#103 鬼の稽古
「よし、道着に着替えたな。早速稽古を始めるぜ」
パンっと袴を叩く康治郎さん。これから一週間、俺と松家を指導してくれるのだ。来週の合宿で相対する他校にライバルに引けを取らないよう、気合を入れねばな。久しぶりの剣道……やるからには真剣だ。康治郎さんが教えるヤマちゃん先生の秘技、鬼撫で……一体どんな技なんだろうか。
「今日は胴垂不要だ。基礎稽古だけを行う」
「面付けはしないんすか?」
「ああ、鬼撫では刀と腕を一体化させなきゃならねえ。まずは下準備だ」
「腕との一体化……」
「素振りを怠らざる者、一刀を握るべからず……まずは1000本素振りからだ。時間ないから10分で終わらすぞ」
「げぇ!? 初手からハードっすね……」
「手は血と汗で汚れ、潰れた喉から血反吐を吐くような稽古が俺の理想だ。じゃなきゃ武道家なんて名乗れねえ。親父と違って俺は厳しいんだ。言ったろ? 稽古サボった罰で死なない程度に殺してやるってな」
そう言って邪悪な笑みを浮かべる康治郎さん。なんちゅうスパルタな先生だ。今の時代中々ないぞそんな道場……なんだか死んだ祖父の顔が浮かぶ。が、文句はない。大いなる達成感と、こうして再び剣道を出来る喜びが俺にはある。
「998……999……1000!!」
1000本素振りが完了した。俺は終わったと同時に、膝をついてしまう。喉、腕、足の裏。全ての部位が燃えるようだ。白い道着の松家も、同様に呼吸を乱しながら床に手をついていた。
「か、はぁ……! お、終わっだぁ……ぐぇっ……ゲッホゴッホ!」
「く、苦しい……ハァ……ハァ……」
「なんだぁ? たった1000本でだらしねえぞお前ら」
3人の中で立っているのは康治郎さんだけ。しかも、多少汗はかいているものの、息を全く切らしていない。どんな体力しているんだこの人は……いや、俺の体力が落ちているのかもしれないな。剣道は1年のブランクがある。こうも疲労が早いとは。頭では遥かに余裕があるはずなのに、身体が追い付かない……そんな状態だ。
「おっし。次は早素振り100本だ。3分で終わらすぞ」
「ふぇ!? ちょ、ちょっと休憩を……!」
「待って兄さん……! そんな急には……」
「……喉の乾きは、手首を噛み切って己が血を飲め。空腹時はマメを潰して食え──命の危機に瀕した時こそ、自らを磨く糧があるんだ。崖際に追い詰められた時、もっと奈落の方へ足を向けろ! 気合だ気合!」
「「お、鬼ィィ〜!!!」」
────
──
「──もう19時か。よし、今日の稽古はここまでだ」
「…………」
最早、声を出す気力も残っていない。身体は火のように熱を帯び、耳鳴りが遠くに聞こえる。あれから数時間、地獄のような稽古がようやく終わった。
「ふぅ……俺も久々に良い汗かいたぜ。ほら、とっとと着替えるぞ」
康治郎さんは汗一つ拭うと、急ぎ足で道場を後にする。なんであんだけ自分も動いて、そんな元気なんだろう……部長ってひょっとして最強なんじゃないか。
倒れたまま動けない俺と松家。俺達はなんとか上体を起こし、息を整える。虫たちの鳴き声が聞こえる程の静寂。松家の息がとても大きく聞こえる。沈黙を破ったのは、松家の方からだった。
「し、死ぬかと思ったわ……兄さんの稽古が……こんなに厳しいなんて……中学の時とまるで違う……死にそ」
「ああ、そうだな……けど、初めて会った時よりかは……ずっと楽しそうに竹刀を振ってたぜ、松家」
「う、うっさい!」
「ははは……」
あの時……1人で竹刀を振ってた松家に背中は、とても小さく寂しそうなものだった。けど、今は違う。叶うことがなかった、兄と共に振る竹刀。得も言えぬ充実感があるに違いない。
「ねえ、佐藤」
「あい……?」
「私の事……瀬那でいいよ」
「えっ」
「へ、変な意味なんてないから! 松家って呼び方は、兄さんもいるし紛らわしいからってだけだから!」
「あぁ……」
「私は別にあんたの事、佑樹とか呼ばないし! 佐藤のままだから!」
「おぉ……」
「別に男子として私は何も思って……思って…………な、ない! ないから! ほんと何言ってんの!?」
まだア行しか喋ってないんだが。稽古で熱く赤くなった顔を、さらに紅潮させて首を振る松家。俺に向けられた人差し指は、心なしか震えている。まだそんなデカイ声出せる余裕あるの、何気すげえよ。
「瀬那……」
「な、何」
「いや別に。試しに呼んでみた」
「いっ!? 意味もなく呼ぶなぁっ!」
俺の肩をブンブン揺さぶる瀬那。ホント元気だなあ……って、やべ。激しく動くもんだからなんか見えてる……! はだけた白い道着の隙間から、Iがエンカウントしてるって! 今思ったけど、顔も物凄く近い。俺は咄嗟に目を逸らす。俺の視線に気付いた瀬那は、何事もなかったように道着を直す。平手打ちが飛んでくると思って、薄目にして覚悟はしたが、瀬那は上目遣いで、ただ恥ずかしそうに見つめてくるだけだった。
「な、なんだよ……」
「別に……」
お互いの顔の距離は30センチにも満たない。なんで顔を離さないんだろう……肩で息をする瀬那の、ふんわりとした甘い香りが漂ってくる。汗かいても良い匂いだ……って変態か俺は。
そしてなんで、瀬那は目を閉じているんだろう。あるものを意識した途端、心臓の鼓動が早くなる。
「やあ、お疲れ様。稽古は終わったかい?」
瀬那の肩に手を置こうとした瞬間、道場の入り口からヤマちゃん先生の声が聞こえてくる。俺達は一瞬で総毛立つと、すぐに立ち上がって気をつけの姿勢で待機する。
「おや、まだ着替えてなかったのかい。新人組はもう帰ったよ」
「そ、そうすか……お、俺達も早く帰らないとな!」
「ああ、そうだ佑樹君。折角だしウチで晩御飯でも一緒にどうだい?」
「へ?」
「なんだか君にご馳走したい気分なんだ。大きな鯛を貰ったんだけど、僕達だけじゃ食べ切れなくてね……佑樹君がよければ、だけど」
「え、と……じゃあ、折角ならお言葉に甘えようかな」
「はは、よかった。それじゃ車で待ってるから瀬那達とおいで」
そのまま退場していくヤマちゃん先生。瀬那はプイッとそっぽを向くと、そそくさと駆けて行ってしまう。ふぅ……心臓止まるかと思った。
なんだかすごい一日だった。これで……よかったんだよな。さて、とっとと着替えて、父さんに晩飯はご馳走になるからいらないって連絡しとかないと──




