第2話、監視者たち
カップに残ったコーヒーを全て喉の奥に流し込むと、その男はひとつ息をついてから口をひらいた。
「つまり問題は土地だけなのでしょう」
「汚染物資もです」
向かい側に座っている髪の薄い、眼鏡をかけた男がたたみかけるように付け足す。
「だからそれは言い換えれば倫理問題だ。作業員の健康問題なのだからな」
始めの短髪の男が大きな声で言った。狭い会議室にその声はよく響く。彼の声だけを聞いていると、たった三人で談合しているとは思えない。これはこの男の性質なのだろう、そのままの音量で彼は言葉を続けた。
「倫理問題については保留すると。近い将来確実に訪れるであろう危機を回避するほうが先決だと。そのためには工場の増設が必要だと。ずっと昔に結論を出したとおりなんだ。話がどうどう巡りをしている」
人差し指をソーサーの縁に細かく打ちつける。そして意見を求めるように、細長い会議室の一番奥、窓を背にして座っている男をあおぎ見た。
「半径十二キロ以上に渡って民家及びその他の建築物が無く、工場建設に適した土地をもっと探さねばならない」
半ば禿げあがった頭と小さな目が老いを感じさせる。だがその瞳には未だ衰えぬ気迫と威厳が満ちている。重々しい物言いに、短髪の男が相手の顔色をうかがうように尋ねた。
「地下に造るのではやはりコストの関係で不可能でしょうか」
「建設のコストもかかるが、地下では汚染物質が蓄まりやすい。地上に排出するとしても、下手に出せば地下工場の存在が露見する。やはり人のいない土地の下にしか造れぬのであれば、地下の意味があまりない。問題の無い物質のみを排出したとすれば、中で働いている人間は三十年か……どのくらいだろう」
「二十年もてばせいぜいというところだと思われます」
眼鏡の男が答える。
「作業員たちを創る費用も馬鹿にならない。それではもとをとれないだろう」
「はい」
短髪の男は心底納得した風情だ。
「やはり汚染物質を減らせれば、民家の近くに建てても問題は無いわけですし……」
眼鏡の男がカップの取っ手を撫でる。が、即短髪の男が、
「倫理問題」
と、合いの手を入れた。
「最も大切なのは機密を守ることだ。作業員を創ったのはそのためだ」
口を開きかけた眼鏡の男をさえぎったのは初老の男だ。「もちろん汚染物質が多く排出されているということもある。だがそれさえ、毒性も明らかでない物質を辺りに撒き散らしているという、知れてはまずい機密なのだ。
工場で働く人間全員が、完全な機密保持に努めるとは考えにくい。だから、工場の回りの汚染物質にやられた枯野を見ても不思議を感じず、自分の働く工場で作っているものがなんであるかの興味も持たないような人間が必要なのだ。そしてすなわちそれが、作業員たちだ。作業員を創った理由を忘れないでほしい。
目的を忘れてもらっては困るな。まあ、君たちはプロジェクト当初のメンバーではないから仕方の無いことかもしれないがね」
と、口の端を笑みの形に歪める。だが瞳は笑っていない。自分の前で頭を低くしているふたりの男に、かわるがわる冷たい視線を注ぐ。
交錯するふたりの視線は互いに、「お前が悪いんだぞ」と如実に語っている。
初老の男がカップをゆっくりと口元に運んだとき、ノックとほぼ同時にドアが開いた。ノブを片手に握ったまま、若い男がこわばった顔をしている。
「逃亡者が――」
「何だって……?」
初老の男は口をつけずにカップをソーサーに戻す。
「作業員がひとり逃げました」
ドアノブを握っていた手をおろし、起立の姿勢ではっきりと言った。
「どちらの工場だ? 湯浜か鷲原……」
「鷲原です。三十四番の作業員だそうです。コンピュータのカメラによると工場内に姿が見当たらないとのことです。探して連れ戻しますか?」
若い男の言葉に初老の男は、しばし答えずカップの中を見つめていた。右手でカップをゆっくりと揺らす。茶色い液体がねむたそうに円を描く。
「連れ戻す必要はない。放っておけ」
初老の男が低い声でゆっくりと言った。
「はい、失礼致しました」
歯切れの良い返事を残して、若い男はこうべを垂れた姿勢のままドアを閉める。立ち去る足音が遠ざかるのを待ち、初老の男は口を開いた。
「工場は町からは十キロ以上離れておる。逃げたところでどうにもならん。食べ物もなく人もいないのならば工場の方がずっと環境が良いはずだ。そのうち戻るだろう」
残りの二人は謹聴の姿勢だ。
初老の男は再びカップを口元へ運んでゆく。目を細め、じっと虚空を見据える。「だが問題はなぜ逃げ出そうなどと考えたのかだ。作業員には何の欲も不満もないはずだが……。あのような環境では意欲など湧くはずはないのだが……」