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深山に眠る記憶

 紫苑と結斗のデートに乃亜が苛立つ数時間前のことだった。この日、来太はいつもよりも早くに起床した。煩いほどに鳴り響く目覚まし時計を止め、身体を起こして伸びをする。まだ底冷えするほどの季節ではないが、布団から腕を出しただけなのに身震いした。太陽が昇るまでまだかなりの時間がある。外は暗くて気温は低い。来太はベッドから抜け出ると、寝巻きからいつもの作業着に着替えた。昨晩のうちに畳んでおいた着替えを大きなリュックに詰める。他にも手袋やタオル、靴下にゴーグルを入れると、荷物を背負って階段を降りた。この日のために昨日まで細々と頼まれていた依頼をこなしていたのだ、起き抜けにしては階段を降りる足取りが軽い。

 玄関に荷物でぱんぱんのリュックを置くと、洗面台へ向かう。冷たい水で顔をさっと洗い、タオルで顔を雑に拭きながら、台所の炊飯器を開けた。昨晩のうちにセットしていた大量の米がすでに炊き上がっており、立ち昇る湯気が顔に当たった。来太は冷蔵庫から数個のタッパーと、棚から大きめの弁当箱を五個程取り出すと、腕を捲っていつものように握り飯を作り始めた。


 ぎゅうぎゅうに握り飯を詰め込んだ弁当箱を、別の手提げに入れ、来太はリュックを背負う。壁に引っ掛けていた緑色のマフラーを首に巻き、厚手の手袋をはめ、つなぎの上からアウターを着ると外へ出た。空はまだ暗く、月や星がはっきりと見える。風は冷たく、頬に当たると目の奥までピリっとした寒さが走る。鍵を閉め、昨晩のうちに手入れをしたスクーターに荷物を括り付け、ゴーグルとヘルメットを装着すると、来太はエンジンをかけて走り出した。

スクーターで受ける風はさっきよりも鋭く、来太の眠気はどこかへ吹き飛んでいく。鼻で空気を吸い込むと、目が痛くて、思わず下唇を軽く噛んだ。


 スクーターを走らせること数十分。いつもよりも何時間も早く、ステビアの住む地下室へ足を運んだ。スクーターで来ることもよくあるのだが、人気のない道をひたすら走ったためか、かなりの時間短縮になったらしい。弁当箱の入った手提げだけを持ち、階段を下る。外も寒いが、この地下室へ続く階段もなかなかだった。

 部屋の前に着いた来太は、寝ているだろうと踏みつつも、軽くドアをノックする。

「ステビアさーん」

 声を絞ったつもりだが、ぼんやりと反響した。数秒待ってみたが、返事はない。予め受け取っていた合鍵をポケットから取り出し、中に入る。ほんのり暖気が残っており、来太はいそいそと中へ入るとドアを閉めた。電気はついておらず、寝室への扉もぴたりとしまっているところを見ると、ステビアは眠っているのだろう。

 来太は靴を脱いで部屋の中心に置かれたテーブルに手提げを置くと、いつだか持ち込んだ付箋紙に『おはようございます、今日から三日程、仕事で来れません』と走り書きした。付箋紙をそのまま手提げの中の弁当箱に貼ると、来太はブーツを履き直そうと玄関へ向かう。

「今日は早いな」

 背後から声がして、振り向くと寝室へ繋がるドアが少し開いているのが見えた。

「すみません……。起こしちゃいました……?」

「いや、起きていた。丁度良い、これを片付けてくれ」

 ローブを羽織り、脇に大きな本を挟みながら出てきたステビアは、その本をテーブル横にある棚へ戻すよう来太に言った。

「読書ですか。風邪ひきますよ」

 そんな薄着で、と呟きながら来太は渡された本を支持された本棚へ戻す。

「人間と一緒にするな。身体のつくりは似ていてもこっちのが丈夫だ」

 心配するなと腰に手を当てて威張る。小さな身体のくせに態度が大きいのはもう見慣れてしまった。

「それで。今日はどこか行くのか?」

「はい。あぁ、それで今日から三日ぐらいは連絡がつかなくなります」

「……遠いのか?」

 ステビアはテーブルに置かれた手提げ袋から弁当箱を一つ取り出すと、中に並んでいたおにぎりを取り出してそのまま頬張った。

「まぁ……少しだけ。祖父の友人の手伝いなんです。ここからスクーターで一時間も無いんですけど、山奥でちょっと電波も悪い所で」

「ふぅん」

 ステビアはもう一つおにぎりを取り出して、大して興味無さそうな返事をした。狭い部屋におにぎりの熱でしんなりした海苔の香りが飛ぶ。その一瞬で、先日紫苑に言われた一言を思い出した。


『来太くんの様子がおかしくなったらすぐに連絡してください。もしくは周りで異変があったらでも』


 あの紫苑が念を押したのだ。三日もマツリダから居なくなる事に、ステビアも何かを思ったのだろう。

「なので」

「オレも行く」

「……え、ええええっ!」

 指についた米粒を食べながらさらっと言うステビアに、来太は大きな声を出した。

「煩いぞ、響く」

「す、すみませんっ!だ、だって行くって……山奥とは言いましたけど、人間しかいませんよ?」

 驚きのあまり目を見開く来太に、ステビアは溜息をつく。紫苑との話を来太にする訳にもいかず、適当に思いついた事を言った。

「……この間の祭りで慣れた」

「慣れたって……まだ一人で外に出た事ないじゃないですかっ」

「だからなんだ。オマエがいるだろ」

 さも当たり前のように言い放ち、ステビアは三つ目のおにぎりに手を伸ばした。自分を信頼してくれるとはっきりと言われるのは嬉しく思うが、何があっても守れる自信がない。すんなりと頷くことが出来ない来太は、しゃがみ込んでハの字に眉を寄せた。

「山奥にはそんなに沢山の人間がいるのか?」

「……いや、いないですけど」

「なら良い。平気だ」

「でも、山に着いたら仕事が終わるまで帰れませんよ。お腹すいてもすぐには何もないですし」

「別に……オレは食べなくても生きていける」

 もごもごと口を動かしながら言うため、説得力が全く無い。

「……知りませんよ」

「良いから連れて行け」

 来太は大きく深い溜息をすると、観念したのか勢いよく立ち上がった。

「わかりました!連れて行きます」

「おう」

「それじゃあ、すぐに行きましょう。早めに行って作業もしたいので。防寒具はありますか?」

 来太の問いにステビアは少し考えてから寝室に入って行った。

「これならある」

 ガサゴソと何やら大きな音を立てて引っ張り出したのは、もこもことしたポンチョだった。

「去年シオンが持って来たんだ。動きにくい上に、暑くて着ていないやつだけど」

 ステビアらしい真っ白な色をしたそれは、中が起毛で出来ていて見るからに暖かそうだった。なんとなく紫苑がふざけて手渡したのを察したが、日の出前のこの時間は外で誰かに見られる心配もないだろう。

「それで良いですよ。似合ってますし」

 来太が悪気もなくそう伝えると、ステビアも「そうか」と答えてすんなりと袖を通した。

 ステビアがポンチョを被ったのを見た来太は再度ブーツを履き直しに踵を返した。しかし、その腕をぐいと強く引っ張られる。

「ステビアさん、遅くなりますからっ」

「いいから、あれを取ってくれ」

 ステビアが指を刺したのは、本棚上に置いてある木箱だった。

「なんですか」

 履きかけたブーツを置き、来太は言われた木箱を棚から動かすと、足元へ置いた。

「お前にも使ったシオンの薬が入ってる。何かあったら使えるだろ」

 ステビアは数本、怪しい色の薬品が入った瓶を取り出すと、来太が持ってきた手提げに入れた。

「準備完了ですか?」

「あぁ。行くぞ」

 ブーツを履き直し始めた来太を押し除け、ステビアがドアを開ける。ヒュッと冷たい風が流れ込み、ステビアの目がさっきよりも少しだけ大きく開いたのを、来太は見逃さなかった。





 スクーターに揺られる事、数十分。マツリダの真っ暗な空はだんだんと明るくなり、日の出の眩しい光りが二人の目を刺す。マツリダの市街地を抜けて走り、田舎道を通った。だんだんと家々が疎らになり、大きな畑や山々が目立つ。道もでこぼことした走りにくい道に変わり、来太の背中にステビアは数回ほど顔をぶつけた。サイズの合っていないヘルメットがずれるたびに手を離そうとするため、来太も気が気ではない。

「しっかり掴まっててくださいね!落ちたら大変なのでっ」

「ならこれ以上揺らすな!落としたら色んな手を使ってでも末代まで呪うからなっ!」

 そもそも急について行くと言い出したのは誰だと言い返したかったが、ステビアが怒ると面倒な事になるのは目に見えていたので、来太は苦笑いだけを返した。そうこうしているうちに、さっきまで眩しく感じた太陽はいつのまにか厚い雲に隠れてしまった様で、肌に触る風がやたらと冷たく感じた。

「もう直ぐですよ!霧がマツリダと同じ様に濃くなり始めていますから!」

 来太の言う通り、霧が薄まった田舎道を抜けたのだろう、畑や家々の数が更に少なくなったと感じた途端にもやりとした霧が山の麓を隠す様に現れ始めた。ステビアは大きな瞳を更に見開き、視界に入った頂きの見えない山を見上げた。紅葉した葉が散り、山肌が所々で見え隠れしている。久々に目にした大きな山々にステビアは息を呑んだ。来太はスクーターをどんどん山の中へと走らせる。次第に開けた道は見えなくなり、細い山道に差し掛かった。

「朝なのに……暗いな」

「この山は昔からそうなんですよ」

 車体がガタガタと揺れ、二人の声も同じ様に途切れて聞こえた。細く狭いその道を暫く走らせると、太い立派な木材で組立てられた小屋が目の前に現れた。そのすぐ横には煉瓦の一軒家が建っており、煙突から煙を噴かせている。

「つきましたよ、ここです」

 来太がスクーターを小屋の横に止めた。ステビアの座っていた後ろの縄で括られた荷物に手をかける。

「誰の家だ?」

「祖父の友人です。毎年、冬支度の手伝いをする約束をしています」

 ステビアに弁当の入った手提げ袋を渡しながら来太が答えた。それに対して適当に返事を返したステビアは警戒する様に恐る恐る周りを見渡した。

「大丈夫ですよ、悪い人間はいません」

「……そんな事、分からないだろ」

 強張った表情をするステビアを見て、来太は眉を寄せ苦笑いを浮かべる。

「ステビアさん、こっちです」

 リュックを背負い直した来太は、玄関の扉につけられた鐘を鳴らした。突然の音にステビアの肩がびくんと跳ねる。

「お、おいっ!お前なっ」

 ステビアが声を殺しながら文句を言いかけた時だった。来太の目の前の扉がゆっくりと開いた。中から顔を見せたのは、真っ白な髪と顎が隠れる長さの白髭を生やした老夫だった。

「おはよう、トト爺」

「……来太か」

 トト爺と呼ばれた老夫は、扉を大きく開けると来太を中に促した。

「あ、待って。今日は友達を連れてきたんだ」

 すると、来太はスクーターの横で身構えたままのステビアを手招きした。

「子供じゃないか」

 トト爺は静かにステビアを見つめた。隠すようにフードを深く被っており、はっきりと顔立ちが見えないため、身体の大きさで判断した様だった。

「あー……身長が低いだけだよ」

 来太が適当に誤魔化し、今度はステビアの名前を呼んだ。

「ステビアさん、ほら。こっちです」

 ステビアは眉をぴくんと動かした。

「お前、無理矢理拾って来たんじゃないだろうな」

 一向に動こうとしないステビアを見て、不安そうにトト爺が言った。ステビアはその様子をじっと静かに見つめている。

「あはは、まさか。人見知りなんだってば」

 来太はその場にリュックを下ろすと、ステビアの方へ駆けて行った。

「ステビアさん、大丈夫ですか」

 蹲み込み、ステビアと視線を合わせる。少しだけ震えていたが、以前自分と初めて出会った時よりは幾分もマシに見えた。

「来太、とにかく中に入りなさい。外はまだ冷える」

「あ、うん。ステビアさん、来れます……か?」

 ステビアはゆっくりと頷き、来太の腰に巻かれたベルトを掴んだ。俯いて下を向いたまま、辿々しく足を動かす。

「……無理しないでいいですから」

「無理じゃない……。大丈夫だ」

 ゴクリという唾を飲み込む音が聞こえ、来太の心配を余計に煽る。しかし一度言い出したら聞かないステビアは、逆に来太を引っ張る形で、トト爺の前までやって来た。

「……ステビアだ」

 ゆっくり口を開いて、名前を言った。来太以外の人間と正面切って話したのは何十年も前の事なのだが、ステビアにはその記憶さえ無かった。心臓はバクバクと煩く鳴り、その音が身体中に熱を持たす。寒さなど感じるどころか、汗がどっと吹き溢れた。

 その様子をじっと見ていたトト爺は、来太が先程したようにその場に蹲み込むと、ステビアの目を見つめた。

豊岡燈(とよおかともり)だ。トト爺で良い。よく、来てくれたな」

 トト爺は皺くちゃな笑顔を向けて、ステビアと来太を家の中へと招き入れた。



 大きなソファーに、大きなテーブル。パチパチと音を立ている暖炉の上には、小さな写真立てが並び、その横には来太より少し背の高い本棚が置かれていた。

「掛けなさい。疲れただろう」

 トト爺は二人がソファーに腰掛けたのを確認すると、キッチンからポットとマグカップを持ってきて、来太とステビアにマグカップを渡した。

「朝食は?」

 トト爺はマグカップにホットチョコレートを注ぎながら聞いた。訝しげな顔でその様子を見ていたステビアであったが、湯気からも甘くほろ苦い香りが立ち上り、思わず声を漏らした。

「……おぉ」

「これからだよ。ステビアさんにはおにぎりがあるけど」

 ホットチョコレートをゴクゴクと飲むステビアを横目に見ながら来太が答える。緊張で張り詰めていた表情が、自然と柔らかくなっていくのを感じた。

「おにぎりは昼に食べても良いだろう。トーストは好きかな?」

トト爺はまたにこりと笑いながらステビアに聞く。

「……トーストって」

「焼いたパンですよ。でも、トト爺のは特別、外はカリカリで中はふわふわですよ。バターをたっぷり塗って、ベーコンとマヨネーズ、それから目玉焼きを挟むとほっぺが落ちちゃうんです」

 来太のその説明を聞いたステビアの腹が大きく鳴った。

「よし、仕事の前に朝食にしようか」

「うん、そうだね」

 来太が笑って答えると、トト爺は嬉しそうにキッチンへと戻って行った。

「もう無いのか」

 来太がふと横を見ると、ソファーから立ち上がり、トト爺がテーブルに置いていったポットの中身をステビアが確認していた。残念そうに眉を寄せるその表情が少し愛らしい。

「俺の飲みかけで良ければどうぞ」

 思っていた以上に落ち着いているステビアに安心した来太は、静かに笑って手に持っていたマグカップをステビアに渡した。

「要らないなら貰う」

 ステビアは下唇を突き出しつつ、腑に落ちないようななんとも言えない顔をでそれを受け取った。

「それにしても……大きな家だな」

 天井を見上げながら、マグカップに口を付ける。いつも見ている自分の部屋よりも広く、大きな家具が多いため、物珍しさもあったのだろう、キョロキョロと視線を動かした。

「もともと、大人数で暮らしていた家らしいですからね」

「そうなのか?」

「はい、この辺で林業をしていた方々の家だったって聞いたことが有りますよ」

 そう言って来太は暖炉の上に置かれた写真立てを指さした。

「トト爺の生まれるかなり前から、ここに住んでる人がいたんです」

「燈が生まれる前……」

 ステビアはマグカップを置いて、写真立てへ歩み寄る。少し背伸びをして見えた写真には、来太に似た青年が写っていた。

「……これ」

「あぁ、それは」

 来太がステビアの後ろから写真立てを手に取ると、彼に手渡した。

「多分祖父ですね。俺の家系は結構顔が似てるらしくて、最近トト爺が祖父の若い頃を思い出すって……あぁ、それでこっちがトト爺です」

 来太が指さした方の青年は真っ白い髪ではなく、綺麗なほど真っ黒な短髪だった。

「結構前の写真なんですよ。って言っても、ステビアさんにとってはつい最近の事かもしれませんけど。もっと古い写真もあるんですよ。俺のご先祖様が写ってるやつ。確かアルバムにしまっていて……」

 クスクスと笑いながら、来太はその横に置かれていた本棚に目を移した。

「あれ、まだここにもあったんだ」

 本棚にはずらりと分厚い背表紙の本が並んでいる。来太が一冊手に取ると、埃が床に散った。

「あぁ、全部残っているよ。持ち帰っても良い」

 後ろを振り向くと、トト爺がテーブルにトーストの乗った皿を並べているところだった。

「良いの?」

「あぁ、全部お前さんのだからな」

「そっか、じゃあ……少しずつ持っていくよ」

 来太は嬉しそうに笑って、その本を開く。ステビアが見上げたその本の表紙には『魔法使いの少年』と書いてあった。

「おい、それ」

「あぁ、絵本です。魔法使いの……『お伽噺』です」

 そう言いにくそうに答えた来太は、屈んで絵本の中をステビアに見せた。それは、黒い服を見に纏い、先の尖った帽子を被った魔法使いが箒に跨って空を飛んでいるページだった。

「ね、俺の知っている魔法使いとステビアさん達はやっぱり違うでしょう」

「……そのようだな」

 ステビアは少しだけ残念そうに答え、来太に写真立てを返した。

「すみません、アルバムでしたね」

「もういい。腹が減った」

 ステビアはテーブルに並べられたトーストを見て、更に大きな腹の音を鳴らした。

「そうですね」

 来太はステビアの後に続き、席に座った。皿の横に置かれた二人のマグカップにはホットチョコレートの代わりに温かいスープが入っている。

「冷めないうちに食べなさい」

 トト爺がテーブルの椅子に腰掛けながら言った。

「いただきます」

 来太が手を合わせたので、ステビアをそれに続いた。さっきのホットチョコレートで安心しきったのだろう、すんなりトーストに手を伸ばしたその姿を見て、横に座っていた来太は隠れて胸を撫で下ろした。

「……誰か他にも来るのか?」

 かり、っと良い音を立てトーストにかぶりついたステビアが尋ねた。ここには三人しか居ないのに、テーブルには四人分の皿が並んでいたのだ。

「あぁ。じき来る」

「この家のやつか?」

 すると来太が首を振り答えた。

「ラディってヤツです。数年前この山に、外国からやって来た俺の友人です」

 ステビアはそれを聞いて、眉を寄せた。また人間が増えるなど聞いていない。その無言の圧に来太も苦笑いを返した。

「悪いヤツじゃないですから」

 ステビアはスープに口を付けながら、来太の弁解に眉をピクリと動かした。すると、タイミングよく玄関の鐘がカランコロンと鳴った。

「噂をすれば……だな」

 よっこいせ、と小さな声を漏らし、トト爺は玄関の閂を外しに椅子から立ち上がる。ゴクンというステビアの喉の音が鳴った。

 来太にも一瞬、不安が過ぎる。

 また怖がらせてしまったら…。

 来太は初めて出会った時のあの怯えた表情を思い出す。トト爺は表情が柔らかくて優しい。しかし、ラディは……。

 扉の開く音がした。トト爺の背後からは二つの強張った視線がその外へと向けられる。

「おはよう、トト爺。遅れてごめん」

「おはよう、ラディ。来太はもう来ているぞ」

 ラディと呼ばれた青年が家の中に入った。綺麗な銀色の髪が光の加減で少し青がかっているその青年は、着古されたつなぎを着て、厚手のレザージャケットを羽織っていた。来太よりも身体付きは細く身長も低いが、そこそこ力のあるように見えた。

「やぁ、来太。久しぶり」

「……ラディ、おはよう。元気そうで良かった」

 ラディはジャケットを椅子の背もたれに引っ掛けると、来太の横に座り下を向くステビアの方へ視線を向け、一瞬戸惑った様な複雑な表情を見せた。

「……えっと……彼は?」

「友達のステビアさん。ちょっと人見知りなんだ。ステビアさん、彼がラディです」

「ステビア……?そうか……。てっきり君の弟かと思ったよ」

 ラディは目の前に座るステビアの名前を繰り返した。すん、と鼻を動かして眉をピクリと動かしたが、来太はそれに気が付かなかった。すると、下を向いていたステビアが恐る恐る顔を上げた。自然と目の前のラディと目が合い、ステビアは身体中が熱くなるのを感じた。人間への恐怖心が勝り、拒絶反応を起こしてしまったのかと思ったが、そうでは無いらしい。不思議とラディの顔を見る事に緊張感も恐怖心も感じなかった。

「……よろしく」

 絞り出した声は震えることは無かったが、頭の中がぼうっと熱を帯びている感じがした。ラディから少し困った様な笑顔を返されると、ステビアは慌ててスープを飲み込んだ。コンソメの辛味が喉の奥で引っかかり軽く咽せ、来太が苦笑いをしながら背中をさすった。

「お前さん達、どうでも良いがさっさと食べてくれ。年寄りは動ける時間が限られてるんだ」

 先程までの微妙な張り詰めた空気が、トト爺の一言によって解かされる。

「確かに。ラディ、今日の作業は?」

「二人は薪割りから」

 少し皮肉っぽく笑いながらラディは言った。

「……オレもやるのか?」

「いえ、ステビアさんは見学でも良いですよ」

来太がそう答えると、ラディは首を振る。

「トースト食べたんだ、ここはちゃんと働いて返すべきだぞ。働かざる者食うべからず……っていつの世も言うだろ?」

 ラディがニコリと笑って見せる。どこかで聞いた台詞だった。紫苑や乃亜、来太にはあまり言われた事のない台詞なのだが、いつ誰に言われたのかは思い出せない。ステビアの中で何かがモヤついたが、それを取り払うような咳払いが部屋に響いた。再び急かされた三人は、急いで朝食を済ませると早速仕事に取り掛かった。




 朝食を終えた四人は外へ出ると、ラディは間伐作業へトト爺と山奥へ向かい、ステビアは来太に薪小屋に連れて行かれ、手斧を渡された。

「薪割りやった事、ありますか?」

 来太の問いにステビアは当然だと言うような態度で首を振った。

「でも、見た事はある」

「……乃亜さんがやってたところを?」

 ステビアはまた首を振った。

「違う。でも……誰がやっていたかまでは思い出せない」

 ステビアの脳内で、遠い昔の記憶の中にいる誰かが斧を振った。後ろ姿は自分より大きい。広い背中を見せ、振り向いて自分に微笑む。でもその顔はぼやけて、誰なのかはっきりと分からなかった。

「そう、ですか……。あそこの丸太を俺が小さくするので、薪割り台に置いて、この手斧で二つに割ってください」

 横に積み上げられた丸太の山を来太が指さした。直径三十センチは有る太い丸太が、五本並んで寝っ転がっている。その長さもなかなかに長く、山で切り倒された木を枝を落とし、幾分小さく切り出して運ばれた様だった。

「ここまで来た理由はコレのためか」

 丸太を運び出す来太を見つめながらステビアは言った。

「まぁ、はい。トト爺の手伝いは子どもの頃からやってた事なので、やらないと冬を迎えた気がしないんですよ」

 ノコギリを取り出し、来太が丸太を切り始めた。いつもの様に自作の道具はなく、ここでは人力で奮闘するしかないらしい。

「さぁ、ステビアさん。頑張りましょう!今夜はシチューですよ」

「あぁ」

 来太が切り出した丸太を、台に乗せる。手斧を両手で振り上げて、ステビアは小さな身体をよろめかせながら、丸太に向かって下ろした。斧は丸太に刺さったが、入った切り込みはかなり浅い。斜めに刺さった手斧をそのまま振り上げて、台に丸太をぶつけるが、全く刃が中に入っていかない。何度も繰り返すが思っていた以上に出来ず、ステビアは舌打ちをした。

 何でオレがこんな面倒なことを……。こういうのは、オレじゃなくて……。

「アイツの……」

 ふと脳裏にラディが浮かんだ。それが何故だかは分からない。同時にビリっとした痛みが、こめかみに走った。手で押さえる様に摩るが緩和される事はなく、ビリビリと頭の中に痛みが広がる。次第に目がチカチカとし、後頭部の奥にも鈍痛が響いた。冷や汗がどっと溢れ、呼吸も荒くなる。心臓が異常な速さで脈を打ち、背筋に寒気を感じた。足までも震え出したステビアは、頭を抱えたまま膝からその場に崩れ落ちた。


 何だ……何だこれは。苦しい、上手く息が出来ない。頭も割れそうに痛い。どうして。なんで、なんでなんでなんでなんで……。アイツはいったい……。


 耳の奥で来太が叫ぶ声がするが、視界も聴覚もぼやけてはっきりと分からない。来太に身体を抱き抱えられたのは分かったが、瞼が嫌に重くて仕方なかった。

朦朧とする中で、ステビアは何かを来太に伝えようと口を動かすが、絞り出した声はか細く、来太の耳に届かないままステビアは意識を飛ばしてしまった。





 勢いよく手斧を振り上げ、薪割り作業をしている青年がいた。その銀髪の毛先は青く綺麗に光り、汗を拭う腕にくっついた。

『やぁ、ステビア。今日は雪が降るってさ。おかげで僕も薪割りに駆り出されたよ』

 腕を振り、髪を鬱陶しそうに払うと尽かさず斧を振り上げる。

『間伐作業は良いのか?』

『あっちは人手がたくさん有るからね。風が通り抜けるぐらいに間引いてさえくれれば、風車も凍らずに回せるさ』

『そうか』

 ステビアはその辺に散らばった薪を集めながら答えた。

『それで、君はまたタダ飯を食べに来たのかい?いくら僕の作るものが美味しいからって』

『お前が飛ばした薪を拾うのも結構疲れるぞ』

『なら、ウンと遠くに飛ばしてあげようか』

 青年はニヤリと笑って人差し指をクルンと回した。近くに散らばった薪が突然吹いた風に乗り、宙に浮いて少し離れたところへとふわふわと飛んでいった。

『ラディっ!』

 ステビアが青年をキッと強く睨む。

『働かざるもの食うべからず……だろ。人間の手伝いは君にも良い刺激になる』

『ならせめて余計な事をするなっ』

 ステビアは大きな溜息をつくと、離れて散らばった薪を拾いに走った。




「ステビアさんっ!!」

 来太は意識を飛ばしたステビアにひたすら呼びかけた。顔色は青く、全身がじっとりと汗ばんでいる。あまりの寒さにやられてしまったのか、それとも、初対面の人間との時間が長すぎてしまったのか。そもそも体調が悪かったのかもしれない。来太の頭の中で色んなことが駆け巡る。

「う、うぅ……」

 何度か呼びかけるうちに、ステビアが唸り声を返した。ぎゅっと瞑った眉間に、深い皺が寄る。

「ステビアさんっ、ステビアさん!しっかりして!」

「うぅっ……」

 唸る声は止まず、来太を焦らせる。

 どうしたら、どうしたら良いんだ……!人間が倒れた時だって、何をしたら良いのかまったく分からないのに、魔法使いのステビアさんは……!

 頭の中は文字通り真っ白で、抱えたステビアに声を掛ける以外の事が浮かばない。

どうしたら……どうしたら!!

 キョロキョロと辺りを見渡すが、間伐作業に向かったばかりのトト爺とラディが帰ってくる様子など微塵もない。とにかく、家の中にと思い立ち、来太はぐったりとしたステビアを抱え直した。

 ソファーに寝かし、トト爺の寝室からありったけの毛布を運ぶ。慌てて壁や棚に身体をぶつけ、色んなものを散らばせた。拾って直す暇などない。どうしたら良いのかを何度も何度も反芻しながら考えた。

「あっ!」

 来太は何かを思い出して立ち上がると、ステビアがこの家に持ち込んだ手提げの中をひっくり返した。行きがけにステビアが入れ込んだ紫苑の薬瓶を思い出したのだ。転がった二本の瓶を手に取った。見比べても違いも使い方も分からない。

 でも、自分を助ける時にも効果はあった。状況はだいぶ違うが、魔法使いが作った魔法使い用の薬だ。きっと、たぶん、いや、絶対……大丈夫。

 来太は一本の瓶の栓を抜くと、ステビアの口元に当てたが、指が震えてしまう。横たわったステビアは、眉間に一層深く皺を寄せ、酷く痛む頭痛と闘っていた。


 これが最善なのか、わからない…けど。


「ステビアさん、飲んでっ」


 来太の持った瓶の中から一滴、薬が溢れ、ステビアの口の隙間にするりと流れ込む。喉が微かに動いた。その様子を来太は息を呑んで見つめる。目を覚ますのを、今か今かと食い入る様に彼を見つめた。次第に眉間の皺が消え、唸るような声も寝息に変わっていく。だんだんといつものステビアの寝顔に戻り、来太は止めていた息をゆっくりと吐いた。

「……顔色……戻った……」

 カラカラに渇いた口の中で、来太は安堵の声を漏らした。嫌な汗を拭い、手に持っていた瓶の栓を閉め直す。すうすうという、規則正しい寝息も聞こえ始めた。放流祭の人混みに続いてこれだ。来太はここ最近、人間に会わせ過ぎてしまったストレスが爆発したと、勝手に納得をした。

「すみません……。きっと、色々無理をさせすぎましたよね」

 ステビアの汗ばんだ額にピタリとくっついた髪を払うと、来太は立ち上がった。

「とりあえず、今日使う分だけの薪割り…終わらせてきますね」

 自分の腰につけていた水筒をステビアが横になるソファーの側に置くと、来太は急いで家を飛び出した。




 薪割り作業をやりながら数分置きに様子を見に行く。ステビアは相変わらず苦しそうに唸っているが、目を覚ます気配がない。何十往復もし、来太の足も限界になりかけた。昼を過ぎてから時間も経ち空も薄暗い。本当はすぐに病院へ連れて行くべきなのも分かる。でも、彼は魔法使いだ。それは誰にも言っちゃいけない約束で、そもそも人間に彼らを助けられるかなど分かるわけがない。

 言いたい事と行動にしたい事が全て雁字搦めでもどかしくて、気が気ではなかった。自分が無理をさせてしまったのかもしれない。来太は大きく溜息を吐きながら卑下するばかりで、作業も全く進まない。そうこうしているうちに、ラディとトト爺が間伐作業から戻って来た。

「あれ、来太一人かい?もしかしてステビアはサボって」

 ラディが言い切る前に、来太が今にも泣きそうな顔で彼らの前に駆け寄ってきた。

「倒れたんだ!ステビアさん、急に!もしかしたら、俺が無理をさせたかもしれないっ!」

 目を大きく開き、ラディの胸を強く掴む。焦って言葉が辿々しく、声はだんだんと萎れていく。

「落ち着け」

 トト爺が荷物をその場におろし、来太の肩に手を当てる。

「自分だけじゃ何も出来なくて、どうして良いのかも分からなくて……ステビアさんが持って来た薬を飲ませたんだけど」

「それは何の薬だ」

「えっ……そ、それは……」

 来太は吃った。目の前の二人はステビアを魔法使いだとは知らない。言ってはいけない。助けなければいけないのに、自分で何をすれば良いのか分からないのに言ってはいけないことが多すぎて急に黙り込んでしまう。

「……ス、ステビアさんの知り合いが作った……薬だって聞いた」

 そう言うしかなく、辿々しい口調で答えた。すると、ラディは血相を変えて家の中に走って行く。

「ラディっ!」

 トト爺と来太の叫び声を振り切る。大きな音を立て部屋に入るがステビアは小さな唸り声を上げたまま目を閉じていた。ラディはその苦しそうな小さな身体を抱き抱えると、中に入って来た来太とトト爺を押し退けて外へ出て行く。

「おい、どこに行くんだ!」

「ラディ!ステビアさんをどこに」

 ラディは二人の声に全く聞く耳を持たず、薪の積まれた小屋から古い荷車を引っ張り出し、その荷台にステビアを乗せた。

「待って、そんなのでステビアさんをどこに運ぼうって」

「来太、君も乗れ」

「は……?何言って……医者に連れて行くなら俺のスクーターのが絶対早いに」

「良いから、乗れ!」

 ラディの圧に負け、来太は荷台へ飛び乗った。

「トト爺、朝には戻る」

 ラディはトト爺に声をかけると、トト爺は「荷車、壊すなよ」とだけ答えた。

「もしかしてこれを引いて山を降りるのか?」

「まさか」

 ラディはニヤリと笑うと、荷台に飛び乗り片手の人差し指を一振りした。すると、キラキラとした緑色の光が現れ、荷車のタイヤにまとわりついた。

「えっ、な、ラ、ラディ……?も、もしかして」

「来太、しっかり掴まれ!」

 ラディのその声を合図に荷車は宙へ浮き、空高く上昇した。

「ちょ、わ、わわわわっ」

「人間達に見られたら面倒だ。雲の中を通るから、しっかり掴まってくれ」

 冷静にそう言うラディの横で、顔を引き攣らせる来太。必死で荷車にしがみつきながら、とにかくステビアを落とさないよう抱き抱えた。ゴウっという風の音が強く耳がキーンと痛い。顔に当たる風も、容赦なく迫り、目を開く事ができなかった。

「ラディ!もう少しスピード落とせって!」

「無理だ!これぐらいじゃないとこの荷車じゃ飛べない。それに使い方を間違えた魔法薬は時間が経つと毒にもなるんだ」

「毒!?」

「いいか、お前の家の裏山に降りる。そしたらそこからは自分達の力で走るぞ。ステビアに薬を渡した奴の元へ案内してくれ!」

「わ……わかった!」

 来太は大きく数回頷いた。内心ではステビアの身を案じ、気が気でないはずだったが、魔法使いが空を飛ぶ事実を目の前にして違う高揚感と焦燥感が来太の中に溢れ出す。どうして箒でないのだろう。荷車じゃなくても良いのだろうか、それともこの荷車は特別なのか。そもそもラディは魔法使いという事を隠していたことに驚いた。いや、人間に知られてはいけないのは分かっているが…でも、トト爺は知っているような感じも……。

 色々な事が頭の中で走るが、とにかく、一刻も早くステビアをすいまぁへ連れて行く事が優先だ。

お願いだ……。

どうか、どうか……!

紫苑さん、乃亜さん、お店にいますようにっ……!


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