7話 残された想い
発した言葉は自分らしくて、自分らしくない。
自然な形で離れてしまえば簡単だと思っていた。自分には関係のないものに余計に関わる必要はないと判断していたのに、発した言葉は常に残酷で正直なもの。
何せ、自分自身を邪魔者扱いを認識していた。
カップルの前ではゴミくず当然の役割でしかない紛い物なら、傑はあえて偏見する。見える世界が違うのならば別に同じ景色を見る必要はないという事を。総合的に判断した結果がたとえ自分が劣等感に浸ってもそれは苦痛はない。
認識した上でその選択に『正しさ』が見えたため選んだに過ぎなかった。
この場において劣等なのは傑しか居ないのだから。
「悪いけど、俺は帰らないといけないんだ」
傑はとても清々しかった。
心の中に閉まっていた本音が言い出せる事を。頑なに窮屈に虐げられた学校生活ではクラスの傍観者にしかなれなかったのに、この外の世界ではもう関係ない。
指摘する奴も、五月蝿い奴も、馬鹿にする奴も、媚びを売る奴も居ない世界。
改めて自由を手にした事を実感する傑は笑む。
そんな彼に対して、由貴はどこか悲しそうな表情をしていた。
「なにそれ、よく分かんないよ……」
確かに由貴には分かるものではないのかもしれない。
これは紛れもなく傑だけが知っている根拠だ。誰も理解を得ることのない境遇の中で、独り見ていた傑にはどうでもいい。今は誰かに縛れない事が傑にとって理想のルートなのだから。
誰も傷付ける心配のない答えを。
「……確かに由貴には分かるものではないな。けど、お前らのためだと思ってる」
「私達のために傑は離れるっていうの?」
「そういう事だ」
幸せを願うことは他人にとっても幸せな事。
優しい現実と甘い現実を味わうなら、多少の犠牲は構いはしない。彼女の笑顔が増えるというのなら傑は素直に受け答えてみせるだけ。
そんな単純な答えだというのに。
「そんなの、知らないよ……」
温情のある正しい答えでも、由貴は誰かの気持ちを知らなかった。
「ねぇ、どうしてそんなに冷たく接するの? 傑らしくないよ。前は一緒にいても楽しそうなのに、今は私達を見て離れようとしてるの?」
「それは……」
傑が離れることで二人に笑みが戻るから、とは言えなかった。
由貴は誰かが省かれる事を嫌う性格だ。喧嘩でもほとんどの場面で由貴は入り込んできて、双方の意見を聞きながら仲裁してきた。そんな正義感を貫いた人は意味を持って問いただす。
そこに本心を刳り抜くような不快感があった。
(あ、れ……?)
唐突に視界が眩む。揺蕩う視界は二人の焦点を合わせず、体ごと揺れているような感覚に襲われる。周りから聞こえる雑音も遠退きそうなり、傑の意識は現実から解離しかけていた。
体が言うことを聞かない。
むしろ拒絶反応を起こしている。
自分には知らない何かがあるというのか曖昧な言葉も、融通の利かない言葉にも、答えを間違えられないプレッシャーが掛かっている。
先程の嫌悪感に染められた学校の雰囲気とは違うものだと、朦朧とする意識の中で傑は何とか理解してみせた。
(どうやら、かなりの重症のようだな……)
圧迫する身の危険に額に透明の滴が滴る。頭痛は止まず、堪らずに頭を押さえるものの意味などないのだろう。この場で倒れそうな勢いは視界に捉えた人達に、強い印象を残していく。
一番に変化に反応したのは、由貴の彼氏であり友達でもある、逸だった。
「傑。まさか具合が悪いのか……?」
「……ッ!?」
この発言によって傑に感じる重圧感はさらに増していた。
余計なお世話だと言いたかった。せめて迷惑を掛けずに去りたかったのに、彼女に対する反応がどう来るのか怖かった。
赤の他人になる。
それは傑が望んでいる結末に過ぎない。遅いか早いかの問題。次に会える瞬間は必ず来なくなる。いずれみんなが離れてしまう結末が来ようとしても、受け入れられる努力をしてきた。それを知ってしまった人の終わりのない末路だというのに。
彼女の笑顔を殺してはいけないのだ。
守ってきたものが意図も簡単に壊れてしまうような、元々あった幸せを無くしてしまうような危惧感が現実日に帯びている。
何より彼女にとっての妨害の象徴は、傑に変わりないのだ。
ただ、その規模が計り知れないものが隠されているだけで。
「え……? 傑はどこか調子が悪いの?」
逸の発言に気付いた由貴は状況を鵜呑みをし、慌てながらも傑に寄ってきた。こちらを覗くように首を傾げる姿が近くて、反射的に視線を離してしまう。
「ちょっと、体調が優れないだけだ。済まないが離れてくれないか」
顔色を隠すために傑は二人から距離を置いて、未だに揺れている視界をなんとかするために、瞳を閉じて腕に覆い隠した。一瞬にして視界は闇色に広がるものの、僅かながら安心感を得られることが出来た。
昨日から自分は、自分じゃ無くなっている。
それはもう顕著なもので。
常識から逸した現象は紛れもなく怪異そのもので、概念に捉われることのない運命でさえ揺さぶるほど、想像が尽きそうにない現象。
傑が立っていた場所は現実から切り離した幻想の世界だ。そこから突飛的にイヤホンから漏れ出す機械染みた声は脳を響かせる。認識の出来ない何かに積み出された心境は恐怖さえ通り越す。
目の当たりにした超越による副作用が、今更のように吹き返した。
(そうか、自分は馬鹿だな。こうなる事を考えてなかったなんて)
余りにも不覚なものだろう。
猟奇的な景色に魅了し、それを認識する自分。本当は腐れ切った弱肉強食の世界に嫌っていた傑はこの非常な出来事の遭遇に喜悦と高揚に惹かれていた。
(けれどそれを楽しんでいた自分は……)
あの時。
瀬戸際に立たされたその逆境は、逃れられない危機の中に苦しみながら生きている証拠を見出す。これまでにない一生のサプライズは忘れられない。
世界がゆっくりと時を刻む瞬間、傑は笑っていたのだから。
さりげなくこの場から離れようとする魂胆のある傑だったが、体調の具合を心配そうにする由貴と逸は瞳に映る景色から離そうとしない。
「おい、本当に大丈夫なのか……」
「触るな」
不意に肩を触られた事に傑は反射神経で逸の手を弾いた。腕の中で塞がれていた瞳は鮮やかな世界を凝らすと、驚きの隠せない逸の姿がある。
自分がどんな風に映っているのか、想像したくもない。
この行為が最悪なのは理解している。
けれど、止まることのない感情の起伏が、凶暴に飢えていた。
二人を見ると煮え滾るように闘争心に惹かれる。不意に拳が力を込めそうに。訳の分からない嫌悪感が二人を否定しようとする。その姿勢はこの時を待っていたかのように表へと吹き出す。
傑は身に覚えるものがある。それは学校に居た時に感じたものに近い。
それを理解するのに時間は不要。
無意識に完璧な答えを導き出そうとした所で、聞き慣れた声が聞こえる。
「はい、ポカリアス」
目の前に差し出された飲料水に傑は唖然する。ふと見上げると、視界にいたのはこちらの反応を待つ由貴の姿が鮮明と存在していた。
至って彼女は普段から見せる様子をしている。傑にとってそれは驚きになる。
「なんで……」
「なんで、って言われても誰から見ても傑は具合が悪いんでしょ? それなら休んだ方が絶対に良いよ。遠慮なんてしないでこのベンチで休憩しよう」
ポカリアスをちらつかせる由貴に笑顔が溢れる。腕を掴まれては強制的にベンチに近付けさせる。傑は反抗しようと試みるが、逸に捕まってしまう。
「そうだぞ。由貴の言う通りだ。少しは休んだ方がいいさ」
「いいや。本当に具合が悪いから、頼む。帰らせてくれないか」
「彼女がそう簡単に帰らせると思うかい?」
「……」
それは明確に理解している。
由貴は何かあったら逃そうとしない。執着心が強いのではなく、見逃せない性根なのだ。ハッキリ言って知る人物の中で一番のお世話好きな人だ。
時間が刻々と刻み続けていく中で、変化の渦に流される世界でも由貴はあの頃とちっとも何も変わらずにいる。時間は残酷でも彼女は成長している。支えてくれる彼氏、逸がいる世界を楽しんでいる。
共に幼い記憶の中で生きてきた、友人。
傑を知る、数少ない友愛なる人達は空いているベンチへと導く。今に人の流れは留まらずにして歩み続けるが、それを抵抗する景色は幻想的のようで。
自分だけが違う世界で彼らを見ているようだった。
「たまには、息抜きをしたらいいんだよ。しないと体が持たないよ?」
優しく語られる言葉は柔らかく、とても暖かい。
それと懐かしさの含まれた賑わいのある雰囲気が。黄昏色の世界を無邪気に追い掛けた日々。傑は先頭に立って進んでいた記憶を思い出す。
今は亡き青春はそこにはあった。
心境が変わるにつれて、面影を薄れていく現実の怖さを理解する傑は見据える。
続けて、一つの答えを見付けた。
「俺はどこか必死になって無理をしていたのか……」
散り散りになり離れていく仲間達。たった独りで生きるための答えを探していた。賢く生き残るために疑う事を始めた。使われる日を解消するための絶対的な拠り所、自分の中に備わる天才的な技術で。
全ては、弱肉強食の世界から逃れるために。
「細かい事はよく知らないけど、小まめに休憩するの。そしたら元気になるから」
「……楽観的だな」
「傑は頭が固いんだよ」
そう言ってクスクス笑う由貴と静かに眺める逸。人の流れを観察する傑は渡されたポカリアスのキャップを捻り、口に含め飲料水を喉元へ流し込む。
その味は冷たくて、甘かった。
まるで現に生きている世界のようだ。冷酷なままに争いは絶えない。その中に湧き出した希望を勝ち取るために一生懸命に探そうとする。いつか幸せになるための答えを、掴もうとする姿勢は現実を理解しても背に変えられないのだろう。
けれど、それだけでは意味は無い。
由貴や逸から見たら傑は幸せそうに見えていて、傑から見たら由貴達は幸せそうに見えていた。
本当は、幸せというものは自身では気付かないものだ。見失うほどのちっぽけな存在でとても臆病。目を離せば直ぐに姿を隠してしまうくらいに。
知らない所で、とうの昔から手に入れていたのかもしれない。
「……さっきは弾いて悪かった。気が立っていた」
「謝る必要はないよ、傑。僕は、君が謝る姿は見たくないからね」
「流石にあの変態とは対応が違うな」
「将は論外だよ」
和解した上で抑えることの出来ない将の話題をして談笑が生まれた。由貴についてのセクハラがキツかったため困難していた傑と逸は過去の事を思い出し、由貴は頬を朱色に染めて恥ずかしがる。
懐かしく感じる雰囲気は離したくないが、傑は前を向かなければならない。
「もう、帰るの?」
「ああ。落ち着いたし、そろそろ頃合いだ。二人と話した時間は楽しかったぞ」
帰宅する支度をする傑の体調はとっくに優れており、むしろ清々しい。嘘のように回復した傑を見て二人は見届けている。別れを偲ぶ空気を傑は破る。
「傑……」
「何、明日も学校で会えるだろ。そんな悲しそうな顔をするなよ」
「多分違うかな。ポカリアスに使った小銭代を返してほしいんだと思う」
「あ、そう……」
不機嫌そうにしていた原因が分かって幻滅する傑。
しっかり値段分の小銭を渡すと由貴は瞳を輝かせながら嬉しそうにする。先ほどより笑顔なのが少し釈然としない。
それでも由貴の幸せに繋がるから別に構わない。彼女が逸に好意があると告げた時も、傑は応援した。二人が付き合えるように逸の好みを教えてやった。
無事に二人は付き合う事になりそれを知った今でも嬉しいものだ。昔から由貴の素振りが強かったから、妥協する使命感に駆られたのは覚えてる。
「また明日。学校でな」
自宅へと向かう傑の背中に二人の暖かい言葉が掛けられる。傑は決して振り向くことはせず、惜しむことも、悲しむことはしない。
いつまでも二人の幸せを、傑は心から願っているのだから。