「わたしは、思い出作りと口実に千秋くんに責任を押し付けてるだけに思えるけど」
「いや、それはーー」
「確かにアンカーに選ばれたのは千秋くん。けど、だからといってその人を責めたり圧を掛けていい理由にはならない」
「だから別に責めてるわけじゃーー」
「なら、それなら。少しはーー」
俺は惨めに俯けていた顔をゆっくりと上げながら、その先に続く彼女の言葉を遮るように、いや……違うな。俺が言う言葉を残すように彼女の肩に触れる。
歩調を緩慢に進めながら、彼女の前に立つ。
「もういいよ、神崎」
「で……でもっ……!」
「ありがとう。俺のためにそんな必死になってくれて。それだけもう、充分だよ」
毎日しつこいほどに見せてくれる彼女の太陽の如く眩しい笑顔を連想しながら、精一杯口角を上げてそれを真似してみる。
鏡や物質を反射させるような道具が身近にないため、今自分がどんな笑顔を彼女に向けているのか。果たしてその笑顔が正解なのか。彼女が見せてくれる、俺がいつも見たいと思っている、君の笑った顔を真似できているのか。
そな全てを確かめることの出来る術はないけれど。
でも、それでも。彼女の顔を見れば。俺が今どんな笑顔をしているのか。それを見てどんな思いを馳せているのか。不明呂ばかりの答えがなんとなく分かる。
「一位、取ってやるよ」
「はぁ?急になんだよ。さっきと言ってることがーー」
「さっきはさっきだ、今とは違う。気分が変わった。お望み通り、お前らの思い出作りとやらに貢献してやるよ」
目の前にいる男子生徒に向けて、ビシッと指を差し、これ以上ないほど自信満々な表情を湛える。
「貢献……?死神っ!お前なーー」
「えぇー、よく分かりませんが言い争いはそこまでにしてください」
「チッ。タイミングがわりぃな……」
澤谷先生の間の良い仲裁の言葉に腹を立てたのか鋭い目つきで睨み、舌打ちを鳴らしながら、自分の座席へと戻って行った。
「千秋くん……大丈夫……?」
一向に座席へ戻る気配を感じさせず、呆然と立ち尽くしていると、胸元で手を握り眉じりを下げながら心配そうな瞳をさせた彼女の姿があった。
「あ、あぁ大丈夫。そんなことより、俺らも席に戻ろうぜ」
「う……うん」
*
「俺のためにあそこまで必死になってくれたの、神崎だけだったよ」
高校入学以来、校内の生徒とあそこまでの言い争いを繰り広げたのも単に言葉を交わしたのも初めてで、何とも言えない気持ちに駆られた放課後。
あの口論後すぐさま「今日、一緒に帰ろ?」と何やら深意を感じさせる言い草に二つ返事で了承した俺は彼女と共、下駄箱で靴を履き替えていた。
「でも、意外だったな。いや……かっこよかったの方が正確かな」
「意外?かっこいい?一体なんのことだ?」
「アンカー決めの時に決まってるじゃん。なんだっけ……」
彼女は数秒間頭を悩ませた後、俺の事をビシッと指を差しながら。
「『お望み通り、お前らの思い出作りとやらに貢献してやるよ』だっけ?」
「蒸し返せんでいい」
「いた……」
俺よりも遥かに小さい彼女の頭を軽くチョップすると、頭上を両手で抑え頬を膨らませる。
「もぉー、かっこよかった場面を再現したのにー」
「だから、再現しなくていい」
「いた……。また、チョップしたっ!!チョップチョップチョップっー!」
「うるさい」
「これで三度目……。チョップは大罪だからね」
「なんだ?それじゃあ、俺は死刑宣告でもされるのか?」
「死刑なんてそんな酷い決断下さないよ。ただ……」
「ただ?」
不貞腐れるように眉を吊り上げ唇を尖らせる彼女はタッタッタッと数m先まで走り、くるりと振り向きながら。
「……から。これからも……わたしと一緒にいてください。ずっと……この先も……わたしの隣に」
「それはまぁ」
「えっ!?いいの!?本当に本当に!?」
「あ、あぁ。そんなに驚くことか?」
「じゃあ、成功ってこと……?わたしたち今からその……こ……こ……こい……」
校庭全域を包み込むように眩しく光り輝く夕日が彼女の顔を照らしたのかと錯覚させるほどに頬を紅潮とそれでいてこれ以上にないほどに喜んでいるように見えた。
「成功はよくわかないがあの時約束したからな」
「ん……?やく……そく……?」
「あぁ。お前が俺に飽きるまで友達でいてやるよって」
「あ……あぁ、あれね。あれ……ね」
「お前……忘れてただろ」
「いや……そのー」
「はぁ……忘れてたんだな。流石に見損なった」
分かりやすく視線を逸らしながら、空中でくるくると円を描くように指を回す彼女。
そんな動揺丸出しの彼女を置き去りに俺は歩みを進め、一足先に昇降口を後にする。
「ち、違くて!いや、違うのはそれだけじゃないんだけど、とにかく違くて」
俺を追いかけるように隣で歩調を合わせた彼女は先程の一連の弁解を必死にする。
目を合わせようと俺の前に出たり、グイグイと腕を引っ張ったりと様々な工程を踏んだが、その度に拒絶をする俺。
そんな時、遂に痺れを切らした彼女はジャンプをしながら俺の顔を両手で掴み、無理やり目線を合わせ手法を用いた。
「な、なんだよ。いいから離せよーー」
「本当に違うの!あの約束はわす……れてたけど」
「やっぱり、忘れてたんじゃねぇか」
「わたしは!あの約束がたとえなくても、ずっと一緒にいるつもりだったから。ううん、ずっと一緒いるつもり!」
突然声を張り上げ、そう言い切った彼女の瞳はいつになく真面目で一切視線を逸らさない。
「へいへい、そうかよ」
「ちなきくん!りたい!りたい!」
頬を掴みビョーンと伸ばす。
「もぉー、痛いよ」
「約束を忘れた罰だ」
「チョップとかほっぺをつねるとか、わたしだからいいけど、他の女の子にしたら嫌われちゃうよ」
「お前も俺の事嫌うか?」
「わたしだからいいけどって今言ったでしょ!」
「そうか」
そもそもの話、他の女の子も何も俺が親しくできる女子生徒は彼女以外いないし、どんな代償を受けようと一切お構いなしに干渉し続けるのも彼女だけ。
誰かを弄るなんて行為、彼女にしかいないというのに。
「それで今日はなんで帰ろうなんて言ったんだ?いつもはそんなこと言わずに勝手につあてくるくせに」
「勝手についてくるって言い方、なんかムカつくなぁ」
再び歩みを進めた俺たちは茜色の夕日に照らされながら、帰路につく。
スタスタと歩調を速める彼女は俺の目の前で足を止め、後ろで手を組みながらくるりと振り向く。
追い風が彼女の胡桃色ログヘアを靡かせる。
背後で光り輝く夕日も助長して、光沢を見せるその髪質はたとえ触れなくても滑らかなんだろうと推測出来てしまう。
乱れた髪の毛を耳にかけ、意を決したのか彼女はそっと口を開いた。
「体育祭……千秋くんは休まないよね?」
「休むわけないだろ。一位取るってあんな自信満々に言ったんだから、休みに休めないだろ」
「確かに、それもそうだね」
彼女は何かを思い出したのか、いいや……恐らく『何か』ではなくアンカー決めの時だろう。口元に手を当てながらくすくすと笑っている彼女は心底楽しそうに見えた。
一体何がそんなに面白くて、彼女の表情筋を緩ませるのか。
「なんだか知らないが笑いすぎだ」
「だって……だってさ。『お前らの思い出作りとやらに貢献してやるよ』って言葉があまりにも上から目線過ぎてっ……ぷっ……んぐ……」
「だから、蒸し返せんでいい」
再び彼女の頭上をチョップで攻撃を食らわせようと仕掛けるとビュンと俊敏に回避してみせる。
「ふふふ……!二度目はくらっーー」
ヒーローの決めポーズを誇らしげな表情で構える彼女だが、人間という生き物は油断している時が一番の弱点。
「い……いたい」
「デコピンは読めなかっただろ?」
「正直チョップよりも……いたいよぉ〜」
「自業自得だ」
デコピンをされた部分を両手で押えながら、ムスッとした表情で睨みつけてくる彼女。
だがそんな顰めっ面もライオンの威嚇ほどの威圧感は全く感じず、どちらかといえばハムスターの威嚇と表現した方が適切かもしれない。
「それで話を戻すが、神崎の言いたかったのはそれだけか?」
「本題はそれじゃない」
額に添えていた両手をそっと下に下げると真摯な眼差しを俺の瞳一点に向けてくる。
前髪の微かな隙間から除く、デコピンの赤い跡が笑いを誘うが口角が緩むのを必死に堪える。
「わたし、千秋くんを傷つけたあの人たち許せないの。いかにも無理だろみたいな雰囲気で」
「でもそれは、俺の普段の行い故のーー」
「普段の行い?それは違うよ千秋くん」
「いや、違くないって」
「ち が う っ !」
両手をぶんぶん振り回しながら、「違うの!違うの!」と連呼する彼女はいつになく必死でおもちゃを買ってもらえず、駄々をこねるかのように張り上げられた声は周囲の視線を集めるには充分すぎる素材だった。
「分かった、分かったからそんな大きな声出すなって」
ごほんと咳払いをし、一度冷静に戻った彼女は自分のした行いを改めて実感したのか羞恥心に駆られたように頬を赤らめた。
「とにかく、千秋くんは誰かを傷つけたことも噂話のようなことを実際にしたこともないわけでしょ?」
「まあな」
「ただ単に無口で無愛想で態度が冷たくて、その上卑屈で生気を全く感じない、無気力な男の子、それだけでしょ?」
「それだけでしょって……。上げて落とすな。反応に疲れるから」
「けど、ちゃんと向き合ってみると千秋くんの本当の姿が知れて。普段見せてる姿なんかどうでもよくなるほどにあなたは優しかった」
「世界の誰よりも」と言葉を付け加えて彼女は再び歩みを進めた。
そんな彼女を追いかけるように歩幅を合わせると、うししと擬音語がピッタリないたずらっ子を彷彿とさせる不敵な笑みを向けながら。
「だからさ、リレーの特訓してクラスのみんなをあっと驚かせようぜ!千秋くんは自分はすごいんだって目に物見せてやろうぜっ!」
「実にお前らしくない考えだな」
彼女の発言が思考が予想を反し、普段用いらない語尾になぜだか自信に満ち溢れた面持ち。
そして、普段通り太陽の如く眩しい笑顔を向けながら、親指を立てる彼女の姿がなぜだか無性に面白くて。
耐えきれなかった俺はケラケラと愉快に笑ってみせた。
「そんなにおかしかったぁー?」
「あぁ、すごくな……んぐっ……ははっ……」
胸元には握られた両拳。前のめりに頬を膨らませる彼女は俺の反応がどうにも不服らしい。
「だがまぁ、その考え嫌いじゃない」
誰もが俺なんかが一位を取れるわけがないと思ってるであろう。
そんな一切の期待も抱いていなくて、『あいつは無理だ』『死神に回ったのが運の尽きだ』『死神だからな』『死神じゃあな』そんなくだらなく下劣な思考を巡らせている者ほど単純な人間はいない。
「お前の言う通り目に物見せてやるか」
「そうだよ!その意気だよ!」
「それでだが。その特訓やらは一体何をすればいいんだ?」
「それはもう、毎日走り込みと体づくりだよ!でもまずは基本的なことからかな」
俺には絶対に向いていない体育系だ。
インドアな者に運動をさせるほどの拷問はない。
だけど、運動全般に苦手意識を抱いている俺は当然リレーの特訓に気乗りしないはずなのに、なぜだか彼女と一緒なら別にいいかもしれないと現段階で若干前向きな姿勢に自分でも戸惑ってしまう。
今日から一週間後体育祭が幕を開けるが、その時の俺は一体どれほどまでに成長を遂げているのか良い方向へと進めばいいなと淡い期待を抱いている。




