01 風の強い日
――新暦195年 7月 12日(火)
辺境の町『ディアン』
18:30
作業服姿の青年が首筋を流れ落ちる汗をタオルでふき取った。轟音をあげて唸っていた機械が止まり、加工された部品が中から出てくる。それを手に取り形に異常がないかチェックし、完成品置き場に置いた。
一通りの作業を終えて近くに置いておいた水筒を手に取り、水分補給をしていた青年に中年の男性が声をかけてきた。
「すまんな『ウィン』、いつもこんなもん頼んじまって」
「いや、大丈夫だよおやっさん。どうせ暇だし、手伝えることなら何でも言ってくれよ」
青年、ウィンはこの小さな工場に手伝いにやってきていた。いつも通りの手慣れた手つきで作業を進め、それを終えた頃には夕刻になっていることを工場に設置されていた時計で確認した。
外では予報外れの強風が吹いていた。せっかくの休日、尚且つ雲ひとつない綺麗な青空が広がっているのにも関わらず吹き荒れる強風に、町の皆が少し憂鬱な気持ちになっていた。
「シャワー浴びてくるわ。物は全部あそこにおいてあるんで、一応チェック頼んますおやっさん」
「おう。任しとけ」
経営者であり、工場に勤めている者たちからおやっさんと慕われている『ハリー・グラス』に声をかけたウィンは、作業場を出て直ぐ近くにある借り家のシャワールームへ向かった。そのときに、また風が強くなったように感じた。
汗とこびり付いた油を洗い流し、バスタオルで体中を吹きながら小さな居間の座椅子に腰かけた。おもむろにつけたテレビには砂嵐しか映らない。どうやらまだ電波は回復していないようだ。
一ヵ月のあの日もこんな風の強い日だったのを覚えている。正確に言えばそこからのことしか覚えていない。覚えていることといえば、重機や機械いじりと生活するうえでの知識ぐらい。何故か自分の名前が思い出せない。第一発見者であるリリィが風の強い日にちなんでつけた『ウィン』という名前を今は使っている。
いわゆる≪記憶喪失≫。そんな身元不明なウィンをこの町は受け入れてくれた。今ではこうして借り家に住み、町の手伝いをして生活している。幸いにも飯に関しても困らずに過ごせている。なぜかといえば、リリィのいる『ステイシー家』にて飯を食べさせてもらっているからだ。
適当な部屋着に着替えたところで、玄関の扉がノックされた。
「ウィンー? ごはんできたよー」
「分かった、今行くー」
扉の向こうから聞こえてきたリリィの声。リリィ自身の料理の腕も高いのだが、リリィの母である『ミア』さんもかなりの腕前。毎日うまい飯が食えて本当にうれしい。
火の元を確認したのちに外へと出れば、耳に埃が入らないように大き目の帽子をかぶっているリリィの姿があった。
「お待たせ」
「うん。じゃあ行こうー」
借り家の近くにあるステイシー家にはすぐに到着した。この町の唯一の診療所であるこの家に、食事の時間にはいつもお邪魔させてもらっている。2階にたどり着くとリリィの母がリビングの手前で出迎えてくれた。
この町で一番ともいわれている美貌を持つミアさん。リリィと同じ腰まである綺麗な茶髪、男性ならば無言で息を呑むほど整った体系。それのおかげかこの診療所にわざと怪我や風をひいてくる人がいるほどだ。
「いらっしゃい、ウィン」
「お邪魔してますミアさん。『クリム』さんはもう中に?」
「ええ。もうテーブルに座って待ってるわ」
優しく微笑んだミアとともにリビングに入ると、料理の並べられたテーブルの周囲椅子の1つにはこちらが来るのを静かに待っていたリリィの父、『クリム』がいた。四十路を過ぎ、早くも短く切りそろえられた黒髪が薄くなってきてしまったのを最近気にしている。
全員が席に着き、待ちわびた食事の時間が始まる。相も変わらずうまい料理を口に運びつつここ最近に関しての適当な会話をしながら食事を続けている中で、おもむろにクリムがテレビのリモコンを手に取ったのを見てウィンが指摘した。
「あ、クリムさん。ダメです、今日も映りませんでしたよ」
「今日もだめか。もう一ヵ月になるな」
ため息をつきつつクリムはリモコンを置いた。残念そうにしている理由は、いつもであればこの時間にお気に入りのニュース番組が放送される時間だったからだ。テレビやラジオ、携帯電話などといったあらゆる電波が繋がらなくなってからもう一ヵ月になる。
空路において謎の墜落事故が連発した結果陸路でしか情報が伝わらず、物資の搬入も予定よりもだいぶ遅くなっていた。国内での『転移術』による移動は可能なものの、海から一定距離超えた先には移動できないという不思議な障害が発生していた。
カダリアを混乱させている異常事態となっているが、いまだ解決には至っていない。首都において対策本部が設立されたようだが、良い報告が伝わってこないのが国民を不安にさせている。
しかしながら自分たちには出来ることはない。ただこうして日々を過ごし、復旧を待つだけ。首都でも原因がわかっていないことを小さなこの町がどうこうできるものではない。
今日の出来事などをお互いに話していれば、料理は綺麗になくなっていた。楽しかった食事が終わり、4人は最後に手を合わせる。
「「「「ごちそうさまでした」」」」
後片付けを手伝った後、テーブルにはウィンとクリムが残り、リリィとミアが一緒に皿洗いをしていた。いつもと変わらないステイシー家の日常に、ウィンは心を落ち着かせる。
クリムは用意されていた食後の茶を一口飲み、咳払いをすると真剣なまなざしでウィンを見つめてきた。
「いよいよ明日、防衛兵団に頼んでもらった調査員がやってきてくれるねウィン君」
「そうですね。これで身元が判明すればいいんですが……」
本来であればすぐにでも身元が確認できたのだが、現在の電波障害とその解決のために人員は優先的に割かれており、調査員が派遣されるのに約一ヵ月の時間を有することになってしまった。
駐在している団員のもとにはこの町の住民に関する情報はあったが、カダリア全体の情報はなかったので、呼ぶこととなった。
「そうだな。ちなみにウィン君、例の件に関しては……前向きに考えているかね?」
「あの件……、ですね」
2人を緊迫した空気が包み込んだ。その様子を不思議に思ったリリィがこちらをのぞき込む。ミアはすでに知っているようで微笑みながら皿洗いを続けている。
しばしの沈黙の後、クリムは口を開いた。
「もし、身元が分かった後もこの町に留まってくれるのならば……、娘を頼む!」
「はい! 喜んで!」
「お父さん!? ウィン!? ちょ、な、何言ってんの!?」
今の今まで全く聞かされていなかった提案。そしてそれを快諾したウィンを見て流し台のある台所から顔を真っ赤にしてリリィが飛び出してきた。
事態を把握しきれずに慌てふためくリリィの手にはまだ食器用洗剤の泡がついている。湯気が上がりそうな様子のまま、2人に対してリリィは問いただす。
「お父さん! いつからそういうこと考えてたの!?」
「ちょうど半月前くらいだな。ウィン君がこの町になじみ始めて、我が家ともいい感じになってきたころだ」
「なんでウィンなの!?」
「いやーだって若者は基本的に町を出て行って、残ってるのは今年で三十路超えたオムドゥールさんの長男だけだし、なによりウィン君といるときにお前は私たちにも見せたことのないような笑顔になってたからな」
「そ、それはそうだけど、こんなことに発展するなんて……嬉しいけど、まだ早いっていうか」
「それに、隣町の医術学校から帰ってくるのも随分早くなったわよねー。道中の安全のために送り迎えしてくれる団員さんも大変そうにしてたわー」
「……!」
皿洗いが終わり、途中から割って入ってきたミア。持ってきた濡れタオルで口をパクパクさせているリリィの手を優しく拭った。
母の指摘で恥ずかしさが頂点に達したのか、リリィはその後下を向いて黙り込んでしまった。顔だけだった赤い部分は、全身へと転移している。
その様子をにやにやしながら見守る両親2人と、少し心配そうに見守るウィン。なんとも言えないが悪くわない雰囲気がステイシー家のリビングで形成されていた。
大丈夫かとウィンが声をかけようとしたその時、リリィがウィンの腕を掴んだ。
「そ、外行こう! そ、ソトノクウキガスイタイナー!」
「お、おい大丈夫かリリィ? 物凄く片言になってんぞ!?」
遅くならないようにと半笑い状態のミア言葉が背後から投げかけられ、小さな手に連れられたウィンは無理矢理外へと連れ出されていった。
※※※
夕飯時も過ぎ、日が落ちたことによって既に暗くなっていた公園に2人はたどり着いた。
それほど広くはない公園。たった一つだけ設置されている街灯の明かりだけでも全体が見渡せた。
「……ウィンは知ってたの? お父さんの言ったこと……」
ようやく足を止め、こちらに背を向けたままリリィは問いかけてきた。まだ照れているのか、恥ずかしいのか、耳が真っ赤になっているその様子を見てウィンは静かに答えた。
「知ってたよ。でも話を持ち出されたのは一週間前だった」
「そう……なんだ。……ああもう、まだ落ち着かない自分にイライラしてきたよ」
そういうとリリィは手を放し、この公園に二つしかない遊具のうちの一つであるブランコに飛び乗った。ちなみにあと一つはすべり台だ。
幼児から小学生向けの遊具であるはずなのだが、その見た目からかしっくりときてウィンは少し笑ってしまった。
「もう一ヵ月経つんだね。ウィンがこの町に来てから」
「ああ。そうだな」
静かにブランコをこぎつつ、まるで遠い過去を懐かしむようにつぶやいたリリィにウィンは返した。
山でリリィを熊から助けて、この町に調査員が来てくれるまで待つことになってからもう一ヵ月。思い返せばこの町に関してのことはほとんどリリィに教えてもらったことを思い出した。
この町で過ごすことは、ウィンにとってとても充実した生活だった。前の自分がどういった存在なのかどうか気にもならないほどに。
「実はね、今まで隠してたんだけど、ウィンって最初に会ったとき軍服着てたんだよ。それも防衛兵団のやつ」
「え、マジで? こんな俺が団員だったのか?」
「本当だよ。診療所に連れ込んだ時に脱がせて、綺麗にした服はお父さんの部屋のクローゼットに閉まってある」
それを聞いてウィンは素直に驚いた。こんな能天気な自分がそんなまともな、ましてや規律が厳しいであろう団員になれるとは到底考えることができなかったからだ。
「こんなにボロボロになって辺境にあるこの町に来たから、何か複雑な事情が絡んでるって考えたお父さんが調査員が来るまで隠しておこうって言ったの。ごめんね隠してて」
「いや、いいさ。その分何も深く考えずに楽しくこの町でいられたからな。逆にこっちから感謝するぐらいだ」
「……ウィン。さっきのその……本当にいいの?」
ブランコを止め、風によって生まれる音だけが辺りに響く。
落ち着いたリリィの表情からは、嬉しいのだが心の底から喜ぶことができないといった感情が読み取れた。
「ああ。俺はこの町とリリィが好きだ。もし記憶を取り戻したとしてもここに残りたい。『今』の俺はそう考えてるよ」
「……ありがとう。ウィン」
先ほどとは違う笑顔がウィンに向けられた。心の底から喜んでいる顔だ。それを見たウィンも、自然と笑顔になる。
その後、お互いの間で心地のいい沈黙が続いた。日中強かった風も、夜になれば徐々に勢いが弱くなっている。心地よいものとなったそれは、優しくウィンとリリィを包み込むように公園を吹き抜ける。
たとえ『前』の自分のことを知ったとしても、『今』の気持ちが変わることはない。今ここにいるのは、この町の居候の『ウィン』なのだ。
「となると結婚式か。あーでも金の面がなー。年齢的にはリリィは15だから何とか大丈夫だけど――」
「ちょ、早い! あの、その、まだ心の準備が……」
沈黙を破って提案を始めたウィン。その話を聞き、再び顔を真っ赤に染めてリリィはブランコから降りた。
止めてと言わんばかりに詰め寄ってくるリリィ。その変わりようが可愛く、逆にもう少し困らせてみたくなる。
「スピーチに関してはクリムさんよりもミアさんか。上司に関してはよく手伝いに行くおやっさんがいいかなー。後はリリィの――」
「も、もう帰ろう! お父さんとお母さんが心配するし!」
そういって足早に公園の出口へと向かって行ってしまった。だが後ろから見てその大きな耳が嬉しそうにパタパタと動いているのが微笑ましかった。
これからもこの町で生きていく。決して大きくはなく、利便性もそれほど高いわけではないが、温かい雰囲気をもった良い町だ。
リリィの後ろ姿を追い掛けようとしたその時、収まり始めていた風が勢いよくウィンの背中を押した。
「……?」
――何かが聞こえてきた。町の中の生活音ではない。何か奇妙な音が
ふと後ろを振り向くと、既に作業用の明かりが消えて真っ暗になっていた鉱山とその採掘場がある。
この町ではあの鉱山で採れた『魔鉱石』をカダリア全土に売り出すことで利益を出している。『魔鉱石』は『魔導鋼』や『魔核』に加工され、建築資材や護身用携帯障壁など現在では身の回りの必需品になくてはならないものとなっていた。
何故人気のない今の時間帯にあんな音が聞こえたのか。疑問に思いその場で立ち尽くすウィンは採掘場を凝視する。
「ウィンー? どうしたのー?」
「あ、すまん。今行くー」
こちらのことが気になったリリィの呼びかけに答え、ウィンは採掘場からの音は気のせいだと割り切って歩き出した。
きっと空耳か何かだったのだろう。そう自らに言い聞かせながら、ステイシー家への帰路についた。
※※※
「……セーフですね。1人勘のよさそうなのいたけど大丈夫っぽいっす」
採掘場の機材の上で少年が右手の甲に浮かび上がった『共有方陣』に話しかけた。一瞬こちらに気づいたかと思って冷や冷やしたが、大丈夫そうだ。
『ふう。やはり……、こうした作業は……、スリルがあって……、心地いいですね……』
坑道最深部にて作業しながら途切れ途切れの中年男性の声が聞こえてくる。緊張というよりかは、逆に今の状況を楽しんでいるのが声だけでもわかった。
本来ではこんな辺鄙なところ来る予定はなかったのだが、調査員が来るということが判明し、ちょっとした工作を行えばちょっとした嫌がらせができることが分かったからだ。
それから約5分後、少年の横に禿で汗びっしょりの白衣を着て奇妙な眼鏡をかけた中年の男性が転移してきた。汗と加齢集があたりに漂い、思わず少年は眉をしかめた。
「久しぶりにいい汗を流しました。予定通り起動は午前2時30分。町の皆さまが眠りについている真夜中に子持ちのあれを転移させ、物を起動しますよ~」
「わかりましたお疲れ様です。臭うんで帰ったら早くシャワー浴びた方がいいっすよ」
「いえいえ、貴重な時間を無駄に浪費することはできません。帰ったらもうひと踏ん張りです!」
「あー、そうっすか。わかりやした。なら出来れば帰るまで可能な限り近づかないでほしいっす」
文句を垂れ流しながらも少年は中年とともに消え、鉱山は再び静けさに包まれた。