第10話『本物の恋人を』
流れるプールで心身共に癒やされた後は、25mプールで結衣と競泳をした。結衣がどの泳ぎ方でもかまわないと言ったので、俺が一番泳げるクロールで勝負することに。
海水浴のときは多少は波があったし、スタート時に蹴伸びができる環境ではなかったので、結衣のスピードには追いつけなかった。だから、25mプールなら結衣といい勝負ができるかもしれない……と思っていたら、その読みが甘かった。
スタート時の蹴伸びで結衣はスーッ、と速く前に進み、その時点で体半分ほどの差がついてしまう。しかも、ここはプールだから泳ぐには最高の環境。だから、クロールで泳ぎ始めると、結衣のスピードはさらに上がって。最終的には体一つ分以上の差をつけて負けてしまった。さすがはクロールも平泳ぎも背泳ぎもバタフライも50m以上泳げるほどの運動神経の持ち主だ。
計3回クロールで勝負したけど、体力の消耗で泳いでいく度にスピードが落ちてしまい、全ての勝負で結衣に惨敗してしまった。
「はあっ……はあっ……さすがは結衣だなぁ!」
「えへへっ。3戦全勝だね!」
全力でクロール25mを3回泳いだから俺は結構疲れているのに、結衣は多少息が乱れる程度。笑顔で「いぇーい」と俺にピースサインを突きつけるほどの余裕ぶりだ。水泳の技術だけじゃなくて、体力の差があったことも結衣に全然敵わなかった原因だと思う。
「完敗だ。でも、結衣と泳げて楽しかった」
「私も悠真君と一緒に泳いだのが楽しかったよ!」
「そう言ってくれて良かった。……さすがに何度も泳いだら疲れたな」
「私もちょっと疲れた。サマーベッドがあるから、そこで休憩しようか」
「そうだな。プールの入口前に自動販売機があったし、そこで何か飲み物を買って休もうか。泳いだからか喉渇いてきてさ」
「それいいね! これまで遊びに来たときも、入口前にある自販機で買った飲み物を飲みながらサマーベッドでくつろいだよ」
「そうなのか。じゃあ、財布を取りにロッカーへ行くか」
「そうしようか」
「……ただ、その前にお手洗いに行かせてくれ」
「うん、分かった」
俺達は25mプールを離れて、入口近くにあるお手洗いへ向かう。
結衣にはお手洗いの出口近くで待ってもらい、俺は男性用のお手洗いに入った。プールに入っている時間が多くて体が冷えていたので、お手洗いに行きたくなっていたのだ。
用を済ませて、結衣の待っているところに向かうと、
「君、凄く可愛いね」
「俺達と遊ばない?」
「彼氏と来ているんで。すみません」
結衣が茶髪の男性と黒髪の男性にナンパされていた。男性達の気に障らせないためか、結衣は薄く笑いながら断っている。
このプール施設に入ってから、結衣は男性中心に注目されることが多かった。ただ、俺と一緒だから、声を掛けられることは一度もいなかった。
俺と一緒にいる場面は見なかったのかな。理由は分からないけど、お手洗いの近くで一人でいる結衣を見てあの男達はナンパしようと思ったのだろう。
「本当に彼氏と一緒なの? 君はモテそうな感じだけどさ」
そう言って、茶髪の男性が結衣の肩に手を伸ばそうとする。
「その彼氏が俺ですが」
茶髪の男性が触れるよりも前に、俺が右手で結衣を抱き寄せる。
「悠真君……!」
結衣はぱあっと笑みを浮かべ、輝かせた目で俺のことを見てくる。良かった。結衣が何かされる前に戻ってくることができて。
そういえば、海水浴でも胡桃と福王寺先生がナンパされて、俺が助けに行ったな。胡桃は恋人、福王寺先生は姉弟だと嘘をついたっけ。
でも、今は本物の恋人の結衣がナンパされているんだ。胸を張ってもう一度言おう。
「この子、俺の恋人なんで」
ナンパしてきた男達に向かって、俺はしっかりそう言った。彼氏が登場して、結衣の体に触れる前に俺が抱き寄せたからか、男達は少し鋭い目つきで俺を見てくる。
「そうです! 彼が私の恋人です。心身共に相性抜群で……」
うっとりとした様子で俺との関係を説明する結衣。俺のことをチラッと見ると、目を細めて優しく笑った。こういう状況でも心身共に相性抜群と言えるのはさすがだ。
「……マジで彼氏がいたんだな」
「目つきも表情も変わったしマジだな。しかも溺愛してやがる。……彼氏がいるのかって疑ってすまなかったな」
「まあ、こんなに美人だったらいるよなぁ。くそっ、金髪のお前が羨ましいぜ……」
「羨ましいよなぁ……」
と、元気なく捨て台詞を吐いて、ナンパしてきた男達はとぼとぼとした足取りで立ち去っていった。因縁を付けられたり、手を出されたりせずに済んで一安心だ。
「結衣、大丈夫か?」
「うん。悠真君がすぐに助けに来てくれたから。悠真君がお手洗いに入って少し経ったときに、さっきの男達がナンパしてきたの」
「そうだったのか」
「これまで来たときもナンパはされていたし、悠真君がすぐに戻ってくるって分かっていたから安心はしてた。でも、実際に助けてもらうと凄く嬉しいよ。悠真君、ありがとう。大好きっ!」
嬉しそうに結衣はそう言うと、俺のことをぎゅっと抱きしめてキスしてくる。そのことで全身から結衣の温もりと柔らかさを感じられて。クロールを泳いだことによる疲れが和らいでいく。
数秒ほどで結衣から唇を離す。その直後に左手を結衣の背中に回し、右手で結衣の頭を撫でると……結衣は「えへへっ」嬉しそうに笑う。
「あと、旅行中の海水浴のときに胡桃ちゃんと杏樹先生をナンパから助けたじゃない」
「そうだったな。結衣がナンパされたところを見たとき、そのときのことを思い出したよ」
「そっか。あのときの悠真君がかっこいいなって思っていたの。でも、実際に助けてもらえると本当にかっこいいね! 悠真君が彼氏で良かった! 幸せだよ!」
今日一番の可愛い笑顔で結衣はそう言ってくれた。かっこいいとか、彼氏で良かったとか、幸せだとか……恋人から言われて嬉しい言葉が詰まっているな。結衣の笑顔を見ていると、それが本心からのものであると伝わってきて。
「結衣がそう言ってくれて嬉しいよ。ありがとう」
これからも恋人として結衣のことを守っていかないとな。
「いえいえ。……じゃあ、飲み物を買いに行こうか」
「そうだね」
俺達はプールを一旦出て、財布を取りに更衣室に戻る。
財布を取りに戻るだけだったので、更衣室から出てくるタイミングは結衣とほぼ同じだった。
プールの入口近くの自販機で、俺はサイダー、結衣はスポーツドリンクを買う。この自販機はカップで提供されるタイプ。自販機の横にフタがあったので、プール内でこぼさないようにカップを取り付けた。
プールに戻り、俺達はサマーベッドが多く並んでいるエリアに向かう。
サマーベッドのエリアに行くと、そこには5、60ほどのサマーベッドが置かれている。ドリンクを飲みながらくつろぐ人が多いのか、ローテーブルも備わっている。半分ほどのサマーベッドが使用中であり、寝そべりながらお喋りに興じる人達や、ドリンクを楽しむ人、仰向けで眠っている人などそれぞれが思い思いの時間を過ごしている。
俺達は空いているところに行き、空席となっている2つのサマーベッドをくっつけた。
サマーベッドにくつろぎ、俺達は自販機で買ったドリンクを飲む。
「……うん、サイダー美味しい!」
サイダーの冷たさと炭酸の強さがたまらない。爽やかな甘さもいいなぁ。
「スポーツドリンク美味しい!」
そう言う結衣はとても爽やかな笑顔で。広告にしたら売上がかなり伸びるんじゃないかと思えるほどだ。
「悠真君が炭酸飲料を飲むのって珍しいね。いつもはコーヒーかお茶系だから」
「それらが特に好きだからな。甘いものを飲みたいときは、コーヒーや紅茶にガムシロップやミルクを入れたもので満足だし。でも、炭酸飲料も普通に好きだよ。小学生の頃はよく飲んでた」
「そうだったんだね。私も最近はあまり飲まないけど、炭酸飲料は好きだよ」
「そっか。結衣は……夏休みに入ってから、スポーツドリンクを飲むときはたまにあるよな」
「熱中症対策でね。家の冷蔵庫には常に大きいペットボトルのスポドリが入ってるよ」
「そうなのか」
そういえば、夏休み中……お家デートや課題をするために結衣の家に行ったとき、冷えているスポーツドリンクを一口いただいたことが何度もあったな。それは高嶺家の熱中症対策の備えがあってのことだったんだな。有り難いことだ。
「悠真君。スポーツドリンク一口どうぞ。プールだけど、たくさん泳いだ後だから」
「ありがとう。じゃあ、サイダーを一口どうぞ」
「うん、ありがとう!」
俺は結衣とカップを交換して、結衣のスポーツドリンクを一口飲む。結衣の家で飲んだことのあるスポーツドリンクとは違う味だけど、結構甘く感じる。これがこのスポーツドリンク本来の味なのか。それとも、結衣が口を付けたものだからなのか。サイダーよりも甘味や冷たさが体に染み渡った気がした。
「サイダーも甘くて美味しいね! 炭酸が強いから爽快だよ!」
「ははっ、そっか。スポーツドリンクも美味しいよ。ありがとう」
「いえいえ! こちらこそありがとう」
互いにカップを相手に戻して、俺は再びサイダーを一口飲んだ。
半分以上飲んだところで、俺と結衣はサマーベッドの上に仰向けの状態でくつろぐことに。クロール25mを3回泳いでからあまり時間が経っていないから、こうして仰向けになるとリラックスできるなぁ。
「サマーベッドに横になると気持ちいいなぁ」
「そうだねぇ。何度もクロールを全力で泳いだ後だからね。ねえ、悠真君。私のいるサマーベッドに極力近づいてくれない? 悠真君と……くっつきたいんだ」
結衣がそう言うのでそちらに視線を向けると、結衣は俺の方に向いて横になっていた。そんな結衣はほおをほんのり赤くして俺のことを見つめている。
「もちろんいいよ」
「ありがとう!」
俺は仰向けの状態のまま、結衣が横になっているサマーベッドに極力近づく。
結衣の方も俺が横になるサマーベッドに体を寄せると、俺の左腕をそっと抱きしめて脚を絡ませてきた。そのことで、結衣の肌や胸の柔らかさがしっかりと伝わってきて。結衣の温もりや甘い匂いもほのかに香ってくる。
「しばらくの間、この体勢でいてもいい?」
「うん、いいよ」
「ありがとう。……こうしていると落ち着いて幸せな気持ちになるの。お泊まりのときにこの体勢で寝ることが多いからかな」
「そうかもな。肌を重ねた後だからか、この体勢ですぐに寝始めるよな」
「そうだね。悠真君の温もりとか匂いとか、肌の質感を感じられるからすぐに眠れるんだ」
結衣は俺の目を見ながら柔らかな笑顔でそう話してくれる。そのことに心が温まっていく。
「裸同士で何度も寝ているけど、水着姿で横になることは全然ないから何だかドキドキしてくるよ」
「……結衣にそう言われて、俺もドキドキしてきた」
「ふふっ。それに……ナンパから助けてもらって悠真君のことがもっと好きになったから、こうして悠真君と密着していると……今すぐにしたくなっちゃうよ」
俺にしか聞こえないようなボリュームの甘い声で結衣は言ってくる。その瞬間、結衣は俺の左腕を抱きしめる力を強くしてきて。結衣の顔が頬中心に赤くなり、蕩けるような表情で見つめてきて。だから、俺もそういう欲が膨らんでくる。でも、ここはプール施設だ。理性を働かせなければ。
「結衣らしいな。俺も結衣と密着していると……な。でも、ここは他の人もいる場所だから、今みたいにくっついたり、あとはキスしたりするところまでにしよう」
「うんっ」
可愛い笑顔で頷きながら返事すると、結衣は俺にキスしてきた。スポーツドリンクやサイダーを飲んだ後だから、いつもよりも甘い味がするキスで。
それからしばらくの間、結衣と密着しているこの体勢でサマーベッドでの時間を過ごすのであった。