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――新暦195年 6月 10日(金)
カダリア・首都『フォルニア』・『首都・防衛兵団』寄宿舎
03:30
静かな寄宿舎。既に多くの者が眠りについている中、1人分の足音が廊下を進んでいた。
その足は真っ直ぐ目的の部屋へと向かっていた。足音の正体である男が部屋の前へとたどり着いた時、少し離れた部屋の扉が開く。
「……こんな時間に誰?」
出てきたのは、寝巻き姿の少女。腰の辺りまで伸びたブロンドの長髪と赤色の瞳が美しい。
消灯時間はとっくに過ぎているのにも関わらず聞こえてきた足音を不審に思い、部屋から出てきたようだ。それを見て男は驚きつつも呟いた。
「あらま、うまく忍び込んだと思ったんだけど……」
「……?」
この寄宿舎の警備は厳重であり、いかに深夜といえども部外者がそう容易く侵入することはできない。だが、今目の前にいるのは見覚えのない男。少なくとも、防衛兵団に所属する者ではない。
しかしながら、どこかで見たことがあると少女は思った。寝ぼけている頭を必死に動かそうとする少女だったが、それよりもはやく男は笑顔でしゃべりだした。
「起こしちゃって悪いな美人さん。でも、『用』は直ぐに済むから」
一体何をするつもりなのかと女性が問いただそうとした次の瞬間、赤い稲光が男の周囲を覆った。その光に一瞬目が眩んだ少女。一呼吸置いて目を開けたその先には全身が変貌した男の姿があった。
全身が真っ黒な獣のような見た目に変化したその姿を見た少女は眠気が吹き飛んだ。ようやく思い出した指名手配犯の男の名を叫ぼうとしたが、それよりも早く男の右手から放たれた赤い光弾が彼の目標である部屋を扉ごと吹き飛ばした。
凄まじい衝撃が周囲を襲い、少女はその場に倒れこんでしまった。舞い上がった塵によって視界が遮られる中、破壊された部屋にいた者の名を叫んだ。
「『レイン』!!」
※※※
――2日後
カダリア・辺境の町『ディアン』・近辺にある山
18:50
「んー、どこなのかなー」
天気予報通りの強い風が吹く中、山菜がたっぷりと詰め込まれたリュックを背負った少女が森の中で周囲を見渡していた。
腰のあたりまで伸びた綺麗な茶髪。碧色の瞳の少女は今年で15歳になるが、148センチの身長と幼げな面差しが災いして小学生と間違われることがある。
「おーい『リリィ』! もう暗くなってきたから帰るぞー!」
「分かってるってば。話の通りならここら辺にあるはずなんだよ、マツタケがー」
つい先日この山の見回り兼山菜取りに行っていた近所のおじいさんが偶然マツタケのようなキノコを見かけたというのだ。
ちらりとしか見なかったが、あれは間違いなくテレビで見たマツタケだ。すでに手持ちが満杯で取ってくることができなかったおじいさんはそう言った。おじいさんが嘘をつくことはないことを知っていたリリィは休日を使って、祖父の『コーディ』の山菜採りについてきたのだ。
別にキノコが好きだとかマツタケが大好物だとかそういうわけではないのだが、テレビや本の中でしか見たことがない物を食べてみたいという衝動が抑えることができないのが現状だった。
採った後にどう料理するかで頭が一杯のリリィは、必死に探しているうちにコーディから離れてしまう。本人はそれに気づいていない。どんどん離れていく孫娘にコーディは呼びかける。
「もういいだろー。早く帰るぞー」
「もうちょっとー、もうちょっとだけー」
諦めきれずにマツタケの捜索を続けるリリィはさらに森の奥へと進んでいく。
コーディからかなり離れ、周囲が薄暗くなってきた中、期待を膨らませていたリリィの目の前についにそれが姿を現した。
「あった! やっと見つけ――」
「リリィ!!」
歓喜の声を上げようとしたリリィだったが、それはコーディの叫び声によってかき消された。若干不満気な表情をしつつ、振り返らずにリリィは言った。
「何よおじいちゃん、うるさい……」
「逃げろぉ!!」
その必死の叫び声を聞いて異常を感じ取ったリリィが振り向くと、そこには自分よりもはるかに大きい熊がいた。いや、熊の『魔物』がいた。
テレビや本でしか見たことのない動物、ましてや『魔物化』した存在など見たことがなかったリリィは恐怖の余りその場から動けなくなってしまった。
口元に乾いて黒く変色した血がこびりついた熊は、ゆっくりと近づいてくる。どうすればいいのか混乱して何もすることができずにただ立ち尽くすリリィ。
「化け物! こっちだ! こっちに来い!」
熊の気を引き付けようとするコーディに反応して一瞬振り返った熊。それを見てリリィは全速力で逃げ出した。
とにかく逃げなければ、間違いなく殺される。そう考えたリリィは咄嗟に判断したのだが、これが逆効果となってしまった。目の前にいた一番近い獲物が逃げ出したことに気づき、熊はリリィを追いかけてきたのだ。
リュックを捨て、木々の間をすり抜けていくリリィ。その後を熊は障害となる物を薙ぎ倒しながら突き進んでくる。距離が離れていき、コーディの叫び声も遠のいていくのがわかった。
体の至る所に擦り傷などができるが、そんなことを気にせずにリリィは走る。ここで止まればこんな傷では済まされない。
「……っ! しまっ」
逃げるのに必死でこの森の中にある小さな崖に気づかなかったリリィは足から落下してしまう。薄暗く、注意が後方に向いている現状では前方にへの注意が散漫になっていたのも影響していた。
足から着地ができたものの、捻った足の痛みでその場に倒れこんでしまう。倒れこんだ先には奇跡的に落ち葉が積もっていたため、それがクッションとなってくれた。
「痛っ……!」
立ち上がろうとしても両足に激痛が走り、立ち上がることができない。混乱と痛みで次にすべき行動が思いつかない中、楽々と崖を飛び降りた熊はリリィの直ぐそこまでやってきた。
真っ赤に光る目と唾液が垂れ落ち、荒い息をしている熊。近づくにつれてその体から漂う血と獣の悪臭がはっきりとしてくる。その体一つ分まで迫ってきたのを見て、リリィは死を覚悟した。
熊なんてこの森にはいなかったのに、どうして。様々なことが脳裏をよぎる中、呼吸が整った熊の右前腕が振り上げられる。
せめて一瞬で楽にしてほしい。リリィは瞳をゆっくりと閉じた。
「……」
真っ暗。静かだ。もしかしてもう死んだのだろうか。だったらここは死後の世界なのだろうか、というか死後に世界なんてあるのだろうか。意味も無くそんなことを考えてからしばらくして、木の枝が折れる小さな音が聞こえてきた。
疑問に思ったリリィはもう二度と開くことはできないと考えていた目を開いた。そこには何かに怯え、後ろに下がる熊の姿があった。
一体何があったのかと周囲を見渡そうとした次の瞬間、銃声が響き渡った。右前腕に銃弾が直撃した熊は苦痛の声を上げて後退する。リリィはその銃声がしたほうを向いた。
「……え?」
そこには、ぼろぼろの服を着た青年が立っていた。その手には見たことない拳銃が握られている。濃紺の瞳を持ち、短めの黒髪はぼさぼさになっている満身創痍の様子の青年は、今にも倒れてしまいそうだった。
彼が助けてくれたのだろうか。だけど、たった一発ではあんな大きな熊は倒すことはできないのではないか。だが、そのリリィの予想は裏切られる。
熊が苦しみ始めたのだ。良く見れば茶の毛が生えそろっている右前腕が真っ黒に変色し、さらにその黒色が全身へと広がり始めている。もだえ苦しむ熊だったが、その黒色の侵食が頭の部分へと到達したところでその場に崩れ去り、動かなくなった。
静かになった森の中。助かったと安堵したリリィがため息をつくと、そのすぐ横に青年が崩れ落ちた。
「……大丈夫か?」
気を失いかけている青年が、リリィに問いかけてきた。驚きつつもそれに返答する。
「だ、大丈夫」
「そうか……、よかっ――」
全てしゃべり終わる前に青年の腹の虫が鳴った。この森全体に響き渡っているのではないかと思われるほどの大きさで。
そして再び静かになった森。木の葉が風に揺られて生み出すざわめきがリリィの緊張をほぐしていった。
「……ありがとう」
「おう。んじゃ……後で腹いっぱい何か食べさせてくれ」
感謝の言葉を述べたリリィに、青年は恥ずかしそうにしながら答えた。その後青年は力尽きたかのように寝てしまった。安らかな寝顔と、静かな寝息を聞いたリリィは、足は痛むが何故か目の前の青年を見ていると安心することができた。
完全に日が落ちて少し経った頃、コーディと複数の声がこちらに向かってリリィの名を呼びながら近づいてきているのが聞こえてきた。風の影響で雑音も多かったが、リリィの耳なら聞き取ることが出来る。人の耳ではない、≪狐の耳≫を持ったリリィならば。
精一杯の声を絞り出し、リリィは自らの居場所をコーディに知らせた。コーディたちが近づいてくるのを確認できたリリィは、自らの足に治癒術を施していく。
痛みは消えたが、青年を担いで行けるほどの力はリリィは持っていない。安らかなその寝顔を見守りながら、リリィはコーディたちがやっていてくれるのを静かに待つことにした。