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蛟竜、雲雨を得(前編)

「ありがとうねぇ、急に来てもらって」

 一人の老人が屋根の修繕作業中の来太に声をかけた。

「いいえ、これぐらいお安い御用ですから」

 来太はそう答えながら軽快に金槌で音を奏で、剥がれてしまって雨漏りのする屋根を手際良く直していく。ここのところ、大雨や台風が続き、強風で屋根や雨戸が壊れる家が相次いだ。本来ならばきちんとした業者に頼んでこそだが、件数の多さに来太の方へも同じような依頼が多数舞い込むようになっていたのだ。応急処置しか出来ないことを承知してもらっての作業だったが、それでも助かると言われて何件も快く受けてしまったため、ステビアの元になかなか顔を出せない日々が続いていた。

「おーい、そこ、板がズレてないかー?」

 下の方から依頼主とは別の声が聞こえた。ズレていると聞こえ、来太は作業の手をぴたりと止める。声がした方に視線を向けると、見知った顔の青年が家の門の前で立っているのが見えた。

「そこそこ。ちゃんと直せよ〜」

「げっ……」

 来太はあからさまに嫌そうな顔をし、ズレたと言われた板を手早く直す。声をかけた男は、にこやかにその作業姿を見上げ、手持ち無沙汰なのかゴーグルを腕に引っ掛けると、くるくると回して口笛を吹いている。お気楽そうなこの男は来太の幼馴染、常盤結斗だった。

「ウンウン、宜しい宜しい」

 満足気に頷くのを見て、来太は溜息をついた。チラリと目に入った腕時計の時刻は、丁度正午過ぎ。きっと昼休みか何かでブラブラと歩いていたのだろう。どうせ黙って見ているだけだと思っていると、結斗は勝手に門を開けて庭先に入ってきた。

「あ、おいっ」

 屋根から彼を止めようと声をかけるが、その来太を無視して結斗は老人に声をかけた。

「おじいちゃん、あれ、俺の弟分なんだ。良い仕事してる?」

 おじいちゃん、と親しげに声をかけられた依頼主も勝手に入った事を咎めもせず、嬉しそうに話し込んでいた。





 仕事を終えた来太と昼休みの結斗は、老人宅から少し離れた中華料理店に入った。結斗は席に案内されるなり、メニューを開いて店員にあれやこれや写真を指差して注文を始める。結構な量を目の前で注文しているため、その細い身体の一体どこに入るのだと来太は眉を寄せた。

 店員に大量の注文を終えると、結斗は出されたグラスの水を一口飲んだ。

「いやぁ、ここの料理美味しいんだよね。ただ、一人じゃいくつも頼めないから、お前を拾えて良かったよ」

「だとしても昼休みに食べるって量じゃなかっただろ……。俺そんなに食えないぞ?」

「大丈夫、大丈夫!お前が食えない分は俺が食うし。ま、またお前が俺のお弁当作ってさえくれれば、こんな事にはならんのだがね〜」

「……いやだよ、職場遠いし」

「えぇー。この間までは頼んでもないのにやたら持ってきたじゃん。急にパタっと来なくなったけどさ」

 結斗の言った『この間』というのは、来太がステビアと知り合って間もない頃のことだった。毎朝仕事前に通い詰め、食料を運んでいたが当初はステビアに警戒されてしまい、大量に作ったおにぎりやサンドイッチを持て余した結果、思いついたのはこの目の前の男への差し入れだった。

「忙しくなったんだよ」

「うわ、見えすいた嘘だな。さては彼女でも出来た?可愛い?紹介しろ?」

 結斗が乗り出してテーブルがガタンと揺れた。好奇の目を向けながら迫る彼のおでこを軽く弾くと来太はグラスの水を飲む。

「痛っ!歳上に向かって生意気だぞぉ」

 氷の入ったグラスを手に取り、額に当てながら頬を膨らませる。そのわざとらしい顔に来太は呆れた視線を送った。

「彼女じゃないって……。友達が出来たんだ」

「へぇ、女の子?」

「だから、違うって。極度の人見知りだからまだ結斗には会わせられないけど……」

 女の子ではないと聞いて、目の前の男は目の色がころっと変わった。適当な相槌をし、おススメメニューと書かれた手作りポスターをぼんやりと眺め始めていた。



 常盤結斗という男は、来太より三つ歳上の幼馴染。来太の祖父の家からすぐの家に暮らしており、幼い頃の遊び相手だった。大人しい見た目をしているが、昔から来太がどんなに本気を出しても喧嘩はもちろん、勉強でも勝つことはできない相手であり、今でも血の繋がりは無くとも兄として慕っている。

 学生期を終えた結斗は、マツリダ都市部の地下に設置された貯水タンクの設備管理の仕事をしている。山岳にあるようなダムとは規模はだいぶ変わってしまうのだが、彼の管理するタンクは地下の中に掘られたトンネルを再利用したもので、それなりに大きい。地下に流れた雨水を濾過し、それを災害時の生活水としてあてがっている。加えて一年に一度行われる夏季イベントである『放流祭』で使用されている水も、結斗が管理しているタンクから出されているものだった。放流祭とは、昔からこの都市で開催されているイベントで、一年に一度タンクの水を入れ替えるために人工で作った水路に水を放流し、人口の川をつくるという単純なイベント。もっと昔には別の意味があったと言われてはいるが、今ではタンクの清掃をお祭りに変えたと言われ続けているものだ。今年の放流祭も間近に迫ってきており、結斗は祭りの実行委員会等との打ち合わせも立て込んでいた。



 少しして、来太と結斗のテーブルに沢山の料理が運ばれてきた。大皿に盛られた麻婆豆腐、回鍋肉に、棒棒鶏。二人分の天津飯と炒飯に、たまごスープ。春巻き二人前に、小さな蒸籠の中に餃子と小籠包の入った点心セット。見ただけで胸焼けしそうな量に来太は顔を引きつらせた。

「冷めないうちどうぞ。お兄さんが奢ってあげる。残さず食べような」

「苦行かよ……。いただきます」

 来太は手を合わせてから箸を持った。



「今って、依頼立て込んでるか?」

 食事を始めて数分後、黙々と食べ進めていた結斗が来太に言った。料理は吸い込まれたかのように殆どの皿が半分以上に減っている。

「台風が続いたからね。屋根とか雨戸の修繕依頼はまだあるけど、とりあえず明後日には落ち着くかなぁ」

「そうか、ならちょうど良いな」

 にこりと嬉しそうに笑った結斗は、天津飯の皿を自分の方へ寄せ、直接レンゲで食べ始めた。

「何が」

 先程から箸が進まない来太は、これも食べろと結斗の方へ麻婆豆腐の大皿を寄せた。

「また今年も手伝い頼みたいんだよ、放流祭の」

 天津飯をペロリと平らげた結斗は休む暇なく麻婆豆腐の大皿に手をつける。

「ちなみに、朝昼のご飯付きで!もちろん俺限定だけど」

「はぁ?」

 にっこりとした笑顔で図々しい条件をつけるため、来太は眉をピクリと動かして怪訝そうに返事をした。

「良いじゃんか。俺、来太に胃袋掴まれててわざわざ遠出しないと昼飯も満足に食べられないんだぞっ」

 頬を膨らませながら威張って言う結斗に来太はジト目を向け、首を振った。

「毎日は無理」

「えーっ。なんでだよ……あ、やっぱり女の子だな?紹介しろって」

「それは依頼のうちに入らないだろ」

 来太は軽く椅子を引いて距離を取り、グラスに入っていた水をゆっくりと飲んだ。その様子を見て、結斗は残念そうに残りの麻婆豆腐をレンゲで掬い、口に運ぶ。大皿の料理を先程とは打って変わってちまちまと食べ進めるため、来太は大きな溜息をつき、頭掻きながら言った。

「手伝いは良いよ。毎年のことだし……。でも朝昼のご飯は別。まぁ、気まぐれでやってあげれる日はあるかもだけど」

 ただでさえ今はステビアの元に食料を運ぶ事が出来ていないのだ。依頼だからといって、結斗を優先するのはなんだか気が引けてしまう。

「……まぁ、それでも良いよ。お前が来てくれれば俺も安心して作業できるし」

 本当に納得したのかは分からないが、結斗は重要なのはメシじゃないからなー、と言って笑いながら残りの料理を再びペースを戻して食べ始めた。



「うん、満足だなぁ」

「そりゃ、あれだけ食べたらな」

 会計を済ませて店を出た二人は、並んで歩いていた。

「この後は?」

「もう一件依頼があるよ。少し距離があるからスクーターを取りに一旦帰るけど。依頼の話なら明後日聞きに行く」

「うん、わかった。お昼頃に可愛いお弁当持ってきてくれるとお兄さんは嬉しいなぁ」

「……はいはい。気が向いたらね」

 来太の返事に結斗は嬉しそうに微笑むと、途中の曲がり角でデザートを食べてから仕事に戻ると言い、来太と別れた。あれだけ食べても彼にはまだ別腹が存在するらしく、来太は聞いただけで胸焼けした。



 結斗の仕事場へ依頼の話を聞きに行く日。久しぶりに来太は大量のおにぎりと厚焼き玉子にタコさんウィンナーをこしらえると、いくつかの容器に分けてそれらを詰め込んだ。気が向いたらと言いつつも、結斗の分は別に用意して鞄の中に詰め込んだ。久しぶりなクセしてステビアに渡す分がいつもより少ないのは何となく胸が痛かった。


「ステビアさん、おはようございますっ」

 久しぶりに叩いたドアがゆっくりと開いた。ムスッとした仏頂面の家主は、来太の顔を見るなり余計に眉間へシワを寄せる。

「すみません、なかなか来れずにいて」

「……別に」

 ステビアは小さな声であからさまな態度を出す。苦笑いをしながら中に入ると、山のように積見上げられた本が目に入った。

「調べ物ですか?」

「まぁ、そんなところだ。退屈しのぎに魔草について調べていた」

 見たことのない文字で書かれているあたりが魔法使いと人間の差なのだろうか。表紙や背表紙では何の本かは分からない。来太は物珍しさに一冊手に取りページを捲る。その中には全く読めない文字が並び、見たことのない植物の挿絵が描かれていた。しかし、憧れていた魔法使いの本だからなのか、胸の辺りはザワザワとして高揚感が増すのを感じた。

「それ、シオンの本だからな。あまり汚すなよ」

「あ、はい」

 そう言われて納得する。あの魔窟と化した部屋から取り出されたのだろう。どの本の表紙も砂っぽい埃がくっついていて、触ると少し手が黒ずんだ。

 荷物を下ろし、来太が手を洗うとステビアはちゃっかりテーブルのすぐ横に行儀良く座って待っていた。

「ステビアさん、ご飯食べてなかったんですか?」

 来太は鞄の中から持ってきた弁当箱を取り出し、テーブルの上に並べた。

「いや、ノアが持ってきた鯛焼きなら食べた」

「そうでしたか」

 弁当箱の蓋を開け、箸をステビアに渡す。また食べずに空腹で倒れるということはなかったようで一安心した。魔法使いは空腹程度では死にはしないというが、ステビアに至ってはそれが我慢できない体質なのだろうか。

「今日、俺これから出かけるので」

「俺もこの本を返しに来いと言われてる」

「えっ!外、行くんですかっ!」

 思いもよらないステビアの発言に、来太は大きな声を出した。

「……まだ、一人では無理だ」

 弁当に入っていたタコさんウィンナーを咥えながら、気恥ずかしそうに答える。一人では無理だったが、誰かがいれば外に出れる……。それでも彼の引きこもり年数を考えれば大きな前進であることには違いない。

「そ、それにっ!これだけの本は一人じゃ持って行けないっ!お前も手伝え」

 顔を少しだけ赤らめながら、慌てて面倒な言い訳をする。銀髪の隙間から見える頬がぷっくり膨れていた。

「はい、食べたら行きましょう」

 くすくすと笑い返し、来太はお茶を淹れ始めた。



 その日、珍しく紫苑は乃亜よりも早くに目が覚めた。それがわかったのは、居間に降りてきてからだった。いつも朝起きると甘い鯛焼きの生地の香りが居間の方まで香り、紫苑が顔を洗い終わるとちゃぶ台の真ん中に淹れたてのコーヒーが置いてあるのだが、今日はそれが無かった。ついこの間、遠くの山までお使いを頼んでしまったし、無理に起こすことは出来ない。時計を見ると、朝の九時前。幸い、彼の仕事は昼過ぎがピークだ。あと少し寝かせてから起こしてやろう。紫苑はぼうっとする目を擦りながら、台所に置いていた煙管を取り、自宅前のポストへ新聞を取りに向かう。魔法使いと言えど、住んでいる世界の中心は人間である。情報はだいたい新聞から得ていた。玄関を出ると、近所の店が開店準備をしているのが見えた。

「あぁ、これは……起こさないと怒られてしまいますねぇ…」

 呑気に煙管を咥えて呟いた。朝の騒々しい商店街に紫苑の声はかき消されていく。長く伸びた紫色の髪が風に揺れた。寝る前に乃亜が結いてくれた三つ編みは解けかけている。こんな朝は久々だ。乃亜よりも早く起きることも滅多にないが、手元にあった依頼がすべて片付いた。この後のことは何も考えなくても良いと思うと、文字通り身体が軽い。楽しみにとっておいた本も何冊かあったし、それに毎年のマツリダで催される放流祭も近い。出店を出すと頑張っていたし、気まぐれに乃亜の仕事を手伝っても良い。そんなことを考えていた。

「あー、やっぱ早いよなぁ」

 店の方で声がした。紫苑は玄関から離れ、店の方へ回るとダボついた作業着を着た深緑色の髪をした男が立っていた。

「おじさん、ここの鯛焼き屋って何時からなの?この間はこの時間に焼いてたんだけど」

 男は開店準備をしている隣の店に声をかけた。

「さぁな。だいたい朝仕込んではいるけど……今日はまだみたいだな」

「時間とか決まってないのかなぁ」

「ま、ノアちゃんは気まぐれだからな」

「ふぅん」

「この時間に焼いてたってなると、その時は焼けたから売った、とかそんな理由だろ」

 店主はケラケラと笑いながら店の奥に引っ込んでいった。そうは言われても諦められないのか、男は店の前の椅子に座り、目を細めて中を覗き込んでいた。

「おはようございます」

「ふぇ?」

 気の抜けた返事をした男は、いつの間にか背後にいた紫苑の顔を見て目を見開いた。

「うわぁっ」

「すみません、驚かすつもりは無かったのですが……」

 申し訳なさそうに笑い、紫苑は彼の二つ隣の椅子に腰掛けた。片手に持った煙管を咥え、長い足を組む。新聞はポストに戻してきたらしい。ゆっくりと煙を吐き出すと、男に向かってにこりと笑った。紫苑のその顔に思わず男は赤面する。

「あ、あのう……このお店の人ですよね?」

「えぇ。ご存知だったんですか」

 再びニコリと微笑むと、男は赤面したまま微笑み返す。

「はい。ここに来るといつもお店の奥であなたが見えていたので……。綺麗な方だと思っていましたが、近くでみたら本当にお綺麗で驚きました」

 男はそう言って椅子から立ち上がると、紫苑の隣に座り直す。急に縮まった距離に驚いた紫苑は、煙管の灰を足元に落としてしまった。

「すみませんが、今日は店主がまだ起きてこなくて……。お昼過ぎにお店を開けるかと思うので出直して頂けたら」

「でしたら、一緒に待ちませんか?いやぁ、どうしてもここの鯛焼きが食べたくて。俺、仕事までまだ時間あるし」

 そう言いながら今度は空いている紫苑の片手を取り、指を絡ませる。指と指の間を擦り寄せてくるため、背中のあたりがぞわぞわした。

「ねっ?あ、俺、常盤結斗って言いますっ!あなたは」

「えぇっと、し、汐八紫苑です……」

 手をぎゅっと握られた紫苑は流されるまま答えてしまった。

「あの、私は出直してほしいことをお伝えしにきただけで……」

 掴まれた手はなかなか離れない。にこにこと笑う結斗にも悪意は感じられない上に、乃亜の客である以上、下手に扱えない。こういう時、眠らせたりできる魔法がさらっと使えれば……なんて考えてしまう。普段持ち歩いている護身用の痺れ薬も、起き抜けのため部屋に置いてきていた。近所の店も開店準備中とはいえ、店同士の距離が近い。気絶ぐらいならどうにかさせられそうだが、万が一こんなところを見られてしまったら……。

「ここでお会いしたのも何かの縁です。俺と一緒に」

 ガンっ!

 背後で鉄板の上に何かが落ちた音がした。振り向くと寝癖のついた乃亜が、不機嫌極まりない顔をして結斗と紫苑を睨んでいる。額に青筋が浮かび、それがぴくんと動くのを紫苑は見逃さなかった。手にはアルミのボウルが握られていて、先程の音はこれを鉄板に思い切り叩きつけた音だったのが分かる。

「紫苑……てめぇ……何で起こさねぇっ」

「すみません、新聞取ったらすぐに起こすつもりだったんですけど……」

 笑って誤魔化すが、乃亜は尽かさず隣で紫苑の手を握りっぱなしの結斗を睨んだ。

「で、アンタはウチの風紀を乱しにきたのか、俺の鯛焼きを食いにきたのか……どっちだ」

「紫苑さん、彼とはどんな関係ですか?」

「えっ」

「おい、無視すんなっ!俺の質問に答えろ」

「もしかして……恋人ですか?」

「いや、そういう訳では」

「つーかいい加減その手離せ」

 ガンガンとボウルを鉄板に打ち付けながら乃亜が言う。仕込みが終わっていない上に、寝坊。起きてきたらこんな訳の分からない状況、更に話を聞かない客におかしな勘違いをされた……乃亜の怒りのボルテージが上がらない訳がない。カンカンという音が周りに響き、両隣の店の店主達が覗きに来て不思議そうな顔をしていた。

「ノアくん、落ち着いてください。彼はあなたがお店を開けるのを待っていただけですから」

 紫苑がため息まじりで呆れたように言う。相手が人間だからだろうが、それにしてもこのままでは変な誤解を生んでしまうだろう。ただでさえおかしな勘違いをされているのに。

「ならさっさと起こしに来りゃ良い話だろーがっ!」

「ですからっ」

「まあまあまあ。こんなに綺麗な人が言ってることに嘘偽りがあるわけないじゃないですかぁ」

 紫苑の手を名残惜しそうに離し、椅子からゆっくり立ち上がると結斗は乃亜ににこにこと笑いながら言った。

「紫苑さんはお店が開くのを一緒に待っててくれただけ。オニーサン、あんまり怒らないで」

「あぁ?」

 明らかに客商売に向いていない表情をする乃亜を見て、紫苑は苦笑いをした。

「やっぱり出直すかなぁ……。ここの鯛焼き食べないと最近調子出なかったのに……。あっ、紫苑さん、今度一緒に食事でも」

「ひとまずご遠慮します。ウチの人、怒ると怖いので」

「おいコラ紫苑」

 開き直った紫苑がいつもの調子で答える。せっかく離れた手をまた掴まれまいと、両手を後ろに組んだ。

「あはは。結構本気だったのになぁ。恋人いるなら最初から言ってくれないと」

「誰が恋人だ胸糞悪ィ」

「それじゃ、また」

「待て」

 乃亜が立ち去ろうとした結斗を呼び止めた。殴りかかるのでは、と焦った紫苑が間に入ろうとしたが、彼は店の簡易扉から出てくるとメモ用紙とペンを結斗に渡した。

「連絡先寄越せ。後でお前の家に持ってってやるから」

「いや、流石に」

「待たせたから」

 メモ用紙とペンを結斗の胸元に押し付ける。断っても動かない乃亜に負けた結斗は、ペンのキャップを取るとその紙にサラサラと何かを書き出した。

「そしたら……出来上がったらここに連絡して、こいつに持たせて。代金もそいつから貰ってよ。後で会う予定なんだ」

 乃亜は受け取った紙に書かれた文字を見てギョっとした。

「それ、俺の弟分なんだ。頼めば色んなことやってくれる仕事してるから、オニーサンの役にも立つかもよ。じゃ、よろしくお願いしまーす」

 にこにこと笑いながら結斗は二人にぺこりと会釈をすると、仲見世通りの奥へと歩いて行った。

「ノアくん、どうかしましたか?」

 結斗に手を振りながら乃亜の後ろ姿に声をかけた。

「弟が弟なら兄も兄だな……」

「なんのことですか?」

「連絡、任せる」

 そう言って乃亜は紫苑にメモ用紙を渡すと店の中に入って仕込みを始めた。

「連絡って……これ、おやおやおやおや…」

 よく知る人間の名前が書かれたメモ用紙見て、紫苑は眉をハの字に寄せ思わず吹き出してしまった。




「つー訳でコレ。よろしく」

 ステビアと一緒に外へ出た直後、紫苑から来太に電話があり『渡すものがある』と伝えられ足早に向かうと、パンパンに膨れ上がった紙袋を乃亜から渡された。

「これは……?」

「結斗さんがあなたに渡してくれと頼まれたので」

 ステビアが借りていた本を片し終えると紫苑が戻ってきて来太に声をかけた。

「なっ……結斗って……!ていうか結斗のこと知っているんですかっ」

「まぁ、色々ありまして」

「はぁ……」

「そいつに、今後一切開店前には来るなって伝えとけ」

「ご、ご迷惑をおかけしてすみません……」

 乃亜の一言に何かを察したのか、来太が深々と頭を下げる。自分の事を弟だと言って何かと構ってくれる結斗だが、こうやって自分の知り合いにさらっと近づいて知らないうちに交流を深めていることが今までに何度もあった。しかし、今回のはなんとなく心臓に悪い。

「とりあえず色々誤解をしているようでしたので訂正をしておいてください」

「え、誤解?」

 聞き返すと、返事の代わりに乃亜が舌打ちをした。どうやら余程腹立たしい勘違いをしているらしい。

「たぶん、彼と話せば分かるかと……」

 紫苑に苦笑いをされてしまい、なんとも居た堪れない。

「出かけるのか」

 やりとりを遠くで見ていたステビアが口を開いた。ちゃぶ台でお茶請けに用意されていた鯛焼きを口いっぱいに頬張っている。その横には新しい数冊の本が積み上げられていた。

「お迎えいりますか?」

「いい。俺が送る」

 ステビアではなく乃亜が先に答えた。

「とにかくお前はアイツの誤解を解いてこい」

「あの、それってどんな誤解何ですか」

「口に出したくねぇからさっさと行け」

 それだけ言うと乃亜は店の方に戻って言った。

「ノア、機嫌悪いな」

「これでも接客中は可愛いらしいスマイルを」

「紫苑っ!」

 店先に聞こえるか聞こえないかの声だったが、乃亜の耳にはしっかり聞こえたようだった。

「……朝からすみませんでした。そしたら俺、結斗のとこ行くのでステビアさん、また」

「おー」

 ぺこりと軽く頭を下げると、来太は失礼しました!と大きな声で挨拶をして玄関を閉めて出て行った。




 結斗の働く事務所は、マツリダ都市部から離れた地区にあった。住宅街から離れた煉瓦造りの建物で、高めの塀に覆われている。言われなければ貯水タンクの管理事務所だとは考えにくいだろう。赤土色の建物はその近辺ではそこだけで、異様に目立っていた。タンクに続く地下道入口が塀を入ってすぐにあるが、タンクへはだいぶ距離がある。事務処理中に事故や災害が発生した場合、被害拡大を防ぐための処置であったが、結斗はどちらかというと地下に篭って仕事をする事のが好きだった。今日はただ来太に仕事の話をするため、待ち合わせは作業場ではなく事務所を指定していた。

 来太はパンパンに膨れ上がった紙袋を持ち直し、門のすぐ横にあるベルを鳴らした。

『合言葉は?』

 数秒と経たないうちに、ふざけた返事がスピーカーから聞こえてきた。こんなことをするのが誰かなど、名乗らなくてもわかる。

「鯛焼きのお届けですが」

『宜しいっ!入りたまえっ!』

 ため息混じりで答えると、声のトーンが一オクターブ上がった返事が返ってきて、同時に横の門が開いた。セキュリティが万全なのか全く持ってわからない流れに来太はモヤモヤしながらも足を踏み入れた。


 建物に入って直ぐの階段を登る。時々弁当を運んだり、毎年放流祭の手伝いをしている来太は慣れたものだった。二階に上がって一番手前の執務室の扉をノックをすると、気の抜けた返事が聞こえてきた。

「やぁ、来太。ここまでありがとう」

「朝から人様に迷惑かけて反省ぐらいしたんだろうな?」

 来太は押しつけるように結斗へ鯛焼きの入ったパンパンの紙袋と今朝作った弁当を渡し、ドアを閉めた。

「今後一切開店前に来るなって、ノアさんめちゃくちゃ怒ってたぞ」

 受け取って早速鯛焼きにかぶりついている結斗に来太はまた呆れた顔を見せた。

「あはは、気をつけるよ。っていうか、来太あそこのオニーサンと知り合いなの?」

 結斗は鼻歌混じりに弁当箱を開け、中味を嬉しそうに確認した。少し寄ってしまったが大きな形崩れはしておらず、ウィンナーや玉子焼きの香りがふわっと部屋に舞った。

「まぁ、色々あって」

「ってことはスーパーミラクル美人の紫苑さんとも知ってるの?」

 持っていた紙袋をそばのデスクに置き、鯛焼きを咥えながら来太に攻め寄る。

「知ってるけど……」

「なら話が早いっ!今日から俺の恋のキューピッドに」

「そんなことより仕事の話だろ」

 紫苑の言っていた誤解の意味がなんとなく理解できた来太は頭を抱えながら近くの椅子に座った。

「そんな意地悪言わないで」

「だいたい、紫苑さんは男だって。確かに綺麗だけどさぁ」

「は?男……?」

 さっきまでの騒がしい声がピタリと止む。確かに誤解を解いてこいとは言われたが、ストレートな物言いをしすぎた、と来太も顔を引きつらせた。しかし、ただでさえ紫苑たちは魔法使いで結斗は人間だ。変に深い仲になろうと躍起になられても後々困る。

「そう、男の人。同性。結斗の大好きなお姉さんではないよ」

 追い討ちをかけるように来太が言った。結斗は黙り、ゆっくりと下を見つめる。時計の秒針の音が部屋に響き、来太の額に変な汗が滲んだ。

 やっぱり、言いすぎたのかもしれない……。いや、でも勘違いは勘違いだし……。

「……お前、そう言えって言われたんだろあの鯛焼き屋のオニーサンに!」

「は?」

 何を言い出すかと思いきや、結斗は突拍子もないことを口にした。

「あのなぁ……そんな訳ないだろ!ったく、仕事の話しないんだったら帰るよ」

「あんなに綺麗なのにっ!」

 来太の呆れ声は全く聞こえないようで、結斗は信じないだの、そんな牽制は子供っぽいだのをぶつぶつと呟いている。以前、どっかの花屋の女の子に一目惚れをして協力を煽られたが、彼女には既に婚約者がいたりと結斗は色々と『持っていない』。今回はまさかの同性に一目惚れというオチだ。言っておきながらも来太はまだ言うべきではなかったかもしれないと、少しだけ後悔をした。目の前の男は諦める様子よりもそんな事実は絶対にあり得ないと豪語している。なんでそう、面倒な方に惹かれてしまうのだろうか。

「もう信じるか信じないかは任せるけどさ、相手としては諦めなよ」

「そう言われると信じるしか」

「本当、面倒くさい」

 結斗のその真剣な表情を痛々しく思いながら、来太が頭を抱えて大きな溜息をついた時だった。

「結斗っ!アンタ、また勝手に事務所に寝泊まりしたでしょっ!」

 勢いよくドアが開くと、結斗と同じ作業着を着た黒い長い髪の女性が中に入ってきた。名前は黒羽紅愛(くろば くれあ)。容姿は申し分ない美人で、身長もスラリと高い。特に目を引くのはその豊満な胸と、ぷっくりと膨れた艶っぽい唇だった。

「あ、こんにちは紅愛さん」

 紅愛と呼ばれた女性は、来太に気がつくと眉間に寄せたシワを綺麗に伸ばし、にっこりと笑った。

「あら、来太くん。こんにちは」

 結斗を睨む鋭い目付きとは打って変わり、柔らかい表情に変わる。こんな美人を同僚に持ちながら、外の女性にうつつを抜かす兄貴分はなんて贅沢者だろうと来太は常々思う。

「良いじゃん、どうせ今日も来たんだし」

 結斗は可愛くもないくせに膨れっ面を晒しながら悪びれもなく答える。

「良い訳ないでしょこのアンポンタン!まったく、お茶も出さないで……来太くん、少し待ってて今淹れるから」

「いえ、お構いなく」

「ダメよ。毎年お手伝いしてもらってるんだもの、このぐらいはしなきゃ。本当、気が利きかないわね、このクソ男」

 にこりと笑いながら紅愛はそう言うと、部屋からいそいそと出て行った。

「部下にクソ男って呼ばれて良い訳?」

「あはは、クレアは俺に厳しすぎるんだよなぁ」

「どの口が言ってんの……」

「はいはい。ちゃんとしますよーだっ」

 子供の口答えに似た返答をすると、デスクの引き出しから用紙を取り出した。

「そんじゃ、お仕事の話ね。これが今回の放流祭の流れだよ」

 取り出した用紙を来太に手渡す。ビッシリと書かれたタイムスケジュールは分刻みで記載されていた。

「これ、いつもより盛り沢山じゃ……」

 紅愛が三人分のマグカップ持ち、脇に一冊の本を挟みながら部屋に入ってきた。デスクにマグカップを置いて、来太の横からタイムスケジュールを覗き込む。

「今年は放流祭百回記念だから色々あるのよ。まぁ、やることは大して変わらないのだけど」

「確かにやる事は変わらなさそうだけど……」

 放流祭メインの放流は午前中に行われる。地下のタンクから水を引き上げ出し、祭専用に作られた水路に放流をして、川の無いこのマツリダ都市に人工の川を作る。この時期は特に気温が高いため、都市部の気温上昇を回避させることを目的として、流れる人工川に舟を浮かべて競わせたり、魚を離して釣りを楽しむ。毎年全部は出来ないためどちらかを交互に行ってきたが、渡された用紙を見ると、今年はどちらも行うようで人手も時間もかなりギリギリだ。更に今年は記念だからと言って夜には打ち上げ花火も上がる予定だと記載されている。ハードなスケジュールを組んでいるが、イベント開催中に貯水タンクの掃除もしなければならない。

「これ、何か削るべきじゃない?」

「そうよねぇ。実行委員会なんてただの祭好き年寄りの会合だもの。言いたい放題で自分達は高みの見物でしょうね」

「まぁ、今後数十年はない祝い事だしさ。今年だけちょっと忙しいってだけだよ。むしろそんな貴重な体験できるとかラッキーだと思えばいい」

 他人事のように言いながら、結斗はデスクの椅子に深々と腰掛けた。

「そうは言うけど、人手確保してるんだよね……?俺、一人でタンクの掃除は無理だからな」

「大丈夫、来太一人にはしないよ。そもそもお前、タンクまで一人で行けないだろ」

 ニヤニヤと悪戯っぽく笑われて、来太は唇を尖らせた。ここ数年何度も手伝いをしているが、エレベーターに乗って地下に降りる際の圧迫感がどうも身体に合わず、酔ってしまう。地下のタンクに着く頃にはかなり体力を削られてしまい、タンクについてからは時間を掛けて調子を取り戻す。行き帰りのエレベーターに一人で乗るのが不安になってしまうのはこれのせいだった。

「私も今年は清掃に回るつもりだから、安心して。地上で踏ん反り返っている年寄りなんて興味ないもの」

 紅愛がにこりと笑いながら、来太の肩を軽く叩く。

「他にももちろん清掃員は派遣するよ。今年は沢山人員確保してるんだ。指揮官はクレアに任せるし、まぁ来太は例年通り自前の不思議道具使って作業してくれれば良いよ」

 気楽にして、と呑気に言うと結斗は再び鯛焼きに手を伸ばした。

「そうそう、気楽に構えて良いわ。あくまでもお手伝いだし、人もいるみたいだから後半はお祭り楽しんで頂戴ね」

 そう言うと紅愛は先程お茶と一緒に持ってきた一冊の本を来太に差し出した。

「来太くん、これ読み終わった本だけど。結斗から聞いたのよ、魔法使いが出る物語が好きだって」

「事務所で珍しくそんな本読んでるからね、来太が好きそうって教えたんだ」

 両手に鯛焼きを持っている結斗が、偉そうに足を組んで座りながら椅子でくるくると回りながら言った。

「えっ、借りて良いんですかっ」

「あげるわ。そのかわり当日はよろしくね」

「はいっ!」

 来太は嬉しそにその本を受け取ると、パラパラとページを捲った。そういえば最近、久しく読書などしていない。なんだかんだ依頼のない時はステビア達と一緒にいる事が多かった。それに来太が憧れたのは物語上で生きた魔法使いだった。例え事実と違っていても物語に出てくる魔法使いへの憧れだけは今でもなくすことはできない。渡された本を眺めながら、子どもの様にキラキラと目を輝かせた来太を久しぶりに見た結斗は、静かに笑みを浮かべた。



「すみません、見送りなんて」

「喫煙所に寄るついでだから、気にしないで」

 あらかたイベント当日の流れや、掃除の手順を確認し終わる頃、年配の実行委員数名が結斗を訪ねて来たため、来太と紅愛は執務室を後にした。

「結斗、忙しそうですね」

「本人無自覚で人に好かれるタイプなのが気の毒ね。あなたもそうでしょ、結斗のこと」

 紅愛の言葉に来太は小さく笑う。昔から何故か結斗の周りには沢山の人がいた。羨ましいぐらいに顔が広くて、初めて会った人ともすぐに打ち解けていた。気がついたら結斗はそうやって人と人との間に立っている。まぁ、同じぐらいに人への迷惑は計り知れないのだけれど……。

「否定はしないですけど、俺に対しては負荷のがデカいです」

「あら、私もよ」

 ふふふ、と笑い紅愛は髪を指で梳いた。さらっと流れる黒い長い髪が、来太の腕をかすめる。微かに甘い香りがして、思わず来太は赤面する。事務所の出入り口を開け、来太を促すと、紅愛は作業着の胸ポケットから小さな箱とマッチ箱を取り出した。その辺に売っていなさそうな、綺麗な模様が施された黒い箱から細長い葉巻を一本取り出すと口に咥えた。来太が物珍しそうにその箱を見ていると、紅愛はもう一本取り出して来太に差し出す。

「付き合う?」

「俺、まだ吸えないっすよ」

 苦笑いで答えると、残念そうに葉巻を戻した。先程は良く見えなかったが、その黒い箱に金色の文字で『toi et moi 』と記載されているのが見えた。

「後少し大人になったら一緒にね」

「あはは。その時はよろしくお願いします。それじゃ、俺行くので……。本、ありがとうございます」

「いいえ。放流祭よろしくね」

「はいっ」

 来太はぺこりとお辞儀をすると、足早に門の外へと駆けて行く。その後ろ姿を見つめながら、紅愛は葉巻に火をつけた。煙をゆっくりと吸い込み、静かに吐き出す。どんよりとしたねずみ色の雲が遠くの空に浮かんでいるのが見えた。

「本当、良い子すぎるんだから……」

 静かにクスクスと笑う紅愛の声が、煙と一緒に小さく消えた。






「おはよう」

 その声が聞こえたのはいつだったんだろう。

 昨日だった気がするけど、もう少し前の事だった気がする。

 こっちは眠くて仕方ないのに、いつだって楽しそうに笑ってた。

「よく眠るね」

 そう言って、頭を優しく撫でてくれた。

 そういえば、もっとよく眠れるようにって新しい寝床をくれたんだっけ。

 何をもらったのか、忘れちゃうほど気持ち良くて居心地良くて。

 そこはふわっと浮いた空のように綺麗な空気が沢山あって、温かい。


 でも気がついたら無くなっていた。

 目が覚めたら消えていた。

 どこに行ったんだろう、どこに落としたんだろう。

 たくさん探してたくさん泣いた。

 誰もいなくて、何もなくて。

 寂しくて寂しくて寂しくて。


 なんで一人にしたの。

 どこに行ってしまったの。

 お願い。

 もう一度、一緒に笑って…。








「百年龍?」

「そ。なんで百年なのかは知らないけど、百年龍。この神社の言い伝えだよ」

 石畳の参道を歩きながら結斗が話した。今日は放流祭前日で、来太は結斗に呼び出されてマツリダ中心部に古くから建てられていた霞神社にやってきていた。

「この神社には水神が祀られているって言われてるだろう、それが百年龍って言われてるんだ。知ってた?」

 来太は首を横に振った。毎年放流祭前に祭りの成功と安全をこの神社で祈祷するのが習わしであることと、水神様、龍神様と言われて親しまれていたのは知っていたが、百年龍というのは初耳だった。それに幼い頃から参拝といえばもっと近所にある神社だった来太は、あまりここには馴染みがない。

「その、百年龍がどうかした?」

 授与所の近くで甘酒を配っている巫女に手を振る結斗を横目で見ながら来太は尋ねる。

「いやぁ、今回で百回の記念祭だろ。なんか繋がりあるのかなって。ほら、放流祭って歴史は古いけど何で始まったのかとかあまり知られてないし。もしかしたら龍の怒りを鎮めるために……とかだったりして」

「そんな伝説、マツリダで聞いたことないよ」

「でもさ、よくありそうな話だろ。お前の好きな魔法使いの話があるんだから」

「でも、あまり広まってはないよ……」

「まぁ、非現実的な話だし……そういうのが好きなのは、歳を取るたびに少数派になっていくのさ」

 巫女から甘酒を受け取ると、結斗はどさくさに紛れてその手をちゃっかり握っていた。

「こら、沢山人がいるところでそういう事しない」

 来太がその手を無理矢理離すと、困っていた表情の巫女さんがぺこりと頭を下げた。今日は年末年始でもないというのに、霞神社にはかなりの人が参拝にやって来ていた。この場所は丁度タンクの上部あたりで、明日放流が開始される水路が近い。そのためか、すでに出店が建ち並んでいた。神社自体も賑やかなのは事実だが、放流祭の前日にもなると水神様へのご挨拶と言って足を運ぶ者が数多く往来している。そんな中で痴漢騒ぎなど溜まった物ではない。来太の鋭い目に、反省の色を出した結斗は唇を突き出して不貞腐れながら甘酒を一口飲んだ。

「その龍のこと、実行委員の会長さんあたりなら何か知ってるじゃない?」

 こういう伝説がある神社にはその逸話を記す立札があるものだが、ここにはそんな物は無いようで、来太は頭の中で雨を降らせる龍を想像しながら言った。こういうのはお年寄りから情報を得た方が早いはずだ。

「そう思ったけどな、知らないってさ」

「あの会長さんも?」

 来太の言う会長とは今年で九十になるお爺さんの事だった。年齢の割に元気で、早朝からジョギングをしているような人だ。マツリダでも元気すぎるお爺さんで有名である。

「知らないっていうかあの歳だし、忘れたに近いだろうね。あとはさっき言った少数派さ」

「またそんな事言って」

「ま、何にせよ例年通り何にも起きずに終わるさ。それより腹減らないか?」

「えぇっ……さっきおにぎり沢山食べたばっかだろ」

 今朝ステビアに作ったのだが、起きていないのか家に入ることが出来なかったため、そのまま結斗にそのおにぎりを持って行ったのだ。朝だからそんなに食べないとは思ったが、軽く十個はぺろりと余裕だった。

「俺は燃費が悪いのっ!よし、あの中華屋行こう、決めた!」

「俺はまだ腹減らないんだけどっ」

 来太の声は聞こえないようで、結斗は足早に先を進んでいく。

 まったく、拝むぐらいで何もしてないくせにどうしたら腹が減るのだろうか……。

 呆れながらも、来太が次は何個上乗せで作ろうと考えた時だった。

『……どこなの?』

 か細い声が聞こえた。消えて無くなりそうな、寂しい声だ。来太は咄嗟に後ろを振り向き、あたりを見渡す。拝殿の方も授与所の方も先程と打って変わった様子はない。弱ったり、怪我をしている人もいなかった。

『一人は、嫌なの……』

 まただ。

 来太は声の行方を探す。すれ違う人の砂利を踏む音が邪魔だと感じた。

 なんだ、今のは……空耳だろうか。

 さわさわと木々が風に揺れる。この音よりもはるかに小さい。誰かが酷く寂しそうに訴えている声だった。

「来太ぁ、置いてくぞー」

 先を歩く結斗が大鳥居の近くで振り向き、来太の呼ぶ。来太は軽く辺りに目配せをしながら小走りで彼のもとへ向かった。





 明日の打ち合わせを終えた来太は、掃除機のメンテナンスをするため、先に上がらせてもらった。真っ直ぐ自宅に向かおうと思ったのだが、今朝の結斗の話を思い出し、足を止める。

 百年龍……。

 マツリダには後世に伝えられていない歴史があるのを知っていた来太は、やはり気になってしまう。魔法使いと何か関係があるのではないか。今まで水神様、龍神様として祀られているのは誰もが知っていた。でも、それがどうしてなのかは誰も知らないままなのだ。昔話や伝説もないのにどうしてこんなにも人が信じて縋るのだ。このふわりとした歴史がなんとなく、現代人が知る必要がないとされた『魔法使い狩り』と類似している。魔法使い狩りについて覚えていないステビアでも、もしかしたら霞神社とその百年龍について何か知っているかもしれない。それに、やはり先程のあの声が気になった。きっと自分にしか聴こえていないのだろう。結斗の耳にも入っていたとしたら、呑気に中華料理屋に急ごうなんて言い出す訳がない。

 来太は止めていた足を再び動かし、自宅とは反対の方へ歩き出した。メンテナンスは二、三時間あればなんとかなるだろう。たぶん……。




 若干の不安を残しつつ、来太は霞神社に再び足を踏み入れた。相変わらず人の出入りが忙しない。今朝の時点では準備段階だった屋台が綺麗に組み立てられ、明日には川となる水路近くの通りも出店が立ち並んでいた。イカ焼きやお好み焼き、たこ焼きに綿飴、りんご飴。全部遠くで焦げた香りを纏っていて、鼻に付いて離れない。来太は霞神社の大鳥居の前で深呼吸をし、耳を澄ます。

 空耳ならそれでいい……。でも、誰かが助けを呼んでいるのなら……。

 木々の揺れる音、人が踏む砂利の音。屋台から漂う焦げた匂い。そして、人の話す声。

 目を凝らし、耳をそばだてる。

 しかし、何も起こらない、何も聞こえては来ない。耳に入ってくるのは相変わらずお祭り気分の人の声だった。



「まぁ、そんなのは珍しい話ではないかと」

 紫苑が煙管の灰を捨てながら言った。百年龍について何か知っているかを尋ねると、興味なさそうに答えた。

「このマツリダには隠された歴史が沢山あります。魔法使い以外にもそんなものはゴロゴロとありますよ。この放流祭だってそうですし……」

「え?」

「いちいち気にしていたら住みにくい所だからな」

 横から乃亜が口を挟んだ。周りには空の容器と輪ゴムの箱が山になっており、段ボールにせっせと詰め込んでいる。明日の出店の準備らしい。

「でも、はっきりと声が聞こえるなんていうのは不思議ですね」

「そうか?それこそよくある事だろ」

 乃亜の横で祭のマップを広げていたステビアが言った。どうやら祭の出店が気になり、本を返しに来た日から入り浸っているらしい。朝家に言っても居ないのはそういう訳だった。しかし、ステビアの口出しに、来太は放流祭について聞き返そうにもタイミングを失ってしまった。

「あなたは魔力のお化けですからね。幻獣と呼ばれる様な物も呼び寄せるのでしょう」

「ならステビアさんと一緒に霞神社に行けばはっきりするっていうことですか?じゃあ、早速、ぶっ!」

 来太がステビアに顔を向けた途端、座布団を投げられた。

「行かないぞ。神社は嫌いだ」

「なんでですか」

「何でもだっ!それにオレは明日、シオンに何を買ってきてもらうかのリストアップに忙しい」

 バシバシと祭のマップを叩きながら、小さな身体を踏ん反り返らせる。

「私はノアくんのお手伝いがありますからご自身でどうぞ」

 紫苑がにこりと、悪びれのない笑顔をステビアに返す。不満そうなステビアは、それならばと来太の腕を掴んだが、申し訳なさそうに首を振られていた。

「一人で周れないならお前はここで留守番の他ねぇだろ」

「嫌だ!綿飴とこのお好み焼きってやつが気になるんだっ!」

「ステビアさん、綿菓子ならまた別日に駄菓子屋で買えますし、お好み焼きなら俺も作れますよ」

「明日!食べたいんだ!」

「ガキじゃあるまいし……我儘言うな」

 乃亜は道具の入った段ボールをガムテープでどんどん封をしていく。その背中をぽこぽこと殴りながらステビアは屋台定番の食べ物を口にした。

「うるせぇなっ!」

 痺れを切らした乃亜が怒鳴ると、今度は来太の方に顔を向けた。目が合った来太はゆっくりと視線をズラす。

「おい」

「ステビアさん、俺も明日は無理です」

 来太はその場で立ち上がり、逃げる準備をするが、ステビアが腰のベルトをがっしりと掴んだ。

「何でも屋だろ、お前の仕事」

「そ、そうですけどっ。別件で既に仕事があって」

 苦笑いをしながら掴まれた手をベルトから離そうとステビアの手を取るが、いつにも増して力が強く、まったく歯が立たない。

「は、なして、く、ださいっ!」

 こんな小さな身体のどこにこんなにも強い力があるのだろうか。何度も離そうとしたが、頑として離れてくれないため、来太はため息を大きくつき、ステビアを引き離すことを諦めた。

「ステビアさん、私と一緒にノアくんのお手伝いをして、落ち着いた頃に出店を周りませんか?」

 紫苑がしゃがんでステビアを誘うが、ステビアは即座に首を横に振った。しかし、紫苑に念を押され、ステビアは一瞬考え込む。長い年月、あれだけ外に出ることを怖がった魔法使いだ。祭りで人間相手に商売をする手伝いなんて進んでするわけがない。だとしても、お目当ての物を食べるとなれば、外に出ないと行けないのは変わりない。それに最近では誰かが居れば外に出ることに抵抗はないらしい。

 ステビアはウーン、とつい声を漏らす。すると、その様子を見ていた乃亜が口を挟んだ。

「第一、こいつが手伝いなんて出来るわけないだろ」

「おや、私は良い看板役になるかと思ったのですが」

「看板になんかならないぞっ」

 ベルトを掴む力を緩めることなくステビアが食いかかる。すると、ステビアの掌がオレンジ色に発光した。勢い余って魔力が放出してしまったのだ。

「うわぁっ」

 驚いてバランスを崩した来太が、前のめりになりステビアを避けようと身を捩ると、その場に手を付いた。

「お前、変なことに魔力使うなよ」

「悪い……大丈夫か」

「あははは…大丈夫です」

 笑ってごまかしながら、来太は座り直す。罰の悪そうな顔をするステビアは少しだけ来太から離れた。

「ステビアさん、これはもうペナルティですよ」

「ペナルティって……。紫苑さん、別に俺は怪我とかしてないですから」

 ほら、何ともありませんよ、と言いながら来太は腕をぐるぐる回すが、紫苑は見ること無くステビアに言い続ける。

「雇用主として見過ごせません。よって明日はノア君のお手伝い強制参加です」

「なっ……!」

「決まりです」

「勝手に決めるなっ!」

 居間を出て行こうとする紫苑をステビアが追いかける。その後ろ姿を見て、乃亜が吹き出した。

「ま、自業自得だろ」

「でも、人混みなんてステビアさん……」

「大丈夫だ。誰か一緒なら外に出る様になって来てるし、たまには良いだろ。一番歳上のクセしてガキのままだから」

 最後の段ボールにガムテープを貼り終えると、乃亜が立ち上がった。

「あ、手伝います」

「悪いな」

 来太は段ボールを二箱抱えると、もう二箱を抱えた乃亜の後ろについて行き、玄関に置かれていた二台の台車に乗せ、紐で括り付けた。

「なぁ」

「はい?」

「さっきの話だが……」

「ステビアさんのことですか?」

「違う。百年龍ってやつ」

 あぁ、と来太が声を漏らす。

 ……放流祭の事では無いのか。

 遠くでドタドタとステビアが文句を言いながら紫苑を追いかける音が聞こえた。

「さっきも話した通り、この地域では珍しい話じゃない。でもな、姿形を見ていない人間に妙な声が聴こえるってのは異常だ。警戒はしろよ」

「警戒って……」

「特にその、霞神社付近には近づくなっつーこと。まぁ、何も無ぇとは思うけどな」

 乃亜はそれだけ言うと、来太の背中を軽く叩き、店の方でまた明日の準備を始めていた。




 翌日、来太はまず結斗の事務所に向かった。タンクに降りる地下道入口は、事務所の敷地内にあるため階段で地下へ向かい、その途中でエレベーターに乗ってタンクへ向かう。来太はそのエレベーターを思い出すだけで胃酸が喉に逆流するのを感じた。手伝いをする様になってから数年経つが、あの浮遊感と気圧の強い変化に身体は慣れることがなかった。何度乗っても慣れることはないだろう。そのせいもあり、地下へ着いた数分は使い物にならないため、結斗と紅愛と共に早めに作業場へ向かう約束をしていた。

「おはよう、来太くん」

 事務所の呼び鈴を鳴らすと、紅愛の声がインターホンから聞こえた。

「おはようございます。今日はよろしくお願いします!」

「今開けるわ。そのまま地下行きの階段前で待っててくれる?」

「はい」

 通話が切れると同時に門が開いた。来太は言われた通り、地下道へ続く階段前に向かう。すでに数人の作業員がせっせと大きな掃除道具を運び込み始めていた。

「おはよう、来太。地下エレベーターをお前と乗ることを楽しみにしてたよ」

 振り向くと結斗が布製のホースの束を持って立っていた。

「朝からそんな嫌味しか言えないのかよ」

「年一の楽しみなんだから大目に見ろよ。今日はロクにお前に付き合えないんだから」

 そう言いながら持っていたホースの束を来太に渡す。

「忙しいんだ?」

「まぁ、お年寄りの介護だと思えばねぇ。あぁ、休憩時間が分かったら教えろよ。お兄さんが奢ってあげる。ちなみに目当ては『すいまぁ』の鯛焼きだ」

 結斗は作業着の胸ポケットから、昨日ステビアが手にしていた祭りのマップを取り出し、赤いペンで囲った場所を指さした。

「はいはい、おしゃべりはそこまで。さっさと地下に行くわよ」

 少し遅れてやってきた紅愛は、眉間にシワを寄せた表情で結斗からマップを取り上げた。

「紅愛さん、おはようございます」

 来太が改めて挨拶をすると、にこりと笑う。

「おはよう」

 取り上げたマップを綺麗に畳み、乱暴に結斗のポケットにしまうと、彼の背中を思いっきり叩いて階段を先に降りていった。

「結斗、紅愛さんに朝から何言ったの……?」

 明からに機嫌がよろしくない気がして、来太は結斗に耳打ちする。

「ちょっとしたアドバイスだよ」

 背中を丸め、掌をグーパーしながら結斗が答えた。

「アドバイス?」

「どうせ濡れるんだから、水着で作業した方が良いのではって。その方が周りの士気も上がるし、我ながら名案だと思ったんだけど」

 呆れた来太は結斗を残し、先に行った紅愛の後を追いかけた。



 この地下道の壁には沢山のライトが用意されているため、マツリダの市街地にある地下道よりも明るく歩きやすい。毎日のようにタンクへ出向き水質検査を行う作業員達が行き来しやすい様、常に改良されているのがわかる。階段を降る足元がはっきりしていて、安心感があった。

 階段を降りきり、道なりに歩く。どのぐらい深いのかといえばまだそこそこだろう。暫く歩いて見えてきたのは巨大な地下エレベーターの乗り場だ。来太はその姿が見えてきた所で数回深呼吸をした。やはり目の前にするとあの嫌な浮遊感が迫ってくる。足取りが重くなるが、仕事は仕事。隣でニヤニヤと笑う悠斗を他所に、無理矢理足を動かしてエレベーターの前に立った。

「大丈夫?」

 紅愛が心配そうに来太の背中をさする。

「すみません、まだ乗ってもないのに」

「そんなにビビるなよ」

 結斗がケラケラと笑う。

「アンタはデリカシーが無さすぎよ」

 紅愛が下へ向かうボタンを押した。ガウン、という音が立っている足元から響き、地下から大きなエレベーターが引き上がっているのが分かった。

「来太、二分で行けると約束するなら階段を使ってもいいぞ」

 そう言って結斗が指さしたのはエレベーター横からタンクへと続く階段だった。緊急用かつ放流用に設置されたであろうその階段は、横幅がやけに広い。更に今日は巨大なホースが途中から設置され、吸い上げられる水の通路となっていた。

 ガン、という音が響きエレベーターの扉が開く。朝と同じ様に胃酸が逆流している様な気がし、来太は掃除機にくくりつけていた水筒の水を飲んだ。

「邪魔になるから……これに乗るよ」

「ウンウン。それでこそ男だなぁ。さぁ、行こうか」

「まったく……。来太くん、気分が悪くなったらこれに吐き出してね」

 作業着のポケットから取り出したビニール袋を渡され、来太は苦笑いをしながらもう一度深呼吸をした。


 来太にとって体感数時間にもなるエレベーターは、ほんの数分と数秒で地下に到着した。幸いにも嘔吐は免れ、渡されたビニール袋は上に上がる時の護身用と出番を持ち越された。

「来太くんは放流まで少し休憩ね」

「はい……」

 青ざめた顔をしてその場にしゃがみ込む。既に結構な人数が放流に向けて準備を着々と進めていた。掃除機を端に置かれ、結斗に引きずられるように移動した来太は目の前に見える大きなタンクを見上げた。高さは約十メートル、直径は約三万メートルとその辺のビルの様に大きい。その天板が開けられ、階段へと続く巨大なホースが入れ込まれている。掃除に費やされる時間は二日程だ。来田はその前半部の手伝いをする。以前はステンレス製でできていたが、数年前から耐久性の高いガラス製にかわり、水の濁りや大きな異物の混入が分かりやすくなっていた。

「やっぱりみんな水着の方が良いと思わない?このガラスに変わってからどうしたってプールみたいに見えるんだよな」

「まだ言ってるの……」

「だってあれじゃあ、宝の持ち腐れってやつだよ」

 結斗の視線が紅愛の身体に向いているのを見て来太は目を伏せた。

「また怒られるよ」

 諦めの悪い結斗の腕を借りて立ち上がり、もう一度水筒を取り出して水を飲んだ。だいぶ落ち着いてきたらしい。軽く身体を動かしてジャンプをする。さっきまで喉の辺りをぐるぐるとしていた違和感が消えかけていた。

「気分が悪くなったらすぐクレアに言うんだぞ。あ、休憩になったらちゃんと連絡しろよ」

「分かったよ……どうせノアさんのお店だろ」

「ふふふ〜。今日はなんと紫苑さんもお手伝いでいるらしいぞ。こりゃ、俺も張り切って良いとこ見せないとなっ」

「めでたいなぁ、本当」

「それじゃ、愛しの部下達に激励をしてから本部に移動しようかなぁ」

 結斗は大きく伸びをして、地下の作業場の中心に移動する。

「みんな、おはよう!」

 結斗の大きな声が反響して、作業員の手が止まった。一瞬で静まり、全員が結斗へと視線を向ける。来太はこの瞬間の背中のゾクゾクした感じか堪らなかった。

「今年も一年で一番忙しい日がやってきたね。こんだけ人数がいるんだ、無理はしないで適当に力を抜いてやってくれ。無茶はするな、怪我人も見たくない。だから程々で良い。安全が一番だ。あ、でも、手抜きはするなよ。俺の信頼に関わる」

 どっと笑いが溢れる。「結斗さん今年も力仕事しない癖によく言うよ」「自分の代わりに来太連れてきてさっ」「手抜きはどっちだ」口々に飛び交う野次が微笑ましくて、来太は思わずくすりと笑う。

「その代わりに給料弾んでるんだろっ。ボスのことは大目に見なさいっ」

 結斗が言い返すが「誰がボスだ!」「怠け者っ!」と周りの野次が何重にもなって返ってくる。お腹を抱えて笑いながらその野次を受け止め、結斗はもう一度全員に向き直った。

「実行委員会の爺さん達から聞いたんだけどさ、このタンクの放流は百回目じゃなくて、もう少し前からやってきたものらしい。お祭りにされたのは今年で百年目だそうだが……」

 そんな祭の話は誰も聞いたことながないのか、感嘆の声が周囲で漏れた。

「なんにせよ、その記念すべき日に立ち会えた訳だ。ラッキーだよな、うん。俺はラッキーだと思う。だからみんな、程よく仕事をこなして程よく祭りに参加してくれ!」

「程よくサボれってか!」

「そう!でもクレアには気を付けろよ!」

「サボりを容認するなっ!」

 誰かのツッコミに答えた結斗を尽かさず紅愛が軽めの回し蹴りを喰らわす。ゲラゲラと笑われながら結斗の激励は幕を閉じた。

「それじゃ、俺は上に戻って同じ話を上の奴らに言ってくるから!後は任せたぞ」

 満足した結斗はそう言うと、あのエレベーターに乗り込み、ひらひらと手を振りながら地上に戻って行った。

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