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掌編集

追い抜く人

作者: ginsui

 歩くのは速いほうだ。

 私はいつもすたすた歩く。

 杖をついている老人を追い越し、横に広がって笑いさざめいている高校生たちを追い越し、子連れの若夫婦を追い越す。鞄を抱えた同類の会社員だって、目の前にいる者はすぐに追い越す。

 めったに人に追い越されることはない。

 ずっとそうだった。


 日曜の朝、私は駅に向かって商店街を歩いていた。

 休日出勤のこの時間が、私は気に入っている。店はまだシャッターを上げず、車両進入禁止の狭い道路に邪魔な通行人はほとんどいない。いつもの道を伸び伸びと歩くことができるのだ。

 駅前の踏切近くで、後ろから近づいて来る足音が聞こえた。軽やかな運動靴らしい足音だ。追い抜かれるのが嫌で、私は地面に目を落とし足を速めた。

 しかし後ろの人は大股で、私をすいと追い抜いて行った。かすかな風圧を感じ、白い靴にジーンズの片足が見えた。

 そして、ぎょっとした。

 前には誰もいない。

 いま私を追い抜いていった人の姿がない。

 動悸をおさえて歩調をゆるめた。遮断機が下りたので、足を止めた。

 たしかな気配を感じたのに。

 運動靴の結び目まで、見えたような気がしたのに。

 いない。

 一瞬のうちにどこかの路地にまぎれこんだか、線路を駆け抜けたのか?

 まさか。

 私は苦笑した。

 ありえない。あまりにもはっきりとした感覚だったが──。

 疲れているのかもしれない。

 気のせいと思うしかなかった。


 だがそれ以来、何度もそいつにでくわした。

 出くわす、というより一方的に追い抜かれた。

 場所や時間はばらばらだ。会社のお昼時や散歩の公園、地下街にあげくは出張先まで。私の歩く場所ならどこでも現れ、追い抜く直後に姿を消した。

 黒っぽいパーカーらしきものを着た背の高い男。おそらく、若い。

 走っている時には近づいてこない。だからはじめのうちは、足音がすると走ったりもした。しかし、いつもいつも走ってばかりはいられない。

 たびかさなると、恐怖も慣れに変わるのだ。いつしか私は、そいつの顔を見たくなっていた。

 けれど、気配を感じて振り向いても姿はない。目に入るのはいつも、追い抜かれる刹那の半身だけだ。すばやく首をめぐらしてみるものの、もう遅い。ぶれた写真のようにその姿は焦点が定まらず、見えそうで見えずに消えてしまう。歯がゆくて仕方がなかった。

 他の人間は、そいつのことを知らないらしい。私の目の端にだけ映る奇妙な存在──。

 そいつが追い抜こうとする時、いっそう速く歩いてみた。そいつと並ぶ時間を極力引き延ばす。走ってはいけない。そいつが消えるか消えないか、まるでゲームのような兼ね合いだった。

 何度目かの試みで、そいつの長めの髪からのぞく左耳がはっきりと見えた時にはほくそ笑んだ。

 こんどこそ。

 取引先からの帰り道、聞き慣れたそいつの足音がした。

 すぐかたわらに気配を感じ、私はいっそう足を速めた。ほとんど並んで歩いている。息づかいまで聞こえてきそうだった。

 私はぐいと横を向いて、そいつの顔をのぞき込もうとした。

 車のクラクションがけたたましく鳴った。

 凄まじい衝撃を受け、私の身体は宙に飛んでいた。


 目ざめたのは病院だ。頭蓋骨陥没と何カ所かの骨折。命があって幸いだったと医者は言った。信号が赤になったにもかかわらず、私は横断歩道を渡ろうとしたらしい。

 あの時──。

 歯がみしそうになりながら私は考えた。もう少しであいつの顔が見えそうだったのに。

 あと一秒でも時間があったなら。

 退院して歩けるようになる日を渇望した。またあいつは来てくれるだろうか。そうしたら、どんなことをしてもあいつの顔を見とどけてやるのだ。


 病院を出てからは、毎日ほとんどの人間が私を追い抜いていった。

 松葉杖を使っているのでなかなか速く歩けない。横を過ぎる人にちらちらと目をはせるが、あいつではない。あいつの足音はよく憶えている。もう私に用はないというのか?

 しかし、とうとう私はあいつの足音を聞いた。

 日曜の朝、まるで私の歩調に合わせるかのようにゆっくりと近づいて来た。

 あいつの気配を横に感じながら、足を速めた。顔を横に向けようとした時、ぐらりと身体が傾いた。

 私は、その場に倒れ込んでしまった。

 踏切の中だった。松葉杖がレールの間に挟まったのだ。

 あいつは私を追い抜いた。

 立ち止まってこちらを向いた。

 私はうずくまったまま頭を上げた。白い運動靴を見、ジーンズを見、パーカーをたどり見た。

 色白の青年が私を見下ろしていた。整ってはいるが、これといって特徴のない顔だ。ただにこりと笑うと目がひどく細くなり、人好きのする愛嬌がうまれた。

 私は身動きひとつ出来ず、食い入るように青年を見つめた。

 ぶれもせず、消えもせず、彼はそこにいた。そして、さらに微笑んで私に手を差し出した。

 私はゆっくりと手を伸ばした。

 踏切の警報音が聞こえていた。

   


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