30.夢に溺れて何度でも その3
【前回の記憶】
「最初から最後まで変人です」
「……お嬢」
ドアベルの音に続いて、そんな声が耳に届く。ローナは少しだけ酔いがまわり始めているのか、頬を緩ませながら振り返った。帰ってきた従者の手元に抱えられているものを見て、客たちは口にしかけていた言葉を萎びさせ、徐々に珍妙な雰囲気へと移り変わり始める。
「さあ、どうぞ」
ローナの掛け声に応じるように、従者はボトルをヒロキの目の前へ丁寧に置いた。少しだけ中身が減っていることから、それがローナの体験談にあった幻の酒だと察するのは難くなかった。
「どうも」
ヒロキはそんなあっさりした言葉だけ返すと、待ってましたと言わんばかりにボトルに手を付けた。一度開封されているため、どこか鈍い音が鳴る。ヒロキは安酒を扱うのとほとんど変わらない様子で、ちょうど空にしておいた手元のグラスにゆっくりと液体を注いだ。「まじもんなのか……?」「あいつは幻の意味を理解してるのかね」「せっかくなんだからグラスくらいかえろよ」といった観衆の声は届いていないようだった。
ヒロキはまるで水槽を覗き込むみたいに、グラスの中をじっと見つめた。雲のような白さの中に、星のような金色の火花が弾けている。ヒロキは初めてどこか幻想的ともいえるこの世界を目にした日のことを思い出しながら、これが幻、と他人事に思った。
「…………へっくしゅっ」
突然この空気に似つかない音が響いたので、思わず客たちは皆振り返ってしまった。その目線の先には、うとうとと目を擦るラッドがいる。「なんだよ、驚かすんじゃねえよ」「今大事なところなんだぞ」「あったかくして寝ろよ、風邪ひくぞ」と口々に気の抜けた反応を示しながら、元々見ていた場所へ目を戻す。
「「「あ!?!?」」」
のどぼとけが数回上下するのを確認した客が反射的に叫んだ。ヒロキはへらへらしながら「え?」ととぼけている。
「おい、ちょっ、飲んだのか!?」
「はい、飲みましたね」
「なーにが『はい、飲みましたね』だよ! 飲むときゃ飲むって合図しろよ!!」
「だってこれ、自分の酒じゃないですか。いつ飲もうが自分の勝手でしょう?」
「そ……、っれはそうだけどよ! 下手すりゃ俺たちゃ人死にを見させられるかもしれねえんだぞ!? 心の準備くらいさせてくれって……」
「ははは、すみません」
ヒロキの身体を揺する者、息を荒くしながら胸をおさえる者、それを肴に酒を飲み続けている者。三者三様の態度に笑い呆れながら、ある客がヒロキに尋ねた。
「……それで、そいつはいったいどんな味なんだ?」
ヒロキは顎に手を当て、背中を揺らしながらしばらく考え込むそぶりをした。あまりにいつも通りすぎるヒロキに、あれが死を覚悟した人なのか、と一部の客は感心したように息を吐き出す。すると、ヒロキは珍しく歯切れの悪い感じで客の質問に答えた。
「…………美味しい酒ですね、普通に」
「『美味しい』って? どんな風に?」
「『美味しい』は『美味しい』ですよ。……何というか、うまく言えないんですけど」
「おいおい、さっきから『美味しい』しか言ってねえじゃねえか」
「いや、でも、美味しいんですよ。本当に」
思い出すのは、見慣れたパッケージと、あの夜の冷たさと、懐かしい笑い声。随分と知っている味のはずなのに、どういうわけか今日に限って不思議な感情が胸に押し寄せてくる。この味をもっと具象的に表す言葉はきっと探せばどこかにあるのだろうが、それはどうも野暮な気がしてならなかった。
「なんかもっと……他に感想はねーのかよ」
「『なんかもっと』ってちょっと雑すぎません?」
「でもよお、せっかく幻の酒を飲んだやつが目の前にいるってのに、手に入れた情報が『美味しい』だけってのはよお……」
「そう言われましても……」
ヒロキはゆっくりと椅子の背中にもたれかかり、白く濁った酒を天井の照明に透かしてまじまじ眺める。グラスの中身は既に半分ほどに減っていた。
「あー、これが幻かー、って感じです」
「…………ほんとわっかんねえなあ!?」
なんだか芸人みたいなツッコミが飛んできて、ヒロキが思わずふはと笑い声を洩らした。それでヒロキが珍しく浮かれ気分でいることを察した常連たちは、心配するだけ無駄だった、と平穏を取り戻し始める。
「おいヒロキ、仕事放棄してんじゃねえぞー」
「そうだそうだ! 喋るのがお前の仕事だろ?」
「働かねえんだったら異世界人詐欺で訴えるかんなー」
客たちの抗議に「急に辛辣ですね」と笑いながら、ヒロキはまたぐびと酒を煽った。手元のグラスの中身はもうじき尽きそうだが、ボトルの中にはまだ数杯分の酒が残っている。
「じゃあ今日が最後かもしれないんで、ちゃんと喋りますよっと」
「おいおい、縁起でもないこと言うなって」
「そっちが先に言ったんでしょう? あ、正直自分一人で飲み切れる気がしないんで、飲みたい人いたらご自由にどうぞー」
「誰が飲むか、変人」
「奥さんが家で待ってるんで遠慮しときます」
「やーい独り身」
「やーい居候」
「やーい異世界人」
「うわあただの悪口」
傷一つ負ってなさそうな声色でそう返されて、店内はまたわっと湧いた。一晩中、熱に浮かされるがままに言葉を発し、馬鹿みたいに騒いだ。居酒屋から漏れ出るあたたかい光に気づいた人が、通りで時々笑っていた。
夜明けがそう遠くなくなってきた頃、ヒロキは自分の意志に反して瞼が徐々に落ちて来るのを感じた。ヒロキが人前で眠気を見せるのは初めてだったので、一部の客は不安げな表情を浮かべたり、涙ぐんだりした。しかし、当の本人に「皆さん酔っぱらってる自覚あります?」と言われてしまえば、辛気臭い空気はすぐに引っ込んでいった。
その後もじんわりと広がる不思議な感覚に身を委ねながら、ヒロキはちまちまと飲み進めた。そしてグラスに注がれていた酒を飲み切ると、ゆっくりとテーブルに突っ伏した。特に苦しそうな様子もなく、本当に眠っているようだった。店内にいた者は皆異変に気がついていたが、わざわざヒロキに話しかけようとはせず、各々が酒を楽しんでいる。最後の言葉など、誰も覚えてはいないだろう。それで満足だった。熱気でやや曇った天井付近の景色、グラスがかち合う音、肩にかかる酔っ払った誰かの片腕。目をつむっていてもありありと想像できたことが面白くて、ヒロキは密かに口角を上げた。そしてまもなく、くぐもった喧騒に包まれながら、ヒロキの意識は深く沈んでいった。
辺りが静かすぎるような気がして目を覚ますと、一帯に夜闇が広がっていた。それからちょうど街燈がぱちぱちと明滅して、光が目に刺さる。それでも明るさに慣れようと目を細めながら僅かに熱を帯びた額を擦って、ヒロキはようやく自分の失態を思い出した。
「あー、頭痛…………」
身を捩るとコンクリートと服の間で砂粒が擦れてじゃり、と音を立てた。別に何が嫌なわけではなかったが、なんとなく噛み合わないような気がしたので、立ち上がって砂ぼこりを手で払った。思いがけず道端で休んだからか、足取りは案外しっかりとしており、これなら無事家まで徒歩で帰れそうである。とはいえ、随分久しぶりに酒のせいで怪我をしたからか、ほんの少しだけ反省しなくもなかった。
「…………しばらくは宅飲みだな」
そんな言葉を吐き出すと、自然と瞼の裏に思い出が描き出されていく。可愛らしい色でデザインされた安っぽい缶と、身に染みる夜風と、自分より少し高くて真直ぐな声。それから、少しにぎやかすぎるくらいのあの店での記憶。
夜は長い。宴は続く。されど、いつかは日をのぞむ。
ヒロキは一つ深呼吸をして、再び帰路を歩み出した。
これは、異世界の居酒屋でラジオ番組を運営した……かもしれない、とある男性のお話。
【気紛れアルコールギャラリー⑨ ミルキー・ソーム(milky some)】
幻の酒と呼ばれている。言い表せないほど美味だが、口にすると数時間のうちに死んでしまう。白く濁った色をしており、金の泡がはじけているのが特徴(炭酸は感じない)。製造過程において三種の精霊の涙が混じっているため、飲む人によって味や香りが変わる。酒自体のアルコール度数の高さは不明である(そもそも本当に酒なのかすらわかっていない)が、アルコールの感じ方も人によって変わる。ちなみに、幻という称号はその致死性と製造の難しさによって与えられたもので、作る方法は一応存在する。とある文献に残された「飲んだ者の死に顔は母に抱かれて眠る赤ん坊のように安らかであった」という記録から、「未知なる母」とも呼ばれる。酒言葉は「あなたを忘れない」。




