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移行中  作者: あ
甲斐田 信音編
86/106

#86 忘却の彼方

 目を覚ます。辛うじて首から上は動くが、身体が動かない。冷たい感触が頬に伝わる。俺は、倒れているのか。まだ朦朧としているな……随分長いこと寝ていたのかもしれない。身体の痺れも無くなってきた。ゆっくりと身体を起こし、辺りを見渡す。


「ここは……?」


 目の前には見慣れたカプセルがあった。仮想現実世界へと渡るカプセル。そうだ……俺はずっとここにいたんだ。でも、なんだ? 何か大切な事を忘れている気がする。


「俺は──今まで何をしてたんだっけ?」


 酷く長い夢を見ていた気がするんだが、どうしても思い出せない。確か、甲斐田と一緒にゲーム世界に行って……ダンジョンを探索してたような。あれ……?


「おーっす。やっと起きたっすね」


 後ろから声がする。振り返ると少女がこちらに手を振っていた。ああ……甲斐田だ。部活仲間の……あれ、本当に部活仲間? やべ、本当に頭が混乱してて記憶が曖昧だ。


「え、と……甲斐田。俺って……今まで……」

「んとにもー、センパイいつまで寝てるんすか。もうド深夜っすよ! まーたアタシの部屋泊まる気っすか? 終電くる前に、早く片付けて帰宅して下さいよ」


 甲斐田はう言うが、足が上手く動かせない……今まで厚底のブーツを履いていたのか、酷く自分の視界が低い気がする。それになんか……甲斐田を見てると……胸がざわざわする。とても大切なものを忘れているような。


「な、なあ甲斐田。俺、何か忘れてないかな? 今なんか、すっげえ心苦しいっていうか……なんかさ──」

「……なーんもないっすよ。現実から覚める時に、どうせ夢でも見てたんでしょ。覚醒の副作用はよくある事です。疲れてるんすよ、早く寝ることをオススメします」

「そうなのかな……お、お前はどうするんだ。帰らないのか?」

「ちょっと調べる事……というか、今すぐ書き留めておきたい事が出来たんでね。仕事は残ってるんすよ」

「いや、でも──」

「はーやーくー、仕事のジャマっすから。はい帰った帰った」


 話を遮るように、甲斐田は俺の背中を押しながら帰宅を促す。結局、言われるがままに電脳室から追い出された。甲斐田の言う通り、疲れてるんだろうか……今日はとにかく早く寝よう。


 ────

 ──


 光宙高校に存在する地下施設。時刻は午前3時……草木も眠る時でも、この禁忌の研究ラボは稼働し続けている。恐ろしい程の広さを誇る、地下帝国の全貌が見える天井のガラス張りの個室。2人の影が、テーブルに置かれた紅茶を嗜みながら、今も尚研究が進むラボを見下ろしていた。


「……何かあったかい?」

「へ?」

「いや何、先日とはまるで違う顔付きになってるからね。何か……晴れやかというか、人間として一つ段階を踏み終えて成長したといった所か。良い顔をしているよ」

「そりゃまー……色々ありましたからね。おかげで研究が十数年は進みそうっすよ。本当に……夢のように楽しかったです」

「フフ、そうか……佑樹と仲良く出来たようだね──甲斐田教授」

「2人だけだからって、その呼び方やめろっちゅーねん。ったくリジチョーは相変わらずっすね」

「しかし……君は心ここに在らずのようだな」

「……何言ってんすか」

「己の真意を抑圧するのは、良い事とは思わないよ。我慢というのは、いつか放出させなければいけないものだ。いい加減、自分を許してやってくれ。君には、罪の意識を改めて欲しいと思っている。君は……一切悪くないのだから」

「…………」

「話はそれだけさ。夜分遅くご苦労様。私も自室で研究報告書をまとめよう。君はもう休んでくれ」

「……あの、リジチョー。アウラって……」

「む? あの地下施設がどうかしたのかい?」

「あー、いや……なんでもねっす……はあ……あの、誤作動あるとよくないんで、しっっっっっっかりと点検お願いしますよ?」

「あ、ああ……分かったよ」


 誠とのティータイムを終え、月夜の下で夜風に当たる信音。何もない小さな公園で1人ベンチに座って、自らの手のひらを呆然と眺める。その手に握られているのは、黒い小型のカプセル。

 佑樹より一足早く目覚めた信音が、佑樹が眠るカプセルから抜き取ったメモリーコア。これは脳とゲーム世界を繋ぐ仮想データを保存するもの。電極が脳波を感知し、情報の送受信を行う極めて重要な部品なのだ。これを信音が操り、佑樹が最後にカプセルへ入った時からの記憶を消去した。先日までの記憶ならさしたる問題ではなかったが、佑樹の場合は一晩で10年の体感時間がある。つまり──佑樹と過ごした10年の時を、信音は抜き取ったのだ。

 本人に深刻な後遺症を残す事なく記憶を遮断するのは、外科手術に等しい高等技術だが、信音ならばこの程度は朝飯前だった。信音は立ち上がり、水呑場へとゆっくりと歩を進め、それを落とすために排水溝へと手を向ける。


「これで……いい。忘れた方が幸せなんですよ。あんな記憶、アタシには身に余る」


「佑樹は、アタシに勇気をくれた。アタシに……生きる幸せをくれた。こんな汚れた手をしたアタシを、好きといってくれた。その気持ちはアタシも同じ……」


「でも、佑樹と一緒に道を歩むのはアタシじゃない。アタシはもう……十分」


 信音の頬に一筋の涙がつたる。信音は右手を広げ、それを重力に任せた。手から黒いカプセルがこぼれ、暗い排水溝へと落下する。













「よくねえよ」


 誰かがカプセルを掴んだ。頭の回転が早く敏い信音は、顔を上げる前に涙で視界を濡らした。声を聞いた瞬間、それを止める事は叶わなかった。


「なんで……なんで来ちゃうんすか……ばかぁ……」

「バカなのはお前の方だよ。全く……なんでもかんでも、1人で背負いすぎだ」


 泣き崩れる信音を佑樹が優しく受け止める。


「やっぱどうしても気になってな。お前に会わないと、俺の中で何かが壊れるような気がした。来てよかったよ」

「帰ってって……言ったじゃないすかぁ……う、ぐ……なんで……なんで、いつも佑樹はアタシを……」

「そりゃ多分──お前の事が好きだからだ。なんでだろうな……お前といると安心するっていうかさ。まるで……ずっと長い間過ごしてきたような、そんな親しみがあるんだよ」


 佑樹は黒いカプセルをそっと摘まみ、それを月明かりで照らす。


「これに……俺の記憶があるわけだな。やっぱ、今日の部活で何かあったわけだ。話してほしい……って言いたいけど、話したくないから、こんな事をしたんだな」

「ダメなんですよ……佑樹とアタシは一緒になっちゃいけない……もっと……救うべき人達がいる。アタシは……もういっぱいいっぱいですよ……」

「……」

「この手がどんだけ汚れていると思ってるんすか。多くの人間を不幸にし、自分の未来も、過去も……そして……あなたの父親を不幸にした。あなたはの顔は時が止まったように、あの時の彼と同じで……顔を見るだけで……辛かった……」

「信音……」

「でも……あっちで過ごしている内に……2度と起こらないように封印してたのに……愛してしまった……資格なんて無いのに……! だから記憶を抜き取ったのに……なのになんで……あなたはアタシに手を伸ばすの!? もう放っておいて下さいよ! 佑樹に……アタシの何が分かるって言うんすか……もう……帰って。さようなら」


 信音の葛藤は佑樹には伝わらない。彼女背負う業はあまりにも深く、誰にも分からないもの。今はまだ……。それでも、佑樹は信音へ手を伸ばした。


「ほらよ。返すよこれ」

「へ……? なんで……」

「俺はお前を信じてるからな。お前が何をしようとして、何を知ってるのかは分からない。でも……俺の事を思ってくれて、それをやってるのは分かる。しょうがない奴だよ……でも、そんな所にも俺は惹かれたんだろうな」

「佑樹……」

「まだまだこれからだろ? 俺達はさ。お前にどんな事情があるのかは分からないよ。でも、しょうがねえじゃん。好きなっちまったんだから、この感情はもう止められないよ。信音が何度も俺を拒もうとも、俺は惨めに手を伸ばし続けるぞ」

「え……?」

「自分に嘘ついてさ、過去の過ちで自分が信じられない気持ち、すげーよく分かるよ。事情も知らないのに、己を信じろなんて大層な事言えない。でも、だからさ。お前の全てを受け入れるから……好きでい続ける事を約束するから……一度でいいから──俺を信じてくれよ」

「佑、樹……うぅ……あ、あぁ……あぁぁぁぁん……!」


 佑樹は信音の小さな身体を抱き締める。その温もりに安心したのか、佑樹の胸で少女ように泣きじゃくる信音。慟哭にも似た泣き声は、公園に悲しげに響いていた──






 本当に……どうしようもない人。


 顔面を蹴り飛ばしても、手を振り払っても、

 笑って歩み寄ってくれた。


 拒絶しても聞かないのはあの人にそっくり。

 そんな所ばっかり似てる。


 でも、こんなアタシを好きでいてくれた。


 いつでもアタシの側にいて、守ってくれた。


 この道なら……一回くらいなら信じてもいいのかな。


 アタシを選んでくれたこの道。


 あのかけがえのない日々は本当に幸せだった。


 その瞬く間の一夜の夢。


 短くて……そしてとても長い夢を見せてくれたから。


 これが答え。


 アタシは──





 涙でぐちゃぐちゃになりながらも、それでも信音は──カプセルを排水溝へと落とした。

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