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苦手な方はご注意ください。

自己殺人衝動を患うとある一般人の日記

作者: 裏山かぼす

 中の線が切れかかっているのか、ヘッドホンをジャックに差し込んでも、聞こえづらくなっている。四年間使っているもので、コードは結構長く、三千円程度で買った割には、それなりに音質もいいものだった。通学中にも使用していて、一日の殆どは音楽プレーヤーかパソコンのジャックに刺さっている。

 そのコードを、自分の首に巻きつける。顎のライン沿って、かなりきつめに、何重にも巻きつける。数秒で頭がじいんと痺れ、血液が血管を通る感覚が感じ取れる。何となく下顎は痺れ、聞こえる音が遠くなったようになる。

 だが、その程度では死ねない。いくらコードを左右に引っ張ろうが、所詮人間の力だ。苦しむだけで、意識を飛ばす事など出来やしないのだ。

 首吊り自殺は、うまくいけば一番楽に死ねる方法だ。頸動脈を絞めることで起きる頸動脈洞反射という症状があるから……簡単に言えば、気絶する事ができるからだそうだ。頸動脈を通して脳に酸素が行かなくなる為、脳も機能しなくなり、十数分で死に至る事ができるという。顎に沿うようにして紐を絞めれば、苦しさはほぼ無く、ふっと意識を失う感じになるのだそうだ。しっかりとしたある程度の力がないとうまくいかないらしい。本来なら高い所から吊り下げて首を吊ったり、ドアノブ等を使って首を括らなければならないが、今の俺にはそんな気力もなく、ただゆるゆると、コードを両の手で引っ張っていた。

 ふと思い立って、自室のドアを見る。襖のように横にスライドさせるタイプのものではなく、ドアノブのついている扉だ。椅子に体育座りをして、パソコンにヘッドホンを繋げて、以前ダビングした映画を見ていた俺は、隣の部屋でいびきをかいて寝ている母が起きない事を確認してから、力の入らない足で立ち上がった。再生していたDVDを止め、ヘッドホンのジャックを抜き、それを片手に音を立てずにドアを開いた。

 廊下の暗闇と、部屋の明かりの狭間に位置するその扉についている、長年使われて汚らしくなった真鍮色のドアノブは、ややオレンジがかった光を鈍く照り返していた。反射するオレンジ色に、いつの間にか俺は、えもいわれぬ魅力を見出していた。

 手に持っているヘッドホン。そのコードをこのドアノブに結びつけ、扉の上にコードを回し、コードを結んだドアノブと反対側で、首を括る。うまくいけば十数秒で意識は失われ、脳に血液が回らなくなり、母が起きる頃には死んでいるだろう。俺は何となく、それを実行に移した。

 だが、直ぐに諦めざるを得なかった。コードの長さが足りなかったのだ。その結果に残念がるわけでもなく、かといって喜ぶわけでもなく、ただ、長さの足りないコードを、じっと見つめていた。

 次に目がいったのは、カーテン。少し色あせて汚れたオレンジのカーテンを吊っている、時々ハンガーにかけた制服をかけたりするのにも使っている、頑丈なカーテンレール。ちょっとやそっとじゃ壊れなさそうなその棒に、コードをかけた。結構高いが、椅子を使えば余裕で届く高さだ。

 先程開けたドアは開きっぱなしで、ふとそちらを見ると、黒猫がいた。のんきに欠伸をするユウは、緩慢な動きで作業を行っていた俺を見ると、首をかしげた。

 どうしたんだと声をかけるが、ユウは何も答えなかった。そして彼は俺を視線で一蹴すると、長い尾をしならせてどこかへと去っていった。

 俺はそれを見届けてから、コードに首を通し、椅子を蹴り重力に身を任せた。ミシミシと軋むカーテンレールの音を、どこか遠くでぼんやりと聞いている気分だった。

 しかし、結果は失敗だった。あまり強く結べていなかったのか、すぐにずり落ちてしまった。ただ首が痛くて、下顎が痺れて、若干の息苦しさと耳鳴りがするだけだった。

 仕方なく首吊りを中断する。別に死にたかった訳ではない。だが、生きる事も疲れていた。だから、うまくいったらラッキー程度に行っただけだ。

 ため息が部屋に響く。いつの間にか、三毛猫が部屋のベッドで寝転んでいた。何したんだと聞くと、彼女は野生の欠片も無く、腹を丸出しにして伸びをしていた。

 寝付けない俺は、何をするでもなく、自分のパソコンを見た。DVDを再生していたメディアプレイヤーを終了すると、画面には、自殺方法が載っているサイトの首吊りのページが開かれていた。他のタブには、自己催眠のやり方が載っているページや、睡眠薬とアルコールの飲み合わせは危険だと書かれているサイト等があった。

 意味も無く、操作するでもなく、ただじっと黒地に白や赤の文字が浮かんでいる画面を見続けている内に、いつの間にか二十分近くも経っていた。

 そして唐突に、俺は全てが恐ろしくなった。自分が行った首吊りや、今まで行ってきた物事全てや、今生きている事に。

 何故かはわからない。ただ、死にたい気持ちと、死に対する恐れと、全てを無かった事にして消えてしまいたいという思いがごっちゃになって、訳もわからず、涙がぼろぼろと流れていた。自分が生きている事が、こうしてのうのうと息をして、心臓を動かしている事が許せなくて、でも死ぬことは出来なくて、俺は、自分の頭を、腹を、殴り始めた。

 何度も何度も、頭を殴る。痛みの限界だと思ったら、次は腹。俺は痛いのが嫌いなので、数回やったら一度手を止め、痛みが引くまで休み、少し痛みが和らいだら再び殴る、という事を繰り返した。

 意味の無い自傷行為を行った後、心配そうに足元に擦り寄ってきたアイを膝の上に乗せて、彼女を撫でてやりながら精神病院について調べ始めた。こんな事をする俺は、きっと頭がおかしいのだろう。いや、絶対におかしい。入院して治療を受けなければ。

 だが、ある程度検索したところで止めた。今日は日曜日で、明日には学校が始まってしまうし、それ以前に、家が離婚だとか何だとかで大変な時なのだ。今はおとなしくしているほうがいいだろう。

 俺は、心を落ち着けるためにワードを開き、文字を打ち始めた。そう、ここに書いてある文章だ。こんな事をしたところで、どうせ意味は無いのだ。俺が今までしてきた事の様に、俺の行う物事は、全て、無意味なのだ。

 それでもやっているのは……せめて、自分が居た証を、残したいためなのかもしれない。




 金切り声が聞こえてくる。いい加減起きなさい、今何時だと思っているの、どうしてお母さんを困らせるのよ。朝から近所迷惑になりそうな大声で、そんなことをまくし立てている。

 いつの間にか、机に突っ伏して寝ていた。体中が凝り固まって、動かすたびに関節がバキバキと音を立てた。膝の上に乗っていたはずのアイは、俺のベッドをユウと共に占領していた。枕に頭を乗せ、人間かとツッコミを入れたくなるような格好で寝ている。

 烈火のごとく怒り狂っている母の前に出るなんて、それこそ飛んで火に入る夏の虫と同じだ。今は寝ているふりをしておこう。

 そう決めた俺は、できるだけ物音を立てないようにそっと扉を閉め、ベッドまで移動して、猫達を押しのけて布団を頭まで被った。二匹とも不満そうに鳴いたが、しばらくすると寒くなったのか、布団の中に潜り込んで、腹の辺りで丸まってまた寝始めた。

 十一月に入って寒くなってきたからだろう。こたつが無い我が家で、ストーブも人間が気分でつけたりつけなかったりする現状では、人間の体温が一番暖を取れるのだ。

 猫という生きた湯たんぽの暖かさにうとうととし始めたが、眠りに落ちる一歩手前で、自分の部屋の扉が、壊れるんじゃないかという程に強く叩かれた。びっくりして体が跳ね、猫達も脱力していた体に力を入れた。

「早く学校に行きなさいって言ってるでしょ!? いい加減部屋から出て来なさい!!」

 近所中に響き渡っているだろう強烈な雑音に、俺はため息をついた。

 しばらくして母の声が聞こえなくなり、車が発進する音が聞こえた。どうやら仕事に出かけた。猫達もほぼそれと同時に外に出でたがったので、扉を開けて廊下に出してやった。

 その数十分後、ようやく訪れた眠気に便乗して、俺はゆっくりと目を閉じた。

 そこでふと、自己催眠のやり方を思い出した。ポジティブ思考になりたいとは言わないが、少しは今よりマシな思考になりたと思ってネットを調べたら見つけたものだ。ついでだからやってみよう、と自分の右腕に念を込め始めた。

 右腕が重くなる。今寝ているベッドに沈み込むような、そんなイメージ。何度も頭の中でそう唱えている内に、本当に腕が重くなってきた気がした。

 右腕が終わったら、次は左腕。右腕よりは早く重く感じられるようになって、俺は少し希望を持ち始めた。だが、次に右足が重くなるように念じてみても、中々うまくはいかなかった。自分の右足を明確に想像し、それが重い金属のようになり、ゆっくりと沈んでいく。

 そこまで想像して、うまくいきそうだ、と思った瞬間。ユウが俺の腹の上に乗ってきたのだ。彼の体重が肉球から伝わり、しかも丁度みぞおちの所を何度も踏み抜いてくる。四足だからそれなりに分散されるとはいえ、最低で三キロはあると考えて、四分の一にしても七百五十グラムくらいはあるはず。それを一点集中で腹を突かれたら、地味に痛いのだ。

 俺は「痛い、痛いよ」と訴えながら彼の体を僅かに持ち上げた。目を開くと、彼は「痛い? は? 知らないよそんなの。いいから腹の上で寝かせろよ。拒否は許さないから」と言っているような、猫とは思えない程に人間じみた目つきで俺を睨んでいた。そのうち人間の言葉でも話し始めるんじゃないかと思う。

 仕方なく自己催眠は諦め、耳の後ろあたりを撫ででやりながら、俺は眠りについた。

 途中で彼が腹の上から移動したり、母が昼休みで帰ってきてヒステリックに何かを叫んでいたり、ユウが再び俺の腹の上に乗ってきたり、更にアイが首元にくっついてきた時に目が覚めた。だが、起きるのもだるく、そのまま目を閉じて再び眠りについていた。

 動くのもだるい。何かを考えるのも疲れる。

 何の気力も無く、ただどうでもいい一日を過ごした。




 夕方に頭が覚醒し、何となく気分で、首吊りについて検索する。ドアノブ吊りには二パターンあるらしく、俺がやった事の無いパターンは、ドアノブ等を使って直接首を吊るのだが、腰が床につくかつかないか程度の高さで充分のようだ。別に体全体をてるてる坊主のように宙ぶらりんにしなくても良いらしく、腰さえ床から浮けばいいのだそうだ。試しに実践に移してみることにした。

 今回もヘッドホンのコードを使って首を括ろうとした。近くにあるひも状のもので丁度いいのが、これくらいしかなかったのだ。ドアノブにコードを結びつけ、のろのろとコードに首を引っ掛けた。

 そして今回も、失敗だった。首が痛いばかりでうまくいかなかったのと、多分紐が緩みすぎたのと、猫が心配そうな目で見ていたから、途中でやめてしまったのだ。

 じんじんと地味に痛む首をさすりながら、俺はベッドに寝転んだ。首吊りのページには、このやり方だと、比較的簡単に行える半面、失敗もしやすいのだという。まあそんなもんだろうな、と思って、俺は再びこの文章を書き始めるのだった。

 少しして、母が帰って来た。またヒステリックにギャンギャンとわめき、電気をつけていないのに「いいから下に居なさい、電気代がもったいない!」と叫んだ。仕方なく猫達を引きつれ、一階のソファーに向かった。

 母はわざとらしく聞こえるように「はぁ疲れた疲れた」と何度も口にし、苛々とした様子で俺に「さっさとカーテン閉めて」と言った。言い返す気力もない俺は、のろのろとカーテンを閉めるのだった。

 母はよく、わざとらしく「疲れた」と言う。父はそれが大嫌いらしく、曰く、「大丈夫って言ってほしいだけだろう、構ってほしいだけなのにわざわざ大事のように言うのは、本当にいらつく」との事だ。元々両親は反りが合わない事もあるが、俺も正直、あれは止めてほしい。ほとんど毎日その言葉を聞いていると、流石にうんざりしてくるし、何より苛々しながら言うもんだから、どう対応すればいいのかわからないのだ。本音を言うと、面倒くさい。

 俺は本日何回目かのため息をつき、諦めて思考を他のことに移すことにした。

 俺の座っているソファーの脇には、木製のタンスが置いてある。おしぼり用のタオルの類だとか、通帳だとか、風邪薬等が入っている。

 そのタンスの角は、結構尖っている。思いっきり脳天をぶつければ、相当痛いだろう。以前ソファーで昼寝をしていた時、寝起きでうとうととしていて、首がかくんと後ろに向かった瞬間、そのタンスの角に思い切り後頭部をぶつけたことがある。眠気なんか一気に吹っ飛び、しばらく痛みに悶えて、猫達から心配された記憶がある。

 だが位置的に、意図的にぶつけるのは中々難しい場所にある。ソファーの背もたれから、僅か五センチほどしかでていないのだ。元より痛いのは嫌いだからやるつもりは無かったが、無理だと悟った俺は、またため息をつくのだ。

 ふと、家にある一番新しい包丁を思い出す。買ったばかりの頃、母が不注意から、左人差し指の先を思い切り切ってしまい、太さの四分の一くらいの肉片が体から離れた事がある。

 その包丁を、思い切り腕に振り折したらどうなるだろう。どのくらい切れるのだろう。やろうと思えばカミソリなんかで自殺ができるのだ、あれを使えば、簡単に自殺できるだろう。

 だが、何度も言うが、俺は痛いのが嫌いだ。自分殺しは妄想の中だけに留めておく。死ぬ覚悟が出来ていないだけの臆病者なだけなのだが。小学校からの付き合いのある友人から見捨てられるような、最低の人でなしだ。何をやっても無意味な、無価値な人間なのだ。

 以前買った漫画で、記憶喪失の主人公が、世間から公式に「有限の資源を無駄に浪費する社会不適合者」というレッテルを貼られ、罪人としてその刑期を無くす為に戦争に狩りだされるという話があった。ルールに反したことをすれば即刑期が加算される。ここまで自分が出来損ないの人間として証明できる魅力的な世界は、他にないだろう。

 役に立たなければ淘汰される、何ともわかりやすい世界。一部の技術は進み一部の技術は廃れた架空の世界。権利を得なければ走ることも出来ず、横になって眠ることも出来ず、他人と話すことも出来ない、不自由すぎる世界。

 でも、そんな事は気にならない。世界に対して役に立っているか立っていないか、貢献しているかしていないかが一目でわかり、規制されていることを行えば慈悲も無く罪が加算されるあの世界が羨ましいのだ。

 俺はそんな世界で、社会不適合者と言われ、ろくに貢献も出来ないろくでなしとして、のたれ死にたい。罪人という資源は他にもいる。代わりはいくらでもいるのだ。

 しかし、どんなに願ってもその願いは叶わない。二次元の壁は分厚いのだ。




 これは、俺が今までで一番想像してきた、自分殺しの話。

 例えば今、包丁を持っていたとする。それを逆手に持ち、ぎらりと白銀の光を照り返す切っ先を、自分のみぞおちに向かって、思い切り突き立てる。使い古し、切れ味の悪くなった刃は、切れ味の良い日本刀とは違い、無理矢理に肉を裂き押し開いていく。

 体には激痛が走る。赤黒い血液が溢れ出し、着ている服を染め上げる。痛みに生理的な涙を流し、ホラー映画さながらの叫び声を上げ、自分に突き立てた包丁を抜こうとするかもしれない。でも、決してそうはしない。包丁から手を離さず、むしろそれを更に深く押し込み、俺の中にある負の感情を貫こうとする。だが、切れ味の悪い包丁では貫くことができない。

 だから、包丁に込める力を、下へと向ける。脂肪ばかりであまり筋肉の付いていない肉をぶちぶちと引きちぎり、へそより少し下辺りで止め、一度引き抜く。刃を横に持ち直してから再び突き刺し、骨盤に当たるくらいまで左右に切り開く。自分の目から見た傷口が「丁」の字のようになった、血で濡れている柔らかい腹。破れたところから、重力に従って臓物が落ち始める。

 小腸や大腸の一部は破れ、排泄物になるはずだったものが血液と一緒になり、生臭さと排泄物になるはずだったものの異臭が混ざり合い、屠殺場と似ても似つかぬ冒涜的な臭いが鼻に充満する。

 その甘美な香りに酔いしれながら、俺は包丁を捨て、自分の中へと手を入れる。血と脂肪でぬめる私の中は暖かく、柔らかな臓器が私の手を歓迎しまとわり付く。その温度に「あぁ、俺はまだ生きていたんだな」という実感をようやく得るのだ。腹を裂くのに夢中になって忘れていた痛みを思い出し、うぐ、と呻き声が漏れるのだろう。

 そして、未だ弱々しく脈打つ心臓を握る。思ったより小さなそれは、どくん、どくん、と必死に血液を体中に送ろうとする。そんなことをしても、もう無駄だというのに。

 物理的に体の中を外の空気で冷やし、わだかまりというモヤモヤが少しだけ薄れる気がする。それに夢中になって、ひたすら腕を動かし、ぐぽぐぽと汚らしい音を立てて空気を体内に送り込むのだ。そんな事をしている俺の顔は、きっと狂気にまみれて、笑っているのだろう。どこかで見たホラーゲームの女性キャラのように、ギョロリと目を見開き、口裂け女のように口の両端を吊り上げて、恐ろしい形相になっているのだろう。

 そのまま、ゾンビもびっくりなグロテスクな絵面のまま、俺は息を引き取るのだ。

「――井、おい仲井!」

 はっと意識が現実に引き戻される。社会の授業中だというのに、ついうっかり妄想に浸ってしまっていた。……妄想と言うには、いささか冒涜的でグロテスクなもので、一般の人が言うようなオタクの妄想とはかけ離れたものであるが。

「どうした、顔色が悪いぞ?」

 頭のてっぺんが薄くなっている先生の声にまぎれて、ひそひそというささやき声が聞こえた。その正体は言わずもがな、クラスメイトのものだ。

 もう慣れた。いつからシカトやら陰口を言われるようになったのかはわからないが、気づいたときにはそうだった。しかし好奇心というやつだろうか。何を言われているのかが気になってしまう。

 好奇心を抑えつつ、先生に「大丈夫です」と言おうとした。

 言おうとしたが、出来なかった。喉がカラカラに渇き、喉がくっついてしまったように声が出ない。

 明らかに胃の様子がおかしい。おかしいというより、痛い。

 バーナーで炙られているような、ボロ雑巾のように絞られているような、引きちぎられるような。そんな痛みが一斉に襲ってきたような激痛だ。

 視界がチカチカとし始める。意識が煮立ったスープのようにぐるりとかき混ぜられ、何を見ているのかわからなくなる。声がぼんやりと遠くで聞こえる。

 頭をどこかに打ったのか、衝撃が来た、ような気がした。胃の痛みすら、今は感じられない。全部、曖昧になっていた。

 そうして、俺の意識はぶつりと途切れた。




 ここにバールがあるとする。ネットスラングでは「聖剣エクスカリバール」等と名づけられているそれは、ホラーゲームでよく「武器」として活用され、安心と信頼の攻撃力と扱いやすさで、プレイヤーに安心をもたらす物だ。

 その鈍器を、目の前にいる自分の頭に向かって、思いっきり振り下ろす。妄想の中なので遠慮も躊躇もいらない。懇親の力で脳天をかち割るのだ。

 俺の体はすぐに地に倒れ伏すだろう。そうしたら、次はその腕を、腹を、足を、全力で蹴り上げる。骨が折れる衝撃がダイレクトに足に伝わり、生ぬるい体温がまとわりつくだろう。

 それを振り払うために、更に蹴り、馬乗りになって、手に持った凶器で殴打しまくるのだ。何十回、何百回と殴り、脳髄と血が辺りに散乱し、原型を留めていない顔から零れ落ちた目玉が転がっている。俺はその目玉を、遠慮なく踏み潰すのだ。

 ここで、釘抜きの部分で体を突き刺し、肉を剥がしにかかる。先がそれなりに鋭利な為刺さりやすそうではあるが、そこまで深くは突き刺さらないだろう。だから体重をかけて押し込み、肉を裂き、ある程度埋まったら、綱引きのように引っ張る。何度も力を入れ直して、少しずつ引き剥がし、ようやく一つの肉塊が体から剥がれかかる。

 それをぶちりと引き剥がし、床に叩きつける。何度も踏み潰し、ぐちゃぐちゃのミンチにする。

 それを何度も繰り返し、血にまみれた骨が見えたらバールで砕き、また肉を剥がし、やや強引に、腕や足を体からもぎ取るのだ。

 解体し終わって、あたり一面に広がる臓物や血肉、そして鼻腔いっぱいに広がる異臭に、俺は思わず笑い出す。何が面白いのかはわからないが、腹の底から笑いがこみ上げてきて、ゲラゲラと大声で笑い叫ぶのだ。

 そうやって、妄想の中で自分を殺すのは、何の意味も無い。だが、俺の気分は、少しだけすっきりするのだ。

「――というわけで、二週間ほど入院することになります。胃潰瘍の原因はストレスでしょうね」

 医師はそういうと、トチ狂ったような妄想をしていた俺に、哀れみの目を向けてきた。

 やめろ、そんな目で見るな。

 無性に白髪混じりの七三分けジジイの鼻っ面を殴りたくなったが、そんな気力も無い。投与された薬のおかげで痛みは和らいでいるとはいえ、鈍い痛みは動こうとする俺の精神をごりごりと削っていく。

「何か心当たりはないの? そういうストレスになる事とか。学校で何かあったの?」

 知らぬ顔で母が問う。

 誰が言うか。言えるわけが無い。その原因の一つは、確実に今、目の前にいるんだから。

 俺は口を噤んだまま、病院独特の匂いのするベッドから動かなかった。

「でもまあ、胃に穴が開いたといっても、思ったより小さなものでしたので、薬だけでの治療で大丈夫だと思いますよ」

 コピーペーストしたような薄っぺらい笑顔を作って、医師はそう言った。だが、俺はそんなことより、母が呟いた言葉に耳を疑った。

「これだからダメ人間は」




 一週間程時間がたった。入院生活を適当にこなしているうちに、胃の調子も徐々によくなった。何より、今まで何のやる気も起きなかったのに、本を読もうと思ったり出来るくらいまでに、精神的にも回復した。最後のどんでん返し展開やキャラクターの台詞回しに、少しだけ笑うことはできるようになったのだ。

 こう書いていれば聞こえはいいが、逆を言うと、この悩みの元は、俺の中で一週間ぐだぐだしていれば、どうでもよくなる存在だったのだ。実際にそうは思っていないとは思うのだが、もしかしたらそれはただの思い込みなのかもしれない。

 誰も信じられなくなっているが、自分すら信じられなくなってしまった。自信も信頼も、元々無きに等しいが。

 今の俺にあるのは、無力感と、この文章を書くだけの気まぐれを考えられる思考力だけだ。見舞いにも来ない担任から渡されたと母が持ってきた課題が山積みだが、それすら気分でやる始末だ。これ以上のろくでなしはいないだろう。

 それはそうと、俺を繋ぎ止めていた糸が切れた瞬間、強いて言うなら、学校で倒れたあの日から、どうやら俺は本格的におかしい人になったらしい。

 何かうまくいかないというだけで無性に苛々し、むかつくのだ。簡単に言えば、キレやすくなった。

 以前まではそんな風に苛立つことはなかった。糸が切れたのをきっかけに、別人にでもなってしまったかのような気分だ。看護師さんに当り散らしかけた事だってある。

 いや、元々がこちらなのだろう。今まで楽しいふり、元気なふりばかりしてきて、本来の自分を見失っていたのだろう。わかってはいたが、こんなクソみたいな生物が俺なのだと思うと、遺憾の意しか浮かんでこない。

 思春期だから仕方が無い、で済ませられるのなら済ましたいし、世の中の大多数はそうやって「当たり前の事」として処理するのだろう。

 クソだな、と思った。

 そうやって理解されないということは、とても辛いことなのだ。未だに胸がしくしくと痛み、発芽してしまった大量の罪悪感の花が、俺の中で成長し続ける。花は枯れることはなく、そのおどろおどろしい花弁をめいっぱいに広げ、体の中を漂い続ける花粉を撒き散らす。

 無気力になってしまったのは事実で、それは随分と昔からだが、今は何となく、魂まで抜けてしまったんじゃないかと思ってしまうのだ。

 もしもの話だ。もし今から寝た時に、そのまま死んでしまえたら、どれだけ幸せなことだろうか。自室のベッドに横たわっている体が、段々と寝息が小さくなっていき、そして、呼吸が止まる。そんな事にも気づかずに、俺はそのまま、息を引き取るのだ。

 それは、なんと幸せな死に方だろうか。きっとこういう死に方は、寿命でなるのだろうとは思う。だが、俺は今すぐにでも、そうやって死にたい。

 もし寿命を交換できるのなら、余命僅かな若い病人の方に私の寿命全てを受け渡し、一日だけ自由に過ごして、そして最後にベッドに潜り込んで、眠ったまま死んでしまいたい。

 そう思いながら、俺は今日も何もせずに、ただただ白い部屋の白いベッドに横たわる。

 昨日のテレビで放映していたお笑い番組で、どこのお笑いコンビがやったネタなのかは知らないが、「神様の忘れ物」という単語が聞こえてきた。ただのネタで言った言葉で、あまり深い意味は無いのだろうが、俺はその言葉の意味をずっと考えていた。もしこの世界に神様がいるとしたら、俺は本当に、神様はどこかに忘れ物をしてきたのだろう。

 神様の忘れ物とは、一体何だったのだろう。

 愛か? 慈悲か? 救済か? 俺はその全てが違うと思う。

 俺の中で導き出された正解は、愛も、慈悲も、救済も考えられない、「マトモさ」だった。神様は、マトモさをどこかへ置いてきてしまったのだ。俺と、同じように。

 もしマトモだったら、何かの歌のように、たった七日間で世界を作り直すような真似はしない。良い物の中から粗悪品が生まれるのならその可能性を断つ為にノアの一族になんか任せないで、全ての動物のつがいを集めたりなんかしないで、全てを滅ぼす。そして綿密に立てた計画に沿って確実に、世界を再構成する。人間のような不完全な生物は生み出さないようにして、全部一から作り直す。そんな風に世界を作り上げるはずだ。

 そんな不完全で最悪の世界に対する恨み言を心の中で念仏のように呟きながら、ゆっくりと目を閉じた。

 願わくば、明日なんて来ないでほしいと思いながら。




 退院してから三日目。今日は学校で、思いもよらない出来事が起こった。

 同じクラスの空知恵さんに、話しかけられたのだ。どうやら随分前から俺の元気が無いのを心配していたらしく、今回の入院をきっかけに、自分でよければ力になりたいとおもったのだそうだ。

 ほんの気まぐれに、少しだけ話をした。

 友人と喧嘩して、散々罵られた事。仲直りしようとしても、親の仇を見るような目で睨まれる事。そしてあからさまに避ける事。

 親のヒステリーと罵詈雑言。

 全て自業自得なんだ。俺はそう言ったが、彼女はそんな事ないと言ってくれた。友人達が心の狭い人で、両親はきっとお仕事とかで忙しくてイラついていたんだよ、と言っていた。思わず、それこそそんなはずは無い、と怒鳴ってしまったが、彼女はそれでも、俺が優しいからそう思ってるだけだよ、と言っていた。

 他にも、うつ病なんじゃないか、と言われた。現代社会では、うつ病になる人はたくさんいるから、決して恥ずかしいことじゃないよ、とも。……きっとそうなのだろうが、うつ病だとしても、まず親は信じないだろう。それに、世間の風当たりも気になる。

 うつ病は甘えだ。病院に行かなければ診断されることは無い。だから俺はまだ、うつ病なんかではないはずだ。

 でも、少なくとも、久しぶりに家族以外と話す事ができて、少しだけ嬉しかった。ただ、恐ろしいのは、この後の事だ。

 良い事があった後には、必ず悪いことが起こる。俺に関しては、(自分ではそうは思わないが)人生イージーモードのツケが回ってきているのだろうから、今よりもっとひどい状況になるに違いない。空知さんも、どうせ、俺の事を見限ってしまうのだろう。

 こんな考え方は悲しいな、とは思ったが、今までずっとそうなのだ。疑っても仕方が無い。どうせ、俺の予想は当たるのだから。

 そういえば帰り際に、何故かはわからないが、空知さんからカラオケに誘われた。もちろん丁重にお断りした。

 そもそもカラオケに行く気分でもないし、金もないし、俺なんかと行くより、他の仲の良い友達と行った方が、何百倍も楽しいだろう。ただの同情で元気付けられても、どうせその後はシカトなのだろうし、俺の選択は正しいはずだ。

 だが、あまりにもしつこく誘ってくるので、結局行くことになった。歌える曲も少ないし、そもそも歌えるような元気も気力もないし、自分で音痴だとわかっているので、マイクは殆ど彼女に持たせていた。

 空知さんは、優しい言葉ばかりかけてくる。あからさま過ぎて逆に疑ってしまう自分が情けないが、これは疑って当然だと思う。優しい言葉をかけて、俺みたいな弱者を上からなだめ、それで優越感に浸りたいが為にそうしているのだろう。例え違うと否定されても、深層心理ではそういう感情が働いているのだろう。

 絶対に、彼女は信じない。信じられるものなんて無い。




 空知さんにしつこいくらいに話しかけられる。正直うざったいし、クラスの皆からも変な目で見られるし、良い気分ではない。

 ただ、彼女と話していると、少しだけ気が軽くなるのは事実だ。寂しいからそう思うだけなのだろうが、複雑な気分だ。気を抜くといらない事まで喋ってしまう辺り、どうしようもない。

 しかも情け無い事に、彼女の太ももや、胸に視線が行ってしまう。隣に座られた時にふわっと香った彼女の匂いにも、敏感に反応してしまう。絶賛現役思春期男子高校生であるとはいえ、そんなことを考えてしまう辺り、まだまだ元気なのだろう。いっそ、元気なんてなくなってしまえばいいのに、と思う。

 正直、もう学校に行きたくない。友達なんていないし、むしろいじめ一歩手前だし、偉そうにふんぞり返っている先生だって信用できない。そもそも行く気力も無い。だがそんな事をしたら、親から叱られてしまうのは目に見えている。強制的に学校まで連れて行かれるし、その前に待っているのは暴力だ。言葉と、物理的なものの両方。

 結局、俺に選択肢はないのだ。高校時代は青春時代でもある、と誰かが言っていたが、青春はもっと、明るいものだと思っていた。

 友人と楽しく話し、部活を楽しんだり、ちょっと恋愛なんかしてみたり、そんな楽しいものだと思っていたが、現実は違う。この俺の様子を見ると、それが一目瞭然だ。

 友人からは些細なことで見限られ、優越感を得る為の都合の良い道具として利用され、何もかも楽しいと感じることが出来なくなる。

 青春は甘酸っぱいものじゃなくて、ただひたすら、苦味しかないものだったんだなぁ、と今更気づいた。

 今更同級生の体のことや、話しかけてくるという事は少しでも俺に気があるんじゃないかとか、そんなものは幻想でしかない。全部まやかしに決まっている。

 甘酸っぱい青春なんて、紙か画面の中にしか存在していないのだ。




 ついに、と言うべきか、やはり、と言うべきか。空知さんから見限られた。あれほどまでにしつこく俺に話しかけてきていた彼女は、突然今日、完全にシカトするようになった。

 やっぱりかと思う反面、俺の中で、何かが抜け落ちたような感じがする。その空しさを紛らわすために、学校もバイトもほっぽって、部屋に閉じこもった。親から何を言われてもドアは開けず、開かないようにガムテープでぎっちりと固めた。流石にトイレに行きたい時は外すが、親がいる時間帯は、絶対に開けないようにした。時々、ユウとアイが俺の部屋に入りたがって、鳴きながらカリカリとドアを引っかく音が聞こえた。

 どうせもう、誰も俺を必要としていないのだ。居るも居ないも同じ。だとしたら、誰にも知られずに、ひっそりと死んだほうがいいだろう。

 親がいない間に家の倉庫を探り、随分と使っていないゴム製のホースを見つけた。古いが、強度と長さは充分だ。これを持って、どこか適当に見つかりにくい場所で首を吊ろうと思う。成功率を高める為に、家にある調理酒と、市販の睡眠薬もちゃんと持っていこう。

 多分、書くのはこれで最後だ。見るのは警察の人か、両親のどちらかだろう。

 どうせ日記みたいなものだ。気にせず捨ててもらっても構わないし、中二病だと笑いのタネにしたっていいし、勝手に遺書だと取り上げてくれたっていい。ご自由にどうぞ。

 ただ一つ言えるのは、この文章には、何の意味も無いものだって事だけ。血縁者にだけ知られようが、学校で晒されようが、テレビで報道されようが、どうせ皆いつか忘れる。忘れて、結局いつも通りの日常に帰るだけだ。結局、自分さえ良ければ他人のことなんて、どうでもいいのだ。




 それじゃあ、今これを読んでいる、クソッタレな世界のクソッタレな人間さんへ。

 さようなら、もう二度と会いたくないです。


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