第三章
第三章
彼女ーー神崎芹奈との勉強会を前日に控えた土曜日。
何をするにも意欲が湧いてこず、肌寒い涼し気なそよ風に触れながら、コンビニに訪れていた今日この頃。
実際ならば、定期考査まで残り僅かな期間しか設けられていない今、家で勉学に励むのが正しい選択で普通であり真っ当な一日の過ごし方なのだろうが。
あいにく、そんな意欲も生気も湧いてこなければ、優等生な性根も持ち合わせてはいない。
と言っても。最初から今日を休息に設けていたわけではなく。その証拠として、スマホにインストールされているカレンダーアプリには今日の日付はもちろんのこと、その先の日程まで『勉強』『勉強』『勉強』としつこくびっしりに記載されている。
それもそのはず。昨日の昼食時に『ねぇ……千秋くんは……わたしのこと……見捨てないよね……?よね……?』とヤンデレ気質な言葉を誰かさんに吐かれるまでは今日も今日とて、丸一日を勉学に注ぎ、テスト範囲の問題集に努めようとしていたのだから。
だがそんな計画性完璧過ぎる予定も、『決してめげず諦めず屈さずに』そんな言葉をモットーに耐え抜いてきた根性も、テスト最終日まで一日でも多く意欲を残すためにはどうすればいいのかと、様々な試行錯誤を重ねに重ね、努力と苦悩に費やした時間もその全部が全部、どこぞの誰かさんのある言葉によって、消し去られてしまったわけだ。
その、どこぞの誰かさんーーとりあえずKさんとしておくが、そのKさんが『せっかくの土曜日だから一日くらいは休みたいかな』なんてアホな事をほざいた結果、定期考査初日まで残り僅かだという貴重以外の何物でもない時間を、一分一秒も無駄には出来ないこの状況下ではダイヤモンドよりもエメラルドよりもサファイアよりも、どの宝石よりもたとえ世界三大珍味であっても価値が高いであろう時間をなぜだか一日先送りにされたという前代未聞な『バカ』がやる『バカ』しかやらない所作をさせられた結末で。
Kさんが休息を取るなら、当然として俺も休息を取らなければ割に合わず、勉強から離れなければ、腑に落ちないというかプライドが許さないというか。
何がなんでも、Kさんだけに休息を取らせてはいけないと、俺の血が騒いだわけである。
そんな、年齢遅れの厨二病臭い言葉を脳裏に吐き捨てたと同時に、数分間店内をグルグルと探し回り遂に目的の商品を発見することに成功した。
それを一つ手に取り、スタスタと歩みを進め、レジの少し手前で足をピタリと止めた。
「……お金……たりるかな、お嬢ちゃん」
「……ん……うぅ……っ」
目の前で猫型のクロスボディを身につけた幼子が鞄の中をガサガサと"何か"を必死に探していた。
定員と少女の会話を聞く限り、恐らく商品の合計金額と持ち合わせていた所持金が足りていないのだろう。
だが、定員も定員だ。『これをなくせばお金は足りるよ』やら『お財布見せてくれる?僕が確かめてみるから』やらで多少なりとも幼子の力になるような、安堵させてあげられるような行動を努めてあげればいいものの。
幼子に対して『お金足りる?』の一点張りで問いかけたところで、「足りない」と返答されるのは言うまでもなく明白な結論だろうに。
実際問題、所持金が不足しているからこの状況下に陥っているのだと理解していないのか。
ひたすら焦燥感に駆られる幼女の瞳は潤い揺らぎ、今にでも泣き出してしまいそうな面持ちで、なおも必死に鞄の中を見回していた。
身なりや容姿、口調から推測する限り、恐らくこの少女は小一か小二といったところであろう。けれどこれはあくまでもこの状況で得られる数少ない情報のみでの推測に過ぎず、全くの見当違いの可能性だって有り得る。
なぜなら俺は童顔で小柄でその上子供のような性格で会う度に何かしらのイタズラをしてくる。
そんないかにも、幼稚園児並の脳みそであろう、どこぞなの保健室の先生を知っているから。
って今はそんなことどうでもいい。
俺はブンブンと頭を左右に振る。
そして、そんな今にでも泣き出してしまいそうな幼女の姿を遂に見かねた俺は、衝動的に自然と足が動き、気がついた頃にはレジの前で幼女の隣に立っていた。
「あ……あの、お客様、今は……」
「これで、足りますか?」
そう言いながら、千円札二枚をポンッと青い金銭の受け皿の上に置く。
俺の突然の行動に定員も幼子も当然の如く、戸惑いと疑念を抱きながら、訝しげな表情を浮かべていた。
「あっ……あの……。お客様はこちらの方とお知り合いですか?」
「あっ……いや、その……」
幼子を助けるため身体が動いたまではいいものの、その先の定員からの対応を全く考えていなかった。
知り合いではないと否定すれば、余計ないざこざに巻き込まれそうだし、ここは嘘でも幼子とは身内だと言い切った方が適材適所であろう。
「そ、そうです。この子とは、その……親戚の子というか……」
演技なんてものをしたことがなかった俺の小芝居はお手本としか言えないほどの大根役者ぶりだった。
当然、定員は多少の懐疑的帯びた瞳を輝かせ、首を傾げていたが。
「そうでしたか。それではお会計を再開させますね」
「助かった……」と聞こえてきそうな安堵した面持ちでニコリと微笑んだ定員は言葉通りカチャカチャとレジ打ちを再開させ、お釣りを持っている手を差し出してきた。
「どうも……」
「ありがとうございました」
そうして無事……コンビニ事件は幕を閉じ、俺と幼子は二人共に店内を後にした。
「お兄ちゃん、ありがとう」
コンビニの自動ドアを抜け、少しばかり歩みを進めた頃、幼子は口を開き、そう感謝の言葉を述べた。
恐らく、はじめてのおつかいと言うやつなのだろう。
でも、ああいうのは大抵、心が落ち着かずソワソワしてしまい、結局親が着いてきてしまう結末で電柱から覗き見ているものだと思っていたのだけれど、会計時に助っ人から現れないあたり本当にこの少女一人だけなのだろう。
「気にしなくても大丈夫だよ。困っている人がいたら助けるのが人間のあり方だからな」
「ありぃ……かたぁ……?」
「いや……まぁ……。誰もが知らぬ間のうちに誰かを支えているから世界は成り立ってる。つまりそうだな。君は捨て猫を見つけたらどうする?」
「こっそり家に持ち帰るかな」
「そうだろ?それも人ではないが猫という生き物を助けたという事実に違いはない。まぁ、端的に言えば、大抵の人間は困っている者を見捨てることが出来ないのさ」
でもまぁ。そんな深いようで実際のところ中身が空っぽな事を堂々と口にしているが、あの状況下で落ち合わせていたのが、この少女のような幼子じゃなければ、恐らく俺は手を差し伸べるどころか見て見ぬふりをしていたであろう。
「じゃあ、俺はもう行くな。君も気をつけて帰るんだよ」
少女に軽く手を振り、そう別れを告げ、一歩足を踏み出そうとした時、小さな手が俺を手を掴み、歩みを止めた。
「ん……?どうかしたのか?」
「ちゃんとお兄ちゃんにお礼がしたいの!だから、お家にきて!」
「いや……それはちょっと遠慮しとこうかな」
なぜこの子はこれほどまでに礼儀正しく、人間そのもののお手本のような存在なのか。
最近ではまるっきり見かけなくなった横断歩道で手を挙げる真面目な子なんだろう。
恐らく、育ちがいいのだろうが、良い意味で親の顔が見てみたいな。
どこぞの誰かさんとは大間違いだ。
是非ともこの少女を見習って欲しい限り。
だけどそれでも、申し訳なが今回は少女からの返礼は断らせてもらいたい。
たかが、会計時に困っていたのを軽く助けただけであって、それも偶然俺が鉢合わせたからで。
『ありがとう』と感謝の言葉も受け取ったし、それ以上の見返りは求めていないというか自宅にお邪魔したら逆におこがましい気がする。
けれど、どうやら俺の主張など少女にとっては関係ないようで。というか是が非でも俺を自宅に招きたいらしく。
「お姉ちゃんが言ってたよ。遠慮するのはいい事だけどしすぎるのは良くないって。たまには甘えるのがちょうどいいんだよって!」
「そ……そんなことを」
意味合いが違うというか、こういう場面を想定して教えたわけではないような気がするが、自信満々な笑みで言っている少女の言葉を否定してはいけないと、「はは……。そう……かもな……」とぎこちない愛想笑いで対応した。
「それじゃあ、早速行こっー!ほら、お兄ちゃんも」
「お……俺も……?」
「うん!」
「いっ……いこー……」
そうして、少女の子犬のような煌めいた眼差しには敵わなず見事、口車に乗せられる羽目となった。
俺が来訪したことによって、迷惑を掛けていると感じたらすぐに帰ればいいし、たとえそうじゃなくても五分や一〇分ほど経過したら少女の気も済むだろうと思い……いや……願うことにした。
結局最後は神頼みということだ。
「そういえば訊いてなかったけど、君の名前はなんて言うんだ?」
「カナはカナだよ?」
「カナちゃんか。可愛い名前だな」
「そうかなぁ……えへへぇー」
少し照れくさそうに紅潮させた頬を掻きながら、それほどまでに嬉々としたのかスキップをし始めた。
なんだこの、小動物のような愛らしい生き物は。
まるでうさぎを眺めているような感覚に陥るレベルにカナちゃんに心を撃ち抜かれる。
「お兄ちゃんの名前は?」
「千秋だよ」
「ちあき?かっこいい名前だね〜」
「そうか?初めて言われたよ。ありがとな」
先程のお返しと言わんばかりにカナちゃんは向日葵のような眩しい笑顔を向けた。
「お兄ちゃんはコンビニでなに買ったの?」
「これだよ。うさゴリラのカードがおまけで付いてくるポテトチップス」
コンビニ袋から商品を取りだし、かなちゃんに見せる。
「うさ……ごりら……?そんな動物がいるの?」
「実際にはいないけど、俺がすごく好きなキャラクターなんだ」
「そうなんだ。でも、可愛いね。その、うさ……ごりら」
「そう……そうだよな!やっぱり、そう思うよな!初めてだよ、可愛いって言ってくれたの。いやぁ、嬉しいなぁ」
誰かさんには早々に『必要性が低い』やら『感性が曲がってる』やら散々酷評を言われたが、カナちゃんに可愛いと言ってもらえたことで、そんなことどうでもよく感じてきた。
そんなこんなで、カナちゃんに案内されるがまま自宅に辿り着くまでの間、数々の話題で盛り上がり、楽しい会話を興じた。
そうして数分歩みを進めた末、ようやく目的の家に至り着いた。
カナちゃんの自宅を目にした俺は率直に。
「豪邸だな〜……」
白色を基調とされた、他の家よりも数倍は大きいであろうこの物件は一際目立ち、豪華な匂いをプンプンと漂わせていた。
「ちょっと待ってね。今、開けるから」
猫型の鞄の中をガサガサと探り、家の鍵を取り出し、鍵穴に刺すと。
ガチャと開閉音共に扉が開くと同時に玄関から一人の女性が飛び出してきた。
「カナ〜遅かったじゃんかよ〜!わたしはてっきりかなに何かあったのかとソワソワしてたんだからね」
心配そうな声音で俺の横にいたカナちゃんに抱きつく彼女はーー。
「……神崎じゃないか」
「あれ?千秋くんじゃん。何でここにいるの?まさか……かなの誘拐目的とか……」
「勝手な憶測で俺を誘拐犯に仕立て上げるな!家まで着いてくる誘拐犯がいるわけないだろ」
「それもそうだね〜。なら、尚更千秋くんがかなといる理由が分からないんだけど」
「それはなーー」
かなちゃんは彼女の腕を必死に振り払いながら、俺の言葉を遮り。
「それはね。お兄ちゃんがかなのこと助けてくれたんだよー!」
「かな、嘘つかなくていいんだよ。この、怖いお兄ちゃんに「助けてもらったて言え」」て言われたんでしょ」
「おい、神崎。いい加減にしろ」
「いてっ……。暴力反対ー」
「これはしつけだ」
適当な事を言う彼女の頭を割と力の籠った手でチョップする。
「全然、怖くなかったよー?すごく優しかったし、それにすごくかっこよかったもん!」
でも確かに言われてみれば、カナちゃんは俺の事を初めて確認した時もコンビニを後にし言葉を交えた時も一切臆せず、俺といることが楽しいと言わんばかりにニコニコと笑っていた。
小学校の低学年であろう子が愛想笑いなんて器用な事出来ないと思うし、恐らくあの笑顔は本心だろう。
「まさか本当に……かなを助けてくれたの?」
「だから、さっきそう本人が言ってただろ。どれだけ、俺への信用が薄いんだよ」
「ごめんて〜。わたしが千秋くんのこと信用してないはずないでしょー。言葉のあやだよ」
「使い方間違ってる時点で言い逃れ出来ないからな」
友人相手に対して、『誘拐犯目的?』とほざく奴の気が知れない。
俺はこの時初めて、いや……もしかしたら無意識ながらにも感じていたのかもしれないが。
どちらにせよこの時改めて、こんな奴と友達になった自分がバカだったと自覚した。
「それもそうと。せっかくだし、千秋くん上がっていきなよ」
「元からそのつもりだ」
「最初から上がるつもりなんて意外と図々しいんだね」
「ちげぇよ。カナちゃんに招かれたから来た、ただそれだけだ」
何かを納得したのか、彼女はポンッと手を打ちながら、「ほうほう……なるほどなるほど」と首を縦に複数回頷いた。
「つまり、こういうことだね。世界一宇宙一可愛い、カナに心の全てを魅了され、カナの『お家に来てくれたら色々なこと、お し え て あ
げ る 』に欲情したということですな」
「流石に今のはぶん殴ってもいいよな?」
「あ……すみせん。少し調子に乗りました」
「全然少しじゃねぇから。というか、小さい子の前でそういう事言うんじゃねぇよ」
「……本当に申し訳ございませんでした」
地面に膝をつけながら土下座をし続ける彼女の頭を踏みつけてやろうかとも思ったが、カナちゃんに目の前ということもあり、そんな思考は撤回させた。
「カナちゃんに感謝するんだな」
「よく分かりませんが、嫌な予感がするのでとりあえず感謝しときます。カナありがとう」
「よく分からないけどいいよ〜」
土下座をし続ける彼女の頭を優しく撫でながら、無邪気な笑顔を振りまくカナちゃん。
「たまに思うんだけどさ、神崎って時々人格変わるよな」
「別にそんなことないと思うけど。多分、千秋くんの気にしすぎだよ」
「いや。絶対にそれはない」
これまでにも、彼女の新たな一面は着々と数を増しいき、図鑑を埋める一方。
現段階でも、第一印象で受けた『無邪気で自由奔放な性格』。そして、保健室のとある場面で確信づいた『腹黒ドSキャラ』だということ。その上、今回で新たな一面を披露させ『実は下ネタ好きのむっつりスケベ』かもしれないという新情報。
最後のだけはまだ確定とは言い切れないが、これからの接触で確実性を帯びるであろう一面。
これだけでも、三つの人格を有している彼女は恐らくこれ以外にも数多くのそして俺を驚かせるような姿が存在するのだろう。
けれど逆に言えば、それほどまでに多種多様な一面を何の躊躇いもなく見せてくれるということは、ある意味俺を信用し、しっかりとした友人だと思ってくれているからこその証であり。
学校にいる時、俺以外の者にも目のつくような場所の場合、精々さらけ出しているのは一つ目の『無邪気で自由奔放な性格』だけ。
それどころか、自由奔放な性格までも欠けているような気もしてしまう。
あまり、俺以外の生徒といるところを見たことはないが、それでも声を掛けられれば少し席を外す。
そういった時、彼女がその友人と会話を交えている姿は俺と話す時の姿とはまるで違って見えて、『優等生』のような人格に摩り替えている。
それも、ある意味彼女の一面ではあると思うのだが、あくまでもその『優等生』の姿は仮面というか意図的に演じている姿のような。
良く言えば、切り替え上手だし。悪く言えば、八方美人。
というか、まるで俺以外の生徒という生徒を信用していないようなそんな気さえもしてしまう。
それは恐らく彼女のーー。
「千秋くん!どうしたの?考え事?」
彼女の呼び掛けにより、思考停止され、現実へ引き戻される。
目の前には靴を脱いだカナちゃんが玄関先で怪訝な表情を浮かべながら俺の事をじっと見つめていた。
隣にはボーっとする俺の顔の前で手をかざし、上下に振るジェスチャーをする彼女の姿。
「いや、大丈夫。少しボーっとしてただけだから」
「そう?それならいいんだけど」
「お兄ちゃんー!早くおいでよ〜」
「あぁ。お邪魔します……」
「どうぞどうぞ〜」
これほどの豪邸に足を踏み入れたことがない俺は、撒菱が撒かれているのかと錯覚させるほどにつま先から恐る恐る足を伸ばす。
それと同時に甘さの中に華やかさを感じさせるいかにも高級感漂うルームフレグランスの香りが鼻腔を刺激させる。
上を見上げても天井はかなり高く設計されており、百七十三cmと高身長の部類に含まれる俺がジャンプをしたとしても、確実に届かないであろう。
玄関前から続く廊下には黒と白のふかふかな絨毯が敷かれている。
横を見れば華やかな花瓶が置かれており。上を見れば高い天井。より一層に高級感を増しているであろうふかふかな絨毯。
その全部が全部見慣れない光景で結構戸惑ってしまう。
そんな、おどおどとした姿を後ろから眺めている彼女が突然「ぷっ!」と笑い吹き出し。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。自分の家にいるようにのんびりくつろいでいいよ」
「それが出来ればいいんだがな」
元からくつろぐ目的で来訪したわけではないが、この光景を目にした今の俺からすれば。
たとえ、くつろぎ目的で訪れた場合だったとしても、間違いなく心を落ち着かせることはまず叶わず、気楽に羽を伸ばすことさえも不可能だろう。
「ほらほら、早く前に進まないと〜」
「ちょっ……そんなに押すなって。まだ、心の準備がーー」
「心の準備とかそんなの必要ないって!」
「俺にとっては必要不可欠なんだよ!」
「そんなことをしてる間にも時間は過ぎ去っているのですよ〜!」
一切俺の主張には耳を傾けず、ひたすらに「早く早く〜」と背中を押し続ける彼女。
数十秒間の硬直の末、彼女からの催促されたことによって靴を脱いだ俺は玄関前で待ち構えていたカナちゃんに手を取られ、その先のフロアへ引っ張られる。
「ここはね、ここはね!りび……りび……りびぐだよー!」
「それを言うならリビングでしょ」
後からやってきた彼女がそう訂正する。
「外観から何となく想像はしていたけど、やっぱりリビングも広いんだな」
玄関先を抜けると大理石の床が広がるリビングが現れた。
座らなくとも感じ取ることのできる、ふかふかなソファーが直角に二台設置され、その中心部には家全体を映し出す鏡のようなガラス製のテーブル。
上を見上げればアニメでしか見たことのない、シャンデリアが天井から吊り下げられ、照明の役割を果たしている。
目先には数分前に目にした壮大な庭の光景が一望できるほどの大きい窓ガラスが一面の壁を支配し、その横にはくるくるとした螺旋階段上に伸びている。
観察すればするほどに新たな情報を発見し、分析し、そして言葉を失い、目を見開くの繰り返し。
言い出したらキリがないほどに彼女の家は新鮮な感情を盛大に引き出す。
「っていうか、お前って実は金持ちな上にお嬢様だったんだな」
「お嬢様でもないし。こんなの全然普通だと思うけど」
「いいや。これは流石に普通の度を超えてるって」
「そうかなー?」
あまり個人のプライベートに踏み込む気などさらさらないため、敢えて訊くことはしないが。
恐らく、彼女の両親はどこかの大企業に勤めていたり、もしくは有名な医院の医者や社長だったり。それとも、資産家や不動産会社なのか様々な考察が巡っては思案が止まらない。
まぁつまり、何が言いたいかというと。
これほどの豪邸を住まいにしているのだから、彼女の両親は只者ではないということだ。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!こっち、カナの部屋なの!来て来て!」
「今行くからちょっと待っててな、カナちゃん」
「何かあれだね」
「なんだよ、あれって」
眉をひそめながら、一歩後退っている彼女が口を開く。
「さっきからずっと思ってて、言おうか迷ってたんだけど。千秋くんがカナのことカナちゃんて呼ぶと何か気持ち悪いんだけど」
「仕方ねぇだろ。カナちゃん以外に呼び名がないんだからよ」
「普通にカナって呼び捨てでいいと思うんだけどさぁ。なんかこう……中年おじさんの香りが……ってまさかっ。千秋くんって実は……ろりーー」
「断じて違う。それ以上先を言ったら殴るからな。それに俺は歴っとした十七歳で中年オヤジでもない」
数分前は俺の事を誘拐犯扱いするは、今は中年オヤジ扱いするは。
どれだけ、俺への偏見を持っているのか底が知れないが、とりあえず彼女と友人になったことに俺は心底後悔する。
「そんなに気持ち悪いなら、何か新しい呼び名考えればいいだろ」
『カナちゃん』そんな短い言葉だけで、中年オヤジ扱いに仕立てられたらたまったもんじゃないからな。
「お兄ちゃんー!まだぁー?早く早くー!」
「ごめんごめん、今行くよ。っていうことで、俺はカナちゃんと少し遊んでくるから」
「はいはいー。わたしを蚊帳の外にして、どうぞ小学生と遊んできてくださーい」
ぷいっと顔を逸らしながら、口を尖らせ、フグのように頬を膨らませている彼女の方こそ小学生のように見えるのだが。
それを口にしてしまえば、余計に火に油を注ぐ結果となるのは目に見えているため、敢えて言葉にはせず、ぐっと心の内で留めておく。
「まぁ、そう拗ねるなって。お前とも後で遊んでやるからさ」
「それは皮肉ですかぁ?わたしは、小学生じゃないんですけどねぇー」
「じゃあ、お前もくればいいだろ?そんなに寂しいなら」
「べ、別に寂しくはないし……。勝手な勘違いしないでよ」
「はぁ……」と深いため息を零しながら、本当になんなんだこいつは、と心底呆然とする。
ストレートに言ってしまえばーー『めんどくさい』。
その言葉に尽きる。
「カナー!わたしも一緒に遊んでも別にいいよねー?」
「お姉ちゃんはだめー!今はお兄ちゃんと二人だけになりたいのぉー!」
「あの子……いつの間にか……マセガキになってるじゃないよ」
「おいおい……急にどうした。ものすごく、口が悪いけど」
ここにきて、本日二度目の人格豹変と新たな一面を発見した。
『無邪気で自由奔放な性格』『腹黒ドSキャラ』『実は下ネタ好きのむっつりスケベ』ときて、次は『見かけによらず、粗暴な言葉遣い』。
どれもが予想を遥かに超えてきているのだが、これからこの先も、斜め上を楽々と通過してみせる予想を反する彼女の一面を期待している自分がどこかにいる。
「っていうか、カナ〜?もう、わたしという最高完璧美少女なお姉ちゃんがいるんだから、こんな根暗不良お兄ちゃんなんていらないよねー?」
「お前ってたまに、さらりと失礼なこと言うよな」
スタスタスタと数m先にいるカナちゃんの元へ駆け寄り、肩を掴みながら脅しの言葉で威圧を与える彼女。
だが、そんな彼女から溢れ出る異様な雰囲気も誰であろうと支配下に置こうと企んでいそうなキマッている瞳も威圧をこれでもかと感じさせる一つ一つの言葉も。
カナちゃんの心を揺らがずには皆無と言っていいほどに無力で全く臆していなかった。
そして、平然とした何食わぬ顔でカナちゃんはこう言うんだ。
「ううん、全然そんなことないよ。お兄ちゃんをいじめるお姉ちゃんは大嫌い。どっか行って!」
「……っ……がぁっ……がががっっ…………ががががががががががががががががががががががががががっ……が……」
あらら……。
どうやら、高校生の彼女よりも遥かに年下の小学生のカナちゃんの方が一枚上手だったようだ。
それどころか、カナちゃんからの言葉が彼女にはあまりにも効果抜群過ぎたようで、恐怖心を全開に与える『ガガガガ』とひたすらに連呼しながら一発 K.Oされてしまっている始末。
絶望に陥り、銅像のように硬直してしまっている彼女の姿を目にした俺は必死に口角が上がるのを抑え、彼女の肩に手を置きながら。
「おっ……おい……。だっ、だ……だいじょぶ……か……?……んぐっ」
「なに……笑ってんのよ。……殴るわよ」
「悪い。だけど、流石にその反応はずるいって。……んぐ」
「千秋くん……。だから……笑うなって言ってるでしょうがっーーー!!」
コツコツといや……ゴツゴツと割と力が込められた拳で俺の肩を殴りながら、まるで自分の怒りを伝えようとしているかのように。
だが、女子の彼女がいくら力を込めようと、たとえ、身体の全神経を拳に注ごうと男子の俺からすれば微塵も痛感を感じない。
「まぁそんな、しょげるなって。あとで何でも言うこと聞いてやるからよ」
「カナに選ばれた千秋くんに何を言われても今のわたしには皮肉にしか聞こえませーん」
そうして彼女は再び顔をぷいっと逸らし、視線を少し落としながら、「でも……」と言葉を続ける。
「千秋くんがお願いを聞いてくれるって言うなら、許してあげなくもないかなぁ」
「そうかそれならーー」
「だから……その。わたしの事もちゃんと見てよね」
そう口にすると同時に彼女は僕の方へと視線を切り替え、少し不貞腐れた表情を浮かべている。
ぺたん座りをしている彼女と前屈みの俺との高低差の影響で上目遣いでそう訴えてくる彼女には、なんというか……そのーーーー妙な攻撃力があった。
「あっ……あぁ、わかったよ。俺が戻ってくるまでに、願い事考えておけよ」
「うん。千秋くん頭を抱えるほど、困るような願い事を考えておくから、覚悟しておいてね」
「それは、楽しみだ」
まるで、泣きじゃくれた子供をあやすかのように彼女の頭をポンポンと優しく叩き、上体を上げる。
彼女に背を向け、一歩前へと歩き出した時、俺は再び後ろを振り向きながら。
「顔が赤くなるくらいなら、あんなこと言わなければいいのに。なんだっけ……『わたしの事もちゃんと見て』だったか」
「べべべべべつに赤くないし!お願いだからその言葉は蒸し返さないでよ!」
「はいはーい、そういうことにしといてやるよ」
あの時の彼女が何を思って、どんな意味を込めて『わたしの事もちゃんと見て』なんて、恥ずかしい言葉を口にしたかだなんて、これまでもこの先も俺には到底分かりそうにないが。
それでもなぜだか。
俺の顔も妙にーーーー熱かった。
「お兄ちゃーん、早く早くー!」
今度こそ俺は足取りを進ませ、ぴょんぴょんと上下にジャンプしながら今か今かと待ちわびているカナちゃんの元へ歩み寄る。
「待たせたな。それで、カナちゃんの部屋はどこなんだ?」
「こっちだよ、こっち!」
血色のよくスベスベとした肌白い小さな手が俺の腕を掴み、引っ張って案内する。
一際目立つ螺旋階段をトコトコと登り、最初に姿を現した一番手前の扉の目の前で足を止めた。
「ここだよ。よいしょっ」
扉に掛けられている『かな』と記名されたネームプレートがカタカタと揺れながら、扉が奥へと進んでいく。
「どうぞっー!」
大きく手を広げながら、ニコニコと屈託のない笑顔で俺を向かい入れるカナちゃん。
「失礼します……って。なんか……あれだな」
女子の部屋に入るなんて機会、いくら過去の記憶を遡っても一切蘇ってこず、言わばこれが人生初の異性の自室。
見渡す限りに動物のぬいぐるみが置いており、動物園を彷彿とさせる種類の多さと見慣れない光景に多少の驚きを覚えながら、一歩一歩と足を踏み入れていく。
いかにも女子の部屋らしいとしか言いようがない自室にそわそわと落ち着かないで立ち尽くしていると。
「お兄ちゃん!ここ、ここに座って!」
そう言いながら部屋の真ん中に位置するクッションをパンパンと叩き、座る場所を示すカナちゃん。
「よいしょ。すげぇ……このクッションふかふかだなぁ」
「でしょー。それね、カナのお気に入りなの。でも、お兄ちゃんは特別だから貸してあげる」
「そうなのか。それはどうも」
「今からお菓子とジュース持ってくるから、ちょっと待っててね」
「それなら俺も一緒にーー」
「お兄ちゃんはお客さんなんだから、座ってゆっくりしてて」
「そう言うなら、頼んじゃおうかな」
カナちゃんは俺からの返答に満足したのか、右手の親指を立てながら「そういうこと!」とだけ言い残して、自室から飛び出して行った。
「それにしても、女子の部屋ってこんなかんじなんだな」
仮に女子といっても、趣味や気に入っている物。家具や小物の色の配色、自室のモチーフなどが人それぞれに違い、その人の個性が現れ、一概にこれとは言い切れないと思うが、それでも俺の部屋とは目を疑うほどに異なる光景が広がっている。
紫色から薄ピンクへとグラデーションがかかったもふもふな絨毯。
その上に二つほど用意された、高級ソファーのような吸い込まれる座り心地のふかふかなクッション。
目先に置かれている、白く煌めく長方形の机。
新鮮味溢れる感情に陥らせるのは何もそれだけではなく、言い出したらキリがない数々の家具や小物が斬新さを味合わせる。
「お兄ちゃん、お菓子とジュース持ってきたよ〜」
「ありがとな」
樹脂バスケットに溢れるほど入れられたクッキーに透明なグラスに注がれたオレンジジュースと思われる飲料。
それらを乗せられたお盆を持ちながら、トコトコと自室へ戻ってきたカナちゃんは白い机の上にお盆を置いた。
「いっぱいお菓子持ってきたから、たくさん食べてね」
「本当にたくさん持ってきたな。……ってちょっと待てよ……これって」
カゴに入れられたクッキーを一つ手に取り、パッケージに記載された店名を目にした途端、口をぽかんと開けながら唖然としその名称に目を疑う。
「これってさ、確か十六個入りで七千円くらいする、高級洋菓子じゃないか」
値段以上の味わいに魅了された人は数多く、行きつけになる者ですら出没すると言われている、あの有名な洋菓子店。
それも、売上げ一番人気と名高いクッキーとは。
そこらの庶民では容易く手には取れないとされる、あのクッキーが今俺の目の前でキラキラと煌めいている。
「こうきゅう……わがし?よく分からないけど、カナの家にはいつもあるよ」
だが、鼓動がドクンッドクンッと波打ち今にでも飛び出してきそうなほどに心拍数を高めている俺とはまるで対照的にカナちゃんは淡然と平然とした面持ちでそう口にした。
「これが……いっ……いつも……あるっ……だと……」
「うん。でも、いつもお姉ちゃんが全部食べちゃうから、すぐになくなっちゃうんだけどね」
「あいつが……全部食べる。そうか……なるほどな……」
無性に腹立たしいのは一体なぜだ。
横暴な彼女のことだし、恐らくそれほど味会わずにガツガツと貪欲に支配されたライオンの如く貪るのであろう。
そんな彼女にはもったいないほどの品だと思うのは俺だけだろうか。
「でも最近、だいえっと……?が終わったみたいで、りば……うんど……しないようにお菓子は制限するっ!って言ってたんだよね」
「だから、まだお菓子がこんなに残ってるのか」
昨日会話の話題に登場したダイエットの話は単なる近況報告だったのか。
にしても、制服のスカートから伸びるスラリと細いモデルのような脚に華奢な腕。
俺よりも二回りほどは小さいであろう面貌。
そのどれを見ても、彼女が太っていたとは到底思えない。
というか、そもそも対して太ってはいなかったのではないかとすら思ってしまう。
けれど、仮にも本当に彼女が太っていたとして、その姿を見てみたいと思ってしまうのはなぜだろうか。
「……っん。うまい……。めちゃくちゃうめぇな、これ」
格別な味わいだということは値段や売上、知名度を見れば一目瞭然だが、それでもなお期待を遥かに超えてくるとは、やはり高級クッキーと名高い実績はダテじゃない。
「んっ!やっぱり、おいし」
「カナちゃんもこのお菓子はよく食べるのか?」
「ん〜、カナはたまにかな。食べようと思ったらお姉ちゃんが全部食べてなくなってるし」
「どれだけあいつは、食い意地が張っているんだか」
「それにね。カナはクッキーよりもケーキの方が好きなんだ。あそこの……あの……あずさ?っていうお店の」
「あっ……あずさって……これまた、高級店のスイーツ店じゃないか」
自宅の豪邸さに胸が飛び出でるほどに驚かされたが、彼女とそしてカナちゃんと言葉を交える度に更に金持ちだという事実に現実味を帯びる。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん。カナ、お兄ちゃんに訊きたいことがあるんの」
「ん?なんだ」
クッキーを咀嚼終えたカナちゃんはグラスに注がれたオレンジジュースをゴクゴクと飲み、喉を潤すと俺に問いかけてきた。
「お兄ちゃんはお姉ちゃんと仲がいいみたいだけど、もしかしてお姉ちゃんのことが好きだったりする?」
小学一・二年生とは思えないほどの大人びた問いかけに多少の驚きを覚えながらも、答弁を隠す理由も特段思いつかず素直な思いを口にする。
「いいや、ないよ。俺があいつの事を好きになることも、あいつが俺の事を好きになることも、これまでもこれからもきっとないと思う」
「カナのパパもママもいつもラブラブだから、てっきり二人もそうなるのかなぁって思ってたんだけど違ったんだね」
「あぁ。俺とあいつはただの友達だ」
それ以上でも以下でもない。
その壁を越えることなど、絶対にない。
俺と神崎の『友人』とういう関係は何年経とうが不変だろう。
あれからというものの、俺とカナちゃんはわいわいと喧騒に謳歌しながら、相変わるず談笑に興じ。
時にはクローゼットに収納されていた遊び道具を取り出してはケラケラと笑いながら、ゲームに没頭していた。
半ば、相手は小学生だからと面倒を見てあげるかと上から目線の意思を抱いていたのだが、想像以上に自分自身もカナちゃんとの時間に謳歌してしまい、そんな主張はあっという間に消えていた。
それらの時間の流れは刹那の一瞬の如く過ぎ去っていき、一時間半が経過していると気がついたのは、ふとベッドのヘッドボードに置かれたアナログ時計に目を向けた時の事だった。
「カナちゃん。悪いが少しトイレに行ってきてもいいか?」
「全然いいよ!お兄ちゃんが帰ってくるまで、ここで待ってるから早く戻ってきてね」
「あぁ、分かった」
その場を立ち、扉に手をかけ、手前に引いた時、何やら人間らしき身体がコテンと倒れてきた。
そう。そして、その人間らしき身体というのは紛れもなく……。
「神崎。お前、ここで何してんだ?」
「いや……そのぉ……ちょっとねぇ……」
「あぁ、なるほどな。これが俗にいう盗聴というやつか」
「盗聴とは失敬な!そんなにわたしが悪事を働くような人間に見える?」
「あぁ、充分に見えるが」
「……まったく。たとえそう思っていたとしても、隠し通すなりオブラートに包むなり努力しなさいよ……」
握られた拳が胸元まで上げられ、怒りの感情を表現するかのように、眉間に皺を寄せながら唇を噛み締めていた。
あたかも平然と会話を続行させているが、現状彼女の体勢は未だに転倒したままであるが。
この姿を目にしていると、常日頃からの悪態への恨みが込み上げ、顔面を踏み潰したくなる衝動へと駆られる。
「それで、本当は何をしてたんだ?盗聴でなければ、過保護の母親のように見守ってたとかか?」
「そっ……そう!ロリコン中年オヤジの千秋くんがカナに変な事しないか見張ってたの!まぁあ、こう見えても一応お姉ちゃんだし?」
「あぁ、そうか……。お前が言いたいことはよく分かった。それでだけどよ……足で顔面を踏まれるのと殺意の込められた拳で殴られるか、どっちがいいか選べ」
「ごごごごごごめん!ごめん、ごめん、ごめんてっ!」
俊敏に上体を起き上がらせ、パチンと両手を勢いよく合わせると、「本っ当に本っ当にすみませんっ!!どうか、このとぉーり!」と必死に許しを乞うように幾度となく謝罪の言葉を繰り返す彼女。
途絶えることなく並べられる詫び言も神に縋るかの如く手を擦り合わせ謝意を表す行動も、どれもを完全無視して、一度蹴ってやろうかとも思ったが、カナちゃんの目の前だということもあり駆り立てられた感情を押し殺す。
本日二度目のカナちゃんに救われた彼女。
「しょうがねぇから、許してやるよ。ただ、いつか仕返ししてやるから覚えとけ」
「ちょ……怖いってっ。ちょぉーっと、千秋くんの話に乗ってあげただけじゃんよ〜」
正座をしながら不貞腐れる彼女はぷいっと顔を背ける。
そんな彼女に対して、俺は腰を落として目線を合わせると再び問いかける。
「それで、本当は何しに来たんだ?」
「それは…………」
唇を尖らせながら、両手の人差し指をツンツンとする仕草を繰り返しながら、どこかいじけているようにも見える姿はまるで小学生だ。
「千秋くんが…………から……」
「えっ?俺がなんだって?」
「だから……!千秋くんが戻ってくるのが遅いから、まだかなぁって少し様子を見に来たの!悪いっ!」
「いやまぁ、悪いってことはないけど……」
想像していた理由とは遥かに異なる結果となったため、少しばかり驚いているというか、なんというか。
そんな、甘え足りない寂しがり屋な一面もあるんだなと。
正直ーーーー。
「お前……可愛いな」
「へぇっ!?いいいいいいまっ!かっ……か、かかかわいいって言った!?」
「あぁ、そう言ったが。何かおかしいか?」
率直な感想を述べただけなのだが、なぜだか彼女の感情を乱し、タコのように紅く頬を紅潮とさせてしまっていた。
「何かおかしいって、おかしいに決まってるよ……。無自覚……?無自覚なの……?可愛いって……言った……言ってたよね……うん絶対言ってたよ……」
淡々と自己解決を始める彼女は紅い頬を両手で覆いながら、海を漂う魚の如く目を左右に泳がせていた。
そして時折、「はぁ…………千秋くんは本当に……」と大きなため息を零した後、ごにょごにょと何を言っているのか聞き取れないほどの声量で独り言ちていた。
「神崎、それは悪かったな。確かに今回は俺が悪かったよ、少しばかり待たせすぎてしまった」
「それはそうなんだけど……。今はそこじゃないでしょ……まったくぅ……」
俺と彼女のやり取りを俯瞰的に眺めているカナちゃんの方を振り向き。
「悪い、カナちゃん。今から姉ちゃんと話してきてもいいかな?」
俺の言葉にカナちゃんはしょんぼりと眉尻を下げながら、憂愁漂う虚ろな瞳を煌めかせ。
「いいよ、お姉ちゃんの方に行っても。お兄ちゃんとはいっぱい話せたし」
「そうか?本当にごめんな、また今度一緒に遊ぼう」
「まだまだ、お兄ちゃんとしたいこといっぱいいっぱいあるの。だから…………楽しみにしてる」
少し名残惜しそうな表情で微笑むカナちゃんは無理をして本心を隠しているのだと汲み取れてしまうほどに儚く見えた。
「ほら、ようやくお前が待ち望んでいた時間だろ?部屋まで案内しろ」
「部屋まで案内しろだなんて……千秋くんたら、だ い た ん」
「あぁあ、やっぱりお前と話すのやめよっかなぁ」
「ア゛ァ゛ア゛ァ"ア"!!嘘です嘘です!余計なこと言ってすみません!」
今日何度目かも分からない謝罪をまたしてもしてみせる彼女は本当に懲りないな。
「それじゃあね、カナちゃん。時間があったら、後でまた来るから」
「……時間なんて残さないよぉー。帰るギリギリまでわたしが占領しちゃうもんねー」
「余計なこと言ってないで、お前は早く立ち上がれ」
そんな戯言を口にしている彼女の背中を精一杯押しながら、「早く立て。早く進め」と催促する。
効力を発揮したのか、ようやく腰を上げた彼女共にカナちゃんの部屋を出ようとしたその時ーー。
「……っん?」
ボンッと何かが勢いよく背後から衝突し、「おっと……」とふらつき、足を一歩前へ踏み出す。
温かい人間の体温が全身で伝わり、腰には細く短い腕が回り、離したくないと言わんばかりに強く抱きしめていてきていた。
「カナちゃん?どうしたの?」
「……お兄ちゃんがいないとやっぱりヤダよ」
「カナちゃん……」
カナちゃんの口から発せられた、訴えかけるような声は微かに震えていて、想像以上に弱々しいその声量は夏場の蝉の鳴き声によって容易く掻き消されてしまいそうな。
けれど今は、蝉の鳴き声が聞こえてくる季節とは程遠いく、たとえ弱々しい声量だったとしても、しっかりと俺の耳には届いていた。
だからこそ俺はーーー。
「……わがままなカナは嫌い?我慢できないカナはダメな子……?」
ーーー君に言葉を紡ぐ。
「ぜんっぜん、そんなことないよ。嫌いじゃないし、ダメな子でもない」
「……ほんとぉ?カナのこと嫌いじゃない?」
「あぁ、本当だ。カナちゃんのことは全く嫌いじゃないよ。それに、むしろ我慢しなきゃならないのは神崎の方だしな」
「かん……ざき……?」
「あぁ、姉ちゃんのことな」
片方の口角の端をわざとらしく歪めながら、細く不敵な目つきで彼女に視線を送る。
「なっ……なによ。わ、わたしだって千秋くんと話したいもん。……わがままな、せりなは嫌い?」
「いや、普通だ」
「さ、冷めてる。……カナとの対応の差が違いすぎて、地味に傷つくんですけどぉ」
「まぁ、そんなことより」
「そんなことよりって……流された」
腰を落としてカナちゃんの目線に合わせると、ポンポンと頭を撫でながら。
「カナちゃんくらいの年齢の子は少しわがままを言った方が人間のあり方だと、俺は思う」
瞳が潤うほどに我慢をさせてしまっていだなんて、たとえ無自覚でも申し訳ないことをしてしまった。
「それに、どこかの誰かさんに言われたんでしょ?『遠慮するのはいい事だけど、しすぎるのは良くない。たまには甘えるのがちょうどいい』って」
「うん……」
「そっ……それは……。この前、わたしがカナに言った言葉……。まさか、こんなところで使われるとは……」
ムンクの叫びのように顔を青ざめ、過去に言った言葉がこうして自分の元へと戻り、予想もしていなかった使用方法に絶望へと陥っていた。
「恨むなら過去の自分を恨むんだな」
「ぐぬぬぬっ…………」
眉じりを吊り上げながら、歯を食いしばり、心底不満そうな表情を浮かべた後。
何かが思いついたようにポンッと手を打ち、満面の笑みで「あっ、そうだそうだ」と呟いた。
「その言葉ってもしかしなくても、わたしにも適用されるんじゃ」
「残念ながら、お前は対象外だ」
「なっ……なんでよ!カナは良くてわたしがダメってどういうこと!」
「いやいや……普通に考えて分かるだろ。高校生になってまで、我慢の一つも出来ないのか?少しは自重しろ」
「やっぱり……千秋くんはわたしにだけ冷たい……。カナにはあんなに笑顔振りまいてるのにぃ……」
小学生と高校生を比べてどうするんだって話だが、恐らく彼女にとっては本当に必死なんだろう。
まぁでも。彼女との時間も作ると言ったのは紛れもなく自分なんだし、このままカナちゃんに時間を全振りしては流石に申し訳が立たない。
人間として、誰かと交した約束を果たさずに破棄してしまうのは絶対に許されない行為であり。
こんな外見をしている俺は尚更、約束を守らなければ、いよいよ歴っきとした不良扱いだ。
「それなら、カナちゃんも一緒に姉ちゃんの部屋に来てさ、今度は三人で話そうよ」
「それ、いいねいいね!」
「え〜、三人で話すなんて聞いてないよ〜。元々はわたしと千秋くん、二人っきりの時間だったのにぃー」
「グチグチ文句言うな。お前とは学校の時散々話してるだろ」
「そうだけど、そうじゃないって言うかぁ……」
「文句があるなら、来なければいいだろ。それならそうと、俺はカナちゃんと二人で話すからよ」
「はいはい、分かった、分かったよ!我慢すればいいんでしょ、我慢すれば!」
不服そうに「高校生って不便〜……」とボソリ愚痴を零しながらも、自分だけが蚊帳の外だという選択を下すことはやはり抵抗があったようで渋々俺からの提案を受け入れた彼女。
罪悪感がないかと言われれば嘘になるが、それでも彼女とは学校の大半の時間で充分過ぎるほどに会話をしているし、なんたって明日は勉強会という行事すらもあるんだ。
少しばかり、カナちゃんに優先順位を回しても文句を言われるような筋合いはないし、多少の条件は呑んでもらいたい。
「もう、待ちくたびれた!わたしの部屋は隣だから早く行こ!」
「隣だったのか。一応訊いておくが、壁に耳をくっつけて、盗み聞きしていたんじゃないだろうな」
「そ、そんなことは…………。ひゅぅー……ひゅー……」
「吹けないならやるなよ……」
また、定番な隠蔽方法で誤魔化そうとするなど、本当に彼女はバガだ。
隠し事をする時、吹けない口笛を披露するというのが相場で決まっている。
だが、それを現実でもやってみせる者がこれほどまでに身近に存在していたとは、驚きというよりもむしろ尊敬してしまう。
もちろん、悪い意味で。
隣室の彼女の自室へと移動した後も、俺とカナちゃん、そして神崎芹奈との会話内容は一向に底を尽きることを知らず、延々と談笑に興じてはケラケラと三人して笑いあった。
俺と彼女がどのような学校生活を送り、青春を謳歌しているのか。
「これといった、青春は送ってないだろ」と本質を突くような事を言えば、「そんなことないよ。一緒にお弁当食べて、たくさん話して。お弁当食べて、たくさん話して」と反論する気はあるのかと疑いたくなるはがりの証拠に「食べて、話すことしかしてないじゃん。それのどこか、青春だよ」と更に言い返せば、「それでいいんだよ。仮に他の人よりも思い出の種類が少なくても、わたしは千秋くんと一緒にいられることに意味を見出してるから」とさらりと気恥しい言葉を口にした彼女。
そして、更に畳み掛けるように「量より質って言葉知らないのぉー?」と俺の頬をツンツンと小突いてきては、その手を振り払い「知ってるさ、そのくらい。俺もお前の意見に同感だ」とどこか不服そうに肯定する。
時間も忘れるほどに俺たちは談笑やボードゲームに愉しみ没頭し、時の経過を知らせたのは外から聞こえてくる夕方のチャイム音だった。
「って、もうこんな時間じゃないか。全然時計を見てなかった」
「こんな時間って、まだ五時だけどね。あと一、二時間くらいは大丈夫なんじゃない?まだ、お母さんたちも帰ってこないし」
「その言い方から察するにお前は重要なことを忘れているようだな」
「重要なこと?」
首を傾げながら茫然とした面持ちで俺の事をじっと見ていた。
本当に彼女はどれだけ忘れっぽいのか。
プールサイドで俺と初めで言葉を交えた時は、是が非でも必死に『千秋』という下の名前を思い出そうと懸命に想起していたというのに、今の彼女ときたら、そんな努力する仕草さえもしないとは。
「定期考査だ。来週からは、いよいよ始まるからな」
もっとも。既にもう一週間すらも期限は残されてはいないが。
そんな冷酷非道な事を口にし残酷な現実を明白にしてしまえば、より一層に彼女の勉学に対する意欲を損なわせかねないため、敢えて本来の日程は口を噤んでいる。
「あぁぁああぁぁ!!千秋くん、思い出させないでよ!せっかく、スッキリ気持ちよく忘れてたのにぃー!」
「スッキリ気持ちよく忘れるな!いくら現実逃避をしても、定期考査の運命からは決して逃げられないから安心しろ」
「全く、これっぽっちも、全然っ、安心出来ないよ!……本当に現実は非情だよぉ」
「神様の顔をこの手で一発殴りたい気分!」と握られた拳を前後に殴る動作をする彼女はフンッフンッと鼻息を荒くしていた。
だけど、現実が非情だと、残酷だと、そう思いたいのはむしろ俺の方で。
「お前に勉強を教えなきゃならない、俺の現実の方が余程非情だわ」
「もぉー、急に何を言うか!こう見えてもわたし、あまり頭は良くないけどーー」
「へいへい……。それは、前にも聞いたよ」
「変なところで区切らせないでよ!その先が重要なの!」
「はぁ?その先?」
頬杖をつきながら目を細め、いかにも『あなたの言葉は期待してませんよ』と言わんばかりの表情を彼女へ向ける。
何を言うのかは知らないが、大袈裟に胸を張り誇らしげな笑顔をしているのは、果たして今からの言葉に値するほどなのか。
「ズバリッ!頭は悪いわたしでも、習得の早さには自信があります!」
最後に「フンスッ……」とあからさまな鼻息で締め括り、『どうだ、見違えたでしょ!』と心の声が聞こえてきそうなドヤ顔をしている彼女。
得意げな顔が無性に腹立たしく思い、俺はわざとるしく皮肉を込めて、言葉を並べる。
「そうか。それなら別に俺が教えなくても、自分一人で出来るんじゃないか?」
「そ、それとこれとは話が別ー!」
「何が別なんだよ。習得が早いなら、一人の方が効率もーー」
「あー、そういえばわたし、物覚えが苦手だったんだ!すっかり忘れてたよ」
「……今さっき、習得の早さには自信があるって言ったばかりだろ」
大根役者とは彼女のようなことを言うのだろう。
一つ一つの言葉が全て棒読みで、俺だけに限らず誰がどう聞いてもその場しのぎの言い草なんだと丸分かりだ。
小学生であろう、カナちゃんですらも容易く見破ることが可能なほどに。
だがまぁ。午前中で起こったコンビニでのトラブルの際、定員と交した一目瞭然過ぎるほどの猿芝居を披露した俺が彼女にどうこう言えるような立場ではないのだけれど。
「それならそうと。平均そこらの頭脳を持ち合わせている俺なんかよりも、学年トップの優等生の力を借りた方が結果も見込めるんじゃないのか?」
「もぉぉぉっー!千秋くんの意地悪!わたしにどうしろって言うのよ!」
いよいよ痺れを切らしたのか、彼女は甲高い声を張り上げながら、両手でポカポカと俺の胸元を殴ってくる。
女子の彼女がいくら殴ろうと、別にこれといった被害も受けていなければ、痛感も感じていない。
マッサージ効果を得られそうで逆になんだか得をしている気分に陥るが、そんなことを口にしてしまえば火に油を注ぐようなもの。
降り注ぐ彼女の両腕をガシッと掴み、その動作を停止させると。
「俺が悪かったよ。約束通り、明日から勉強を見てやる。それでいいだろ?」
「うん……。それでいい…………それがいい」
「だがまぁ。赤点は免れても、平均以上の高得点は保証できないからな。順位でトップを狙いたいなら、寝る間も惜しんで勉強に励むんだな」
「赤点回避が出来れば、わたしはそれで満足だよ!良い成績を取りたいわけでもないしね」
「それは俺も同感だ」
将来の事を詳しく考えたことは未だになく、明白な目標や夢なんて、大それたことを語れはしないが恐らくこのままいけば、高確率で俺は大学へと進学する。
だが特段、名門大学へ進学する気などはさらさらないし、たとえ底辺でも構わない。
真っ当な人間になり、至って平凡な生活を送る。そこそこ給料の高い職場に就けば、そんな思い描く将来の構図など容易く叶えられるであろうから。
他人よりも苦労をせずに、自然に朽ちるその日まで、生き延びるのが俺のモットーなんだ。
「ってことで。俺はそろそろ帰らせてもらおうかな」
「えぇ〜、もう帰っちゃうの?もう少しだけ、話そうよ」
「充分すぎるほどに話したろ。明日のために少しでも体力を温存しておきたいんだ」
「けちぃー」
「けちで結構だ」
本音を言ってしまえば、確かに俺もまたまだ彼女らと話していたい。
別に話し足りないというわけではないのだが、思っていた以上に俺自身もこの空間を心地よいと思ってしまっていたから。
だが、よくよく考えてみれば明日もこうして会うことが出来るのだがら、そう渋る事ではないのかもしれないとも思った。
「それじゃあ、俺はここで。よいしょっ」
そう言いながら立ち上がり、彼女の部屋を出ようとしたその時ーー。
服の袖をグイッと引っ張ってくる彼女。
「……ん?悪いが本当に今日はここまでーー」
「わたしも一緒に行く……。玄関まで送って行くよ」
「別にそんな気を遣わなくても構わないのだが」
「気を遣ってるんじゃなくて。ただわたしが、そうしたいだけ。だから、千秋くんは気にしなくていいの」
「そうか。ならいいんだけど」
「カナもー!カナもお兄ちゃんと一緒に行くぅー!」
「カナちゃんも送ってくれるのか。それはありがとな」
顔を俯かせながら虚ろな瞳な彼女はどこか寂寥さを感じさせ、なぜだか心がチクリと痛む。
彼女の自室を後にし、玄関に至り着くまでの間、彼女が俺の服の裾を離すことはなく、まるで『どこにも行かないで』と訴えているかのようにも汲み取れてしまった俺はどこか変なのだろうか。
だが、彼女とは対照的に大満足したのかと言わんばかりにカナちゃんはニコニコと笑っていて、別れを惜しんでいる様子は見せなかった。
数時間前に見せた、俺が彼女の元へ行ってもいいかという申し出に、カナちゃんは儚げな表情を隠しきれずにいた。
『いいよ、お姉ちゃんの方に行っても。お兄ちゃんとはいっぱい話せたし』との言葉とは裏腹に表情を曇らせていた。
大半の割合で言葉と表情が一致していない時、人は言外の感情を抱いているものだ。
だからこそ、あの時と比較する限り、ニコニコと笑いながら軽やかな足取りのカナちゃんが真意を隠しているとは思いにくい。
だから、恐らく今回に関しては表情と感情は一致しているのであろう。
「わたし、少しそこまで送って行くよ」
「なんだ。玄関までじゃなかったのか?」
「気分が変わったの。もう少しだけ…………」
言葉が進むにつれ彼女の声量は徐々に小さくなっていき、その先に紡がれるはずの言葉が一体なんだったのか、俺には分からなかった。
「じゃあ、カナもっー!」
「カナは家で待ってて」
「なんでっー!カナもお兄ちゃんを送って行きたい!」
「ダメっ!カナはもう充分に千秋くんと一緒にいたんだから、少しくらい千秋くんとの時間をわたしにも分けてよ!」
俺が彼女と初めて言葉を交わしたあの時以来に彼女は声を荒あげ、怒りの感情を露わにしていた。
怒号に驚いたカナちゃんの瞳は次第に潤っていき、眉や唇が歪み、今にも泣き出してしまいそうな雰囲気を醸し出していた。
「あぁ、大丈夫だよカナちゃん。ほらほら、泣かないで……」
「……っぐすん。カナちゃん……泣かない」
「よしっ、偉い。俺がカナちゃんくらいの時は多分泣いてたよ。カナちゃんは男の俺よりも強いな」
「うんっ……カナ……強い……お兄ちゃんよりも……」
下まぶたすれすれに溜められた涙をグッと流れ落ちないように必死に堪える。
「よく、耐えたな」と優しく声を掛けながら、ポンポンとなだめるようにし、感情を落ち着かせる。
「なんでそんなに怒ってるのか知らないが、カナちゃんに八つ当たりするなよ。まだ、小さいんだから」
「……わたしは悪くないもん。千秋くんが……千秋くんが鈍感だから」
「なんだ?俺が悪いって言いたいのか?」
「ち……違う、そうじゃなくて……」
視線を下に落とした彼女は両手を力強く握り、その姿は感情を押し殺しているようにも見えた。
見るだけでも感じ取れる拳に注いでいる力の総力は恐らく手のひらに爪の後を刻むほどの威力なのだろう。
「まぁ、よく分からないがそんなに不機嫌にならなくとも、また明日会えるんだからさ」
「うん……そうだよね。……やっぱり、わたしが悪かったよ、ごめんねカナ」
「いいよ。カナも……カナもお姉ちゃん怒らせてごめんなさい」
姉妹喧嘩を実際にこの目で目撃したのは初めてのことで、兄弟もおらず一人っ子の俺からすれば、なんだかこの光景はとても新鮮味を帯びていた。
「悪いがカナちゃん。今日はこいつの願いを聞いてもらってもいいかな?」
「うん、いいよ。また会えるんだもんね」
「ありがとな。代わりに次はカナちゃんの好きなケーキを持ってきてあげるからよ」
「わっー!ほんとぉ?」
「あぁ。俺の貯金はこの家庭ほど裕福じゃないから、高級スイーツ店のは無理だけどな」
「高級のなんかいらないよ!お兄ちゃんがくれたものなら、なんだってカナは嬉しいよ?」
「そ……そうか」
小学生とは到底思えないほどの優しい言葉に見事心を揺るがされ、自然と涙が込み上げてくる。
俺がカナちゃんくらいの年齢の時なんて、公園の木に登って怪我して帰ってきたり。
母親からの『夕飯前にお菓子を食べるな』との助言を完全無視し、案の定満腹状態で結局母親に叱られる結末だったりと。
語りだしたらキリがないほどに『クソガキ』と呼ばざるおえない小学生時代を送っていたのだが、それと比較すると天と地の差ほど、カナちゃんと俺との面影はかけ離れている。
いいや……比較することでさえおこがましいか。
「それじゃあ、カナちゃん。また今度な」
「うんっ!絶対また遊びに来てね!絶対の絶対だよ!」
「あぁ、絶対の絶対の絶対だ。約束するよ」
自由闊達に無邪気に大きく手を振るカナちゃんは夏場に煌めく燦々とした太陽の如く眩しい笑顔を湛えていた。
俺が手を振り返すと、更に表情を明るく咲かせ、率直にその姿が愛らしいと思った。
カナちゃんに別れを告げ、あの豪邸を後にした俺らは淡々と歩みを進め、五分ほどが経過していた。
帰り際のいざこざからの気まずさのせいか、共に歩くその間は互いに口を開くことはなく、かといってどちらかが沈黙を破ろうともせず、ただ普段よりも多少の緩慢さを感じさせる時間の進み方をこの身で体験しただけ。
「ここまででいいよ」
沈黙を破り、言葉を切り出したのは自分の方だった。
『ここまででいいよ』その言葉に、気まずさに堪え兼ねたから、という意味は込められていなく。ただ単に自宅までの距離が残り僅かとなったから、であり嘘偽りなく、逆に言えばそれ以上の意味など込められていない。
だが、そんな俺の言い回しにやはり彼女に対して誤解を与えてしまったらしく、数分ぶりの開口一番が。
「ごめんね、千秋くん……」
どこか申し訳そうに、無理やり微笑む彼女。
先程まで歩幅を合わせ共に歩き。横に視線を向ければ彼女がいる。
手を伸ばさなくとも届く距離に彼女は存在するというのに、俺と彼女との間はなぜだかとても遠く感じて。灰色の曇天に薄らと姿を現す月よりも遠く、決して届かない場所へと思ってしまう。
「そうだ神崎。俺さ、お前に渡したい物があったんだった」
「渡したい……物?」
「きっとお前なら気に入らないと思うがな」
「そこは普通、気に入ってくれると思う、でしょ?」
「いいや、お前は絶対に気に入らない。だからまぁ、捨ててもらっても構わない」
そうして、俺はズボンのポケットから一枚のとある物を取り出し、彼女に差し出す。
それを目にした彼女は案の定、「なにこれ……カード……?」と疑問符が浮かび上がりそうな怪訝な表情でとある物に凝視しながら、何かを察したのか「……っプッ!」と笑い声を吹き出し。
「確かにこれは気に入らないね」
「だろ?」
口元に手を当てながら、クスクスと愉快そうに笑う彼女は先程の冴えない笑顔とは似ても似つかないほどに輝いていた。
こんなことで気分を取り戻せたことに心底安堵し、そっと胸を撫で下ろすと、心の内で『その笑った顔が見たかった』と独りでに想う。
「でもまぁ。せっかく千秋くんからのプレゼントなんだもん、有難く受け取らせてもらいます」
「どうぞ、どうぞ」
「ちなみにこれはなんていうキャラクターなの?」
「良くぞ訊いてくれた!その子はうさゴリラシリーズNo.831のジュエリーちゃんだ!」
「じゅえりー……ちゃん?ていうか、831って意外とキャラクターの数多いいんだね」
「それは当然。今大人気絶頂中のキャラクターだからな」
意気揚々と自慢げに言い放つと、疑義の念を宿した瞳をチラつかせながら、「それ、どこ情報よ。わたし、千秋くんからスタンプ送られてくるまで知らなったけど」と辛辣な言葉をぶつけてくる。
「言っておくが、流行に乗遅れてるのはお前だからな」
「いやいやいや……絶対にそれはないって。これが流行物とか信じられないし」
「それなら、そのカードはいらなってことで返してくれるか?」
「ううん、だーめ。これは千秋くんがくれた、もうわたしだけの物なんだから」
先程の辛辣な言葉とは裏腹に、その小さなカードを胸元で抱きしめながら、「これ、一生大事にするよ……」と茜色に染る夕焼けの如く頬を赤らめ、心底嬉しそうに微笑む。
そんな姿を目にした俺はなぜだか心がモヤモヤと渦を巻き、今すぐにでも彼女に触れたい衝動へと駆られたが、無意識に伸ばされた手は自然と下へと下がっていく。
身に覚えのない鼓動の乱れに多少の戸惑いを覚える。
ーーーーこの感情は一体。




