#91 笑った顔
「ラスト100本だ! 声張っていけ!」
「「応!」」
秋風が微かに吹く夏の終わり。新部長である康治郎が中心になって、今日も剣道部の部員は汗を流す。
稽古終わりの夕刻。日は傾き、外はすっかり暗くなっている。康治郎と部員達は、更衣室でのささやかな雑談の時間を過ごしていた。
「そういや……冬の大会も近くなってきたな」
「ああ。俺達の実力を見せ付けるんだ。勝って優勝杯を飾ろうぜ。もう、剣道部は弱小なんて言わせねえよ。だろ? 松家」
「おう。それに、親父との約束もあるしな」
「ヤマちゃん先生との?」
「ああ……俺がガキだったすんげえに昔、一度だけ親父の剣道を見せて貰った事があってな。大人同士の試合で相手は7段の格上だったんだけど、親父の圧勝だった。文字通り瞬殺でよ。俺はあの技を見て、剣道を始めようと思ったんだ。でも親父はいつになっても教えてくれなくてな……見ても絶対真似も出来なかった。そんで、ようやく今になって、冬季大会で優勝できたら、この技を教えてやるってさ」
「へー……ソイツはすごそうだな。ヤマちゃん先生の究極奥義ってやつか! 俺にも教えてくれないかな」
「親父曰く……これは禍を呼んだ厄災の鬼を討つ為に、大昔から代々伝承される技とかなんとか……流石にこれは眉唾もんだけどよ。俺はあんな剣道が出来るようになりてえんだ。お前らを引っ張っていけるようにな」
部員達の方を振り返って、拳を固く握る康治郎。部員達は康治郎の熱意に応じるように、それぞれ頷いて見せる。はだけた胴着姿の康治郎に、1人の部員がある違和感に気が付く。
「ん……? 部長、なんか痩せました?」
「ん、そうか?」
「あー、そういや細くなったかもな。松家お前、筋肉失くなったんじゃないか?」
「そんな事は──ゴッホ、ゴッホェ!」
「おいおいヒョロくなって風邪でも引いたんじゃないか? 家帰ってしっかり筋トレしとけよな」
「……うっせ! ちゃんと素振りはやってんだよ!」
茶化した笑いを溢しながら、部員達は着替えて帰宅していく。更衣室に1人残された康治郎は、自らの手のひらを眺める。その──血のついた手のひらを見ると、どうしようもない焦りが込み上がってくる。
「……クソッ!」
左胸を叩き、無理やり押さえ込んで、目を背ける日々を送る康治郎。だが……その病は、じわじわと康治郎の身体を蝕んでいった。数週間後の朝稽古で、ついにそれは起きた。部員達との打ち込み稽古を行っている最中、康治郎は身体に異変を感じる。
「あれ……? なんだこりゃ──」
身体が突然動かなくなる。四肢が……言うことを聞かない。竹刀を振りかぶった体勢のまま、完全に固まった。息が──出来ない。今自分の身体は鼓動をしていない。そうして手から抜け落ちた竹刀が地面に落下した瞬間、康治郎の身体は背後から崩れ落ちた。
「……ッ!? 康治郎ッ!!」
キーンという耳鳴りがやってくる。駆け寄る皆の足音と声が遠くから聞こえた。息ができない苦しみの中でも、声を上げる事や身体を動かす事も不可能。ただ薄れゆく意識に身を任せる事しか出来なかった。
────
──
「え……じ、じゃあその康治郎って人が、ヤマちゃん先生の息子で、お前の兄って事か!?」
切り返し稽古をしながら、松家から告げられる過去に耳を傾ける俺。ヤマちゃん先生に子供がいた事も驚きだが、松家の父親だって? それに、前部長と兄妹の関係とは……しかし、その部長の姿は見えない。
「じゃあ……その心臓の病気で倒れた部長は……」
「……そろそろいい時間ね。もう終わっておきましょうか」
「あ、ああ……」
「来る?」
「へ? どこに?」
「康治郎の……兄のお見舞いよ」
俺は誘われるがままに瀬那に連れられて、大きな病院の前に辿り着く。瀬那の兄……ヤマちゃん先生の息子がいる病院。驚いたと共に、少し安堵した。てっきり……不幸があって故人かと思っていたから。
白い廊下を抜け、康治郎がいる病室の扉を開けて中へと入る。そして……それを確認した時、俺の安堵はすぐに消え去った。
「久しぶりね、兄さん」
返事は無い……当然だ。彼はベッドの上でじっと眠っていた。彼を纏うように存在する点滴とチューブ。彼の命を必死で繋ぎ止めようとしているのが、その夥しい数を見れば一目瞭然だ。
「逞しかった身体は、もう見る影も無い。兄はもう──この病院を出る事は一生無いでしょうね」
「……康治郎がこうなってしまったのは、僕の責任でもある」
突然背後から声がする。ヤマちゃん先生だ。先生は康治郎のベッドまで歩くと、眠る息子の頭にそっと手を置く。ベッドの柵を握るもう片方の手は、酷く震えていた。
「試合で頑張れば奥義を教えると言って、無理をさせた……まだ大丈夫だと、気丈に振る舞う息子の姿に甘えたんだ。引っ叩いてでも、病院へ連れて手術を受けさせるべきだった! 僕は……息子を守れなかった」
「父さん……」
「こんな僕に、剣道部の顧問の資格は無い。部員達も、そんな僕に愛想を尽かして出ていってしまった。佑樹君……これが全てだ」
ヤマちゃん先生は、悔しそうに身の上話を聞かせてくれた。息子である康治郎の病気。息子の頑張りたい……そして、父親として応援したいという、そんな普通の感情が不幸を生んだ。それが──剣道部に起きた悲劇だったんだ。でも……まだ分からない事がある。
「ヤマちゃん先生は……なんで、俺を剣道部に誘ったんですか?」
ヤマちゃん先生は、少し考えた数秒の沈黙の後、すぐに乾いた笑みを浮かべる。
「は、はは……今思えばなんでなんだろうね。君なら何かやってくれる……君と瀬那なら、何か成し遂げる気がする。そんな漠然とした理由なんだ。分からないや……本当に……すまない」
そうぼやくように頭下げると、ヤマちゃん先生は康治郎の病室を去っていった。俺と……松家が? 分からない。なんでそう思ったんだろう。
「父さんはああ言うけど……きっと兄だって後悔しているはずよ。かつての部員達だって、兄に責任を押し付け、病の事を知ってても背中を押してしまったと、そう後悔して自主的に来なくなった人がほとんど。父も、兄も、部員達も……全員悪くない。全員──バカなのよ」
「松家……」
「皆自分に負い目を感じて、勝手に責任取って、勝手に去っていくんだから。後に残された人の事を考えないでさ……」
松家は1人で頑張ってるんだ。ヤマちゃん先生も、本当は松家の事を思って、俺を寄越したんじゃないのかな。たった1人で戦う娘を……応援したくて。
「私、先に帰るわ。またね」
そう言って手を振る事も無く、松家も病室を去っていった。意識の無い康治郎と俺だけが病室に残った。電子音が物悲しく病室に響く。俺も出ようと後ろを振り返った直後、信じられない出来事が起きた。
「……本当に、バカだよな」
掠れた小さな声が後ろから聞こえてくる。辛そうに上体を起こし、こちらにぎこちない笑みを浮かべる少年。意識がなかったはずの康治郎が、痩せ痩けた顔で俺を覗いていた。
「え……? 康治郎……先輩!? あんた、意識が……!」
「……別に植物人間って訳じゃないんだ。ちょっとくらいなら起きていられる……ま、親父と瀬那は知らないんだけどな。ちょっと……顔を合わせられなくてよ」
「康治郎さん……」
「この病もさ……異変を感じた時に手術を受ければ、リハビリ次第で剣道続けられたかもしれないんだぜ……? 運動が出来なくなるなんてのも、もしもの話だったんだ……こんな滑稽な話があるかよ……はは、過去に戻れたらどんだけ良かったか……そんな空想ばっか並べる毎日だよ」
くしゃっとベッドのシーツを握る康治郎さん。正直……かける言葉見付からない。何が悪い訳でも、誰が悪い訳でもない。どうすれば良かったのか、本人である康治郎さんが一番分かっているはずだ。今さら何を言おうが……ただ悔いる事しか出来ない。そのもどかしさが痛い程伝わってくる。
「君は……瀬那と同じ2年生の佐藤だな。よく親父が話してたよ。剣道の神童だってさ」
「い、いや……そんな事は……」
「親父がああ言うのも分かる気がする。君は何か、内に秘めたでっけえ力を持っている。目を見れば分かる」
剣道は相手の目を見る事が多いからな。俺も自然と、目で相手を見抜く事がある。康治郎さんは徐にテレビのリモコンで画面を点ける。やっていたのはテレビ番組じゃない……これはまさか……。
「これ……武道場っすか?」
「部活の様子はこれで見てるよ。ほら……ウチの学校色々やべえだろ? こうやってテレビから学校の様子は見れるんだよ。映るのは、たった1人で素振りをしている瀬那ばかりだけどな……」
「……」
「以前の瀬那は……笑顔が似合う年頃の女の子って感じでさ。剣道一筋に見えるけど、流行りのファッションとかに割りと敏感でよ。ちょっとギャルっぽいトコもあんだぜ? すぐツンツンするし、性格キツイけど、そこがまた可愛くて……でも……アイツさ、剣道部がこうなっちまってから──笑った所を見た事ないんだよ……!」
うつむき、悔しそうにそう言葉を漏らす康治郎さん。寂れた武道場、たった1人で無心で竹刀を振る妹。兄の目にはどう映っているんだろう。何かに駆られるように、ひたすら無心で竹刀を振るう妹。見てられないってのが……普通だよな。
「俺は、アイツの笑ってる顔が好きなんだ。佐藤……剣道部を再興してくれなんて言わねえ。一度でいいから……瀬那を、妹を……笑わせて……やって、くれ……」
「ちょ、康治郎さん!?」
掲げた手を脱力させ、自身も倒れるようにベッドへと沈んでいく。最悪の想定をして、慌ててナースコールを探したが、ベッドに設置された心電図は安定しているし、康治郎さんは安らかな寝息を立てている。きっと喋り疲れたんだろう……今はそっとしておいた方が良さそうだ。
笑わせる、か……これからの事を考えていかないとな。俺は病室に一礼して、夜の病院を去っていった。




