20.つゆのあと その1
【前回の記憶】
「売って、くれないか」
通りにある店の多くに暗闇が広がり、月は頂きを越えて地平線の向こう側へ帰り始める。光と共に漏れ出している陽気な声も、まもなく何事もなかったかのように日常へと消え去っていくことだろう。
エンコントも例にもれず、いよいよ本日の営業時間を終えようとしていた。休日でないため客足がいつもより少なくて裁きやすいとはいえ、ラッドは忙しなくあちこちのテーブルを回り、片付けやら客の介抱やらに追われていた。
「あんたたち、そろそろ店じまいだよ」
一方で、今日はあまり店内で顔を見かけなかったマルガが、店の奥から出てきてヒロキのテーブルに声をかける。ヒロキは「あ、マルガさん」とややぼんやりした声で返事した。マルガは見慣れたとはいえ、どうやら今日もそれなりに飲んだらしいな、とあきれ顔をしている。同時に、以前ヒロキが既に酒に溺れている件については既に手遅れだとかなんとか言っていたが、あれは多分事実に違いないのだろうな、と妙な確信を得た。
マルガは諦めたように息をつくと、隣家から預かっている赤ん坊を背負い直し、ヒロキのテーブルの空き瓶を回収し始めた。マルガが動くのと一緒に、赤ん坊の輝かしいオレンジ色の髪がさらさらと揺れ動く。すると、それをぼーっと眺めていたヒロキが独り言のように言った。
「片付けが好きな人がいて助かります」
「…………誰が『片付けが好き』だって?」
ヒロキの声を確かに拾い上げてしまったマルガは、即座に顔をしかめて、手元の作業を中断してヒロキにずいと詰め寄った。近くにいた客は背をそらしてそそくさと距離をとる。
「全く、馬鹿言わないでおくれ。私は『片付けが好き』なんじゃない。仕事は仕事だからやっているだけさ」
「ははは、すみません」
「謝るより先に、もっと他に言うことがあるんじゃないかい?」
「いつもありがとうございまーす」
つかみどころのないへらへらとした笑顔で発された言葉に、マルガは「あんたは本当に思ってるのかどうかわからないからやっかいだね……」とまたため息をついた。
「ま、少しでも感謝の気持ちがあるならこの子を見といておくれ」
そう言うと、マルガは自分のつけていたおんぶひもを緩め、「えっ。ちょっと」という戸惑いの言葉は無視して、それをヒロキに付け替えてやった。赤ん坊はヒロキの背中で、緩やかに膨らんだり縮んだりを繰り返している。
「自分、子どもの世話なんてしたことないんですけど」
「心配しなくても、あんたの体はいつも揺れてるんだから、この子にとっちゃいいゆりかごだろうよ。じゃ、私も片付けてくるから、その間は頼んだよ」
最後に「あ、間違っても背もたれで赤ん坊を押しつぶしたりするんじゃないよ」とご丁寧にも指差しつきで忠告をすると、マルガは空き瓶を持ってさっさとその場を離れて行ってしまった。
仕方がないので、ぽやっと部屋の隅でも眺めながら、ヒロキは背中を適当に揺らした。マルガはああ言ったが、背中に重さがあるのないのとでは訳が違う。間違えても傷を作って訴えられたりしないよう、ヒロキは酔いを忘れて背中にいる赤ん坊に注意を払った。赤ん坊はぐっすり眠っているようである。
「……ヒロキって、マルガさんとの距離近いよな」
閉店が近づいているにも関わらず、少し前に酒を持ってヒロキのテーブルに乗り込んで来た客は、徐にそんなことを言った。ヒロキはさっき逃げたくせに、と少し恨みっぽく見つめてみるが、特に気にしている様子はない。隣の客も、ぐったりと机上にうなだれて、行儀の悪い姿勢のまま同意を示す。
「それな。俺も思ってた」
「……そうですか? 自分はこんなもんかと思ってたんですが」
ヒロキがきょとんとして思ったままを口に出すと、客は片手を目の前で何度も振って盛大に否定する。
「いやいやいや! ただの居候とか従業員にしちゃやっぱり馴れ馴れしすぎるって」
「だよなー。これはいつ恋物語が始まってもおかしくねえよ」
「そうそう。マルガさんってまだ独り身だから、狙ってる男もいるんだぜ? なのにヒロキはあんなに親し気だしよ……」
「あれなら実は既に夫婦でした、って言われても信じるわ」
「いや、そういうのはちょっと…………」
客二人が楽しく冗談を言い合っていると、ヒロキが珍しく本当に迷惑そうな顔で話を遮ってきた。
「え、ヒロキ……?」
「珍しいな。こんな馬鹿みたいな話、いつもだったら放っておいてくれるのに」
客二人は目を見合わせてから、またヒロキの方を見てわざとらしく瞬きをした。ヒロキは赤ん坊が泣き出さないように背中を揺らし続けながら、手をもんでいる。見馴れない光景にもしや、と思って唾を飲む。じっと見つめて話の続きを促せば、ヒロキはどこか遠くに目線をそらしながら、なんだかはっきりしない声色で口を開いた。
「まあ、その。恋人というか、彼女というか、愛する人というか……」
そうして一呼吸おいて、ヒロキはいつもより少しだけ小さな声で言った。
「…………傍にいたい相手がいるので」




