#93 鳴り止まぬ雨音
ここはどこだ……頬を刺す小岩の感触で俺は目が覚める。鼻につんとした濡れた土の臭いが通る。目蓋をゆっくりと開けると、そこには視界いっぱいに草木が広がっていた。雨が木葉を打つ音が聴覚を刺激する。じわんじわんとした耳鳴りと共に、ほんの少しの頭痛。全身が泥塗れになりながらも、俺は身体を起こす。
「どこだ……ここ……」
学校にいたはずだが、ここは一体……どうみても地下じゃない。大雨が降り注ぐ夜の山。辺りを見渡した時、うつ伏せで倒れる松家の姿を見た。すぐに駆け寄って松家の上体を起こす。
「おい松家! 大丈夫か!」
返事はない。まだ気を失っているようだ。身体が冷えきっているな……このままじゃマズイ。ここはどこで、何がなんだか分からないが、今はとにかく松家を安全な場所へ運ばなければ。俺は彼女を背負い、急いで下山する。土砂降りの雨で、泥で、足を取られる……夜だからか足元もよく見えない。転びそうになっても、枝や岩が俺の肌を傷付けても、俺は死ぬ気で山を下りた。
「はぁ……はぁ……! 街灯が見えた……良かった……町があるようだ……もうちょい踏ん張れよ松家!」
暗闇の中で見えた一つの光。俺はそれを目指して駆ける。山の斜面を抜け、ガードレールを飛び越え、コンクリートがある道路へと向かう。ちくしょう……今は深夜なのか、全く人通りがない。携帯は教室に置いてきたから、人を呼ぶことも、現在地を調べて病院へ行くこともできない。こうしてる間にも、背中の松家は冷たい雨に打たれている。
とにかく、雨を凌ぐ屋内に避難だ。俺は最後の力を振り絞って、付近に建っていた団地のロビーへ走った。ポスト横の段差でなんとか腰を下ろす。狭いからか雨が多少入ってくるが、今は仕方ない。ぐちゃぐちゃで気持ち悪い靴を脱ぎ、慎重に松家を下ろそうとした時だった。
「ごめん……もう大丈夫……」
いつの間にか起きていた松家が、俺の肩を掴み、倒れ込むように壁にもたれ掛かる。ポタポタと雨が滴る服を、雑巾のように手で強く絞って水気を飛ばす。後ろ姿……体操着姿だからか、ブラのヒモが透けて見えてしまった。けど、正直目を背ける力も無い。脈打つ喉と心臓の鼓動を整え、俺は松家に声をかける。
「はぁ……身体平気か……?」
「それを言うならアンタの方でしょ……足、ボロボロじゃない……」
「こんくらい、どうってことねーよ……大丈夫って言っても、肩震えてるぞお前……」
「寒いよ……そりゃ……」
松家の息は微かに震えている。冷えは苦手っぽいしな。現に今だって体温は限界まで下がっているはずだ。このままにしておくのは、良くない気がする。
「とりあえず……服脱げよ」
「な……!?」
「そのままじゃ冷える一方だぞ。水気を切った方がいい。俺あっち向いてるから」
俺は極限の無酸素運動をしてきたせいか、体温は激しく上昇しているが、一時的なものに過ぎない。俺も上を脱いで、その体操着から雨を絞り出す。
「こんな緊急時じゃ、どうしようもないだろ。濡れた服は身体を冷やすぞ」
「……こっち見たら竹刀で脇腹打つかんね」
「へいへい……」
暫くして、びちゃっと水が弾く音が背中越しに聞こえてくる。振り返れば上裸体の女子がそこにいるという事だ。普段の俺だったら悶々とするもんだが……こんな状況じゃ、そんな気分も起きねえな。
胡座をかいてうつ向いている最中、突然背中に冷たいものが充てがわられる。あまりの冷たさに、一瞬身震いするが、それはすぐに小さな手のひらだと気付く。
「なんだよ……もういいのか?」
「ダメに決まってるでしょ。まだ……裸」
「じゃあなんなんだ」
「……ごつごつしてて……温かい」
松家はそれだけ言うと手を離す。手のひらの僅か一点だった感触が、突然背中全体に広がった。これは……背中だ。松家の背中。すべすべした小さな冷たい背が、俺の背中にぴったりとくっつく。
「あぁ……あったかい……」
「急に大胆だなお前」
「この際、形振り構ってられないしね。利用するものは利用するだけ」
「前からは流石にやらないんだ?」
「前って……当たるじゃん。ヘンタイ」
団地の屋根を打つ雨音が、鳴り止む気配は無い。これからどうしようか……この暗がりの雨じゃ、どこも行けない。全く知らない土地を、スマホ無しで歩くのも無謀だ。ここで一晩明かして、誰か人が来るのを待つしかないかも。自然とため息が出てしまう。雨音だけが響く沈黙の中、松家はそっと口を開く。
「その……ありがとね……」
「ん、何が?」
「落ちた時も庇ってくれたし、さっきもおぶってくれたし……アンタがいなきゃ、私…………だから、ありがと」
「はっ、なんだよ、こういうのは案外素直なのか? お前って」
「た、ただの礼儀。武道を嗜む者として当然でしょ」
「ははは、そうか──」
そう言った瞬間、突然頭上からカツカツと靴音が聞こえてくる。俺と松家は瞬時に離れ、慌てて服を着る。まさかこんなタイミングで人が来るとは。俺達2人は壁を背に、近付いてくる靴音に、息を潜めてじっと聞いていた。
「おや? これは……」
現れたのは──子供。中学生くらいの中性的な見た目をした少年が、こちらを見て目を丸くする。が、すぐに邪な笑みを浮かべ、両手でフレームを形作り、俺達を手のレンズ越しに見つめてきた。
「うーん……背景が容易く浮かびそうに無いや。どんな紆余曲折があって、今その状況なのか。興味が尽きないね」
「な、なんなのアンタ……」
「はは、それはこっちの台詞だけどね〜。ただ飲み物を買いに行ったら、人の家の目の前で、ずぶ濡れで寄り添う男女がいたんだから。驚かない方が無理があるよ」
「う……それは……」
「ま、いいや。君らが誰でも。とりあえず、そのままじゃ風邪引くよ。ツレはいるけど親はいないし、家に来てシャワー浴びていくかい?」
「へ……いいのか!?」
「その様子だと、宛もなく彷徨った果てに、雨風を一時期に凌いでるって感じだしね。なーんか見捨てちゃ哀れだし、ここらで問題起こされても面倒だからさ」
少年は俺の血濡れた足元を細目で眺める。俺達を少し一瞥しただけで、状況が読み込めてしまうとは……コイツが賢いのか、俺達の状態がそこまで酷いのか。まさかそちらから手を差し伸べてくれるとはな……思わぬ僥倖だ。何者か知らないが、無害そうな少年だ。ここは恩恵に肖った方がいいだろう。松家に目でそう訴えると、渋々頷いてくれた。
「君はともかく、横の彼女はそのままじゃ危ないでしょ。ほら、入って入って」
「そうだな……そうさせて貰うよ。ありがとう、えっと……」
少年はいそいそと先導していく。その振り返った一瞬で見えた艶っぽい流し目に、俺は少しドキっとしてしまう。コイツ、中性的な少年じゃない……普通に女の子だ。
「僕は──竹部白乃。気軽にシロベーって呼んでよ」




