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第2話『恋人とキスとブラックコーヒー』

 午後2時過ぎ。

 シフト通りにバイトが終わり、俺は中野先輩と一緒にムーンバックス武蔵金井(むさしかない)店を後にし、武蔵金井駅の方に向かって歩いていく。

 中野先輩は駅の側にあるショッピングセンターのエオンに用があるそうなので、エオンの入口近くで先輩と別れた。ここからは俺一人となり、結衣の自宅へ向かう。ちなみに、結衣には更衣室で着替えているときにバイトが終わったことを伝えてある。


「それにしても暑いな……」


 今日は朝からよく晴れているし、午後2時過ぎという時間帯だからかなり暑い。ムーンバックスを出発してから3分ほどしか経っていないのに、さっそく汗を掻き始めている。

 旅行で行った静岡県の梅崎町(うめさきちょう)も暑かったけど、海の近くだから潮の香りがして、爽やかを感じられて良かったなぁ。

 結衣に早く会いたい気持ちと、この暑さから早く解放されたい気持ちもあり、結衣の自宅へ向かう速度が上がった。

 それからおよそ3、4分で結衣の自宅に到着する。普段よりも速いペースで歩いたから体が熱い。頬や首に汗が伝っていくのが分かる。

 持っているハンカチで顔や首の汗を拭いて、結衣の家のインターホンを鳴らした。


『あっ、悠真君! すぐに行くね!』


 結衣の声を聞くだけで、早歩きしたことの疲れが取れていくよ。

 それから程なくして、玄関がゆっくりと開かれる。玄関の開いた先には、午前中にムーンバックスに来店したときと同じ服装の結衣が立っていた。


「いらっしゃい、悠真君。あと、バイトお疲れ様」

「ありがとう、結衣」


 結衣の頭を優しく撫でると、柔らかな黒い髪からシャンプーの甘い匂いがふんわりと香ってくる。

 結衣は嬉しそうな笑みを浮かべると、「悠真君」と俺の名前を呟きながら、俺のことをぎゅっと抱きしめてきた。そのことで、甘い匂いはより強く感じられ、それと同時に結衣の柔らかさと温もりを感じるように。


「あぁ、悠真君の温もりいいなぁ。今日も汗の匂いがたまらない……」


 うへへっ、と厭らしさも感じさせる声で結衣は笑い、顔を俺の胸に埋める。恋人が気に入るような汗の匂いで良かった。夏休みに入ってから結衣の家に来ると、今のように玄関で抱きしめられ、汗の匂いを堪能されるのが恒例になっている。

 暑い中、早歩きで歩いたから体が熱くなっているのに……結衣から伝わる温もりは本当に心地いいんだよなぁ。そう思えるのは、結衣が大好きな恋人だからなのだろう。この夏に知ることができた感覚だ。

 少しの間、俺の胸の中に埋めた後、結衣は顔を離して俺のことを見上げてくる。俺と目が合うと、結衣は持ち前の明るい笑顔を見せ、俺にキスしてくる。

 結衣の柔らかな唇の感触はもちろんのこと、それと共に伝わってくる温もりも心地良くて。暑い夏でもこんなに気持ちいいんだから、冬の寒い時期に抱きしめてキスしたらとんでもなく気持ちいいんじゃないだろうか。元日が結衣の誕生日だし、早く冬が来てほしいと思う。

 結衣から唇を離すと、そこにはさっきよりも頬を赤くした結衣の笑顔があって。そんな結衣も可愛らしくて、キュンとなった。あと、一昨日と昨日の旅行ではすぐ近くに結衣の笑顔が見えることが多かったので、ほっとした気持ちにもなる。


「さあ、入って」

「ああ。お邪魔します」


 俺は結衣に手を引かれて、結衣の自宅にお邪魔する。

 結衣の部屋に行く前に、リビングにいる結衣の御両親に挨拶。その際、御両親から「俺と一緒だったから娘達は楽しい旅行になった」と感謝の言葉を言われた。昨日の夕食や今朝の朝食で、旅行のお土産話で盛り上がったらしい。

 柚月ちゃんにも挨拶しようと思ったけど、今日は女子テニス部の練習があり、午前中から中学校に行っているとのこと。旅行翌日からさっそくの練習お疲れ様です、柚月ちゃん。

 結衣がアイスコーヒーを淹れてくれるとのことなので、俺は一人で先に結衣の部屋に向かうことに。


「おぉ、涼しい……!」


 結衣の部屋に入ると、エアコンがかかっているので涼しくなっている。暑い中歩いてきて汗も掻いたので、とても気持ちいい。

 適当にくつろいでて、と言われたので俺はテーブルの周りに置いてあるクッションに腰を下ろした。

 エアコンからの風が直接当たって、さらに気持ち良く感じられる。こんなに気持ちいいと段々眠くなってくるなぁ。バイト上がりだし。あと、結衣の匂いがほのかに香ってくるし。ほああっ……とあくびが出てしまう。


「お待たせ、悠真君」


 あくびをした直後、結衣が部屋の中に入ってきた。あくびが聞こえてしまったかどうか不安だったけど、結衣の可愛らしい笑顔を見る限りではどうやら聞こえていないようだ。

 結衣はマグカップ2つと、個別包装された一口サイズの抹茶カステラが複数乗せたトレーを持っている。俺の前と、ベッドの側にあるクッションの前にマグカップを置き、カステラを乗せたトレーはローテーブルの中央に置いた。結衣のマグカップにもコーヒーが入っている。


「アイスブラックコーヒーと抹茶カステラを持ってきたよ。昨日、潮風見の売店で家族用に買ったの」

「そうなんだ。俺も家族に抹茶カステラを買ったけど、まだ食べてないんだよな。じゃあ、さっそくカステラをいただきます」

「どうぞ。私も食べよっと」


 トレーから抹茶カステラを一つ手に取る。個別包装の袋を開けて、カステラを食べる。


「……うん。カステラらしい優しい甘味と、抹茶の苦味が合ってる」

「そうだね。苦味もあるからさっぱりとした甘さだよね」

「言えてる。コーヒーにも合いそうだ」


 俺は結衣が淹れてくれたアイスコーヒーを一口飲む。俺の好みに合わせてくれたのか、苦味が強めで美味しい。熱くなった体が冷やされていく感覚が気持ちいい。結衣の方もチラッと見ると、結衣もコーヒーを飲んでいる。


「コーヒー美味しい。カステラにも合うね」

「うん! 悠真君よりは薄めに作ってあるけど、私の飲んでいるコーヒーもブラックなんだ。実は甘いものがあれば、ブラックコーヒーを美味しく飲めるようになってきたの。あとは今日みたいに暑い日ならちょっとは」

「だから、お店では最初にガムシロップを入れずに飲んでいたのか」

「そうだよ。あのコーヒーも美味しかった」

「それは店員として嬉しい言葉だ。あと、甘いものを食べているときのブラックコーヒーは美味しいよな」

「うん! あと、悠真君と一緒にブラックコーヒーを飲めて嬉しいよ!」

「俺も嬉しいよ。一緒にブラックコーヒーを飲めるのはもちろんだけど、ブラックコーヒーを美味しいって思ってもらえるようになったことがさ」

「ふふっ」


 楽しそうに笑うと、結衣はコーヒーを一口飲んだ。美味しいっ、と小さな声で言うところがとても可愛い。関わり始めた頃の、ブラックコーヒーを飲もうと頑張っていた姿を知っているので、ちょっと感動もしている。そんな気持ちを抱きながら飲むコーヒーは最高に美味しい。


「こうしてブラックコーヒーを飲めるようになったのは悠真君のおかげだよ。悠真君はコーヒーを飲むことが多いから、キスするときにコーヒーの苦味を感じるし。それで少しずつ慣れていって。苦味もいいなって思えてきたの」

「なるほどな。そう言われるとより嬉しい気持ちになるよ」

「ふふっ、ありがとう」


 そうお礼を言うと、結衣は俺に顔を近づけてキスしてきた。その流れで俺に舌を絡めてきて、そんな結衣の口からはコーヒーの苦味と抹茶カステラの甘味を感じる。普通に飲んだり食べたりするよりも味わい深くて。

 やがて、結衣から唇を離す。すると、結衣は艶やかな笑顔を見せてくれる。


「今のキスでも、悠真君の口からコーヒーのいい苦味を味わえたよ。抹茶カステラの甘味と一緒だけどね」

「俺もだよ」


 今の結衣の話とキスのおかげで、コーヒーがより好きになったよ。


「ところで、悠真君」


 俺の名前を呼ぶと、結衣はそれまで俺の目に向けていた視線を少し下げる。


「実は……玄関で悠真君にキスした後から気になっていたことがあるんだけど」

「どんなことだ?」

「左の首筋のところに絆創膏が貼ってあるよね。昨日、旅行から帰るときにはなかったと思うの。あれから怪我した? 旅行中は外にいる時間も多かったから、汗疹が出たとか?」


 そう問いかけると、結衣はくりっとした目で俺を見つめてくる。怪我や汗疹だと思っているからか、さっきまで顔に浮かんでいた笑みが薄くなっている。

 キスするということは、当然顔を近づける。さすがに至近距離からだと、髪で大部分が隠れていた絆創膏にも気づくか。キスマークについてちゃんと結衣に話そう。

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