第24話 故郷は遠く、記憶の中に
まだ梅雨も来ていないというのに早々と鳴き始めた蝉の声を聞きながら、三郎とロブ、アルセリアは青々と繁る木々の間を歩いていた。
昨夜ロブたちが眠ったのは日を大きく跨いでからのことで、今はもう正午になろうかとしている。
三郎は早朝から起きていたらしく、遅くに起床したロブたちにご飯、味噌汁、漬け物、焼き魚という遅めの朝食を振る舞った。
まるで夏休みに田舎の祖母の家に遊びにきたような温もり。
そんな経験をしたことがないはずなのに、なぜか懐かしく感じてしまった。
そのあと、三郎の勧めで家の裏に広がる小ぶりな山へと、観光がてら登りだしたというわけである。
「――このあたりは熊が出る。頭の悪いやつじゃないが、念のためだ」
出発間際、猟銃を担いだ三郎はそれだけ言って山へ入ってしまった。
三郎は寡黙だった。
初日と酒が入ったときが例外であるらしく、必要なこと以外、無駄口はほとんど叩かない。
熊というのが、シロクマよりも大きいモンスターであるとか。
担いでいる猟銃は特注の魔法銃で、この世界の魔法に馴染めなかった三郎が頼み、銃の形の魔法具を作ってもらったとか。
ロブからすればけっこう大事なことであるが、三郎はほとんど話さず、ロブたちがそれを知ったのはその晩、三郎が酒を呑んで少し饒舌になったときのことである。
ロブはしっかりとした足取りで進む三郎の背中を追いながら、昨夜聞いた三郎の半生を思い出していた。
***
1983年、航空自衛隊の戦闘機パイロットであった藤田三郎一等空尉は夜間飛行訓練中に墜落した。
三郎自身も、地面に激突した瞬間のことを鮮明に覚えていた。
だが、三郎は死なず、とある異世界の日本によく似た国、日輪皇国に召喚されてしまう。
ただ、召喚されたとわかったのはそれから二ヵ月もあとのことで、三郎が召喚されたのは森の中、拾ってくれたのは近くにあった小さな農村に住む猟師であった
猟師や農村の人々にはとてもよくしてもらったが、あるとき政府から迎えが来て、すべてを知った。
そこは日本でいえば第二次世界大戦の真っ只中で、かつての大日本帝国と同じように劣勢に立たされているという。
ある皇族の戦勝祈願で偶然召喚しまったと謝罪されて三郎は怒り、日本に帰る方法がないと言われて落胆し、この国の状況を聞かされて戸惑った。
自然科学ではなく魔法で成り立つ世界というのも理解しがたかったが、そうであるにもかかわらず、日本、いや地球と同じような歴史を辿っていることが不思議でならなかった。
だが、とすぐに思い至る。
もし日本と同じ歴史を辿るというのなら、おそらく一年後に原子爆弾が投下される。
長崎市出身の両親を持つ三郎にとって、それは看過できなかった。
森にぽつんと召喚され、右も左もわからないときに面倒を見てくれた農村の人々の顔もちらついた。
だが、戦争に介入することは、自衛官としては許されない。
ただもし仮に戦うことなく終戦を迎えたとして、地球と同じような歴史を辿るならばまだまだ諸外国の人種差別が激しいことが予想され、まして異世界人である三郎などモルモットにされてもおかしくはない。
三郎は苦悩の末に、戦う事を決意した。
神の加護を宿したらしい己と愛機を信じて。
そこから軍事に政治、外交にと八面六臂の活躍をして無事に第二次世界大戦を乗り切ると、いまだ植民地支配の残る国際情勢の中を日輪皇国を背負って戦い続けた。
『日輪の翼』、『戦神』といえば藤田三郎のことで、首都の東都では銅像も建っているほどである。
***
それから六十二年。
当時三十歳であった三郎も、今は九十二歳。空気中の魔力の影響で若干寿命は伸びているがいつ死んでもおかしくはなく、三郎はそれを理由に二年前、すべての仕事を引退した。
引退は二十年も前から考えていたらしいが、国際情勢や仕事の引き継ぎ、なにより多くの人に引き留められ、この歳になるまで引退が長引いてしまったという。
だが、ロブは矍鑠としたその背中を見て、三郎が今なお無力な老人ではないと確信していた。
ほとんど獣道といっても過言ではない山道を歩き続けてなお、肩に担いだ熊撃ちの猟銃が微塵もぶれず、息も上がっていない。戦士のような威圧的な気配はないが、背中を向けていてなお、見られているような、俯瞰されているような気配があった。
魔法世界というのは元日本人のロブから見て大概常識外れな爺さんが多かったが、それと同じ類であるのかもしれない。
ロブはなんとなくげんなりした気分になりながら、山道を歩き続けた。
何事もなく二時間ほど登ったところで、ついに山頂に到着する。
「……」
三郎は何も言わず、近くの岩に腰を下ろした。
山頂に近づくほどに木々の合間からちらちらと周囲の景色が見えていたが、登り切ったところから見るその景色に、ロブは目を瞠った。
澄み渡った蒼空に、白雲が流れていた。
東には、そそり立つ高層ビルを中心にして街が果てしなく広がっている。
西には、こんもりとした山々の間に、白く鋭利な山の頂が一つ突き出ていた。
東京によく似た東都と、冨士山によく似た山。
あれは小学生か、中学生か、はたまた高校生の頃か。ロブはいつか見たはずの遠い日の記憶を重ねていた。
「……そろそろ行くか」
ロブは三十分ほどもその景色に見入っていたらしく、三郎の声で我に返った。
パッシェを抱いたアルセリアも少し心配そうな顔をしている。
「俺も人の子だからな」
ロブは照れ隠しにそんなことを言うが、アルセリアは小さく頷く。
「知ってます」
あまりにもまっすぐなアルセリアの返答に、ロブはそっぽを向き、三郎に先を促した。
帰りは別の道を通るようで、山頂からしばらく下ったところで大きな滝に差し掛かった。
「こっちだ」
明らかに帰り道ではない滝の裏へ進んでいく三郎に、ロブたちは首を傾げながらもついていった。
滝の裏には岩壁しかなかったが、不思議なことに三郎が手を触れると、小さな洞窟が現れる。
一人がようやく通れそうなその洞窟を進んでいくと、すぐに開けた場所に出る。
そこに、三郎の愛機が鎮座していた。
制空戦闘機『F‐15イーグル』。
鋭く尖った機首になだらかなボディ、二対の垂直尾翼と水平尾翼、両翼に小さな日の丸の描かれたグレーの装甲。
戦闘機など近くで見たことがなかったロブとアルセリアは、まるで飛竜でも見たかのような気になっていた。
「私の相棒だ」
三郎がぽつりとそう告げた。
『比翼の覇鳥』
三郎とイーグルが揃って初めて異能として機能する。
その力は異能となったことでカタログスペックを超越し、宇宙空間ですらその戦闘力を発揮する。
その速度はマッハ三を超え、レーダーは魔法世界用に改変されて魔法使い個人すらも探り当て、装甲はより強固になって自己修復機能を持ち、無線通信はまるでテレパシーのように用いることができた。
召喚当時の武装である固定機関砲や空対空ミサイルだけでなく、三郎の意のままに対地攻撃用の誘導爆弾や対潜ミサイルすら発射可能で、その威力も三郎が意のままに調整可能であった。
「……もはや使うこともあるまい。いや、使わないほうがいい」
三郎は愛機を見上げながら、まるでここにはいない誰かに言い聞かせているかのように、小さく呟いた。
「なぜここに俺を?」
そんな使いたくない愛機を、同じ日本人であるロブになぜ見せたのか。
三郎はイーグルを見上げたまま答える。
「私はこれで殺し、破壊した。それが虚像ではない、事実なのだ」
寡黙な三郎がぽつり、ぽつりと語った。
国を守るのだから綺麗事では済まされないことも多々ある。間違いもあった。
だがこの国の多くの者たちはそれを責めることなく、人格者だ英雄だと称えた。
それは確かに、幸いだった。だから戦えたし、殺せた。
だが同時に、責められないことが、まるで殺戮などなかったかのような歴史が、負い目になった。
「この世界の住人ではない元日本人の、同じような立場の君なら、真実を覚えていてくれると思ったんだ」
ロブは何も言えなかった。
アルレッキーノもそうであったが、どうして自分にそんなものを持たせようとするのか。重いのか軽いのかすら判断がつかないというのに。
だが、頷くしかないような気がした。
――ガシャンッ
突然の物音に、全員の視線が集まる。
スクラップ置き場に、パッシェが頭から突っ込んでいた。もぞもぞとまるで野良犬がゴミを漁るかのようにも見える。
慌ててアルセリアが抱き上げると、嘴の端からネジの頭が見えていた。
止める間もなく、そのまま咥え直して飲み込むパッシェ。
すぐに謝ったアルセリアに、三郎は気にするなと小さく笑った。
イーグルには自己修復機能があるが、それでも三郎はなにかと手をかけていて、パッシェが食べたのはその整備で出た廃品であった。
ロブも一緒になって謝りながら、内心ではパッシェのわけのわからない生態に首を傾げていた。
そのあと、日暮れ前に下山したロブたちはぼんやりと過ごした。
縁側に座り、夕暮れを眺めるロブと三郎。
何を話すわけでもなく、ひんやりとした風がさらさらと木々を揺らして流れていくのを感じるだけであったが、やはりロブには懐かしさすら感じられた。
それは三郎も同じであったらしく、今は穏やかな老人となって、どこか遠くを眺めていた。
しばらくすると、二人の邪魔をしてはいけないと率先して台所にいったアルセリアが作っている夕食の匂いが漂ってくる。
「……そういや、あいつ、なに作るつもりなんだ?」
少しばかり刺激的で、奇妙なスパイスの香りが漂ってきた。
思い返せば、ロブはアルセリアが何か作っているところなど見たことがない。
そのことに少しばかり嫌な予感がして顔を顰めるが、三郎が窘めた。
「作ってくれるんだ、黙って待て」
日本の大人らしいお叱りすら、今のロブは郷愁をかき立てられてしまい、素直に頷くしかなかった。
そのまま茶の間に向かい、アルセリアがレシピを見て作ったカレーらしき青い何かを見て、ロブは表情を失くす。
それでも三郎の言葉を思い出しながら、意を決してスプーンを突っ込もうとしたところで、家の呼び鈴が鳴った。




