15・引っ越し
冬霧はワンちゃんに対する愛情のこもった悪行により、メイちゃんの家に「連れて行かない」と宣言された。
だけど当の本人である冬霧はそのことに関して全く興味がなさそうで、私たちが出かけることを伝えると「気をつけてね」と、ワンちゃんの耳が隠れるようなゆったりめのニット帽を貸してくれる。
ワンちゃんは冬霧が全然悔しがらないので代わりのように悔しがっていたけれど、冬霧にのほほんとお見送りされたあとは「うみ、ぼくについてこい!」と頼もしいことを言って先導してくれたので、私はワンちゃんと家を出て、市街地の方へ歩いた。
そうしてわかったのは、ワンちゃんには公園を見かけるたび入りたがる悪癖があるということだった。
「メイは公園で遊ぶのが好きなんだ! だから奇跡的に会えるかもしれないだろ!」
「そんなこと言ってるけど、ワンちゃんはどちらかといえば子どもが集まっている遊具より、脇に生えている草花に眼差しを投げかけてる」
「それはついで! 目的はメイなんだ!」
私はそんな感じで、目的を忘れて食欲にふらふらするワンちゃんと根気よくつき合うこととなった。
そんなワンちゃんは時折思い出したように、ニット帽の横からはみ出ている髪を手ぐしで撫でつけるように整えている。
メイちゃんにもし会ったとき、少しでもかっこいいところを見せたいのかな。
それともただ単に、剃られた部分が気になるのかもしれないけど。
様子を見に行くだけとは思いながらも、やっぱり緊張しているのかもしれない。
「あっ、公園だ! 進め!」
ワンちゃんは新たに見つけた公園に向かって、もう駆けだしている。
私も仕方なく小走りでついて行くけれど、すぐに足が止まった。
公園にはブランコやすべり台があって、子どもたちが笑い声を上げてちらほら遊ぶ中、そばでお母さんたちが談笑している。
「わっ、たくさんいる……」
小さい子の苦手な私がおろおろしている間、やはりワンちゃんは遊具ではなく、反対側にある草木に囲まれた散歩道へ走った。
思わず呆れていると、ワンちゃんの行く手には遅い降園途中なのか、幼稚園の制服を着た女の子がお母さんと手をつなぎながら歩いている。
また小さい子か。
私が思ったとき、ワンちゃんは二人の方に手を振った。
「ヒナちゃん!」
呼ばれた女の子は、にこにこしながらワンちゃんに手を振り返す。
「うん。わたしね、ひななの」
「知ってるよ、ヒナちゃんはメイの幼稚園のお友達で、家に遊びに来てたから。ぼくだよ、ぼくは……」
ワンちゃんが口ごもっている。
ヒナちゃんのお母さんはワンちゃんに気づくと、その日本人離れした目や髪の色かそれともかわいすぎる見た目か、ちょっと驚いた顔をしたけれど、すぐに笑顔で挨拶してくれた。
「あら。ヒナとメイちゃんのお友達なの? こんにちは」
「こんにちは! あ、あの、ぼく。これからメイの家に行こうと思っていたんだ。それでヒナちゃんに、今日幼稚園でメイが元気だったか聞きたくて……」
ワンちゃんが言おうとしてくれていることに気づいて、ヒナちゃんのお母さんは少し困ったように眉をさげる。
代わりに、ヒナちゃんがしょんぼりして言った。
「めいちゃんね、おやすみなの」
「……どうして?」
「ひっこしなの。でもようちえんはいっしょだから、おわかれはしなくていいんだよ」
寒気を感じて、私は身をすくませた。
愕然とした感情が流れてくるのと同時に、ワンちゃんがぱっと走り出す。
「ワンちゃん、待って……!」
近づくとますます心が黒く押しつぶされそうになり、私はそのままうずくまかけた。
だけどワンちゃんが公園を突っ切って走って行ってしまい、強張る体を引きずって必死で追いかける。
見失うか心配だったけれど、ワンちゃんは公園の近くにある住宅街の一角、小さな一軒家の前に立っていた。
外から眺めただけでも、そこは人が出払っているというより人の住んでいる気配がなくて、がらんとしているのがわかる。
「ない」
ワンちゃんがぽつりと呟く。
「家の前に置いてあったメイの三輪車がない……」
私たちが家の前に立ち尽くしていると、道を歩きながら話している主婦たちの会話が耳に滑り込んでくる。
「あ、ほらここ。メイちゃんのおうち、お父さんの仕事がうまくいかなくなって、引っ越したらしいわよ」
「ああ、私も聞いたわ。ほら、隣の校区のおひさま公園の向かいにある団地でしょ? あそこ、安いから。でもペットは連れていけないって。どうしたのかしらね」
「旦那さんがどこかに置いて来たって言ってたわよ。あんまりよねぇ……ずっと室内で飼っていた生き物にそんなことをしたって、生きていけるわけないのに」
声が去っていく間に私は冷え切っていた。
嫌な汗が全身に浮き上がり、震えが止まらない。
今、ワンちゃんはどうしているのか……。
顔を向けようとしても、声をかけようとしても、身体が言うことを聞かない。
意識すら朦朧としてきて、私はその場に倒れ込んだ。
口を開いても、息が入ってこない。
代わりにどろどろとした心の倦みが溜まっていき、窒息しそうだ。
怖い。怖い怖い。
まるで、あの頃の私。
だけどお母さんは、もういない。
そんな私がいつものように、あたたかく抱き上げられる。
ほっとした。
嬉しいのに、やっぱり悲しい。
お母さん、ごめんなさい。
私、おかしいの。
ぼんやりとした心の中に、氷の刃物のような感覚が滑り込んできた。
痛みすら覚える鋭い感情に、私は我に返る。
私を抱き上げてくれた冬霧の、悲しみに染まった瞳が見つめていた。




