最期の友人
「うわぁ、素敵なお家ですねぇ…」
来太は大きな口を開いたまま、目の前の古い建物を見上げた。その大きな木造の家は煙突が聳え立ち、外国の昔話に出て来るような、作曲家や芸術家が住んでいるような可愛らしい風貌だった。緑色に塗られた壁のペンキは所々剥げてはいるものの、重ね塗りの跡が見え何年も大事に使われているのがわかる。
「ありがとうございます。祖母が住んでいたのですが、数年前に亡くなってもう何年も空き家になっていまして……。だいぶ古い建物ですし、そろそろ取り壊す話になっているんですけどね」
来太の横に並び目の前の家を大事そうに眺めるアイカが言った。ブロンド色の長い綺麗な髪は、異国を思い浮かばせるこの家に相応しい。
「取り壊しちゃうんですか?」
「えぇ。父にもこんな古い空家を放置しておくのは危険だと言われましたし、ここは霧も少ない地域だから土地代も悪くないからって。それに、この家を気味が悪いというんです。だから父は早くにこの家を出たみたいですけど……。でもこんな言われ方は少し、悔しくて……」
「なるほど……」
確かに、霧も少ない地域は最近では希少価値とも言われていた。来太が生まれた地域も霧は薄い方ではあったが、この地域は更に薄い。木々の間や青い空がはっきりと見え、澄んだ空気が気持ちいい。マツリダからも距離があるため、多少の不便はあるだろうが慣れてしまえば苦にならない場所だった。
「せめて壊す前にもう一度、昔と同じ部屋をこの目で見ておきたいと思いまして……来太さんにご連絡をさせていただきました」
彼女が言うには、どこの建築業者も取り合ってはくれなかったという。どうせ壊すと決めているのに、綺麗に手入れを施す意味が分からないと、先に手を回した彼女の父親に何を言われたのかは分からないが、兎に角理由をつけて断られたらしい。自分が住むことも考えて修繕を試みたが、彼女の祖母が亡くなったのは約十年程も前。その時から老朽化は見て取れていため、補修するとしてもほとんど建て替えることになると言う。来太の様に古い家でも住み続ける人もいるが、人の住んでいない空き家は非常に脆い。誰かが住み続けていさえすればこの家もまだ息をする時間はあったのだろうが、この家にはもう人を守る力が残っていないようだった。
「本当は壊して欲しくないんです。思い出が沢山あって……。両親が仕事で忙しくしている間、私はここで祖父母と過ごしていました。父の使ってた部屋でよく眠っていたんです。そこにも沢山思い出があって……。それに、祖母は亡くなる直接に『お友達ができた』って言っていました。私はその方にお会いした事はなくて、まだその人に祖母が亡くなった事を知らせる事も出来ていないんです。このまま壊してしまうのはその方と祖母の繋がりも消えてしまう気がして……」
彼女の言葉が詰まりかける。鼻を啜る音が聞こえた。
「来太さんにお願いしている間は父も業者手配はしないと言ってくれました。本当、これは私の我儘で、最後の悪あがきなんです。意味は無いかもしれませんが、出来る限り祖母の友人が訪ねてくれる可能性を増やしたくて……」
「わかりました。俺が出来るところまでお手伝いさせて頂きます!」
来太が背負っていた掃除機を足元に置き、彼女に右手を差し出した。
「ありがとうございます、よろしくお願いします!」
アイカは来太の右手を取り、願うように握りしめた。
来太の作業は早速その日から始まった。アイカに案内され入った家の中は思っていた以上に綺麗だった。普通なら埃の溜まっていそうな部屋の隅も小さな綿埃が少し見えるぐらいで、掃除屋を呼ぶ程ではない。広いリビングに敷かれた大きな絨毯でさえ綺麗だった。
作業日として与えられた時間は一週間。むしろ自分など要らないのではないかと来太は感じ始めていたが、それを悟ったのか小さく笑いながらアイカは口を開いた。
「時々、母と掃除には来ていたので、私たちの手の届く範囲はなんとか……っていう感じなんです」
「ってことは、食器棚の上とか?そういう手の届がないところの掃除を依頼してるって事で……良いんですよね?」
「あ、もちろん私と母の手が届かなかった所はお願いをしたいのですが、問題は二階の部屋で……」
「二階の部屋?」
来太は首を傾げた。ざっと奥の部屋まで見てまわったが、二階建てに見えるデザインの家なのだと思っていた。内側からは上の階に部屋があるようには見えない。それもそのはずで、家の中には階段も梯子もないため、上がりようがないのだ。
「それが……なくなってしまったんです」
「なくなった?鍵付きの隠し梯子で、その鍵がなくなったとかですか?」
アイカは首を振った。
「そうではなくて……。階段は確かにありました。私が祖父母の家に泊まりに来た時に使っていた父の部屋は二階にあります。だから、絶対あったはずなんです!でも、無いんですっ」
「え……?」
アイカの必死になった表情は嘘を言っている様には見えない。じゃあ、あったはずの階段はどこに消えたんだ。こんな老朽化した家で、綺麗に階段だけ抜き取るなんてことは出来るはずがない。来太が困惑していると、アイカはゆっくりと肩を落とした。
「やっぱり、来太さんも信じてくれないですよね……こんな、おかしな話」
「え、あ、いや……確かに不思議でおかしな話ですけど……あり得なくはないなぁって」
「し、信じるんですか?」
「信じるっていうか……この辺一帯って昔魔法使いがいたって噂じゃないですか。この家も古い建物だし、きっと何かあるんですよ」
にこりと笑って来太が答える。アイカは一瞬驚いた顔をしたが、すぐにさっき外で見せた笑顔に戻った。
「ありがとう、優しいですね」
彼女のブロンド色の髪が揺れる。
「あはは、俺、昔の魔法使いについてちょっとだけ詳しい知り合いがいるので……。その辺りから色々情報仕入れてみます」
「はい。お願いします」
来太はアイカから家の鍵を預かった。期間は一週間。それまでに二階へ上がる階段の消えた謎を解明し、二階の部屋を掃除する。当初お願いされた内容とは少し違う気もしたが、確かにこれは住んでいた者でさえ気味の悪い家と思ってしまっても仕方がない。きっと来太がやると言わなければ、アイカはまた別の手を探す他ないのだろう。目の前で困っている彼女を放っておけない来太は何とかしてあげたい一心で請け負い、小さな希望を抱いて帰宅途中、紫苑と乃亜の住む店に足を運んだ。
「へぇ、そんなお家初めて聞きました」
「まぁ、普通はそう……ですよねぇ」
紫苑の返答に来太は溜息を漏らした。アイカと天井を突いたりして見たが、特になんの変化も無かった。彼女は階段は玄関からすぐ見えるところにあったと言ったが、階段が設置されていたであろうスペースそのものが無い。カラクリ屋敷のような仕掛けがあるかと思ったが、見当違いに終わって、結局ここが頼みの綱だった。
「でも、何かの形状を変える魔法……は存在すると思います」
紫苑は手に持っていた煙管の灰を灰皿に捨てると、そのまま煙管から手を離す。ふわりと甘い香りが来太の鼻をくすぐった。
「そうだな。お前のその依頼主が階段があったことを覚えている事実があるなら、魔法をかけて隠したやつがいてもおかしくない。大方誤魔化せるように呪符か何かを使ったんだろ。人間が出入りしているのを知っていたら不自然に消えた、なんてヘマまでしなさそうだからな」
乃亜の考えに紫苑と来太は頷いた。
「確かに、彼女も彼女のお母さんもそこにあったはずの階段がない、ってことに途中から気がついたようです。そこからお母さんはあまり足を踏み入れなくなったようですけど……」
アイカと母親が二人で掃除している際、ふと階段が無いことに突然気が付いたらしい。その突然気が付いたことに酷く困惑したと言っていた。今まで普通にあったものを、何故忘れていたのか。だから気味が悪い……と。
「まぁ、何にせよ何者かの仕業でしょうねぇ。とりあえず、伺ってみましょう。ステビアさんを連れていけば、相手が魔法使いだった場合魔力量的に勝てないと判断されるでしょうし」
「ハァ?店仕舞いには早すぎるだろ」
「そうですよ、一週間も猶予があるんですから。それにステビアさんが素直に応じてくれるとは思いません」
時刻は夕方に差し掛かる手前だ。この時間帯は買い物ついでやおやつ代わりに乃亜が作る鯛焼きを買いに来る客が毎日疎にやってくる。
そして何よりステビアだった。この二人の店に来ることすらままならないのに、別の場所に連れ出すのは来太の中で一番不安要素でもある。
「少し暗くなってきた方が都合が良いです。ステビアさんも、人目さえ気にならなければ大丈夫です。私に策があります。ノアくんはお留守番しててください」
「そりゃステビアの魔力量ならだいたいの魔法使いは尻尾捲って逃げるだろうがな!簡単にいくかっ!話の通じない魔法使いだったらどうするんだっ」
乃亜の強い口調と、同時に思いっきり拳をちゃぶ台に叩きつける音が響いて来太がびくんと反応する。確かに、見るからにして紫苑のこの華奢な身体とステビアの小さな身体は心配だ。ましてや魔法使いが相手かもしれない。来太が逞しい身体付きをしていたところで何の脅威にすらならないのだ。乃亜の言う通りだと感じた来太も不安そうな顔をした。
「大丈夫ですよ。私、これでも過酷な戦闘を潜り抜けた経歴があるんですから」
「そういう問題じゃ」
「ノアくん」
紫苑の眼光が乃亜を突き刺す。何かを言いかけた乃亜がその視線を受けて不本意ながらも口を閉じた。
「……ったく、知らねぇからな」
「ふふふ、我儘ですみません」
紫苑はそう言って立ち上がると来太の腕を引っ張った。
「ほら、ノアくんがまたぐずる前に行きましょう」
「え、あ、はいっ」
慌てて来太は掃除機を背負う。
「愚図ってねぇよ」
「ふふふ。あぁ、ノアくん、我々に何かあった場合はいつもの連絡手段を取りますので」
紫苑が来太の準備が出来たのを見越し、靴を履きながら言った。
「それが使われねぇと良いがな。おい、てめぇ」
「あ、はい」
乃亜は靴を履いている来太の背中を軽く膝で蹴りながら言った。
「こいつに怪我させたらタダじゃおかねぇからな」
語尾を強く言い放ち、最後の方で膝を押し込んだ。
「いっ」
掃除機の部品があたって来太が思わず声を上げた。
「こら、ノアくん」
「うるせぇ、さっさと行け」
やれやれと言った顔で紫苑が来太を支えながら玄関の戸を開けた。
「すみません。彼、私を見張るのが好きなので……。番犬が少し噛み付いたとでも思って頂ければ」
「あはは……大丈夫です」
番犬が噛み付いたらもっと酷いだろうと思いながらも、来太は苦笑いを浮かべ、背中に刺さる強い視線を感じながら玄関の戸を閉めた。
「……なんだ、ここ」
「あぁ、おはようございます、ステビアさん。よく眠れました?」
大きな欠伸をしたステビアは、小さな手でその寝惚け眼を擦った。ぱちくりと瞬きを数回して、なんとかぼやけた視界を正そうとしている。きっと外出だなんだと言うと嫌がるだろうと踏んだ紫苑と来太は、ステビアの部屋に着くなり手土産の菓子を食べさせた。手渡したのは紫苑で、策があると来太に言ったのも紫苑だ。何を入れたのかは来太にも分からないが、直ぐに眠くなる都合の良い薬を盛ったのは見たところ確かだった。
「ごめんなさい、勝手に連れ出して……ちょっと一緒に来て欲しいところがあって」
しゃがんで視線を合わせた上で来太が謝る。ステビアは一瞬固まったが、紫苑の姿を見てムッとした顔を見せた。
「すみません、簡単には着いてきて来れそうになかったので。でも安心してください、貴方の食べた残りのお菓子には何も入ってませんから、帰ったらご褒美にぜひ召し上がってください」
「ご褒美って……オレは何の手伝いをさせられるんだ」
膨れっ面のままステビアは答えた。この場所がどこだかも分からないからなのか、騒ぐごともない。
「理解が早くて有難いですねぇ。それではここからは来太くんにバトンタッチしましょう」
「あ、はい。歩きながら説明しますね、少し遠いので」
来太は道案内をしながら事の経緯をステビアに説明し始めた。舗装された道ではあるものの、コンクリートで作られたその道はガタガタで足元に気をつけていないと躓きそうになる。ステビアは唇を尖らせて膨れたまま来太の後ろを歩いて話を聞いた。
「あっ、あれです」
でこぼこの道を歩いて行くこと数十分。来太が指さした先に、ようやく大きな木造の家が
見えてきた。
「話には聞いていましたが、随分と古風なお家ですねぇ」
「だいぶ前はこんなのばっかりだったろ」
「そうですね、ウーンと前ですけど」
後ろを着いて来る二人の会話を聞きながら来太は苦笑いをする。見た目は自分と近い年齢に見えて数百年も歳上だというのが今だに信じられなかった。家の前に着き、三人はその古い家改めて見上げる。来太からしたら昼間に見にきた時から何ら変わりがない。外から見れば二階建ての一軒家だが、中に入るとその二階へ続く階段が消えた不思議な家だ。
「アイカさんから鍵は借りています。中に入って見ますか?」
来太は隣で二階の窓をじっと見つめる二人に声をかけた。
「ステビアさん」
「あぁ。たぶん、お前と同じ考えだな」
「……ですよねぇ」
窓から視線を動かすことなく二人は会話を進める。
「来太くん、ちなみに依頼主さんは階段はどこにあると?」
「えっと、確か玄関の近くだった気が」
「なら鍵を開けて家から離れろ」
「え?」
「良いから」
ステビアに言われるがまま、来太は鍵を開けて扉から離れる。ステビアの横に来太が戻ったのを確認すると、紫苑は羽織っていた白衣の内ポケットから白い紙を数枚取り出した。
「なんですか、それ」
「あぁ、これはですね。ステビアさんの魔力を込めた呪符です。いざという時の秘密道具なのですが……こちらの力を借りてまずは外に引き摺り出しましょう」
「えっ?引き摺り出すって……何を」
「決まってるだろう。屋根裏に住み着いた魔法使いだ」
「ええっ!やっぱり居たんですかっ」
尽かさず来太は二階の窓を凝視した。暗いせいなのか全く内側の様子は伺えない。そうこうしている間に、紫苑は呪符を目の前の家に向かって投げつけた。
「うわっ!」
投げられた呪符は家に触ることなく、見えない壁のような何かに貼りついた。大きなオレンジ色の火花を散らし、見えない壁を圧迫していく。
「ステビアさん、お願いします」
紫苑の言葉を合図に、ステビアが更にその呪符へ魔力を注ぎ込んだ。するとバチバチという大きな破れる音を鳴らし、見えない壁を空中で呪符が食い破っていく。ガシャンと最後に大きな音が鳴り響き、呪符が同時にはらりと地面へ落ちていった。
「えっ、ええっ?い、今何が」
「結界が崩れた音です。ここからは用心してください」
大きな魔法を目の前で見た来太の心臓はバクバクと煩いほどに鳴っていて、落ち着かせ様にも見た事ない不思議な力に興奮してなかなか治まる気配がない。極め付けに紫苑のその言い方は、敵陣に乗り込むヒーローのセリフさながらだった。
「用心って!やっぱり、危ないんじゃ」
来太の心配をよそに、ステビアは家のドアノブに手をかけてゆっくりと開いた。
「……え、ええええっ!階段が、あるっ!」
少し離れた所に立っていた来太の目にもハッキリと見えた。そこには昼間来た時には無かったはずの階段があったのだ。依頼主のアイカの言っていた通り、玄関に堂々と。家具ですらも昼間と配置がガラリと変わっている。まるで、別の家の扉を開けたかのようだった。
「おい、ライトを出せ」
口をパクパクとさせ、驚いて固まっている来太にステビアが声をかけるが全く耳に入っていない。突如現れた階段と、先ほどから様子が全く見えない二階の窓を交互に見ている。
ステビアは大きな溜息をつき、紫苑にドアを支えるよう言うと、来太のもとへ駆け寄った。
「おい、ボケッとするな。お前の依頼なんだろ」
「あっ、はいっ!」
慌ててつなぎのポケットからライトを取り出し、家の中を照らした。日も暮れ、外が暗くなると住人のいないこの家に禍々しさが漂っていた。ステビアが来太からライトを引ったくると、靴を脱がずにそのまま家の階段を上り始める。
「え、ちょっと、ステビアさん!靴っ」
「まぁまぁ。後でお掃除お手伝いしますから」
来太を嗜めた紫苑もステビアに続いて土足のまま階段を上り始めた。
「えぇ……っ、まぁ……お手伝いしてくれるなら、良いですけどっ」
ステビアと紫苑がどんどん上がっていくため、来太も慌ててその後ろをついていく。軋む音が響くと共に、玄関のドアがバタンと勢いよく閉める音がした。その音に振り向いたのは来太だけで、ステビアも紫苑も涼しい顔をしている。
「なんていうか、セオリーですねぇ」
「呑気な反応ですね……。普通はここ、もっと驚く所ですよ」
来太の飽きれ口調は気に留めず、ステビアは二階に上がってすぐの部屋の扉を躊躇なく開いた。その部屋には分厚い本が並んだ本棚と、その横に机、そして窓際にベッドといったごくごく普通のよく見るような部屋だった。アイカやその家族が数年もの間足を運ぶ事が無かったというのに、少し埃っぽいぐらいなのが気持ち悪い。
「この上だな」
「えぇ」
ステビアがベッドの上にポスンと飛び乗ると、小さな埃が舞い散った。やはり何年も使っていないだけある。お婆さんが亡くなったのはだいぶ前と言っていた。もしかしたらつい最近まで階段が消えたことに気がついていなかったのかもしれない。しかし、あまりにも蓄積された埃が少ない。やはり変な魔法使いが潜んでいるのではなかろうか。
「どう……するんですか?」
先ほどのように何かを消す魔法を使うのだろうか。だとしたらここは狭すぎる。魔法が当たってしまったら、自分が消えてしまうかもしれない。不安が募り、恐る恐る聞く来太にステビアは答えた。
「物理的にもいけるはずだ」
ステビアが指差した天井の板が少し浮いている様に見えた。
「ここ、開けろ。ゆっくりな」
「えぇっ」
「良いから早くしろ」
来太は渋々背伸びをしてその天井板をゆっくりとずらしていく。埃が上から降ってきたが、三人とも視線はその板から離れない。ステビアが来太のつなぎのベルトを引っ張り、自分を持ち上げろと言った。
「肩車で良いですか?」
「なんでも良い」
「ふふふ、こんな状況下じゃなきゃ微笑ましい光景なんですけどね」
紫苑が楽しそうに笑うが、来太はステビアを天板を抜いた場所に顔を出させるのでいっぱいっぱいだった。
「暗いな……」
ステビアが顔を出した天井裏は埃っぽく、そしてカビ臭い。全身が身震いしそうなほど、居心地は悪そうだ。こんな所に住めと言われて住める人間もいなければ、魔法使いなどいる筈ないとも思うのだが、先程から魔力を強く感じている。こんな所に住もうという余程の物好きがいる。眉間にシワを寄せ、神経を研ぎ澄ます。魔力の気配はするが、魔法使いは全く姿を現さない。
ライトを照らそうと来太に声をかけた時だった。
「なっ!」
ステビアの手首に白いネバついた糸が絡みついた。
「ステビアさんっ!」
来太と紫苑が叫ぶと同時にその糸がまた暗闇の中から飛び出して、ステビアの口を覆い、腕にまで巻きついた。慌ててステビアを引き戻そうと来太が手を伸ばしたが、数秒程遅く、ステビアは身体ごと天井裏へと引き摺り込まれた。
「んんんっ!」
ドンドンというステビアの暴れる音と、天井の隙間からパリパリと音を鳴らして埃が部屋に散り始める。
「ステビアさんっ!今、俺が行きます!」
「来太くん、落ち着いて!」
天井裏に上がろうにも残された二人の身長、そして体重的にそれこそ危うい。紫苑に制され来太は上のをやめた。
「なら、どうしたらっ」
すると、二人の頭上で大きな物音が鳴り響いた。先程よりもステビアが抵抗をしているのか、天井に潜んでいた魔法使いが攻撃を仕掛けたのか、ドンっと大きな音が鳴り、天板が大きくずれ、上からステビアが落ちてきた。
「ステビアさんっ」
「んっ!!」
床に叩きつけられたステビアに紫苑と来太が駆け寄った。来太が急いで口に覆われた糸を剥がしてやると、手のひらにも糸が絡み始める。
「っクソ!」
手首に絡まった糸を思いっきりステビアが引いた時だった。
「ひゃぁあ!」
大きな甲高い悲鳴が聞こえると、ステビアの落ちてきた場所から何者かが降ってきたのだ。
「ひ、痛ぁいっ」
強く尻を打ち、半ベソをかいていたのはフランス人形の様なひらひらとした煤だらけのエプロンドレスを着た女の子だった。手にはしっかりとステビアに絡み付いた糸が握られている。灰色の髪はツインテールに結ばれて、ヘッドドレスをつけていた。
「お、女の子?」
ステビアに絡んだ糸を剥がす手を止め、来太が拍子抜けした声を出した。
「あぁ。こいつが階段を消していた犯人だ」
「犯人なんてひどいっ!わたしは別に悪くないわ!」
「隠していたのは事実だろ」
「そうだけど違うわ!」
「まぁまぁ、ステビアさん。とりあえず、この糸の魔法を解いてください。話はそれからにしましょう」
紫苑が騒ぐステビアを窘め、少女に魔法を解かせた。
彼女の名前はグレイ。ステビアや紫苑と同じく魔法使いで、蜘蛛の糸を自在に操る魔法を得意とするらしい。姿を隠すために糸を紡いで幻を見せていたという。先程打った腰が痛いのか、ずっと摩っているのが痛々しく、来太は下の階からクッションを持って来て、机の椅子にそれを敷いてやった。どんな話の流れでそうなったのかは不明だが、来太が二階に戻った時にステビアが彼女に年齢を聞くと顔を真っ赤にして怒り出した。
「失礼極まりないわ!」
机の椅子に座って足を組み、踏ん反りかえってそっぽを向く。
「ステビアさんは感覚が少し違いますから」
「シオン、それは全然フォローになってないぞ」
「すみません、本当に色々と突然」
来太は鞄から魔法瓶を取り出し、ピクニック用の小さなコップを人数分並べた。仕事の日はだいたい持ち歩いている。丁度人数分あったのを確認した際に、先程の緊張感がぷつんと切れた様で、いつも通りマイペースにお茶を淹れ始めた。その様子をじっと見ていた彼女と目が合い、来太はゆっくりと口を開いた。
「俺、ここに以前住んでいた方のお孫さんに依頼を受けたんです。階段を探し出して上の階を掃除して欲しいって……」
「えぇ。それが何か?全部見てたわよ。この家が壊されてしまうことも聞いていたわ」
遠慮しながら遠回しに切り出そうとした来太を一刀両断するようにグレイはさらりと言った。
「なら何故、ここから出て行かないのですか?」
「そりゃ……居心地が良いからよ」
「こんな埃っぽいのにか?」
「煩いわね。アンタには関係ないでしょ」
グレイは再びそっぽを向きながら、来太の淹れたお茶を一口飲んだ。
「いつからここに居るんですか?」
「……少し前よ。もう少し田舎に住んでいたんだけど、知り合いはみんな居なくなったから」
「……それは、我々でいう『少し前』ですか?それとも……人間の時と同じ流れで言ってますか?」
紫苑の質問にグレイは再び膨れっ面をした。
「それ、答えたら年齢がバレるでしょ。本当、隙あらばって人は嫌いよ。……そうね、この場合はアンタの時間と同じ流れね」
来太の方に視線を向け、グレイは静かに言った。
「人間は好きじゃないけど、時の流れは羨ましいわ」
彼女はお茶の入ったコップを机に置いた。
「ここのお婆さんね、亡くなる少し前に私を見つけたの。あれは数十年程前の夜よ。彼女はもう目が見えなくて、この隣の自室にも戻れなくなっていたから下の部屋で休んでいたわ」
グレイはゆっくりと息を吐き、静かに彼女との出会いを語りはじめた。
グレイがもともと住んでいた地域は、マツリダよりもだいぶ東へ行った山奥だった。魔法使い狩りの被害を受け、逃げ込んだ魔法使いが沢山いた集落だったが魔力量の少ない魔法使いが多く、寿命の長い魔法使いであっても数十年もすればだんだんと人口は減っていった。グレイも魔力量は少ない一族であったが、一緒に住んでいた姉が消える直前に魔力を分け与えてくれたおかげで今日まで生きてこれた。昔からマツリダ近郊の魔法使いは死に逝く姿を人に見せないという言い伝えがあり、その通りに姉は知らない間に彼女の傍から消えてしまった。
「あの時は何故急に、残りの魔力をあげると言われたのか分からなかったけど……今頃ね、それが何故なのか気がついたわ」
独りぼっちになったグレイは、どうにかこの魔力を持って少しでも長く生きようと、その人里離れた集落からマツリダの近くへと戻ってきた。グレイはその頃、少なからずマツリダに戻れば魔法使いに会えると信じていた。生きながらえる術をそこで身につけようとした。しかし、彼女の思惑は外れてしまった。以前見たマツリダ都市とは全くの別世界に唖然として、言葉がないとはこの事だと実感したという。
『なんで……魔法使いの気配が、一切しないの……?』
小さな声で震えて放った一言は、街の喧騒に紛れて消えていく。百年程離れた地域は全く別の世界に塗り替えられていたのだ。
『魔法使いなんて偶像の一部』『昔話の悪役』『すごい昔に絶滅した生き物』そんな存在に自分がなっていたことに、グレイは絶望感と焦燥感で胸が締め付けられた。
確かに人間とは感じる月日の流れが違うのは分かっていた、でも、こんなのはあんまりだ。彼女はマツリダにはもう、自分以外の魔法使いがいないと思って、少し外れた地域に身を隠すことにした。食べ物も水も要らない。必要なのは魔力だった。でも何かを食べれば力になるのは知っていたし、寒さで身体を冷やしてしまえば、その分体力だって奪われてしまう事も知っていた。長い時間眠る事さえすれば多少は魔力の回復も望むことも出来るのだろうが、そこに辿り着くにはどこか屋根のあるところを住処にしなければならない。このままでは気落ちと共に衰弱して消えてしまいそうだった。その時に見つけたのがこの家だった。
木々の鬱蒼とした中にぽつんと、建っていて、周りは静か。人間の出入りも少ない。というか、全くない。見つけたその時間は深夜だったため、灯りも付いていなかった。家のドアは丁寧に鍵は掛かっていたが、直ぐそばの窓が開いていて背の低い彼女でさえも中にすんなり入る事が出来てしまった。
「素敵な家具も多くて、妙に惹かれたの。ここに住みたいって思ってしまったのよ。浮かれながら家の中を見て回ったら、この下の階の寝室に一人のお婆さんが寝ていたわ」
その時、グレイの立てた物音に反応した家主は声をかけてきた。
『どなたかしら』
声をかけられるとは思っていなかったグレイは、ハッと息を飲んだ。声のした方に恐る恐る足を滑らせるように近づいていくと、ベッドに横たわる一人の老女の姿が見えた。
『……ごめんなさい、勝手に……入ってしまったの。何も盗らないわ。何もいらない。明日には出て行くから、今日だけ屋根を貸して欲しいの』
震える声でそうグレイは言った。相手は人間。人間には良い思い出は無かった。だから無駄に警戒心を出して、姿を見せようとはしなかった。
『えぇ、良いですよ。今日だけとは言わず、ずっと居てくれても……。私はもうすぐここから居なくなる身だから』
ベッドから弱々しい声を出して彼女はそう答えた。グレイはゆっくりその部屋に入り、横たわる彼女の顔を覗き込む。皺の多い色白い肌をした女性だった。綺麗に白くなった長い髪が、月明かりに照らされてキラキラと光って見えた。
『どこかに、行くの?』
グレイの声が近くで聞こえたからなのか、彼女は小さく笑った。
『あらあら、可愛いお嬢さんね。かくれんぼの途中かしら』
薄らと開いた目にグレイの姿が映った。手を伸ばし、グレイの頬をゆっくりと撫でる。久しぶりの手の温もりに、全身がピリッとした。
『今日のお天気は曇り?夜には雨が降るかもしれないわね……帰る頃には玄関の傘を使うと良いわ』
彼女は微笑みながらグレイにそう言った。外はまだ暗く、月のはっきり見える雲の少ない夜だった。
見えていない……いいえ、きっと寝惚けているのだわ。
そう思った。自分が二桁の歳になったばかりの女の子に見えたのだろう。人間の世界では子どもが夜に一人で出歩く訳なんて事はあり得ないはずだ。だからきっと彼女は、夜ではなく昼間だと思ったのかもしれない。
グレイは目の見えない彼女と少しだけ話をして、二階の部屋を使わせてもらう事にした。
その日から数日、グレイは夜になると彼女の話相手になった。昼間は息子夫婦や孫が出入りをすることもあったが、基本的に殆ど誰も来ることはなかった。他の人間に見つかってしまうのだけは避けたくて、グレイは彼女の家族が来る日に、得意の糸を使って階段を隠していた。いつだか姉に習った結界の呪符を使って、人間達には『この家には二階なんて存在しない』という意識を植え付けた。
しかし、グレイにも力の限界があった。呪符を作るのにも、階段を隠すのにも魔力の消費は避けられない。夜だけはその力を解除して、彼女の部屋に顔を出した。その度に『退屈しなくていいわ』なんて彼女は言っていたが、日に日に口数が減って少しずつ弱っていくのがわかった。
ある夜のことだった。
グレイがいつも通り魔法を解除して、下の階に出向いた時だった。昼間に眠ったグレイは思いの外寝入ってしまい、何時もの時間帯に彼女の部屋に向かう事が出来なかった。少し遅れて部屋のドアを開けると、いつもは寝ているはずだったのだが、ベッドに起き上がり、窓の外を薄らと開いた目で眺めていた。
『寝てなくていいの?』
『えぇ。少しなら……大丈夫』
起き上がっているその姿は弱っていることを忘れさせるほど、凛としていた。
『今日は、月が良く……見えるのね』
くすくすっと笑いながら彼女は喋りにくそうにゆっくりと言った。グレイはハッとした。
『……ねぇ、いつからこの時間が夜だって気付いていたの?』
『ふふふ、秘密』
『意地悪ね』
グレイが膨れっ面をすると、見えているかの様に彼女は笑った。
『お嬢さん、顔を……よく見せて』
手を伸ばし、グレイを探す。その手を取って、グレイは彼女のそばに寄った。
『いつも見てるでしょう』
『そうね、いつも、見てるわ』
頬に手を当てると、その手は以前よりも少しひんやりとしていた。それでもやはり彼女の手は温かい。
『私たちね、そろそろ……会えなくなるわ』
『どうして?やっぱりどこかへ行くの?』
『いいえ、どこにも行かない。でも、お話はもう出来なくなるの』
彼女はそう言うと、グレイの頬から手を離してゆっくりとベッドに入った。ベッドの軋む音が響く。なんとなく彼女の言いたいことを悟ったグレイは喉の奥が熱くなるのを感じた。
『私が居なくなっても、ここに居てくれるかしら』
『わたしが……?』
『えぇ……。あなたに、ここに居てほしい……から。私よりも、まだ長く生きられるでしょう。孫のアイカとも……仲良くしてあげてほしいわ……』
力なく笑う彼女に対して、グレイは相槌を打つ。
『一つ、教えてほしいの』
『……何?』
『あなたの、お名前よ』
目をゆっくりと閉じ、深く息を吸う。だいぶ無理をしていたのが分かった。そうまでして話す程の仲でもないのに。横になった途端にヒューヒューという苦しそうな息の音が聞こえてきた。グレイは彼女によく聞こえるように耳元で自分の名前を囁いた。
『ふふふ、可愛い、名前ね』
目を閉じたまま、ゆっくりと口を動かす。
『私も、あなたの名前を知りたいわ』
『私は……』
「それで、彼女の名前は知れたんですか?」
グレイは紫苑の問いにゆっくりと首を横に振った。
「私、人間の死に方なんて知らなかったのよ。その時、彼女は疲れて眠ったって思ったわ……でもその日の朝に家族が家に来てわんわん泣いて、それで気がついたの。あぁ、最期だったんだって」
呆れたでしょ、とグレイは言った。近くにいたのに、何も出来なかったと。
「だから……アイカさんのお婆さんが言った通りにここにいるんですか」
「えぇ。居心地は良いもの……本当に。温かくて、静かで……人間ももう、そんなに来ないし」
悲しそうな、ホッとした様な言い方だった。彼女がここに居ようとした理由を聞いて、三人は黙り込む。
「暗い顔されると気分が滅入るわ。ほら、階段も出したんだから好きにしたらどう?」
大きな溜息をして、彼女はぶっきらぼうに言い放つ。
「あの、グレイさんが良ければ俺がアイカさんに紹介を」
「来太くん」
来太の言葉を紫苑が遮る。ステビアも溜息をついた。グレイは眉をハの字に寄せて困った様に笑う。
「今更会えないの。こんな人間の子どもみたいな姿なのよ、だいぶ前に亡くなったお婆さんを知っているなんて言われたら……気味悪いでしょ」
そう言われて魔法使いと人間の時間の流れは全く違うということを来太は思い出した。
「……そんなことは」
「良いの、ありがとう。ねぇ、一つ我儘を言っても良いかしら」
「簡単なものならな」
「アンタには言ってないわよ」
ステビアに強く言い返し、グレイは来太に向き直る。
「……私にアンタの仕事を手伝わせて」
「えっ、掃除を?」
グレイはこくんと頷いた。照れて赤らんだ頬が可愛らしい。
「大した魔法は使えないけど、お手伝いさせて欲しいの。人間は苦手だけど、この二人が一緒ってことは悪い人じゃないんでしょう?」
大きな瞳をぱちくりさせ、来太の顔を覗き込む。
「俺は、別に……良いんですけど」
来太はチラリとステビアの方を見た。目が合ったことにステビアの方が怪訝そうな顔をした。
「オレは手伝わないぞ」
「ふふふ、ヤキモチはまだ妬かないそうです」
「なっ!」
顔を真っ赤にし、ステビアは紫苑の背中をポコポコと殴る。来太がそれを見て笑っていると、グレイは「決まりね」と言って嬉しそうに笑った。
次の日から来太とグレイは二階の清掃に取り掛かった。ステビアとの攻防戦で抜けてしまった天井は、グレイの魔法の糸で綺麗に縫合された。
「気休めだけど、壊されてしまう間ぐらいは持つわ」
得意げにそう言って、他の傷んだ壁や床も綺麗に直していく。その横で来太はいつものように自作の掃除機を使い、埃を吸い込み、黒く汚れた床や壁には洗剤を使って綺麗に拭き掃除をしている。各々出来ることを黙々とこなして、作業開始して五日経つ頃には二階も屋根裏部屋の掃除も殆ど終わり始めていた。
「いやぁ、一人でやるよりも早く終わりました!それに外壁も綺麗に直してくれて……!」
外に出て家の周りをぐるぐると一周しながら来太が言った。グレイは二階と屋根裏部屋の掃除を終えた後、ついでだと言って一階の傷んだ場所や外壁を得意の魔法で綺麗に縫合した。塗装は来太が持ち前の器用さを持って綺麗に仕上げたため、その家は新築のようにキラキラと光って見違えるようになった。
六日目の夜に様子を見にきたステビアと紫苑も、その仕上がりを見て驚きのあまり開いた口がふさがらなかった。
「凄いですねぇ……!」
「あぁ。全くこの間のオンボロ感はゼロだな」
「オンボロは余計よ」
あいもかわらず馬の合わない二人は来太と紫苑の前でバチバチと火花を散らす。
「中も凄いんですよ。見てください。あ、今回は土足はダメですからね」
「そういえば、お手伝い結局できませんでしたねぇ」
「シオンは最初からそんなつもりなかっただろ」
来太とグレイの案内で二人は二階と屋根裏部屋をざっと見て回った。最初に来た時と同様に階段やベッドの軋む音は変わらなかったが、抜けた天井や埃の溜まった部屋の隅、カビの生えた本棚は綺麗に掃除されて見違えた姿で現れた。
「それで……明日には依頼主を呼ぶんですよね?」
「はい。アイカさんに鍵を返して、俺の仕事は終わりです。俺としてはやっぱり、グレイさんを紹介してあげたかったですけど……」
「気持ちだけで十分よ」
グレイは困った様に眉をハの字に寄せ、窓を開けた。街灯の少ないこの家の周りは夜は暗くて月がくっきりと綺麗に見える。
「でも、お前はこれからどうするんだ?」
「魔力補充が当面の懸念事項でしたら、私の調合した薬を本日持ってきましたし」
グレイは空を見ながら首を振った。
「要らないわ。魔法があってももうこの家は無くなるし、住む場所を探すのはもう疲れたの」
「でも、そのままでいたら消えるんじゃないか?」
「えっ?」
ステビアの言葉に来太が反応した。
「ど、どういうこと……ですか?」
来太がステビアとグレイの顔を交互に見る。グレイはこちらを振り向いて罰の悪そうに口を真一文字に結んだ。
「オレ達からこの家を守ろうとした時に持っていた魔力の殆どを使わせたみたいだ」
ステビアはそう言いながら部屋のベッドに腰掛ける。来太にはその魔力というものがどう感じる物なのかは分からないが、紫苑がわざわざ薬を調合して持ってくる辺り、きっと事実だろう。現に、紫苑の方に視線をやると彼はゆっくりと頷いた。
「そ、それじゃあ、残りの力を使って……俺の手伝いを?」
慌てる来太にグレイは尽かさず口を挟んだ。
「それは、わたしが好きでやったの。アンタが気に病むことないでしょ。どうせ、アンタ達が来ても来なくても階段を隠して老朽化を多少抑えようと魔法を使ってた訳だし。ただ、その時期が早まっただけ。だから、そんな顔しないで」
グレイは窓辺から離れ、来太の側に寄るとその手を握った。柔らかいグレイの手は、来太の数倍を生きているとは思えないほど小さい。
「私は人間が嫌いだったの。でもアンタやここのお婆さんはわたしの嫌う人間とは違ったわ。それが知れたんだもの、儲けものよ。ねぇ、ステビア?」
目が合ったステビアは舌打ちをした。
「なら、やっぱり、せめてアイカさんからお婆さんの名前をっ」
グレイは首をゆっくりと横に振った。
「どうして、そう頑ななんですか!」
来太がその小さな手をぎゅっと握る。先ほどより少し温もりが薄い気がした。
「自分よりも数倍の魔力を受けた後に魔法を使った訳ですから……明日まで持つかってところでしょう。もしくは…もう」
紫苑の静かな言葉に唇を強く噛みしめ、来太の口の中で血が滲んだ。弱っている様に見えない彼女がもうすぐ『消える』という事実が全く受け入れられない。人間と魔法使いが違うのはステビアや紫苑達を見ていれば分かっていた。でも、こんなに幼い容姿のまま消えてしまうのを信じたくなかった。
魔法使いは万能ではない、いつだかステビアに言われた言葉が頭の中で反芻する。
気がつけば間に合ったかも知れない、自分がもっと魔法使いについて勉強していれば……。彼女を少しでも気にかけていれば……。こんなに、近くにいたのに……。
来太の握る力が緩んだ隙に、グレイはその手をゆっくり引き抜いて残りの力を使って三人を糸で縛った。
「えっ、ちょっ、グレイさんっ」
もがいて解こうとすればするほど、その糸は身体に絡みつく。加えて少しベタついているその糸は、蜘蛛の糸のようでタチが悪い。
「腹を括ったの。大事な生き残りかも知れないけど、わたしは向こうで彼女に会える気がするから……」
グレイは来太の前に立つとにこりと笑った。その笑った顔が、悲しくも落ち着いていて、来太は何も言い返せなかった。
「一つだけ人間のアンタに教えてあげる。魔法使いはね、人知れず消えるのがセオリーなんだって。ま、消えるのは初めてだけれど……」
ふふふ、と笑いながら部屋のドアの前に移動する。
「それに、最期に人間を縛れたから悔いはないわ」
「それが最期のセリフとは呆れるぞ」
「えぇ、もっと別のセリフを考える時間はあっても良いと思いますよ」
「そうですよ、俺っ、グレイさんともっと……」
来太の目が潤んだのが見え、グレイはドアノブに手を掛けた。
「ありがとう。ライタ、お掃除楽しかったわ」
「グレイさんっ」
グレイは小さく跳びながら部屋を出た。くるりと振り向き、エプロンドレスの裾を正す。
「ステビア、アンタはもっと素直になりなさい」
「……っ、余計なお世話だ」
「ふふふ。それじゃあ、ね……さようなら」
バタン、とグレイが扉を閉めると同時に三人に絡んでいた糸が綺麗に消えた。
「……っ!」
「来太くんっ」
ドタドタと忙しなく立ち上がった来太は、その部屋の扉を開いた。
「……い、いない……?」
静かな廊下に軋むドアのキィキィという音が響く。来太の足元、ドアの前には小さな塵の山とヘッドドレスが残されていた。
「まぁ、凄いっ……!想像以上です!」
アイカは高揚のあまり頬を赤く染め上げる。その横で来太は「良かった、やり過ぎたかと……」と、困ったように答えていた。やり過ぎたと言えばやり過ぎた。自分の力だけではできない事を沢山施したのだ。傷んだ外壁を直すことも、煤や埃で汚れた部屋を隈なく綺麗に仕上げたことも、階段を元通りにした事も。
「まるで魔法使いですね」
「えっ」
彼女の言葉に思わず驚いて声が上擦った。彼女は知らない。グレイと自分の祖母の関係を。そして、彼女の祖母も彼女もグレイが人間ではないことも。
「だって、消えた階段ですよ?」
「まぁ、確かに……」
「よく祖母から魔法使いの話を聞かされて育ったので……この家にも居たのかも知れませんね……。あ、来太さんが来たらビックリして居なくなってしまったとか?」
「あはは、そうかもしれません」
笑う来太にアイカはどう階段を探し出したかは聞き出そうとしなかった。来太も、自分からグレイの事をハッキリとは言い出せずにいた。本当はそうですよ、なんて言ったところで彼女は信じないかもしれない。
「私、来太さんに頼んで本当に良かったです。ありがとうございます」
「いえ、俺はほとんど何も……」
「あら、他に従業員さんがいらしたのかしら……?」
「……はい。臨時で少しお手伝いをしてくれた方がいました。お婆さんの……お知り合いだそうです」
小さな声になりつつも、来太はアイカに伝えた。少しだけでも彼女がいたという事を知ってもらうために。
「そうなんですか。きっとプロの大工さんなのかしら……その方にもお礼を」
来太はゆっくり首を振った。
「残念ながら……昨日仕事が終わった途端に帰ってしまいました。でも、お婆さんとは凄く仲が良かったようですよ。きっと、すごく大事な人だったと思います」
「そうですか……せめて一度、お会いしたかったわ」
「結果オーライだったな」
「……何が、でしょうか?」
「ノアを留守番にしておいて」
ステビアは遠目で来太とアイカを見ながら紫苑に言った。人間相手に仕事をするため、来太は気を利かせて先に帰っても良いと言ったのだが、ステビアは珍しく首を振った。仕方なしに紫苑が即席で鬱蒼と茂る木々に呪符を貼り、小さな結界を作ったのだが、その狭い空間でステビアが紫苑にふっかける。対して紫苑は、ふふふ、と含んだ笑いを見せながらアイカに鍵を返す来太を見つめた。
「ご自分こそ、そろそろ来太くんにご執心なのを認めたらどうです?」
ステビアは舌打ちを返した。少し離れた所で身を隠すぐらいどうってことも無い。それに、今の来太を一人にする方が自分が人間と鉢合わせをするよりも不安だった。それが見透かされていて腹が立つ。自分だって、あのポンコツ人間を一人にしてはいけないと思っているクセに。
「ふふふ。言い返せないなら私に突っかかるのはよして下さい。まだヤキモチ妬いてるんですか?」
「誰がっ」
紫苑はクスクスと笑いながら白衣の袖からいつもの長い煙管を取り出し、マッチで火をつけた。
「グレイさんのようになる前に、きちんと名前を呼んであげるのも考えてあげてくださいよ」
紫苑の言葉にステビアはまた舌打ちをした。
「素直じゃない人ですね」
「煩い」