5.酒と背中と減らず口 その2
【前回の記憶】
「ほら、酔っ払いの口ほど滑りやすいものはありませんから。マグリスさんはどんなお話をしてくれるのかなあと思って」
「……あの、マグリスさん?」
「酔ってねえ」
「いや、まだ何も言ってませんけど」
「酔ってねえっつってんだろ」
「だから何も言ってませんって」
酒を飲み始めてから数十分。ヒロキは大変困惑した表情を浮かべていた。今マグリスと一緒に飲んでいる酒は、最早酒とは呼べないくらいほとんど水の味しかしない。体感的には、ほぼノンアルコールみたいなものである。ほろ酔いのレベルにすら到達していない。アルコール度数が低いことにはマグリスも気づいたようだったが、念願の酒にありつけたからか、文句を言いながらもそれをがぶがぶと飲み進め、一時間も経たないうちにテーブルに突っ伏してしまった。
「……兄ちゃん、もう一杯」
「もう一杯って……まだグラスに残ってるじゃないですか」
「俺は酔ってねえ」
「だから自分は何も……はあ、もういいですよ。酔っ払いはみんなそう言うんです」
遠目に様子を眺めていたラッドとマルガは、噂ほどマグリスが凶暴にならない様子に密かに安堵した。おそらく、いつもより酒がうんと弱いせいだろう。
ほっと息をつく二人に対し、ヒロキはやや面倒臭そうな顔をしていた。この店の客に他人の世話をしてやるような甲斐甲斐しい奴はいないと知っているので、このまま酔いつぶれられて自分にそのお役がまわって来ても困ると思ったのである。
「酔っ払いのマグリスさん」
「誰が酔っ払いだ」
「ああ、ちゃんと聞こえてるみたいで良かった。さっきから酒飲んでばっかでろくに話もしてないですけど、なんでそんなに飲むんです? 酒好きなんですか?」
「…………」
不意にマグリスが黙り込むと、好奇心をそそられた客たちが少しずつ会話を止めて耳を傾け始めた。ヒロキはいよいよ寝始めたのかと思ってマグリスの様子を見たが、何か思い悩んでいるような感じだった。
酒がまわると頭はまわらなくなる。それでも口はまわってしまうのだから仕方がない。マグリスは焦点のあっていないぼんやりとした目のまま、口を開いた。
「……親父、みたいに」
「『親父』? えーっと、騎士団の副団長とか言ってた人ですか?」
「俺は、ああいう男になりてえんだ」
マグリスの言葉に、客たちは皆知った顔を浮かべているようだったが、ヒロキにはさっぱりだった。ヒロキは元々この世界の人間ではないから、馴染みの顔はさして多くないのである。そんなヒロキの心境を察したか否か、マグリスはだらしない姿勢で中途半端にグラスに手をかけながら言葉を紡ぎ出した。
「親父は、騎士団の副団長として、この街を守ってる。親父は強い。だがな、俺が惚れてんのは、何もそこだけじゃねえ」
「と、言いますと」
「親父の周りには、いつも人がいるんだ。俺は、あの人が飲みの場で一人きりになったのを、見たことがねえ。眠って放っておかれることも、悪酔いして避けられることもねえんだ。そんで、俺が『すげえすげえ』って、傍で喚いてるとな、必ず誰かが親父を心配してやって来る。そういう時、親父はいつもこう返すのさ。『男ならこんなんじゃ酔わねえよ』ってな」
「……つまり、酔ったら男じゃないと?」
そんな理不尽な話があるのかと、ヒロキは眉間に皺を寄せた。ヒロキの呟きはマグリスの耳には届いていないようで、伏目がちに話し続ける。
「それに親父は、酒場で母さんを口説いたんだって、いつも自慢げに話すのさ。つまり、酒に酔わされるような弱い男じゃ、人には恵まれねえってことだろ」
一呼吸おいて、深い息と共に吐き出された言葉が、くぐもった店内の空気に舞う。
「……だから、俺は酔ってるなんて、絶対に認めねえ」