5話 隠された醜態
(なんとか逃げてきたけど、なんか罪悪感があるのは何故だ……)
大抵のお礼事はちょっとした気まずい社交辞令のようなものだと理解していた傑は一目散に教室に戻っていた。この教室にあの臆病者三人組の内一人でもいたら完璧に騒がれる問題じゃなくなるのは間違いない事だろう。
でも彼らにその度胸があるのかの話になるのだが。
(まあ、学力二位の人にお礼を貰うのは流石に引けるよな)
校内の中でも美散はかなりの人気者で、端麗に整った容姿と正真正銘の実力を合わせて才色兼備という言葉が成り立つ。男女を問わず憧れる人物ランキングでは堂々の一位を獲得している。
傑が分かるくらいだから美散の存在はとても大きいのだ。
そんな彼女にお礼を貰うだけでも男女は許されず噂は瞬く間に広がってしまうのを恐れた傑は惜しむことなくこの場を乗り切ることにした。同族嫌悪に巻き込まれないように片隅で毎日を過ごすだけ。
(ただでさえ内輪話なんて乗り気じゃないのにな……。全く、苦痛だよ)
人の話をきちんと聞くが将の無理な話には乗り気はしない。
けれど困っていた美散に助けに手を差し伸べた行動には疑念がある。今の所自分らしさが欠けており、つい考えると言葉や行動に表へと晒されそうになる。
(今日からずっとこの調子だ。黙って見ていたのに、なぜか衝動に駆られてしまいそうになる。本当に調子が狂っているな……)
一向に心境が晴れそうになかった。
どうして本調子ではないのか考えても見付からないため、さらに疑問が増えていくばかり。何が原因で何が問題なのか掴めてない状態に近い。
これほど不便そうに空気を吸うのは初めてな気がした。
(本当に自分らしくないな。今日はもう、静かに過ごしていこう……)
残り少ない昼休みを寝たフリしながらやり過ごしてみせる。誰かと関わるのを極力避けなければこの違和感は消えはしない。今の傑は無差別に告げる辛辣な言葉を放ちそうで怖い。
自身で築いた平凡が、自らの手で壊れそうだった。
◆
結局、放課後になるまで傑は誰とも話さずに過ごした。静かに授業を受けながらなるべく人と関わらないようにして学校生活を送る。
いつもと変わらない日常を過ごしている。そう思えたいほど傑には答えが必要でハッキリとしない感覚が影のように寄り添っている。それを早く取り除くために傑はさっさと教室を出た。
(空気が不味い。ここから出ないと……)
彼らの薄情な姿を見ているだけでも寒気がする。アレルギー反応のような抵抗感はまさしく人類の脅威になるほどの嫌悪を含めた存在だ。反射神経で抹消しなければならない害悪の権化みたいに。
見るもの全てが嫌になる。
こんなに居心地の悪い感覚は初めてだ。
急いで校内を巡る。彼らの様々な視線を無視しては傑は無我夢中に歩いていく。昇降口に辿り着くまで息が切れており体調が優れてはいなかった。
(早く、家に帰らなきゃ……)
誰よりも早く下校しようとする傑は直ぐに靴を履き替えては校舎を出る。その姿は誰かに追われてるような印象を残し、その場にいた少ない学生は心配そうにして声を掛けようとするが、傑はあっという間に距離を置いて逃げる。
傑には、ほとんどの学生が不気味で歪な表情に見えていたのだ。
至って真面目そうな人達も、人の顔を伺うグループも。
そしてくだらない談笑で爆笑する彼らも。
何もかもみんなが違和感のある表情に浮かべている。その顔は本来とは掛け離れており、表とは真逆で隠された本心を覗かせていた。表情を反する言葉は建前で相手に対する心情の欠片もない。
まるで、仮面を被った道化師のようだ。
(出口にいた人達は本当に困惑していたな……。その人達に申し訳ない)
中には表裏のない人達がいる事も確か。親切な心掛けは救いを貰えるけれど、傑は振り払ってしまう。誰もかも信じられる人物が居ない傑は誰かの手を借りる事は有り得なかった。
そこに自分の居場所がないのなら、外の世界の方が救いがあると。
まだ見えない新天地には何があるのか。自分の知らない世界が向こう側にあるのなら、傑の答えはもうとっくに出ていた。
圧迫する小さな空間から解放するために。
(けれど、俺は、この場から離れたいんだ)
常に本心は正直だった。学校なんて牢獄のようなもんでコミュニケーションがなければただの豚箱に過ぎず、まして彼らの浮かべる表情が一致してない事も、全ては自分を守るためのフェイクを練り込んでいる。
昇降口を出た傑は嫌そうに校舎を見上げた。
ガラス越しの先にある学生の顔は未だに不気味に見えてしまう。
学校という場所はただ学問を励む場所ではない。自身を守るための自己防衛を身に付けるためにあり、人の善悪を見切る観察力が必要で、いかなる環境でも独りで生き残れる忍耐力を保持するための理解を求められている。
守れるものが自分しかないのなら、周りにいる人達は皆信用してはいけない。
本当の意味を知らないのだから。
上部のみで築き上げた友情はただの集まりだ。期待もしない言葉を放って相手の事を嘲笑い劣等感に浸る行為は正義でも不義でもない。
全部、心の身勝手なままだった。
「ああ……、俺は、学校が嫌いなんだな」
いつの間にか傑は、吐き気のする気持ち悪さから解放されていた。
視界に映る聡明な景色はいつも空色で、色彩は転々と変わるものだけど、やがては一周して戻ってくる。時間も空間も干渉しながら思ったときに見上げる光景は、同じようで同じではない。
空は壮大に広がっているのに、自分のいる場所はとても狭かった。
大きな慢心をしている彼らは既に自分が大人だと勘違いしている。背伸びしようとして身を滅ぶような危険な目に遭おうが何かしらの因縁を付けて回避する。
現実を見ようとしないのが大人なのか、危ない事をするから大人なのか。
それは否だ。
物事を見極め冷静に対象するのが本当の意味での大人だと思っている。
けれど傑はまだ未熟者だ。私欲のために動いており適切とは呼べない。居心地の悪さと彼らに対する疑心によって今の出来事から逃れようと校舎から出た。
故に傑は正しい人になれないが人の善悪を見分けられる。
自分はそんな見え方をしていた。揺れる視界の悪さも誰かの歪んだ表情も。
嫌な部分しか見据えることの出来ない学校では、存在そのものに囚われる感じがして不自由だ。ひたすらやらされてる感覚は殆どの学生と共感できるほど、虐げる現状はとても寒い。
もちろん。人間の膿から出来た醜態ではあるが。
逃げ場を探そうとした行為こそ、弱さの証明を確信へと繋がる。それを理解していく事で惨めに生き続けられる。好かれる生き方はしない。せめて物事を見据えられるための力を欲しているだけだ。
彼らには分からない平凡を手に入れるためだけの願いを。
(……あれは)
凶暴な風に吹かれながらも、傑は屋上にいる二人の男女を目撃する。
フェンスの囲まれた空間の中で見知った人物の姿があった。
(将と……、まさかアリサだったか)
何かを必死に話しかけている将と金色で長い髪を揺らす少女の背中姿。将の携帯端末の画面で見た写真と酷似し、惹き付ける独特の印象は何処かで見掛けたような懐かしさがある。
自分がきっと知っていたであろう人物。
間違いない。月宮アリサだ。
表情とその容姿は見えなくとも、写真のように綺麗な碧眼と兼ね備えた容姿を思い出してしまう。何かしらの答えを待っている素振りには何となく理解した。
(アイツ、行動が早いなー……)
やはり将は男だった。それも絶妙なタイミングで彼女を誘い出した。
他人の了解があれば忽ちチャンスを物にするのか。謎の執念を感じさせる本能に傑は呆れて仕方がない。けれどこれは将がやった副産物なので、彼の思いのままにやらせてみよう。そうしよう。
(将の決めた事だし、どうでもいいや)
留める理由もそこにはない。
信用を値することはなく、ここから離れた方が最善だと分かってる。
幼い頃みたいに眩しい日々はもう来ないのだから。
そうして傑はなんの躊躇いもなく背を向けた。自身が理想とする場所を求めるために、一歩を踏み出していく。
環境が変わる。世界観が変わる。心境だってそうだ。思い出のある場所も時間によって霞んでいく。この世に存在するものは呼応するように適正な姿へと遂げながらも面影を消して、真新しいものに昇華する。
未来はいつでも変えられる。
だからこそ、過去に縋ることなんて、ただ寂しいだけ。
傑が正真正銘の孤独になっても、世界はいつものように健全な弱肉強食の連鎖を引き起こしていく。たかが独りの事で牛耳る者達にとって関係のない話であり、何も支障を来すものではない。ごく自然に有り触れた出来事に過ぎない。
誰かが何をしようとしても美しい世界には響かないのだ。
(つまらない居場所は要らない。こんな退屈な茶番劇の中でいきると思うか)
校門を出る傑に笑みが溢れていた。思い出のない場所に振り向きもせずに。
青い空が迎えてくれている。少しだけ空気の悪さのある街の中で生き続ける。色褪せない輝きはどれだけ時間を費やしても築いてきた活気は衰えず一進していく。努力と叡智で出来たこの街を守れる事が出来るなら。
傑は強く一歩を踏み出した。