#27 彼岸
「ぶっはあ! げっほ、ごっほ!」
喉に激しい痛み。俺は仰向けに倒れていた。背中と頭が痛い。俺は苦しい呼吸を整えるべく、身体を起こし、四つん這いになって飲んでいた海水を吐き出す。
「はぁ、はぁ……ごほ……ここは、どこだ……」
俺がいるのは橋の上だ──海の上に浮く桟橋。海岸は見えないが……打ち上げられたんだろうか。辺りを見渡すと、霧が海を覆っていた。空が黒く淀んで見える。おかしい……ついさっきまで雲一つない晴天だったのに。白く霞む海は幻想的でいて、少し不気味だ。海を眺めていると吸い込まれそうになる。頭も何か霞がかったように朦朧としていた。
「あの世じゃねえだろうな……」
ひとまず元いたビーチに戻らないと。どれくらい時間が経ったのか分からないが、辺りに人っ子一人いない所を見ると、かなり流されてしまったようだ。俺は肌身離さず持っていた防水ポーチの中から、携帯を取り出して先生達に電話をしようと起動させる。が、通信叶わず圏外。参ったな……足で帰るしかない。俺はとりあえず桟橋をひたすら歩く事にした。
人がいないのがホントに薄気味悪い……軽く寒気がする。どれだけ歩いても一向に海岸が見えない。手すりの無い狭い桟橋を俺はひたすらに歩く。5分くらい歩いた時だった。誰かがいる。桟橋の上で、一人の老人が釣りをしていた。人だ……少しの安堵と共に、俺は近くに行ってみる事にした。
「あの、すみません……この辺にホテルって……」
俺は少し尻込みしてしまう。爺さんの姿があまりにも時代錯誤していたからだ。白く長い髪を後ろで結び、紺の着物に草鞋。腰には瓢箪を帯で巻いていた。
「ん? なんだ、きさんは。この島の人間じゃないだろう」
「え? ああ、はい観光っすよ……海で遊んでたら遭難しちゃって……あの、ホテルの場所知らないっすか?」
「そんなものここにはない。きさんがここにいるのがおかしな話なんだ。元いた場所に戻れるとすれば……霧が晴れた時のみよ」
「え……霧……?」
この爺さん、何を言ってるんだ? 相当遠くまで流されたんだろうか。このままこの人と会話しても無駄だ。そう思った俺は、この場を去ろうとする。その時、霧で足場が見えにくいせいか、足を踏み外し海へ落ちそうになる。
「小僧!!」
バランスが崩れ、今にも倒れそうになった時に爺さんが俺の手を引っ張り助けてくれた。咄嗟の事だったので、爺さんの釣竿は海の底へと沈んでしまった。
「ふぅ……流石に肝が冷えたぞ」
「あ、どうも……ありがとうございます」
「気を付けろ。この海に落ちると"本当に死ぬ"ぞ」
「へ……?」
「まあいい。もうここから動くな小僧。言ったろう。霧が晴れぬ限りここからは脱せぬ。全く……きさんのせいで釣り具も失くしたわ」
「はぁ……すみません」
なんで海に落ちるだけで死ぬんだ。でも釣竿を落としでても、俺を必死で助けてくれたのがひっかかる……よく分からないな。とりあえず言われた通りにしてみるか。確かにこの霧じゃ、ろくに前も見えないし、闇雲に歩き回るのも危険かもしれない。携帯も使えないんじゃな。
「って、あっ!」
俺はふと気付く。防水のポーチの中。中には携帯と財布と……ひなたのおじいさんの本。しまった……あのまま持ってってしまってたんだ。ごめんひなた。
「む? オイ小僧。何故きさんがそれを持っている……!? それは……ワシが書いた、現し世に二つとない草紙だぞ」
突然、横から見ていた爺さんが、持っていた本を指差し目を丸くする。え……本を書いたって──え!? ということは、ひなたの……おじいさん!? でもひなたは、おじいちゃんはもういないって──
「あの、これ彼女から預かったっていうか……まあ、成り行きというか不可抗力って感じで持ってるだけなんすけど……」
「何? きさん、ひなたを知っているのか?」
「あ、はい、俺の……恋人です」
「なんと、あの子と懇ろの間柄か!? わははは、そうか、そうか!」
爺さんは俺の肩を叩き豪快に笑う。
「ああ、名乗っとらんかったな。ワシは三郎。あの子の祖父だ。小僧、名前は?」
「佐藤佑樹です」
名乗る俺に、爺さんは「明日には忘れてそうな名前だの」と、髭を触りながら苦笑いを浮かべる。言わんで下さい。気にしてるんだから。
「まさか、あの子の心を溶かす人間がいたとはな……わはは。ひなたは相当佑樹を好いとるようだ。佑樹よ、お前さんはどうだ?」
「俺も勿論好きですよ。優しくて、可愛くて、ちょっと不器用で……それでいてすげえ強い子だ」
「そうか、そうか……器量良しのおなごに育ったようだな」
爺さんはウンウンと嬉しそうに頷く。ひなたの爺さん……聞きたい事、聞くべき事と言った方がいいだろう。俺は爺さんに問う。
「じいさん、ひなたって本当に……どうしようもないのか? 呪いってなんだ? 一体なんなんだよ……遺伝性の病気って……」
爺さんは深く目を瞑り、顔を天に向け拳を握る。その目はどこか儚げで、遠くを見つめていた。
「……ワシが究明を成し得たのであれば、ひなたは呪いに苦しむ事はなかった」
「え……」
爺さんは海の方を向くと、何かを掴むように手を伸ばす。その手は軽く震えていた。
「ワシもお主の年頃には、最愛の"ひだか"を喪うまいと島中を駆けずり回った。島を徹底的に調べる術を得る為、島を離れ、都会の大学へ行き考古学の道へ進みもした。
だが、足掻くも虚しく、ひだかはワシの腕の中で眠った……丁度二十になった夜の日であった。あれ程自らの不甲斐なさを痛感した日は無い。だがワシは諦めなかった。まだ小さい……"あき"と"やまと"がいたからな。ワシとひだかの子供達だ。このままでは娘のあきは呪いで死んでしまう。娘だけは死なせるものかと……抗った。
が、息子のやまとは快活そのものだったが、あきは日に日に弱っていった……そして、十八になる日に……逝ってしまった。そして、あきにも……まだ小さい娘がいた」
「それが……ひなた、ですか」
爺さんは歯を噛み締め、拳を震わせる。
「そうだ。まだ幼いひなただ。ワシは諦めなかった。ワシは島の事を調べ尽くした。しかし、いくら島を調査し、遺物を発掘しても、出てくるのはお伽噺のような物ばかりであった。
ひなたも周りの子達と比べて、些か弱っていくように見えた。そして、ワシは気付いたのだ。衰弱していたのは、ひなただけではなかったという事を。そう──ワシは老いたのだ。寿命が近い事を悟ったワシは……せめてひなたの側にいてやろうと、最期まで隣にいてやった。何度も何度も謝った……無力なワシを許してくれとな。ワシは最後まで……何も成し得なかった。惨憺たる生涯であったよ」
「え………?」
生涯って……まるで自分がもう死んだかのようじゃないか。困惑する俺に、爺さんは俺の目を見て続ける。
「佑樹よ、これは遺伝性の病気などという、些少な話ではない。古の代より続く、非科学的な何かが深く根付いておる。曲がりなりにも考古学の博士だったワシが、半世紀の時を費やしても"呪い"の正体は終に分からなかった。やめておけ、とも成し遂げてみよ、とも言わん。だが佑樹よ……どうかお前は、せめてひなたの──いや。死人に口無し、だな。お主はお主なりにひなたと向き合ってくれ」
爺さんは立ち上がると、濃霧立ち込める桟橋の奥へと歩き始める。死人……? 一体何を言ってるんだ。去ろうとする爺さんを、俺は必死に止める。
「ま……待ってくれ爺さん!」
「もうじき霧が晴れる。やはり此のような所で死ぬような男ではなかったか。暫しの間、見守っているぞ。では、達者でな────」
爺さんの背中に手を伸ばそうとした時、辺りに立ち込めていた霧から幾多の光が差し込み、俺の視界を徐々に奪っていく。次第に何も見えなくなり、キーンという耳鳴りと共に身体が宙に浮いたような、妙な感覚にとらわれる。
「……くん……きくん──!」
静かなさざなみの音の遠く、声が聞こえる。頬に何度か軽い感触。日差しの逆光でよく見えないが、何が近付きそして……俺の唇にそっと触れる。
暫くその柔らかな感触が俺の唇に絡み付く。微かな空気が送られてくる。俺は……人口呼吸をされているのか。口が離れた時、俺はそっと手を伸ばす。
「ッ……佑樹君!」
手をガシッと捕まれる。香り花のような匂いが鼻腔をくすぐる。この優しく柔らかい匂いは──ひなただ。俺はそっと身体を起き上がらせる。今度はハッキリとひなたの……今にも泣きそうな顔が視界に入る。直後、ひなたが俺の身体を抱き締める。
「よかったぁ……佑樹君……もう、心配したんだよ……」
「俺、一体……どうしたんだ?」
「佑樹君ボートから飛んでっちゃって……遠くの海岸で倒れてたんだよ。息もしてなかったから必死に人口呼吸して……もう、心臓が止まるかと思った!」
さっきまであった霧が嘘のように晴れている。じいさんもいない……あれは夢だったんだろうか。
「人口呼吸……? ひなた、多分あれはただのキスだったぞ。空気抜けてたし。まあ……ちょっと良かったけど」
「も……もう!」
ひなたは俺の身体から離れ、頬を膨らます。
「でも、無事でよかった……猿弥や先生も心配してるよ。一緒に帰ろ?」
俺達は人気の無い静かな海岸を、手を繋いで歩く。俺は少しだけ理解した……さっきまでの出来事を。本当に妙な体験をしたもんだ。あれが本当にあの世だったのか、夢だったのか……ふと本の事を思い出し、ひなたにそれを手渡す。
「あ、この本……そっか佑樹君が持ってたんだね」
「なあひなた。俺、一瞬あの世に行ってさ。あっちでひなたの爺さんに会ったよ。色々話聞いたんだ」
俺は小さく笑いながら、そんな冗談にも聞こえる話を飛ばす。が、返ってきたのは思わぬ反応だった。
「………どんな話したの?」
「ひなた……いや、たわいもない話だよ。ひなたは可愛く育ったとか、ひなたを頼むなーとかさ」
「フフ、そっか。もしかしたら、おじいちゃんが佑樹君を守ってくれたのかもね」
ひなたは本を抱えながらニッコリと笑う。じいさん、俺は足掻いてみせるよ。どんな結末だろうと……俺はひなたと最期まで生きたい。ひなたの側にいたい。俺はひなたの手を少し強く握る。ひなたはそれに応えるよう、強く握り返してくれた。俺は──絶対に諦めない。




