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第一章

第一章


高校二年に進級してから、早数ヵ月が経過していた。

進級したからといって、自主的に日常を変えようと努力する姿勢もなく、自動的に何かが変化を起こすはずも特になく。

後輩と呼べるような友人もいなければ、同クラス、同学年にすら、友人と呼べる相手は存在しない。

早くも、遅くもなく。ただ、等速に過ぎていく時間。

無価値な人生だと言われればそれまでで、時間を浪費していると言われても、否定も抗議もできやしない。

そんな、あるかもないかも分からない、曖昧模糊な日常を送る中、いつも通り窓際の隅の座席で頬杖をつきながら、ただひたすらに教室の窓の外を眺めていた。

授業が開始する五分前ということもあり、校庭に姿を現しているのは、五時限目が体育のクラスの生徒らだけ。

午前の体育の授業もなかなかきついが、食後すぐの運動もこれまたきつい。

開かれた窓から入り込む、暖かいような冷たいような、なんとも言えない中途半端なそよ風を顔で受けながら、そんなことを考えていると、ガラガラと音を鳴らしながら、教室の前の扉が開く。

扉の向こう側で姿を現したのは、担任の澤谷先生。

片手に黒い出席簿を持ちながら、放物線を描くかような猫背は老化の訪れを知らせるかのよう。

近い未来に定年退職の時期なのではないかと、思わせるようなその立ち振る舞いで、「よいしょっ……」と疲労を含む、萎縮した声で呟きながら、教卓の前で足を止める。

そして、片手に持っていた出席簿を教卓の上に置くと、澤谷先生の口癖である「えぇー……」と前置きを済ませ。


「みなさん。今日はこのクラスの一員となる、転入生を紹介します」


澤谷先生が教室に入ってきた時点では引き続き談笑に興じている生徒らが大半を占めていたが、先程告げられた『転入生』という言葉に人間という生物は敏感なのか、その一言だけで男女問わず、全生徒の視線を集めていた。


ーーーある一人の生徒を除いては。


教室中の全生徒の視線を見事奪ってみせた『転入生』という言葉も、どうやら何に対しても無関心な俺には、残念ながらその効力は発揮しなかったようだ。

『転入生』その言葉を耳にした俺だが、現時点でもなお、目もくれず頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。

『転入生』に興味を示さないのではなく、人間やそれ以外の生物。ゲームや読書、スポーツに楽器演奏といった様々な娯楽に該当するような物でさえも、皆無と言っていいほどの無関心さ。

言ってしまえばこの世の全てに無関心な人間が俺というこのなのだろう。

もちろん、自分自身も例外ではない。

だが、そんな俺の意思とは対照的に男女共々に様々な推測や願望を語り合っていた。

耳を塞がない限り、嫌でも聞こえてきてしまう生徒らの喧騒は俺にとっては雑音でしかない。

四方八方から飛び交う、『可愛い子だといいな』『女子かな?女子かな?』『どんな子だろう』『友達になりたいな』といった、思考や願望は二分していた。

どの発言が男子生徒でどの発言が女子生徒なのかは、たとえ変声期を用いていたとしても、言わずもがな。思考を巡らせなくても一目瞭然だった。


「えぇ……それでは、早速。転入生の方、どうぞお入りください」


そう、澤谷先生から告げられた後、生徒らの喧騒を断ち切るかのように、再び閉じられた前の扉が、ガラガラと音を鳴らしながら、緩慢に開かれていく。

その光景は俺以外の生徒らの視線を釘付けにさせる実力を備えていた。

スタスタと微かに聞こえてくる足音は黒板の前に至り着いた時、ピタリと止み足を止めたのだと理解できる。

それと共に男子生徒らは口を揃えて『かっ……かわいい』と口をぽかんと開けて、その転入生とやらに目を奪われていた。

開いた口が塞がらないとはまさにこの事なのだろう。

転入生は『すぅ……』と軽く息を吸った後。


「初めましてっ、神崎芹奈です。これから一年間どうぞよろしくお願いします。あっ、それと気軽に話しかけてもらえると嬉しいです」


至って普通な自己紹介を淡々と行い、ペコリと頭を下げた。


「では、神崎さんの席はあちらで」


「はい、分かりました」


澤谷先生が指を差し、『あちら』と告げた座席はまさかの俺の隣席だった。

アニメや漫画でも、転入生の座席は窓際の後席だと相場が決まっているが、実際に現実でそうなるとは予想もしていなかった。

だが当然、何に対しても無関心な俺にとっては、隣席だろうとそれ以外の座席だろうと全くもって関係のないことなのだが。

そんな思考を巡らせていると、ガタッと椅子を引く音が右耳に入り込む。


「あの、初めまして。わたしは神崎芹奈。これからよろしくね」


「…………」



座席についたであろう転入生は俺の方に向けてそんな社交辞令を行う。

自己紹介を俺にしたところで無意味だというのに。

外を眺めることを貫き、視線すらも向けない俺の行動は、傍から見れば『素っ気ない』や『冷酷非道』やらといった捉え方をされるのだろう。

そんな一つ一つの行動や仕草、立ち振る舞いから、俺にはある一つの『あだ名』が教室中、いや、学年中に定着している。


「あっ……あの……あなたのなまーー」


「神崎さん。日影くんとは関わらない方がいいよ……」


ほら、まただ。

この言葉を何度口にされたか、もう数えるのさえ億劫になり、それと同時になんかもうどうでもよく感じてきている。

それほどに『日影とは関わらない方がいい』と男女問わずに散々言われてきた。

まぁ確かに、そう言われても仕方がない立ち振る舞いや雰囲気を醸し出しているのは俺の方なんだし、当然といえば当然。

転入早々の彼女にとっては、当然生徒らが感じている俺への悪印象など知る由もなく、至って真面目に「どうして?」と問いかけていた。

そうして、その問い掛けられた女子生徒はわかりやすく、不快感を表明するかのように眉頭を寄せ、眉間にしわを集める。


「……だって、日影くんいつも暗くて、何考えてるのか分からないんだよねぇ。ちょっと、変というかぁ」


口元に手を添えながら、細められた瞳からは冷淡な眼差しが向けられている。

『何考えているのか分からない』『暗くて変』この言葉も散々言われ続けている。

人間なんだから、一人一人の思考や行動を理解できないのは至って普通なのではなか。

実際、他国では察する能力が欠けているという実例も存在するのだから。

『みんなちがってみんないい』という言葉を知らないのかと問いただしたくなるが。


「……それに、日影くんってね色んな噂が立ってるんだよね。一年生からお金奪ってるとか、よく怪我して学校に来るから、暴力沙汰起こしてるんじゃないかって」


どの情報も証明できるような物は何一つ存在しないというのに、人間という生物はいとも容易く、忌まわしい風評を鵜呑みにする。

所詮、噂は噂なのに。

それを知っていることでどんな利益を得られるのか。

せいぜい、話のタネとして利用するだけだろう。


「それでね……そのことから、日影くんは」


『ーー死神』


「って、呼ばれてるの……。だから、神崎さんも日影くんとは関わらない方がいいよ。……何かされるかもしれないし」


俺の方をチラチラと一瞥を繰り返す女子生徒は先程の冷淡な眼差しよりも、目に怯えたような色を宿しているようにみえる。

だが、そんな女子生徒とは裏腹に転入生は疑問符を浮かべるような表情で真面目に問う。


「それって、誰か見てたりしたの?お金取ってるとか暴力沙汰とか」


「えっ……え?誰か……いや、分からないけど……でもーー」


転入生は女子生徒との言葉を遮るかのように食い気味に口を挟む。


「それなら、本当かどうかも分からないよね?もしかしたら全くのーー」


机をバンッと叩き、ガタンッと轟音を鳴らし、椅子が後ろに勢いよく飛んでいく。

なぜ俺がそんなことをしたのかだなんて、自分でもよく理解できず。

ただ、転入生のその先の言葉を口にされてしまえば、何か良からぬ事が起きてしまうような、そんな予感がしたから。


「ほっ……ほら。日影くんってやっぱり……変なんだよ……」


談笑を繰り広げていた教室中の喧騒が水を打ったように静まり返る。

予想はしていたが、案の定周囲の生徒らからは、冷淡で子羊のような怯えた眼差しを四方八方から向けられる。

それと同時に『なにいまの……』『日影っておかしいよな……』『本当に……死神だわ』といった様々な言葉が寄せられる。

だが俺は、そんな言葉には一切耳を貸さず、後ろに飛んだ椅子を片手で持ち上げ定位置に戻すと再びストンと腰を下ろした。

そうして、今日何度目かも分からない頬杖をつきながら、窓の外を眺める。

そうして間もなく、五時限目を知らせる予鈴が学校中に鳴り響いた。



窓から入り込むそよ風が教室の白いカーテンをふわりと靡かせ、茜色の夕日が教室の大半を煌びやかに照らしていた。

橙色のような、赤色のような、黄色のような、何とも言えないその色調はどこか心を癒すような効果があるのではないかとひとりでに考えている。

六時限目の終了を知らせるのと同時に放課後の始まりを知らせる予鈴が鳴り響くと、早々に教室を後にし、部活動や委員会に励むため駆け足で飛び出していく者。

特段、これといった用事はなく、ただ普通に自宅へ帰宅する者。

その後の予定として『カラオケ』やら『ファミレス』やらに立ち寄らないかと、一生徒の座席近くに屯いながら、思案を繰り広げている者。

大体の者はこの中のどれかの項目に該当するのだが、肝心の俺はどうやらはぐれ者らしく、なぜだか担任の澤谷先生から頼み事を受けていた。


「日影くん。今日もプール掃除頼んでもいいかねぇ?」


開いているの閉じているのか分かりづらい目の細さで、片手に出席簿を持ちながら申し訳なさそうにそう口にする。


「はぁ……今日もですか……。まぁ、別にいいですけど」


一週間に二度の頻度で澤谷先生からプール掃除をしてくれないかと頼まれる。


「毎度の事ながら、悪いねぇ。もうすぐでプール開きなんだぁ。申し訳ないけど日影くん頼んだよ」


「いや……まぁ……はい……」


申し出を断るに越したことはないけれど、特段拒否する理由も見当たらないし、自宅に帰宅したところですることだって特にない。

友人が一人もいない俺は帰りの約束を交わしている者もいない。

言ってしまえば、今後の予定などは存在しないということ。

だとするならば、普段から周囲の生徒らとは異なる温厚篤実な接し方をしてくれている且つ、何かとお世話になっている澤谷先生の頼み事を受けるというのは道義に重んじているとなる。

それになんといっても、勉強ができない俺は内申点を稼ぐにほかないからな。

あくまでも後者が本音ではなく、前者が本音だ。


「あっ、それと日影くん」


のそのそと一歩一歩に重みを感じる足取りを一旦その場で止め、澤谷先生は顔だけを振り向かせるように。


「浴槽の水は抜かなくていいからね。こっちでやっておくから。プールサイドだけお願いねぇ……」


「はい。分かりました」


「それじゃあ……」と短く別れの挨拶を告げた澤谷先生は再び重々しい歩みを進め、その背中を俺はじっと眺めていた。

澤谷先生の頼みだから二つ返事で引き受けたが、だとしても俺一人に押し付けるのはなんだかなぁ。

プール掃除って普通、大人数で行うものなのではないのか。

たとえ、大人数ではなかったにしろ、最低でも三から五人ほどの人材を必要とするのが適切というか。

それを見るからにインドアな風貌でゴボウのようなひょろっとした痩せた体型。

お世辞でも体育系向きでも男らしい体付きとも言えないであろう。

筋肉という言葉からは程遠い人間と言っても過言ではない。

そんな俺によりにもよって重労働なプール掃除を頼むだなんて、なかなかの極悪非道だと思うんだが。

でもまぁ、その極悪非道だと感じている頼み事を気安く引き受けたのはどこの誰でもない俺なんだし、澤谷先生には非はない。

嫌なら嫌と断れば済むことを澤谷先生だからと断りきれず引き受けてしまったというただそれだけのこと。

そんなことを考えている間に気がつくと水泳場の扉の前に到着していた。

後頭部を掻き、「はぁ……」と倦怠感を感じさせる深いため息を吐くと、扉に手を伸ばしガチャと前に押す。

建て付けが悪いのか清掃が行き届いていないため錆びているのかどちらか分からないが、毎度重い扉を開けるには貧弱な俺では結構な体力を消費する。

扉を開け放つと、外の穏やかな風が流れ込んできた。

掃除用具入れから、古びたデッキブラシを取り出し、左手を腰に当てながら。


「…………広いなぁ」


そう、誰にともなく呟く。

毎度この光景を目にすると、確実に一人で行うような掃除エリアではないなとつくづく思う。

別に懇願されたわけでもないから、適当に済ませればいい話なんだが、なぜだか俺はその選択を下すことができず、毎度一時間半ほど掛けて隅々まで綺麗にブラシ掛けを行っている。

潔癖症なのか、ただ単に掃除好きなのか。それとも、何かしらのプライドが許さないのか。

果たして何が理由なのか自分のことだというのに俺には到底分かりそうにないが、とりあえず真面目にことを済ませてしまうということだけは確定事項なんだ。

ブラシ掛けを数十分間繰り返すと必ず一度、両手を腰に当て、ぐぅっと身体を反らせる。

前のめりの姿勢故に長時間継続させていると、腰に負担がかかり、本当に痛くなる。

普段から体を動かしていない、言わばインドアの俺にとっては尚更。

そんなこんなんで、プール掃除を開始してから十五分ほどが経過した時、背後の扉がゴゴゴと音を鳴らしながら、緩慢に開いていた。

開閉音を耳にした俺は反射的に扉の方向へ振り向き、眉を歪めて怪訝な面持ちを浮かべる。

微かだが、「よいしょっ……」という掛け声が聞こえてくる。しかも女子生徒が、だ。


「重いなぁ、これ」


程なくした頃、開いた扉の向こう側で姿を現したのは、どこか見覚えのあるような、ないような、どちらか分からない一人の女子生徒。


「あっ、いたいた。あのぉ……えっと……ひぃ……ひぃ……」


俺には分からない、何かしらの苦痛を感じているのか『ひぃ、ひぃ』と幾度となく呟いていた。

だが、そんな女子生徒の仕草を見る限り、とてもじゃないが、苦痛を感じているとは思えないのだけれど。

どこぞの探偵を彷彿とさせるような仕草で顎に指を当て、目を瞑り、眉を下げながら八の字にしながら「ん〜……なんだっけ……」と小声で呟きながら熟考していた。

その場でぐるぐると彷徨しながら、必死に脳を働かせている。

そうして、悩み事が晴れたのか、はたまた謎が解けたのか。

ピコンと効果音と共に電球が見えてきそうな、パァっと表情を明るく咲かせ、俺の方を指差しながら。


「そうっ!ひなたくんだ!」


「ひ……ひかげだよ」


まさに俺とは対象的である存在と間違えるだなんて、嫌味なのかと疑いたくなるが。

あくまでも、光が降り注ぐのが『日向』で何かの物体に遮られて作られる、言わば光が当たらないのが『日陰』。

誰しもが、『日向』のような人生を送りたいと思うだろう。

皆からすれば大した違いでもないのかもしれないが、俺からすれば月とすっぽんほどの大差がある。

『日影』『日陰』漢字は違えど、『ひかげ』という苗字が故に『死神』というあだ名が定着する前は散々いじられまくってきたりと。

『あいつはやっぱり日陰者だな』『苗字にぴったりじゃねぇか』と高一の頃は幾度となく言われてきた。

そうして、自分でさえも『日陰者』なんだと認めざるを得ない立ち振る舞いをしている自覚もあった。

だから別に『日陰者』と言われようと『苗字にピッタリ』だと嘲笑わられようと無傷だ。


「そ……そんなの知ってるよ。日影くんでしょ。わ、わざと間違えたんだよ。わざと」


「は……はぁ……」


誰がどう見ても確実にわざとではなく、本気で間違えていたんだと瞬時に理解できる。

その証として、彼女の瞳は海水を漂う魚のように左右に泳ぎ、先程までは正常だったはずの焦点が今ではわかりやすく合っていない。

いかにも、動揺しているといった様子。

これ以上のヒントなど必要ないだろう。

それに何よりも数分前、意気揚々とした表情で『ひなたくんだ!』って自らの口で言っていたし。


「それで、おまえはぁ…………だれだ?」


「えぇっ!?さっき自己紹介したじゃん!神崎だよ!神崎芹奈!」


「かんざき……せりな……。あぁ、あの転入生か」


「ちょっ!忘れないでよ!」


忘れるも何も、あの時の彼女の自己紹介は一方的だったではないか。

俺は視線も向けていなければ、耳すらも傾けていなかったはずだ。

頬杖をつきながら、ひたすらに外を眺めていた。

そんな相手に勝手に名を名乗ったのは、彼女の方だ。


「それで、その神崎さんがなんでここに?」


「芹奈でいいよ。同い年なんだし。わたしもひな……日影くんのこと、名前で呼びたいし」


一度ならず二度までも『ひなた』と呼び間違えそうになったことには敢えて触れないでおこう。


「わかった、そうさせてもらう。神崎」


「芹奈でいいって言ってるでしょうが!」


両腕をブンッと下に振り下ろしながら、どこか不満げな表情を浮かべている。

肩口できれいに切り揃えられた胡桃色のロングボブがふわりと揺れる。

手入れの行き届いているその髪の毛は、煌びやかに光沢を見せる。

パッチリと大きく、硝子玉のように透き通る丸々とした瞳に長い睫毛。

夏服から伸びた華奢な腕とスカートから伸びるスラリと長い両脚。

血色のいい、すべすべとした滑らかな肌質。

鼻筋の通った綺麗な鼻梁。

艶を帯びた形が整った桜色の唇。

その全てを掛け合せたその風貌は言わずもがな、男女問わずに魅了されるのであろう。

だが、生まれてこの方十六年。

恋愛関連や異性に対しての感情など、全てにおいて無頓着な俺からすれば、その魅力さは全くと言っていいほどに無力だった。


「俺らはまだ、名前で呼べるような親しい関係じゃないだろ。いまさっき出会ったばかりの、言わば他人同士だ」


「たっ……たた……たにん……。もう、互いに名前も知ってるんだし、他人じゃないよっ!」


「へぇ……」


「な、なに?」


「いや、なんでも……」


まさに先程、俺の事を『ひなた』と呼び間違えていた人が、よくもまぁ他人じゃないと言えるな。

名前を知っていようがなかろうが、クラスメートなど所詮その枠組みに振り分けられた他人に過ぎない。

それでもなお、他人ではないと言い切るのであれば、今ここで俺らが他人同等の存在であるということを証明してみせよう。


「なら、俺の名前は?」


「えっ。だから日影くんでしょ?」


「それは苗字な。下の名前だ。他人じゃないのに名前も知らないのか?」


俺は皮肉を込めてそう彼女に問う。

悪意に満ちた言い草はあまりにも身勝手すぎるということなんて、自分自身でも重々理解している。

今日、転入してきた者が自己紹介どころか挨拶すらも交わさなかった相手の名前を知っているはずがないからな。

俺に友人やそれ同等の親しい人間が存在していたならば、下の名前で呼ばれていたこともあっただろうが、あいにくそんな人間は俺には存在していない。

それどころか彼女に限らず、俺の下の名前を知っている生徒なんて一人も存在しないのではないかとすらも思ってしまう。

クラスメートからも他クラスの生徒からも、俺への呼び名なんて決まっている。

『あいつ』『日影』『死神』この三つ以外の呼び方をされたことは、高校入学以来一度たりともなかった。

圧倒的に『死神』という呼び名が大半を占め、『日影』という歴とした苗字よりも、目立ち『死神』呼びが定着してしまっている始末。


「わからないんだろ?」


「いや……ちょっとまって。今思い出すから……」


「いやいや……」


思い出すも何も、肝心の名前を知っていないのだから、どれだけ思考を巡らせようと、記憶を遡ろうと、答えは愚か手掛かりさえも見つかるはずがない。

だが、そんなことはお構い無しにと言わんばかりに、彼女は人差し指をこめかみに当てながら「えぇっと……ひかげ……ひかげ……」と必死に考えにふけていた。

『名前を応えろ』だなんて、確実に正解を導き出すことのできない問題を出題したのは自分だというのに、なぜだか彼女の必死さを瞳に映すと無性に心が痛む。


「もういいよ。今のは俺がわるーー」


「思い出したっ!思い出したよ!」


あまりにも心が痛むため出題した問題を自ら断ち切ろうとした時。

俺の言葉を遮るかのように彼女が甲高い声を張り上げた。


「いや……だから、思い出したって。お前は最初から俺の名前なんてしらーー」


「ちあきくんでしょ!ち あ き く ん っ!」


「っ…………な……なん……」


予想外の言葉に思わず目を大きく見開いてしまい、口をぽかんと開いた状態でいる。

言葉を失うとはまさにこのことだ。

後ろで手を組みながら、俺の顔を覗き込むように上目遣いで「どうどう?正解?」と何度も訊いてくる。

そんな彼女に俺は反射的に顔を横へ逸らす。

視界の隅で映る彼女の姿が徐々に俺の方へと歩み寄ってきているのが分かった。

どうして彼女が……俺の名前を……。


「そ……そうだ……そうだよ。正解だ」


「やっぱりっ!そうだと思ったんだよぉ〜」


彼女が言うように俺の名前は『日影千秋』。

その名前に偽りはなく、それ以上でも以下でもない。

たかが、クラスメートの名前を的中させただけだというのに、まるでおもちゃを買ってもらった無邪気な子供のように、わいわいと両腕を上げ、声を上げていた。

だが、そんな朗々とした高々い気分の彼女とは異なり、俺は最大の疑問を頭に浮かべていた。


「どうして、お前が俺の名前を知ってるんだ?」


ただ、それだけ。その疑問だけが頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。


「だって、わたしたち友達じゃん」


「とも……だち……?」


まるで当然かの如くそう言い放った。

逆に彼女の方が『なにバカな質問してるの?』と言いたげな表情を浮かべ、首を傾げていた。

俺たちが友達……。

そんなバカなことがあるか。

数時間前にクラスメートになったとはいえ、まともに言葉一つ交わさず、自己紹介だって、一方敵。

そんな相手を『友達』と言い切るのは流石に無理がある。


「俺らが友達なわけないだろ。クラスメートだからといって、全員が全員友達だというわけではない」


『クラスメート』と『友達』は全くの別物だ。

クラスメートは言わば、特定の教室に振り分けられた同級生に過ぎず、それに比べて友達というのは互いに信頼関係を築き、尊敬する気持ちやいつなんどきでも力を貸したり貸してもらったりする。そして悲しさや辛さを寄り添えるような、そんな存在。

だが、今の俺らはどっからどう見ても『友達』という関係だとはお世辞でも言えない。


「ん〜、確かにそうかもね。でもわたしは、千秋くんのこと、友達だって思ってるよ?」


彼女は俺の言葉を遮るどころか、一言も発せさせないようにと、すぐさま言葉を続ける。


「仮にわたしたちが友達じゃないんだとしても、わたしは千秋くんと友達になりたい」


「俺と友達になりたいだなんて……」


本当に彼女は変わり者だ。

俺が言える立場ではないかもしれないが。


「お前だって知ってるだろ。俺がクラスメートからどんな風に思われてるくらい」


「知ってるよ」


「なら、俺と関わるのはやめておいたほうがいい。お前の株が下がるだけだ」


それどころか、俺と関わったが故に彼女にまで、あることないこと悪評を吹聴される可能性だって充分に有り得る。

日影千秋と死神と関わっているならば、神崎芹奈も同類だという噂が校内に飛び交い、流言蜚語に惑わされる事が絶対に無いとは言い切れない。

誰かの学校生活に支障をきたすような事は何がなんでも避けなければならない。


「俺と関わったところで君は利益など一つも得られない……。それがわかったら俺にはもう話しかけない方がいい……」


冷めたような冷淡な瞳で彼女のことをじっと見つめ、そうとだけ告げた俺はくるりと背中を向け、片手に持っていたブラシを動かした。

俺の判断は正しい。

誰が相手だろうと、誰かが自分の立場であった場合でも、大抵の人間が俺と同じ判断を彼女に下す。

『もう関わるな』『もう話しかけるな』。

敢えて、冷遇な態度を取ることで人間との距離感を保っているんだ。

そうして俺は彼女に背を向けながら。


「……無理に仲良くしてくれなくたって別にいいさ。……過剰なお節介は時に自分を苦しめるぞ」


「……んで……くんが……の……をきに……の……」


後ろに立っている彼女がぼそりとそんなことを呟く。

独り言なのか俺に話し掛けているのか、分かりづらい声量で彼女が何を言っているのかまでは聞き取れなかった。


「今、なんか言ったか……?」


背を向けていた俺が再び振り向くと、視線の先には顔を下に俯かせながら、両手をギュッと力強く握りしめていた彼女の姿が現れた。

恐らく、そんな彼女の手のひらには、強くそして赤く爪の跡が刻まれているのだろう。


「神崎……?」


今の彼女の怒気漂う異様な雰囲気を感じ取る限り、恐らく俺が何か癇に障るような不愉快な発言をしてしまっていたのだろう。

俯いていることで表情までは確認できないものの、力強く握られた両拳と足元に視線を落としているその姿によって、彼女の心情は充分過ぎるほどに物語っていた。


「どうしてっ……千秋くんが……わたしの株を気にするのよっ……。わたしは別にお節介だから声を掛けたんじゃない」


「神崎……俺は……」


「っ…………」


潤い震えた声音でそう言いながら、俯いていた顔をバッと前へ上げ、俺の瞳をじっと見つめる彼女の目尻には大粒の涙が浮かんでいた。

少しでも振動を与えてしまえば、容易く流れ落ちてしまいそうなほどに、彼女の瞳は透明な雫で潤い、でもこれ以上にないほどに真剣な眼差しを向けている。


「神崎……どうして……」


俺は咄嗟に彼女に向けて手を差し伸ばす。

女子を泣かせてしまったことに俺の鼓動を乱され、計り知れない焦燥感に駆られ戸惑いを隠せないでいた。


「わたしはっ、千秋くんと友達になりたいのっ……!株なんてどうでもいい。周りから思われる印象なんて気にしないっ……!」


彼女の両手は未だに力強く握られていた。

潤い声ながらも淡々とそして真摯に発せられたその言葉には心を揺さぶられるような、特別な意味や力が込められているようなそんな気がした。

荒らげた息遣いに空気を斬るような勢いを増した声量は彼女自身の感情をも昂らせ、その反動で目尻から大粒の涙がボロボロと際限なく零れ落ちる。

けれど、そんなとめどない涙を拭うような仕草は一切見せずに、彼女は淡々と言葉を並べる。

際限ない透明な涙を頬につたらせる彼女の姿は、なぜだかとても美しく綺麗に俺の瞳には映された。


「だから……勝手にわたしの意思を決めつけないでよっ……!そういうこと二度と言わないで」


「ごめん……神崎……本当にごめん」


目尻から流れ落ちる透き通る涙を人差し指で優しく拭いながら、鼻をズビズビと啜り、彼女はどこか気持ちが晴れたかのようにパッと表情が明るく咲かせた。

勝手な憶測だったが、てっきり隣席だからと言う理由だけで多少の好印象を与え、最低限の関係を築き、適度の距離感を保つ予定なんだと。

そう、思っていた。

だけど、彼女は違ったんだ。

そんな表向きの為だけではなく。むしろ、それは二の次だと言うかのように。

彼女はただ純粋に日影千秋という名の一人の男子生徒と友達になりたい、会話をしてみたい。本当にただそれだけの理由で彼女は俺との距離を縮めようとしていたんだ。

それだというのに、俺は勝手な深読みと憶測だらけの自己解決だけで、彼女を傷つけてしまっていたんだ。



「もういいよ。千秋くんはわたしのことを思って言ってくれたんだもんね。ありがと」


目元を赤く腫らしながら、ニコリと優しく微笑み、両手を後ろで組む。

そうして彼女は「だから……」と言葉を続ける。


「許してあげる代わりに……。千秋くん、わたしと友達になってよ」


屈託のない笑みを湛えながら、語り掛けてくる彼女の表情はまるで、頭上で燦々と輝く太陽のようでとても眩しく映った。

友達か……。

これまで一人だって友人と呼べるような者はいなかった俺に友人というものが果たして務まるのか。

無愛想で無慈悲で根暗で、その上普段から無意識に近寄り難い雰囲気を漂わせている俺に……。

根本的な原因を理解しているにも拘わらず、解決策を模索したり、行動に移そうとさえしようとしない。

そんな俺は恐らく友人など必要ない、一人孤独でも生きていけるとそう思っている。

実際にこれまででも、孤立しているからといってこれといった支障もきたさなかった。

だから今回も彼女には申し訳ないが断らせてもらう。


「それは遠慮しておく。俺には『友達』という仲睦まじい存在は必要ない。友達ごっこがしたいなら他の奴にしな」


この話題を終了させるため且つ、彼女をこの場からいち早くでも去ってもらうために、俺は敢えて口調を強め、今度こそプール掃除に戻るためくるりと背を向ける。


「あーあぁ。わたし、また泣いちゃいそうだよぉ。千秋くんが友達になってくれないとか言うから」


背後からなよなよとした声音で訴えかけてくる彼女。

彼女の言うことが真実か偽りかは一旦置いといて、再び泣かれてしまっては色々と困る。

だからこそ、俺は仕方がなく本当に仕方がなく、彼女のお望み通りの選択肢を選ぶ。


「はぁ……、分かった。なればいいんだろ、友達に」


「ほんとっ!?なってくれるの!?」


彼女の方から、執拗いレベルにせがってきたというのに、俺がいざ『友達になる』と言えばこの有様。

大きな瞳を更に大きく見開き、キラキラと煌めかせている。


「神崎が友達にならないとなくぅーとか言ったから、仕方なくな」


「なっ……なんか言い方はムカつくけど、でもまぁ千秋くんと友達になれるなら造作もないっ!」


なんか、破天荒というか、純粋無垢というか、彼女は本当に表情をコロコロと変えてみせる。

俺とは似ても似つかない表情の豊かさを持っている彼女にどこか羨ましさを感じてしまっているのは一体なぜなのか。

無表情と言われ続けた俺にも、彼女のような百面相になれる日が訪れるのか。

いや……彼女と関わりを持つことで俺にも喜怒哀楽、多彩の表情が芽生えるのかもしれないとそんな、なんの根拠もない淡い期待を密かに抱いていた。


「それで神崎。一つ訊きたいことがあるんだが」


「なになにー?何でも答えるよ!千秋くんには特別にすりーさいず……も教えてあげるよ?」


「いや……そういうの興味ないから」


「きょっ、興味ないってどういうことっ!……年頃の男の子なら、わたしのような超絶美少女の胸の大きさとか知りたい……はずなのに」


視線を斜め下に落としながら、最後に近づくにつれ徐々に小声へと変化しながらボソリとそんなことを呟く。

というか彼女、さらりと過度の自画自賛のような言葉を口にしていたような。

だが、いちいちそんなことにツッコミを入れていたは、会話が一向に進まないので俺は敢えて短く返答をするだけ。

そして俺は謎の思考を繰り広げている彼女に向けて、再び質問を投げかける。


「どうして神崎は無愛想で地味な学校内でも悪印象の俺とそこまで友達になりたいんだ?俺じゃなくたって、もっと相応しい人がいるはずだと思うが」


全くもって誇れる実績ではないのだけれど、言ってしまえば、俺は校内でもトップを争うほどの変わり者。

そんなことは、転入早々の彼女にだって容易に理解できたはず。

生徒から向けられる冷淡で蔑むような眼差しは俺自身の印象を充分過ぎるほど物語っている。

そんな俺とじゃ……やはり。


「……俺と関わっても神崎の印象をーー」


「だ か ら っ!そういう、印象とか株とかはどうでもいいの!本当に。もう言わないでって言ったでしょ」


「あっ……あぁ。そうだったな」


俺は後頭部を掻きながら、彼女に向けていた視線を一度下のプールサイドへ落とす。

たとえ、周囲から向けられる彼女に対しての印象が悪印象へと変化し、その事を彼女自身がどうでもいいと思っていたとしても、それでも俺はなるべくなら彼女、神崎芹奈との干渉は避けていきたい。

自分のせいで、誰かを傷つけてしまうのはもうーー嫌だから。


「それにわたし、千秋くんの本当の姿知ってるよ?」


けれど、そんな俺の意思なんてお構い無しだと言わんばかりに、彼女は一歩前へと足を踏み込み、更に俺との距離を縮めてくる。

そして彼女は、まるで俺の思考を切り裂くかのように再びそっと口を開いく。


「本当のことって……?」


「学校中に広まってる千秋くんの噂、あれ全部嘘だよね」


「うそ……?」


彼女は顎に人差し指を添えながら、俺の瞳をじっと見つめてくる。

淡々と口から発せられる彼女の言葉が、なぜだか俺の鼓動を乱し、焦点が定まらない。


「どうしてそう言い切れる。この見た目じゃ、暴力沙汰を起こしていても不思議じゃないし。下級生からお金を巻き上げているのかもしれない。それになんだって俺には『死神』という名がーー」


「分かるよわたしには。その全てが虚言だっていうことくらい」


「だから……どうして……」


彼女はビシッと俺の方を指差して、口角の端を少し緩ませながら。


「だってっ、千秋くんがそんなことするはずないもん!あの時わたしを庇ってくれた千秋くんがっ!」


「俺が庇った……?神崎を?」


「そうだよ。あれ、もしかして無意識?」


彼女の言う、俺が庇った行為なんて全くた言っていいほどに見当がつかない。

そもそも、彼女自身が俺なんかに庇われるような事をするはずがないのだが。

眉間に皺を寄せ、疑義の念を抱きながら過去の記憶を遡っていると俺の内心を察知したのか、彼女は「あの時だよ」と言葉を発した。


「わたしが教室で千秋くんの噂に何の証拠もないでしょって反論しようとした時、千秋くんわざと机を叩いて立ち上がったんでしょ?」


「そ……それは……どうだろう」


あの時も今現在も、なぜ敢えて目立つような周囲の生徒らの視線を集めるような行為をしたのかなんて、自分自身でもよく分からない。

でも多分、何一つとして確証なんて言える物はないけれど、それでも俺があの時、机を叩き衝撃音を上げたことで彼女と女子生徒の会話を遮ったのは。

恐らく、その後の言葉を彼女が仮に口にしまえば、俺の事を庇ったのだと思われ 『死神』と同類の人間なんだと認知され、彼女にまで矛先が向いてしまうのではないのかと、無意識ながらにもそう焦燥感を感じていたのだろう。


「わたしの印象を悪くしないように敢えて目立つような事をした千秋くんが噂話のようなことするはずないもん」


「なんか……随分と自信満々だな」


「あったりまえでしょっ!」


彼女はフンッと鼻息を立てながら、両手を腰に当て、誇らしげな表情で胸を張った。

だけど、俺にはなぜだがその姿がレッサーパンダの威嚇に見えて、自慢気な表情も一つ一つの仕草も彼女の見せる全てが愛らしいと思い、次第に表情筋が緩んでしまう。

そんな俺の緩んだ口角を目にした彼女もまた、ニコリと穏やかに微笑んだ。


「まぁでも……。そうだよ。校内に広まってる噂は全部でっち上げだ」


下級生から金銭を巻き上げていなければ、暴力沙汰なんて大迷惑な行為だって起こしたことなどない。

ただ単にそう勘違いさせてしまうような自分の見た目故にそんな噂が広まってしまったんだから、多少俺にも非があるようなないような。

実際のところ、流言を口にしている生徒ら諸君だって、暴力沙汰とか金銭の巻き上げとか正直どうでもいいと思っているのだろう。

偶然にも俺の外見がそれらの素材と合致したからであって、特定の者を貶めることさえ出来れば事柄なんて何でもいいんだ。

何らかの話題と結び付けて、普通ではない人間を嘲笑いたいだけなんだから。

たとえそれが、真実なんかではなく嘘偽りの虚言だったとしても、人間という生物は誰かを犠牲に利用して、自分自身を有利な立場に安全地帯に移動させる。

そんなくだらないことを人間はしたがるんだ。


「それにわたしはね。『死神』っていうあだ名結構好きだよ」


「すき……?死神が?気に入る要素どこにあるんだよ」


悪印象の俺と友達になりたいとか、死神というあだ名に好印象を持っているあたり、彼女はやはり感性が変わっている。

普通、死神を気に入る者なんてそうそういないだろう。

たとえいたとしても、彼女のような感性がねじ曲がっている人か、黒歴史の一ページとして刻まれるような、厨二病を拗らせている人だけ。


「だって、死神ってなんかこうぉ……かっこいいじゃん。………………すごく」


「そ……そうか……?できれば詳しく教えてもらいたいのだが」


「だっ……だから。こうぉ……なんというか、こうぉ……。まぁ、とりあえず全部かっこいい」


よしっ。全くわからん。

自分の表現力と説明力の欠落を自覚したのか、彼女は潔く『死神』についての魅力語りを諦めた。

というか、彼女の持ち合わせている語彙力の無さに呆然としてしまう。

『こうぉ』とだけでは、俺だけに限らず誰にだって理解することは至難の業だろう。

恐らく、猫や犬といった動物の言語を習得し翻訳させるのに匹敵するほどに。

俺が一点に向けている呆然帯びた眼差しに気がついたのか、彼女は慌てて人差し指を上へ立て、「そっ、それにーっ!」と再び死神の魅力を再開させた。


「死神ってやっぱり、誰もが悪い印象を持つでしょ?怖いとか悪者だーとか」


「まぁ、そりゃあな。『死』っていう文字が入ってるくらいだし。誰だってそう思うだろ」


実際に俺自身だってそう思っているし、死神に対してそういう印象を持つのは決しておかしいのではなく、むしろ正当な理由だとすら思う。

彼女自身だって、口振りでは死神に対して好印象を抱いているような、他の人とは異なる捉え方をしているような様子だが。

実際のところ、内心どこかでは周囲の人間と同様な恐怖心や存在してはならざる者だと、そう思っているに違いない。

だけど、俺が脳内でそう勝手に結論付けようとしても、彼女の表情が曇ることは一度たりともなく、まるで本当に死神に対して好印象を抱いているような、そんな感覚に陥らせる。


「その様子じゃ、千秋くんは知らないみたいだね」


「知らない?何をだ」


「死神の本来の意味だよ」


彼女は少し身体を前のめりにしながら、人差し指を上へ立て、俺の顔を覗き込むように上目遣いをしてみせた。


「ちなみに千秋くんは死神ってどんな印象?」


「そりゃあ、さっき神崎が言ったように恐怖心を与えたり、誰かの寿命を奪ったり。とりあえずいてはならない存在」


「うんうん、やっぱりそう思うよね。でも、その考えがおかしいんだよ」


彼女は両目を瞑りながら、『うんうん』と何度も頷き、緩慢に一歩一歩と俺との距離を縮めてくる。

彼女の言う、『その考えがおかしい』の意味がよく分からずにいる俺は、首を傾げ怪訝な表情を浮かべていた。

誰しもが俺と同等の考えを死神に対して抱いているだろうに、それでも彼女は「違うんだよ」と何度も否定を繰り返す。


「死神ってね、別に誰かを死に貶める事が目的じゃないんだよ。もしかしたら、自ら手を下すことだってあるかもしれない。でもそれはあくまでも稀な事例」


「稀な事例……」


まるで死神マニアとでも言うかのように、彼女の口からは淡々と説明が繰り広げられた。

小動物のような印象を与える彼女のような者が死神なんて恐ろしい神語りはどうも相応しくない。

それでも彼女はやはりお構い無しにと言わんばかりに言葉を続ける。


「死を迎える人や寿命が残り僅かな人を現世に彷徨い続けないよう冥界へ導く為に死神は姿を現すんだよ。魂が悪霊化してしまうのを防ぐためにね」


「それでも、寿命を奪うイメージだけは拭いきれない」


「確かに千秋くんが言うように大抵の人は寿命を奪うイメージがあるから、忌み嫌われる存在として扱われてるよね。でも、本当は無条件で寿命を奪ったりなんかしないんだよ。死者をその後の世界に導くために。言わば道標みたいな存在だよ」


そうして彼女は後ろで手を組みながら、俺の顔を覗き込むように上目遣いでニコリと笑顔を湛える。


「それってさ。すごく偉大な存在じゃない?」


「そう……なのかな……」


「絶対そうだよ!そして千秋くんも、わたしの印象が悪くならないよう安泰な学校生活を送らせるために敢えて自分を目立たせ最良の選択へ導いてくれた」


彼女は一点に俺の方を指差して、更なる言葉を紡ぐんだ。


「それって、冥界へ導く死神と一緒で千秋くんも偉大な存在って事になるでしょ?だったら、死神ってあだ名千秋くんにピッタリじゃん!」


大きな瞳を見開き、眉尻を吊り上げ、フンスッと自信満々な表情を浮かべる。

そして多少の沈黙が流れた後、俺の瞳に向けられていた視線を斜め下に落とし、小声で呟くように「…………それにかっこいいし」と口にした。


「そこ、やっぱり重要なんだ」


「当たり前だよ。あの見た目がいいんじゃん」


「そう……かな……」


どうやら彼女は何がなんでも『かっこいい』その主張を貫きたいようだ。

それにしても、男子ならともかく、女子のそれも死神なんて恐ろしい存在とは程遠いいであろう彼女が死神の外見をかっこいいだなんて言い放つとは、世も末だ。


「それでも、あれだな。登場時に大鎌を持って現れるのは流石に悪意を感じるけどな」


「それは、まぁ……。わたしでも否定できないなぁ」


彼女でも、死神が所持している大鎌の武器まではフォローできないみたいだ。

それでも、彼女の斬新な死神への印象が俺とは全くの別物でそんな考え方もあるんだなと一つ一つの言葉に感銘を受けた。

浅はかな知識だけで物事を進めない彼女のような多面的な視点から思考を凝らす能力がこの世の中には必要不可欠な存在。

たとえ、何年経過してもいいからそれらの者が増えていければいいなと密かに願う。


「でも、ありがとな神崎。お前のおかげで死神というあだ名、少しは受け入れられそうだ」


「受け入れるのもなんか違うような気がするけど、でもそうだね。死神は何も悪い意味じゃないんだよ」


そうして彼女は頭上で燦々と輝く太陽のような眩しい笑顔を浮かべ、「わたしはそれを知ってもらいたくて」と言葉を重ねた。

俺は今度こそプール掃除を再開させようとくるりと背を向け、ブラシを構える。


「そういえば、千秋くんプール掃除の途中だったね。ごめんね邪魔しちゃって」


「別に大丈夫。もう少しで終わりそうだったし」


「その代わりと言ってはなんだけど、わたしも手伝うよ。プール掃除」


「いや、だから。もう少しで終わるから別に手伝ってもらわなくてもーー」


「いいのっ!わたしがしてあげたいって思ったんだから。それに、一人より二人の方がより早く終われるでしょ?」


「ま……まぁ、そうかもだけど」


彼女は「わたしも、ブラシ取ってくるから待っててー」とだけ告げ、スタスタと軽やかな速歩で掃除ロッカーへ向かって行った。


「じゃあ早速始めちゃおっか!わたしは向こう側から、千秋くんはあっちからね」


片手に持っているブラシを杖のようにプールサイドに突きながら、ビシビシと指定の場所を指差す。

「よしっ!」と自分自身に掛け声を掛けると彼女は数m先の開始地点へ駆け寄りに行く。


「お、おい!こんなところで走ったらーー」


「…………っ!」


「神崎……っ!」


だが、そんな俺からの忠告など無価値だと言うかのように、案の定彼女は足を滑らせ、ズコッと盛大に転倒してみせた。

不幸中の幸い、苔や落ち葉、よく分からない木の枝らしき物がぷかぷかと浮いている濁水に飛び込むことは無く、プールサイドギリギリで留まることが出来たようだ。

あと数十cm、いや……あと数cmでも足の置き場をミスっていれば、間違いなく彼女は濁水を全身に纏い、ぷんぷんと悪臭を放ち、惨憺たる結末となっていただろう。


「神崎、大丈夫か?」


片膝を立てながら腰を下ろし、顔の中心に皺を寄せながら擦りむいた膝を痛々しい表情で眺めている彼女の元へ俺は直ぐに駆け寄りに行く。

もちろん、彼女のような転倒する恐れのあるスピードではなく。


「……千秋くん〜。膝……痛いよぉ〜」


「プールサイドで走るからだ。自業自得だろ、今のは」


「だ……だって、だって〜」


「いいから少し見せてみろ」


彼女の瞳は微かに潤っていた。

たかが、転倒したくらいで泣きそうになってしまうなど、小学生かよ。

膝からの出血もそれほど多くはないし、本当にただの擦り傷のようだ。

でもまぁ、怪我を負ったのが顔ではなくて良かったと「ふぅ……」と安堵混じりのため息をそっと吐き、優しく胸を撫で下ろす。


「これなら、大したことないだろ。すぐに治るさ」


「ほ……ほんとうに?わたし……しなない……?」


つい先程まで自分の意志を心情を決して曲げず、強く述べていた彼女とはどうも結び付かないほどに、彼女は今弱々しい姿をしていた。

雨に打たれる子犬のような瞳で。


「これくらいじゃ、死なねぇよ」


「そっか……よかった」


人間の心はガラス玉よりも脆く、ふとした事でいとも容易く砕けてしまうけれど、身体自体はそう脆くは無い。


「ほら、立てるか?保健室行くぞ」


「うん。……っ!」


立ち上がろうと微かに濡れているプールサイドに手をつくと、彼女は更に痛々しい表情を浮かべた。

俺はその時とあることを察し、「はぁ……」と呆然としたため息を吐いた後、彼女に背を向けながら、しゃがみ込む。


「……千秋……くん?」


そんな俺の姿に全く理解が出来ていないといった様子で彼女は首を傾げていた。


「歩けないんだろ。俺がおぶっていってやる」


「い、いいいいいいよっ!そんなの、千秋くんに悪いし!」


両手を交差させながら、ぶんぶんと左右に動かす彼女は必死に俺の言動を否定していた。


「俺がいいって言ってんだから、ここは素直に甘えとけ」


……それに、意外とこの体勢を維持するのはどうも気恥しいんだ。

頼むから、ここは素直に俺の意見に賛同してもらいたい。


「ほら。早くしろ」


「分かったけど、重いって言わないでねっ。絶対、絶対だよ?分かった?」


「あぁ、分かったから」


俺からの申し出を彼女は渋々承諾し、それから数秒後、胸元に細く伸びる華奢な腕が回り、肉付きの良い太ももを掴んで立ち上がる。


「お……おもい?」


「おもいっ……」


「ちょっ!重いって絶対言わないでって言ったじゃん!……もう、ほんっとうに千秋くんはデリカシーがないなぁ」


『重いかどうか訊いたのは神崎の方じゃないか』と反論しようかも思ったのだけれど、どうせそれを口にしたところで『それでも、重くないって否定して欲しかったのぉ!』って更なる反撃を喰らうのは目に見えてる光景。

野暮な言葉を返答するのはやめておこう。



コンコンコンと三回ほど扉をノックし、「失礼します」と言葉を述べてから、ガラガラと保健室の扉を開く。


「日影くんじゃない。今日もまた怪我をしたのかな?」


「今日は俺じゃなくて、背中に乗ってるこっちの生徒です」


「背中に……?って本当ね、誰か乗ってるわ……。女の子って……まさかその子ってかのーー」


「違います」


「ひ……否定が早いわね」


「当たり前です」


白い白衣を纏いながら、黒いタイツを穿いた脚を組み、片手に持っているコーヒーをズズズと啜っている女性は保健室の先生を担当している、城崎先生だ。

怪我を負いやすい体質とドジな性格を兼ね備えた俺にとっては、保健室を通うだなんて日常茶飯事といったところで、そのため頻繁に対面を繰り返していることもあり、他生徒に比べて城崎先生との関係は良好である。

先程繰り広げた、ちょっとした茶番も恒例行事というかなんというか。

毎度の事ながら、俺が保健室に訪れると必ずと言っていいほどに揶揄や茶番が開口一番だ。

内容のレパートリーが底を尽きかけ、時折以前にも耳にしたような茶番だった場合でもそれほど苦痛として感じないのは、俺と城崎先生の相性が良いとかそういった類のものではなく、俺が一方的に彼女を慕っているからなのだろう。

当然、好意とかそういうのではなく、ただ単に尊敬している人といった認識で。

俺がまともに言葉を交える事が可能な相手も城崎先生だけだし。

恐らく、その理由もあるのだろう。

いや……むしろその理由しかない気さえもするがそれは一旦置いておこう。


「それで。そのおんぶしてるかの……じゃなくて、女の子がどうかしたの?」


「プール掃除してる時に足を滑らせて、膝を擦りむいたもんで。ただ、それだけです」


「ほうほう、なるほどね」


「全然それだけじゃないよ!千秋くんには分からないかもしれないけど、すーーーっごく痛かったんだからね、すーーーっごく!わたし、ここで死ぬんだぁって思ったくらいだもん」


「はいはい、そうですか。そんなんじゃ、死なないから安心してください」


わざとらしく皮肉を込めてそう言ってやると、囁くような小さな声で「……ムカつくなぁ、この人。殴っちゃおうかな」と呟く。

だが、運が悪いのか良いのか背中に背負われているこの状況では、たえとどんなに小さな声だろうと全て一文字一文字余すことなく正確に聞こえてしまう。

当然、彼女が『殴っちゃおうかな』と野蛮人のような発言をした事も。


「お嬢ちゃん。その擦りむいた膝、見せてみ」


「あ、はい。っていうか千秋くん。もう、降ろしてもらっていいかな」


「あぁ、言われなくてもそのつもりだ。もうそろそろで俺の足腰が粉砕するところだからな」


「ふ、粉砕って……。わたしはそんなに重くないっつーの!」


「はいはい、そうでした。……よいしょっと」


「……また、適当に流して」


背負っていた彼女をそっと降ろすと、俺はおもむろに両手を腰に当て、ぐぅっと上半身を反らせたり、左右に捻らせたりとストレッチを行った。

そんな俺の姿を丸いスツールに腰を下ろしながら横目に映しながら「……だから、そんなに重くないってば」と何やらブツブツと呟く彼女。


「うん、ただの擦り傷ね。これなら、一週間も経てば治るわ」


「だから、ただのーー」


「今から消毒するから動かないでね」


城崎先生は机の端側に置いてある銀色のステンレスバッドから一つの消毒剤を手に取り、彼女の膝へシュッと噴出させる。

それと同時に彼女は「……っん"!」と悶え苦しむ呻吟する声を上げ、再び瞳を潤せた。

ペタリと絆創膏を貼り終えると。


「よし、これでもう大丈夫よ」


「ありがとうございます」


「次からはプールで走ったりはしないことよ。そこの誰かさんみたいに、保健室の常連になりたくなければ」


「そこの……?ってあぁ……」


ジト目で呆然とした眼差しを一点に送る城崎先生を真似して、彼女もその先を追うかのように俺に呆れ果てた眼差しを向ける。


「あぁってなんだよ。あぁって」


「いやだってねぇ……。あの噂のよく怪我をして登校してくるっていうのは本当なんだって思って。……もしかして本当にぼうりょーー」


「だから、その噂は嘘だってさっき言ったろ。……まぁ、よく怪我するっていうのは本当だけど」


人差し指で頬を掻きながら、不自然に彼女から視線を逸らした。


「でもどうして千秋くんは、そんなによく怪我をするの?……もしかして、そういう趣味とかぁ?」


「俺にそんな趣味はねぇよ」


勝手な憶測で俺を変人扱いするな。

口元に手を当てながら、小悪魔的な笑みを浮かべて「ぷぷぷっ」と不敵な笑い声を上げているその表情が妙に腹立たしい。

とんでもない勘違いをしている彼女に対し、ありのままの真実を伝えべく、口を開こうとした時、俺の代弁者になるかの如く城崎先生が言葉を紡いだ。


「千秋くんはあれなんだよね。あれ」


「あれ……?あれってなんですか?」


「あれっていうのはーー」


「ちょっ!城崎先生、それ以上はーー」


『その先の言葉は言うな』と念を込めて、城崎先生に手を伸ばしたのだが、虚しいことにそんな俺の行動は皆無と言っていいほどに効果を発揮せず、空中で円形を描くかのようにくるくると人差し指を回し、愉快な笑みを浮かべる白崎先生は見事言葉を続けた。


「千秋くんってね。実はこう見えて……ドジっ子ちゃんなんだよねぇー」


「どっ……どっ…………ドジっ子ちゃんっ!?」


驚きのあまり、張り上げた甲高い声が保健室全体に響き渡る。

そして、ビュンッという効果音が聞こえてきそうな俊敏さで俺の事をじっと見つめる。


「…………うぁぁぁ……はぁ……」


自分の額をペチンと平手打ちし、「だから……」と小声で嘆声を洩らす。

彼女に言ってしまえば、このような反応をされるのは目に見えていたんだ。

だから、俺は必死に止めようと努めたというのに、そんなことすらも察することが出来ない城崎先生は……。


「この、千秋くんが!?無愛想で目つきが悪くて、常に威圧感を漂わせ、生徒から怖がられている、この千秋くんがですか?」


「そう、その千秋くんがよ」


「城崎先生まで俺の特徴を全肯定しないでください……」


彼女の発言に何の違和感を感じていないのか、白崎先生は一秒たりとも躊躇いなど見せずに「そうそう」と首を縦に振って頷いた。

目つきが悪いのだってあくまでも生まれつきで、何もわざとそうしているわけでもない。

周囲に威圧感を振りまいてしまうのだって、無意識にそう振舞ってしまっているだけで、微塵も怯えさせたいだなんて企みなどはない。

だがまぁ。彼女の言っていることに何一つ嘘がないのも、また事実なのだから、そんな印象を与えてしまっていたとしても、何も言い返せない。


「意外だったでしょ」


「はい、それはもう」


「この情報知ってるの、学校関係者だとわたしくらいだから結構レア物よ」


「そうなんですか。ありがとうございます、こんな有益な情報を教えていただいて。…………もしかしたら、この弱みで……」


何か良からぬ企みを考えているように見えてしまうのは、俺の気のせいだろうか。

いいや、絶対に確実に完全に気のせいではない。

俺は聞き逃さなかったが、彼女は今小声で『この弱みで』と口にしていた。

どれほどの悪行を企んでいるのか知らないが……もしかしなくとも彼女、神崎芹奈はーー腹黒なんじゃ……。

これほどまでに、小動物のようなぽわぽわとした、わたあめのようなふわふわとした、小柄で可愛らしい風貌をしているにも拘わらず、実はドS気質を持っていたり……。

そんな、恐怖に怯えるような推測を繰り広げている中、思考を遮るかの如く城崎先生が再び口を開いた。


「でも、あれよね。ドジっ子だから怪我をしやすいっていうのも、もちろんあるけど。それでも一番の要因はやっぱり……猫ちゃん、よね」


「ね……ねこちゃん?猫ちゃんがどうしたんですか?」


「しろ……。いや……もういいか」


先程の光景を思い返して、城崎先生の言葉を阻止するのは放棄することにしよう。

どうせここで『言わないでください』と何度言葉を並べようが、最終手段である城崎先生の口を両手で覆い塞ごうが先生のことだ。無理やりにでも俺の手を退けて、言葉を繋げるだろう。

まぁ、端的に言えば何をしたって城崎先生にとっては全くの無力と化すということだ。

本当に俺は毎度ながらに、城崎先生には敵わないな。


「猫が好きなのよ、日影くんは。でも、なぜだか日影くんは猫に好かれなくてね。だからいつも野良猫に触ろうとすると引っかかれちゃうのよ」


パチリとウインクを披露しながら、人差し指を上へ立てる。


「ちっ……千秋くんが!?ねこ……ねこをですか?この見た目で可愛い猫ちゃんを好きとかギャップが半端ないですね……」


はいはい、その反応ももう既に予測していました。

そうして、今日何度目か分からない俺への視線送りをまたしてもしてきた。

そしてどうせ、城崎先生はーー


『意外だったでしょ』


「意外だったでしょ」


って言うんだろ。


ほらな。

そして彼女もまたーー


『はい、意外です!あの、千秋くんが……』


「はい、意外です!あの、千秋くんが……」


ほらな。

城崎先生はともかく、彼女ーー神崎芹奈とは出会ってまだ一日どころか数時間しか経過しておらず、その上言葉を交えた時間は僅かな数分のみ。

これだけの浅はかな関係にも拘わらず、彼女の言葉を先読みすることが可能だというのは、ただ単に彼女自身の思考回路や脳みそが単細胞だからなのか。

それとも、俺に限らず誰にでも先読みできてしまうほどにーー『究極なバカ』なのか。


「特に白い猫ちゃんが好みなのよ。……えぇっと……なんて言うんだっけ。さばぁ……さばぁ……サバ焼きじゃなくて……サバクレープでもなくて……」


こめかみに人差し指を軽く当てながら首を傾げ、斜め上に視線を送らせながら、必死に思考を巡らせている城崎先生。


「サバトラですよ。サバトラ」


「そう、そう!それだよそれ。いやぁ、惜しかったなぁ。サバまでは思い出せてたんだけど」


「全然、これっぽっちも惜しくないですから」


百歩譲って、最初の二文字が『サバ』なものだから、思わず『サバ焼き』と言ってしまうのは仕方がないことだが。

二手目の『サバクレープ』に関しては、百歩譲ろうが千歩譲ろうが、たとえ一億歩譲ろうがら仕方がないと目を瞑ることは出来まい。

というか、なんだよその、壊滅的な決して混合させてはならない、悪夢の始まりを彷彿とさせるコラボレーションのようなスイーツ名わ。

料理の革命を起こそうとしているのなら、未確認の食材を混合させることに関しては目を瞑るが、毎晩コンビニ弁当三昧の城崎先生に限ってそんな思考など持ち合わせてはいないだろう。

猫の雑種を的中させる以前に城崎先生は料理に関する基本知識くらいは学んでもらいたいところだ。


「そうそう、それで去年なんかわね。そのさばとら?の捨て猫を拾ってきて、この保健室に連れてきたのよ」


「えっ!?学校に!?それはだいぶ……クレイジーというか、怖いもの知らずというか」


「ほんとのね。それでその時、日影くんなんて言ったと思う?」


「なんて言ったんですか?」


城崎先生は「ん"ん"」と喉を鳴らしながら、恐らく俺の声真似であろう前段階を済ませると。


「「俺のマンション、ペット禁止なんで城崎先生に面倒を見てもらいたくて。……この間、独身で寂しいって言ってましたよね。いい機会じゃないですか」って開口一番に平然とそう言ったのよ」


それほど似ていない俺の声真似を済ませた後、城崎先生は「独身で寂しいは随分と余計だったけど」と鋭利な刃物で刺すかのような眼差しでギロリと睨んでくる。

確かに言われてみれば、そんなことを口にしたような、していないような。

だが、校内でも温厚篤実として有名な城崎先生がこれほどまでに睨みつけてくるということは、恐らく余計なことまで言ってしまったのだろう。

だから俺は、とりあえず反省の意を込めて。


「す……すみません」


そう告げながら、ぺこりと軽く頭を下げる。


「それで、その捨て猫ちゃんは結局どうしたんですか?やっぱり城崎先生が飼ったり」


「ううん、飼うことはしなかった。というより出来なかったかな。あいにく、私のマンションもペットは禁止でね」


「それじゃあ……」


「途中まではここの保健室を借りて面倒を見てたんだけど、ずっとそういうわけにもいかなくて。最終的には職員の方に引き取ってもらったわ」


何を思ったのか、彼女は少し安堵したようなため息を零し、そっと優しく微笑んだ。


「その猫ちゃんは今もたまに会ってるんですか?」


「それがね……もう……」


「あっ……。すみません……。わたし、不躾なことを……」


数秒前までわいわいと騒ぎ声を上げ、喧騒とした空間を作り上げていた朗らか雰囲気が、一瞬にして重苦しい淀んだ空気へと一変した。

城崎先生は斜め下に視線を落とし、彼女もまた顔を俯かせている。

いかにも気まずい沈黙が刻々と流れる中、たった一人、俺だけは『ん?』といった、疑問符が浮かび上がるような疑義の念を抱いていた。


「いやいや。別に死んでないから。今もピンピンして生きてるから。城崎先生、紛らわしい言い回しはしないでください」


むしろ、活力が湧き過ぎているというか生気に満ち溢れているというか。

とにかく、そこらの猫という猫よりかは数倍いや数十倍は元気ハツラツだ。


「あっ、ばれた?いやね、ちょっとからかいたくなっちゃってぇ」


「バレるに決まってるじゃないですか。というか、縁起でもない茶化し方は自重してください」


「ごめん、ごめん、ごめんてー」


両手をパチンと合わせながら、一切反省の色を伺えない緩い表情と言動で幾度となく謝罪を繰り返す。

保健室の先生だというにも拘わらず、生死を交えた揶揄をするなんて、あるまじき事態にほかならないのでは。

純粋無垢な性格の彼女はどうやら城崎先生の発言を真に受けてしまったようで、焦燥感を漂わせた表情を浮かべ「よかったぁ……」と一安心とした様子。

だからこそ、彼女ら今猛烈にーー。


「……城崎先生!」


「は、はい……」


彼女が何を言いたいのかなんて、誰だろうと容易に推測出来たであろう。


「わたし、本当に信じちゃったんですから!次からそういうのは禁止です!禁止!」


「はい……すみません」


俺が注意を促した時はそれほどどころか、全くと言っていいほどに、反省の色を見せなかったというのに、彼女に注意喚起を受けた途端に気を弱くし、まるで母親に叱られる息子を彷彿とさせる光景を目にしているようだ。

俺の時との反応があまりにも違い過ぎて、その差はなんなんだと不思議に思う。

そうして彼女は何を思ったのか、城崎先生を指差して、あることを提案する……いや、命令したの方が適切か。


「罰として、城崎先生には…………をしてもらいます」


「えっ〜、それ本気で言ってるのぉ?」


「ええ、本気ですとも。わたしを騙した城崎先生に拒否権はありませんから!」


敢えて俺に聞こえないようにしたのか、彼女は城崎先生の横で前屈みになり、何やら耳打ちをしていた。

それを耳にした城崎先生というと、今までで見た事のないような、眉根を寄せ、不快感を示すような表情を浮かべていた。

城崎先生にあんな顔をさせるとは、彼女は一体何を命令したのか。

若干の恐怖心を感じた俺はぶるぶると身体を震わせた。


「ほら、先生」


「わ……わかったわよ。先に言っておくけど、日影くん。ぜっっったいに笑わないでよね。仮に笑ったもんなら、あなたの腹に一発パンチを喰らわせるから」


何を伝達されたのかは知らないが、何もかもを知らされていない俺に笑うなとか笑ったら腹に一発パンチを喰らわせるとかこの場合の一番の被害者は間違いなく俺なのでは。


「いやまぁ、よく分かりませんがなるべく笑わないように精進します」


「ん"ん"。……よし。それでは……」


城崎先生は『何か』をするため、喉を複数回鳴らし、少し頬を紅潮とさせながら「……ごほん」とわざとらしく咳払いをした。

そうして遂に意を決したのか、それとも開き直ったのか、城崎先生は徐々に表情を作り上げながらーー。


「日影くん、芹奈さん。ゆ る し て ね !て へ ぺ ろ っ」


「…………」


「…………」


そうしてこの時、俺はとある推測への決定的な証拠を手に入れた。


やはり彼女はーー腹黒ドSキャラだということ。


年齢とは不相応な謝罪の仕方に笑いが込み上げてくるどころか、予想外の展開に思わず呆気に取られてしまった。

後頭部に手を回しながらウインクし、舌を出しながら、いわゆるてへぺろポーズを何の躊躇いなく披露してみせる城崎先生。

彼女に命令されたとはいえ、そこまで躊躇いなく出来るというのは、どこかで羞恥心という感性を捨ててきたのかと疑いたくなる。

だけどなぜだろう。

年齢不相応な仕草だというはずなのに、これといった違和感を感じさせず、むしろ城崎先生の外見と合致しているというか。

城崎先生は恐らく、無意識に自分自身の童顔な容姿と小柄な体格を活かして、若返り効果を得ているんだ。

だから、何の違和感を感じさせないんだ。

黒いタイツを穿き、白い白衣を纏い、コーヒーを片手に啜っているその姿の今でこそ、多少の大人びた外見を作り上げることが出来ているものの、それでもなお年齢とその外見は一致しない。

随分と若く見えるその容姿を利用し、高校の制服を着用してしまえば、疑いの余地など与える暇もなく、大半の人間を騙すことだって可能だろう。

実際問題。俺が初めてこの保健室に訪れた時でさえも、『高校生が教員!?』と内心かなり驚愕していたからな。

その童顔で小柄な、いかにも幼い以外の何者でもない容姿をコンプレックスとして抱えているかもしれないと、その時は敢えて口にして驚きを露わにすることはなかったが。


「…………」


「ちょっ!もう、流石にその沈黙はキツイってー!何か喋ってよ!」


「いや、だって。喋っても何も、いきなりそんなことされたら、誰だってこうなりますって。なぁ、神崎」


そう言いながら、再び丸いスツールに腰を下ろした彼女に目を向けると、探偵かの如く顎に指を添えながら、目の前に座っている城崎先生をじっと見つめていた。


「神崎……?どうかしたのか?」


「ん、いやね。あくまでも罰ゲームとしてやらせたつもりなんだけど、案外何も変な感じはしなくて。これって、失敗……なのかな?」


「しっ……失敗じゃないわよ!私、これでも凄く恥ずかしかったんだから!もう、二度とやらないからっ」


城崎先生は拗ねた子供のように口を尖らせ、ぷいっと顔を背けた。

確かに、てへぺろと実行する前は多少の紅潮はしてみせていたものの、いざその時が訪れたら、恥ずかしさどころか、むしろ誇らしげな表情で披露してみせていたような気がするのだけれど。

手の位置も声音も舌を出すタイミングもそしてその時の雰囲気も、全てが全て自信に満ち溢れており、存外楽しんでいたのではとさえ思えてしまう。


「でもあれですね」


「な……なによ。あれって……」


「いや、なんか。城崎先生にも可愛らしい一面があるんだなと」


「かっ、か……かかかかわいい……!?へぇ〜、そう可愛いねぇ〜。ふぅ〜ん」


腕を組みながら、視線を下へ落としつつもチラチラと俺の方を一瞥する仕草を繰り返す城崎先生。

先程のてへぺろポーズの時よりも、遥かに頬を紅く紅潮とさせていた。

俺は何か城崎先生をそんな表情にさせるような発言をしただろうか。

確かに『可愛らしい』とは言ったが、それはあくまでも率直な感想というか、なんと言うか。

とりあえず、その発言に他意など一切含まれていないのだが。

どうやら想定以上に城崎先生を混乱させてしまったようで。


「もしかして日影くん。私の事、口説いてたりする?」


「口説く?俺がですか?城崎先生にそんなのした事ありませんけど」


「でっ、でも。今可愛いって……言ってた……じゃんかよ……。それは、口説いてるのと何が違うというのよっ……」


城崎先生はツンデレ気質を備えているのか、普段とは異なる尖った口調で俺の事を睨みつけるように一瞥を繰り返す。

たかが、『可愛い』といっただけで口説いていると勘違いされてはたまったもんじゃない。

俺は保健室の先生を口説くほど、恋愛関連を拗らせているわけでもないし、ましてやあの城崎先生を好きになることなんて百%と言い切っていいほどにありえない。

童顔で小柄な外見は俺の好みとは該当しない。

まぁといっても自分自身、俺に限って異性の好みなんてもの存在するのかどうかも知らないけれど。


「先生ってもしかして、うぶ……ですか?恋愛とかしたことなさそうですもんね」


「うっ、うるさいわね!私だって、恋愛くらいした事あるわよ」


「ほう。最近だといつですか?」


分かりやすく皮肉を込めてそう問うと、城崎先生は眉尻を吊り上げて唇を尖らせ、俺から視線を背けながら、ボソリと何やら呟く。


「それは…………とき、とか」


「えっ?なんて。なんの時ですか?」


「だっ……だからっ!…………小学生の……時っ!」


「いやいや。小学生の時が最近って……それ何年前の話ですか」


「仕方がないでしょ。中学生時代は青春よりも勉強に熱中してたんだし。高校に入学しても、女子校だから男の人はいなかったんだから」


「だからって、小学生で恋を終了させてるって……」


まさか、小学生の頃が最後の恋愛だなんて思ってもいなかったもんで、見事に予想を覆された。

童顔な容姿とはいえ、男子の気を引く魅力は充分に備えられている。

その上、頭脳明晰ときては定期考査前に勉強会を催すなどとして、男女関係の交流も深く、自慢できるような青春群像劇の話の一つや二つ持ち合わせているものだと思っていた。

たとえそうではなくとも、中学生時代には恋慕していた相手くらいいると予想を踏んでいたのだが。

小学生が最後となると、それでは本気で恋をしたことなんてないと言ってもいいのでは。


「そういう日影くんはどうなのよ!私にここまで言うくらいなんだし、それはもう素晴らしい誇れるような恋愛をしているのでしょねぇ」


「いやぁ……それは…………って俺のことは今はどうでもいいでしょ」


「どうでもくないわ!ほら、日影くん白状しなさーー」


そんな論争を繰り広げている最中、ふとひょこりとさりげなく挙手する彼女の姿が視界の隅に現れた。


「あのぉ……わたしは蚊帳の外ですかぁ……?全く話についていけないんですが」


「あっ、あぁ悪い。つい、盛り上がっちまって」


「ごめんねぇー、芹奈さん」


城崎先生との談話に熱中しすぎたあまり、彼女のことを忘れていただなんて、何がなんでも口にしてはならない。

言葉にしてしまえば、彼女に何をされるか分かったもんじゃないからな。


「って、もうこんな時間。先生、俺はもう帰ります」


ふと、机に置かれているデジタル時計に目を向けると五時四十分と表示されていた。

知らぬ間のうちに割と長時間、談笑に興じていたようだ。


「それなら、わたしも帰ります」


「あらそう。まだまだ、話したいと思っていたのだけど、時間も時間だしまた今度にしましょうか」


保健室を談笑室として扱うのはどうかと思うが、城崎先生の提案に異論がないのもまた事実。

怪我を負いやすい体質の俺は以前から頻繁にこの保健室に訪れ、城崎先生と言葉を交え、時間を過ごすということは多々あったが、今回のようにこうしてわいわいと笑い声ありの盛り上がりをしてみせたのは今日が初めてだった。

こうして、時間があっという間に過ぎ去ってしまうほど、誰かと心を通わせる事が出来たのだって、一体いつ以来だろうか。

まさにーー光陰矢の如しだな。


「あっ!そうだ。すっかり忘れてたが、俺プール掃除をしてる途中だったわ」


「あぁそれなら、私から何とか言っておくわよ」


「そうしてもらえると助かります。城崎先生にまで迷惑をかけてすみません」


「そんなこといいのよ。そもそも、日影くん一人に掃除を押し付けるのが悪いんだし」


城崎先生の紳士な対応に改めて情の深さを認識させられる。

校内である意味問題児として忌み嫌われている俺に対しても、こうして分け隔てなく一切の偏見も持たずに接してくれるのは城崎先生、ただ一人だけ。

いや……今では二人か。

そういえば以前に一度だけ、城崎先生が本気で校内で流出している俺への流言飛言を解決すべく行動に移そうとした事があったなと、ふと記憶が蘇る。

あの時も彼女と同様に、俺のせいで城崎先生の株が下がったり、事実無根な噂を流れたり、たった一人の大切な人を傷つけられたら、矛先が向いてしまったらどうしよう、なんて考えたら無性に怖くなって、「そんなことしなくて大丈夫です。俺は全く気にしてませんから」と強がって必死に平静を取り繕ったのを今でも覚えている。

あの時もそうだった。俺のために、俺だけのために、こうして必死に解決策を練って行動に移そうとまでして、どんな状況に陥ったとしても、味方につくことをやめなかったのは城崎先生だけだった。

それだけではない。

俺が勝手に捨て猫を保護した時だって城崎先生は二つ返事で力を貸してくれた。

様々な場面で俺は城崎先生に救われている。そして今回も。

だからこそ俺は今のこうして城崎先生に言葉を紡ぐんだ。


「城崎先生。いつも、ありがとうございます」


素直に感謝を述べる姿がそんなにも珍しかったのか、城崎先生は少し驚いたような嬉しさを隠し切れていないような、そんななんとも言えない笑みで、少し気恥しそうに。


「なによそれ。日影くんに感謝をされるようなことは何一つしてないわ。一方的に私があなたにしてあげたいと思っている、ただそれだけのことよ」


「仮にそうだとしても、俺を支えてくれているのは事実ですよ」


これまで、城崎先生に助けられた回数なんて底知れず。きっと、両手では収まりきれないだろう。

それでも、たとえ回数が底知れず多くても俺は城崎先生に手を差し伸べてもらった一つ一つの出来事を忘れたことなど一日たりともない。


「俺、城崎先生の相手に責任を負わせないその優しい性格、割と好きですよ」


「すっ、すき……って。やっぱりあなた、私の事口説いてるでしょ?可愛い発言だけじゃ飽き足らず、好きという完全告白までしたんだもん。これは何がなんでも言い逃れは出来ないわよ」


「だから、口説いてませんて。ただ、以前から抱えていた城崎先生への思いを打ち明けただけです」


「いや、だからそれをーー」


「あのぉ……お二人さーん。わたしも仲間に入れてくださいよぉ〜」


会話を遮るかのようになよなよとした声音で言葉を挟んできた彼女。


「あぁ、またしてと悪いな。それじゃあ、城崎先生。今度こそ帰ります」


「先生。長居してすみませんでした」


「全然大丈夫よ。そこにいる誰かさんみたいに、頻繁に保健室に来る人なんていないから」


誰かさんって……。

『誰かさん』と皮肉の込められた名前の伏せ方をしているが、バッチリと俺に向けて指を差してしまっている時点で名を伏せている行為は全くの無意味と言っていいだろう。

まぁでも確かに。俺みたいに頻繁に怪我を負うような貧弱な生徒もそういないだろうし、漫画やアニメのような、保険室の先生に恋に落ちてしまったが故にわざと怪我を負って会話を試みようとする生徒も当然としていない。


「それにちょうど暇を持て余していたから、話し相手になってくれて、助かったわ。ありがとうね」


「それはこちらのセリフですよ。また、千秋くんを連れて来ます」


「楽しみにしてるわ」


そうして彼女は城崎先生に向けて手を振りながら、俺たちは長時間滞在した保健室を後にした。

後半に関しては、俺の存在を忘れているどころか、俺自体を見えていないほどに、城崎先生と彼女の二人だけで談笑に興じていた。

思いのほか意気投合したのか、大して言葉を交えていないにも拘わらず、短時間でいとも容易く仲睦まじい関係へと発展させていた。

それに城崎先生も男子生徒の俺と会話をする時とは違って、言葉遣いや雰囲気などが一段と大人びているような印象を受けた。

もしかしたらこれが言わゆる『女子会』というものなのかもしれない。

その、女子会に立ち寄っていた男子の俺は割と貴重な体験をしたのではと、意味不明な誰に対しても取れたもんではないマウントを手に入れた。



保健室を後にし、下駄箱へ直行した俺は彼女からの「途中まで一緒に帰ろ」という申し出を二つ返事で了承する。

特段断る理由も見当たらないので帰路を共にしていた。

そして、校門を抜け数分が経過した頃、隣を歩いている彼女がそっと口を開いた。


「偏見かもしれないけど。千秋くん、そんな見た目でもちゃんと城崎先生には敬語なんだね」


「あぁ、まあな。昔はタメ語で話してたんだけど、城崎先生が「私は先生だから、歳上なんだから、敬語を使いさない!」って、怒られて。それから、敬語を使うようにした」


「城崎先生の言葉を素直に聞くそういうところ、やっぱり千秋くんは変な人じゃないよ」


「まぁ、そりゃあ当然な」


でもたとえ、変な人の類に該当しないにしろ、周囲に恐怖心を与えるような外見や雰囲気を漂わせているのは間違いないが。

だが何度も言うが、別に誰かを怯えさせようとかヤンキーを目指しているわけでもなければ、人の上に立って支配したいといった悪趣味な企みを巡らせているわけでもない。

ただ単に生まれつき目つきが鋭く。

美容院に行くのが億劫だからと目が隠れるほどに伸びきった前髪。

そんな外見が助長してか、ただでさえ根暗な雰囲気が更に効力を増してしまっている。

その上無口で無愛想ときたら、誰だって俺への印象を改めるのは当然の本能なんだ。

ほら、これで『死神』という名の男子高校生の完成だ。

だけどそれでも、どこにでもいるような至って普通な凡人のただの男子高校生なんだけど。

この外見をどうにかしない限り、校内での俺への印象や噂が絶えることは、まずないだろう。


「千秋くん。わたしはこっちだから」


ちょうど分かれ道に差し掛かった頃、彼女がピタリと歩みを止め、こちらに視線を向けた。


「あぁ、そうか。なら、ここまでだな」


「うん、今日は楽しかったよ。また明日ね」


「…………あっ、あぁ」


また明日……か。

いくら彼女とはいえ、所詮人間なんだ。人間以上の何者でもないんだ。

人間はいつなんどきでも、些細な事が心が揺さぶり、たとえ誰かに強く誓っていたとしても、信念というものはいとも容易く崩れてしまう。それほどまでに、良くも悪くも人間という生物は脆く壊れやすい。

長年とか短期間とか数日とかそんなこと関係ない。

だから、彼女が明日も明後日も明明後日もその次の日も俺と『友達』でいてくれる、話し掛けてくれる、干渉し続けてくれる。そんな保証なんてどこにもないんだ。

数年前のあの時のようにーーーしまうことだって充分に有り得てしまう。

だからこそ俺は、彼女の『また明日』という言葉に対して、『また明日』とそう返答することを躊躇ってしまった。


「……それじゃあな」


軽く手を振ってくる彼女に対して、俺が振り返すことはなく、スタスタとやや早い足取りでその先へと歩みを進める。

先程まで前を向き続けていた視線を下に落とし、『あぁ、今日が終わるんだ』そんな儚げな思いを心に抱いていた、そんな時ーー。


「……ち あ き くーーーんっ!!」


そんな他人の目を一切として気にせず、自由奔放に声を張上げる彼女の音色は。

灰色に彩られたモノクロの世界を。

虹色のパレットで色付けられたような。

ただ一点に。ここに存在する俺だけに。差し込まれた光は、以前見ていた世界とは似ても似つかない、現実なのかと疑ってしまうほどに、光り輝いていた。

無邪気に屈託なく笑う彼女の姿を見て、俺もまた。


「ふんっ……なんだよあいつ。ここで大声なんか出したら目立つっつーの……」


口角の端が緩み、自然と笑みが零れてしまう。

それでもまぁ……そうだな。

彼女の声はなぜだか俺の心を明るく照らした。

いや……。きっとそれだけではないのだろう。

俺が気がつけていないだけで、これまでもこの先も彼女という存在はーーー。


「なんだよ、神崎!」


「一つだけ言い忘れてたことがあったのっー!」


たかが数mほどの距離しかないのだか、会話をしやすいようにと再び歩み寄ればいいものの、互いに断固としてその行為をすることはない。

声を張上げなくとも耳に届くであろう距離なのにも拘わらず、場違いな声量で発言するのは彼女にしか知り得ない、彼女なりの理由があるのだろう。

それを感じ取れた俺は仕方がなく、彼女の意思を尊重し、このまま続行することにした。

何を言うのかまとまったのか、彼女は勢いよく息を吸い上げた後、メガホンの如く口元に手を添え、言葉を紡ぐ。


「わたしー!千秋くんと、もっともっと、もぉーーっと、仲良くなりたいの!だから、明日だけじゃなくて、その先もずっとずっとずぅーーっと、仲良くしてくださーいっ!」


その全てを言い終えた彼女は、全力疾走をした直後なのかと錯覚してしまうほどに、「ぜーはぁ……ぜーはぁ……」と荒々しい呼吸を繰り返していた。

彼女が口にした言葉は予想を覆すようなものだった。

何やら重大な事を伝えるのかと思っていたから。

お前も俺と同じことを思っていてくれたんだなと、なぜだか心が軽く、気持ちが晴れ晴れと明るくなる。

『この先もずっと仲良くしてください』だなんて事を伝えたいのはーー。


「言われなくったって、そのつもりだ!お前が飽きるまで友達でいてやるよ!」


「千秋くんならそう言ってくれると思ったっー!でも、少し上から目線なのはムカつくー!」


「そっ……そこは。寛大な心を持ち合わせているお前なんだから、大目に見てくれ!」


そんな、どうでもいいような、でも俺にとってはとても特別に感じるような。

別れ際の時、俺が求めていた言葉はそれだったのではないかと、憂愁漂う心持ちが晴れたような。彼女の言葉が俺を救ってくれたような。

何一つとして明確な情報など得られなかったが、それでもいつかはその全てに確証が得られるような日が訪れればいいなと、そんな淡い期待を抱いた。


「それだけっー!また明日ね、千秋くん!」


「あぁ……また明日!」


別れの言葉を告げ終えると、彼女はスタスタと軽やかな足取りで駆けて行き、後ろを振り向きながら大きく手を振っていた。

その調子で前へ進んでいては、いつか電柱と衝突するのではと多少の胸騒ぎを覚えたが、そんな天真爛漫以外の何者でもない彼女を真似して、俺もまた軽くだが手を振り返した。

そうして俺も再び帰路へと歩みを進める。



恐らく彼女は俺に対して漠然とした違和感を感じて、再び声をかけ直したのだろう。

そんな心持ちが悪い俺を元気付けようとしたのか、お人好しの性格故の放っておけない本能が働いたのか。それともそれ以外の理由が存在するのか。

今の俺には到底知り得ない心理と行動だが。

それでも、たとえ理由が何であれ。

彼女がーー神崎芹奈が、俺の世界を大きく変化させてくれたこの事実は、決して間違いではなかった。

そして恐らく。神崎芹奈という存在はこの先幾度となく、俺の価値観や世界。日影千秋という一人の人間の存在さえも計り知れない変化を生み出してみせるのだろう。


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